

今回は平安時代中期に起きた「平忠常の乱」について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!「なぜ朝廷は3年間も鎮圧できなかったのに、源頼信が動いた途端あっさり終わったのか」という最大の謎も、しっかり解き明かしていくね!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応
1028年に房総三国で起きた平忠常の乱。朝廷の追討軍は3年間も苦戦し続けたのに、源頼信が出陣すると平忠常はあっさり降伏してしまいました。実はこの謎の降伏、平忠常と源頼信の間にあった「主従の絆」が鍵を握っていたのです。
平忠常の乱とは?【1028年・房総三国の反乱をわかりやすく解説】
① いつ:1028年(長元元年)〜1031年(長元4年)。
② どこで:上総・下総・安房の房総三国(現在の千葉県)。
③ 誰が・どうなった:東国豪族の平忠常が反乱を起こし、3年間朝廷の追討軍を翻弄。最終的に源頼信が追討使に任命されると、平忠常はほぼ無抵抗で降伏した。
平忠常の乱は、1028年に房総三国(上総・下総・安房)で起きた、平安時代中期最大級の地方反乱です。当時の天皇は後一条天皇、朝廷の実権は藤原道長の子・藤原頼通が握っていた、いわゆる摂関政治の全盛期にあたります。
京都の貴族たちが優雅な生活を送る一方で、東国(関東)では武士の力が急速に育ち始めていました。そんな時代の転換点に、突如として朝廷に牙をむいたのが平忠常だったのです。

■平忠常はどんな人物か
平忠常(生年不詳〜1031年)は、桓武平氏・平良文流に属する東国の豪族です。祖父は関東一帯に勢力を広げた平良文、父は平忠頼です。なお平良文は平将門の叔父(良文と将門の父・良将は兄弟)にあたりますが、平将門自身は高望王の孫・良将の子であり、良文流には属しません。忠常は母方では将門の血を引くとも伝えられています。

桓武天皇から出た桓武平氏の一系統で、関東に下って勢力を伸ばした平良文の子孫を指します。なお平将門は良文の甥にあたりますが(良文と将門の父・良将は兄弟)、将門自身は「良文流」ではなく「高望王の孫・良将の子」という別の系統です。いわば「東国に根を張った平氏グループ」の中心が平良文流で、のちの千葉氏・三浦氏・秩父氏など坂東武士団の多くが、この平良文流から枝分かれしていきます。
彼は上総・下総両国に広大な所領をもち、関東一円に大きな影響力をふるっていました。一方、形のうえでは朝廷から上総介(上総国の次官・実質的な現地長官)に任じられたとも伝えられ、地方政治の中心にいたことがわかります。


平忠常って、結局なにをした人なの?「悪い人」ってイメージしかなくて…。

たしかに「反乱を起こした人」とだけ覚えるとそうなっちゃうよね。でも実態は「関東を実質支配していた大豪族のボス」に近いんだ。今でいうと、千葉県全域に部下を持ってる地方の超大物社長みたいなイメージ。だからこそ朝廷も簡単には倒せなかったんだよ!
■反乱の舞台:上総・下総・安房の三国

反乱の主戦場となったのは、上総・下総・安房のいわゆる「房総三国」。現在の千葉県全域と、茨城県・埼玉県の一部を含むエリアです。
房総半島は太平洋に突き出た独立性の高い土地で、京都からは陸路でも海路でも遠い「辺境」でした。京都の朝廷から見れば、軍勢を派遣するにも兵糧を運ぶにも時間とコストがかかる、まさに鎮圧しにくい場所だったといえます。
📌 テスト頻出:房総三国=上総・下総・安房。「ぼうそう=千葉県」と必ずセットで覚えておこう。「上総介」という官職名も流れで出てきやすい!
なぜ平忠常の乱は起きたのか?その背景と原因

ここが一番大事なところ!「なぜ起きたのか?」を理解できれば、平忠常の乱は「武士の時代の幕開け」を象徴する事件として頭に入ってくるよ。
■背景①:武士の台頭と東国の土地事情
背景①:朝廷の力が地方に届かない時代になっていた
平安時代中期(10〜11世紀)は、律令制度がじわじわと機能不全に陥っていった時期です。朝廷は地方の実情を把握しきれず、税収も思うように集まりません。そこで現地で力を持ち始めたのが、武装した在地領主、つまり武士でした。
すでに10世紀前半には平将門の乱(939〜940年)が関東で、藤原純友の乱(939〜941年)が瀬戸内海で起きており、武士が中央政権を脅かす存在に成長していたことがわかります。平忠常の乱は、そこからさらに約90年後の出来事です。

関東の武士って、そんなに早い時期から力を持っていたんですね。京都の貴族文化のイメージが強くて、ちょっと意外です。

そうそう、京都の優雅な紫式部の世界の裏で、関東では「土地を守るために武装する豪族」が普通になっていたんだ。平忠常はその大ボスのひとりだと考えるとイメージしやすいよ。
■背景②:平良文流の野望と国司との対立
背景②:「中央が任命した国司」と「地元の豪族」が真っ向から衝突
平忠常が反乱を決断した直接の原因のひとつが、国司との対立です。当時の地方政治は、京都から派遣された国司(受領)が現地豪族を巧みに使いながら税を取り立てるしくみでした。
ところが京都から派遣される国司の多くは、現地の事情を知らないまま重税を課したり、賄賂を要求したりと評判が悪く、東国の豪族たちはたびたび反発していました。なかでも房総三国は、長く平将門の乱以来の「中央への不信感」が染み付いていた地域だったのです。
平忠常自身もこうした国司との折り合いが悪く、貢納(税の納入)を怠った、あるいは隣国の役人を襲撃したと記録されています。歴史書『左経記』『小右記』などには、忠常の暴れぶりや朝廷の困惑が断片的に残されています。
■1028年、ついに反乱が始まる
1028年(長元元年)6月、平忠常は安房国に攻め込み、安房守・平惟忠を焼き殺したと伝えられます。これが平忠常の乱のはじまりです。
朝廷の任命した安房守を殺害したという報せは、京都に大きな衝撃を与えました。これはもう「税の滞納」レベルの話ではなく、明確な朝廷への反逆行為だったからです。さらに忠常はその勢いのまま上総・下総一帯を実効支配し、房総三国全体が反乱地域となっていきます。


なんで急にここまで派手な反乱を起こしたの?少しずつ抵抗してたなら、いきなり守を殺すのはやりすぎな気が…。

するどい! 諸説あるけれど、ポイントは3つ。
① 国司との個人的なトラブルが限界に達した。
② 房総三国の在地豪族をまとめる「ボス」としての面子を保つ必要があった。
③ 朝廷の追討軍がすぐには来られないと見抜いていた。
つまり、勝算ありとふんでの行動だったんだよ。
後一条天皇と朝廷の対応――3年間なぜ鎮圧できなかったのか
反乱の報せを受けた京都では、当時の天皇である後一条天皇と、摂関政治の中心人物である関白・藤原頼通のもとに重い空気が流れていました。
■後一条天皇の苦悩
後一条天皇(在位1016〜1036年)は、藤原道長の娘・彰子を母にもつ、まさに「藤原摂関政治の象徴」のような天皇でした。在位中の朝廷は、文化的には『源氏物語』が読まれ、藤原道長が「望月の歌」を詠んだ華やかな時代でしたが、軍事的にはお世辞にも強くなかったのです。

なぜ追討軍を送っても鎮圧できぬのだ……。東国の一豪族ごとき、すぐに討ち取れぬのか。
朝廷は当初、検非違使として知られる平直方と中原成通を追討使に任命し、東国へ派遣することを決めました。ところがその選定からつまずきが始まっていたのです。

後一条天皇って、藤原道長が「望月の歌」を詠んだときの天皇ですよね?あの華やかな時代の裏で、こんな大事件が起きていたんですね…。

そうそう、まさにその通り!『源氏物語』が読まれていた華やかな京都の裏で、東国では3年も続く血なまぐさい反乱が起きていたんだ。教科書だと「平安貴族の文化」と「武士の台頭」が別の章に書かれているけど、本当は同じ時代に並行して進んでいたんだよ。
■平直方の派遣と3年間の空回り
問題:追討使・平直方の軍勢が3年経っても鎮圧できない
1028年9月、追討使として東国に下った平直方は、桓武平氏・貞盛流の人物です。平将門を討った平貞盛の子孫にあたり、いわば「将門退治の名門」の家柄でした。

しかし、いざ現地に着いてみると話はそう簡単ではありません。房総半島は地形が入り組み、街道も整備されていません。さらに地元の武士たちは口では協力する素振りを見せながらも、ほとんどが平忠常の影響下にあったのです。直方の軍勢は兵糧不足にも悩まされ、3年たっても決定打を打てないまま時間だけが過ぎていきました。
① 東国に地縁・主従関係をもっていなかったこと。② 同じ平氏でも貞盛流と良文流は別系統で、現地の平氏豪族に「身内」と見てもらえなかったこと。③ 長期遠征の補給が続かない朝廷側のロジスティクスの弱さ。要するに「中央の論理」で送り込まれた将軍では、東国の現実を動かせなかったのです。
■律令国家の限界が露呈した
結局のところ、平直方の追討軍が3年間まったく機能しなかったという事実は、朝廷(律令国家)が地方の武装勢力を直接コントロールできなくなっていたことを意味します。
もはや京都からただ「追討せよ」と命じるだけでは、武装した東国豪族を制圧できない時代に入っていたのです。これは制度として律令制が機能不全に陥っていることの動かぬ証拠でした。次の章では、この行き詰まりを一気に解決する人物――源頼信の登場を見ていきます。

ここが実は一番大事なポイントなんだよ!「3年間鎮圧できなかった」という事実そのものが、「もう朝廷の力だけでは地方を抑えられない時代」に入ったことを物語っているんだ。だから平忠常の乱は武士の時代の幕開けを示す事件として、歴史の教科書で重要視されているんだよ。
源頼信はなぜ瞬時に鎮圧できたのか?

ここが一番の謎ポイント!「同じ平安時代の朝廷が任命した将軍なのに、なぜ平直方は3年かかって失敗、源頼信は到着すらしないうちに勝利?」を解き明かしていくよ。
■源頼信の登場と河内源氏の血筋
源頼信(968〜1048年)は、清和天皇の血を引く清和源氏のひとりで、源満仲の三男です。父・満仲は摂津国に拠点を構え、藤原摂関家の軍事的な右腕として活躍した武士でした。
頼信自身は、若い頃から武勇の誉れ高く、藤原道長に仕えて家人となり、その信任のもとで上野介・常陸介などを歴任しました。とくに東国(坂東)での任官経験が長く、現地武士との人的ネットワークを地道に築いてきた人物だったのです。


源頼信が藤原道長の家来だったというのは初めて知りました。「武士は朝廷と対立する存在」というイメージでしたが、実際は摂関家の武力担当として仕えていたんですね。

するどい!この時代の武士は、まだ朝廷を倒す存在ではなく「貴族のボディーガード」に近いんだ。摂関家のお抱え武力として、源氏も平氏も腕を磨いていた時期なんだよ。この関係が崩れて武士が独立していくのは、もう少し先の話なんだ。
■主従の絆――忠常はもともと頼信の「家来」だった
なぜ即降伏?:平忠常は源頼信の「主君」を裏切れなかったから
1030年(長元3年)、朝廷はようやく源頼信を新たな追討使に任命します。すると驚くべきことに、頼信が東国に向けて出発した1031年(長元4年)になると、平忠常はほとんど抵抗らしい抵抗もせず降伏したのです。
なぜそんなことが可能だったのでしょうか。ポイントは、平忠常がかつて頼信の「家来(家人)」だったとされる点にあります。『今昔物語集』には、頼信がまだ常陸介だったころ、忠常をひとにらみして従えたという逸話も残されています。

忠常よ、もう終わりだ。お前は元々わしの家来であろう。馬を降りて、首をこちらへ差し出すがよい。さすれば一族の命だけは助けてやろう。
つまり平忠常にとって源頼信は、ただの「朝廷の追討使」ではなく、「かつて忠誠を誓った主君そのもの」でした。朝廷の命令には抵抗できても、自分が「主」と仰いだ人物の前では刀を抜けない――これが武士特有の主従の絆であり、頼信が無血で乱を終わらせた最大の理由なのです。
■今昔物語集が伝える「浅瀬渡り」の逸話

主従の絆に加え、『今昔物語集』にはもう一つ、頼信の知略と胆力を伝えるエピソードが収められています。
平忠常は頼信の接近を阻もうと、領地内の舟をすべて隠したのです。朝廷の追討軍は川を渡れず立ち往生するだろうという算段でした。ところが頼信はあらかじめ地理を調べ尽くしていました。舟がなくとも渡れる浅瀬の場所を把握していたのです。
頼信はその浅瀬を馬ごと渡り、忠常の居宅に直接迫ります。退路を断たれたと悟った忠常はほぼ無抵抗で降伏しました。武力の差よりも、事前の情報収集と冷静な判断が勝負を決めた瞬間でした。
📖 出典について:この逸話は説話文学「今昔物語集」に基づくため、史実の細部は確認できません。浅瀬渡りの場面は頼信の知略・胆力を象徴する挿話として語り継がれ、明治の浮世絵師・月岡芳年が「大日本名将鑑」(1879年)に描きました。

主従の絆ってそんなに強いの? 命がけで反乱を起こしているのに、主君が来ただけで諦めるって、ちょっと信じられないんだけど…。

現代の感覚だと不思議だよね。でも武士の世界では、「主君を裏切る=武士として終わる」くらい重い意味があったんだ。今でいうとブラック企業の上司じゃなくて、ヤクザ映画の「兄貴」に近いイメージかな(笑)。一度盃を交わしたら一生付いていく、というのが武士の理屈だったんだよ。
■平忠常の降伏と最期
1031年(長元4年)4月、平忠常はついに京都への護送に応じます。源頼信のもとで剃髪し、罪人としてではなく半ば武士としての面子を保ったかたちで京都へ向かう道中、忠常は病に倒れます。そして同年6月、護送途中の美濃国(一説には尾張国)で没したと伝えられています。
忠常の首級は京都に運ばれ、追討は名実ともに終了します。乱の主役を失った房総三国は荒廃し、しばらくは「亡国」と呼ばれるほどの惨状だったと記録されますが、源頼信の人脈と影響力のもとで、徐々に再建が進められていきました。
平忠常の乱が歴史に与えた影響――源氏台頭と鎌倉幕府への布石
■東国における源氏の地盤固め
平忠常の乱が終わったあと、東国の武士たちが心の底から信頼するようになったのは、もはや朝廷でも貞盛流平氏でもなく、河内源氏の祖となる源頼信でした。「平氏でさえ手こずった反乱を、武力ではなく主従関係で一気に収めた男」――それが源頼信の評価だったのです。
頼信のあとを継いだ子の源頼義は、最初の追討に失敗した平直方の娘を妻に迎えます。直方は鎌倉に屋敷を構えていたとされ、この婚姻によって鎌倉の地盤が河内源氏に引き継がれたのです。のちに源頼朝が幕府を開く土地が、なぜ鎌倉だったのか――その答えの一端は、この平忠常の乱にあると言われています。

「源頼朝が鎌倉に幕府を開いた理由」って、よく「東国武士の本拠地だから」って学んだ気がするんですけど、ルーツはこんなに古いんですね。教科書では切り離されている事件が、実は一本の糸で繋がっている――そう考えると歴史って面白いです。

そこに気づけるとめちゃくちゃ強いよ!受験でも、単独事件として暗記するより、「武士台頭の物語のなかでこの乱はどこに位置するか」を理解しているほうが論述で差がつくんだ。「平忠常の乱→鎌倉幕府」の因果線は、ぜひ覚えておこう。

鎌倉幕府の源頼朝のルーツは、このとき芽を出したんだよ!「平忠常の乱→源頼信が鎮圧→子の頼義が鎌倉の地盤を継承→ひ孫の頼朝が幕府を開く」という流れで覚えると、平安〜鎌倉が一本の線になるよ。
■平氏と源氏、東国支配の分岐点
平忠常の乱以前、東国の武士団は基本的に桓武平氏(良文流・貞盛流)が中心でした。ところが乱を境に、平氏のなかでは「将門を討った貞盛流=中央派」と「反乱を起こした良文流=在地派」の対立構造が深まり、求心力を失っていきます。

その間隙を縫って力を伸ばしたのが、頼信を始祖とする河内源氏でした。ここから約150年後、平清盛の伊勢平氏と源頼朝の河内源氏が日本の支配権をかけて戦う「源平合戦」が起きるわけですが、その「源氏側の出発点」が平忠常の乱だったと考えると、歴史の連なりが鮮やかに見えてきます。
桓武天皇
├─ 高望王(桓武平氏のはじまり)
├─ 平国香(貞盛流)→ 平貞盛 → 平直方(追討使・失敗)
└─ 平良文(良文流)→ 平忠頼 → 平忠常(反乱の主役)
※「良文流」は東国の在地豪族として勢力を伸ばし、千葉氏・三浦氏・秩父氏の祖となる。「貞盛流」は中央に近い立場で、のちの伊勢平氏(清盛の家系)につながる。
■「武士の世」への第一歩
平忠常の乱から約20年後、源頼信の子・源頼義が東北で前九年の役を戦います。さらにその子・源義家が「後三年の役」を戦い、河内源氏は名実ともに東国武士団の頭領となっていきました。
こうしてみると、平忠常の乱は単なる「房総半島の地方反乱」ではなく、「貴族の世から武士の世へと舵が切られる転換点」として位置づけられる事件だったことがわかります。教科書で短く扱われがちですが、その射程はとてつもなく長いのです。

「平忠常の乱」は、地味な事件に見えるけど「貴族の時代を終わらせる第一声」みたいな事件なんだ。論述問題でも「武士台頭の象徴」「鎌倉幕府の源氏のルーツ」というキーワードで頻繁に問われるから、しっかり押さえておこう!
平忠常の乱と武士の台頭、もっと深く知りたい人へ

平忠常の乱をきっかけに源氏がなぜ東国で力を持ったのか、もっと深く知りたい人におすすめの本を紹介するよ!
①〔源氏の興亡をまるごと知りたい人〕なら|頼信から頼朝まで一気に読める決定版
②〔武士とは何かを根本から理解したい人〕なら|将門の乱から幕府成立まで武士の全史をカバー
③〔鎌倉幕府成立までの流れを一冊で追いたい人〕なら|中世日本の「始まり」をやさしく解説
テストに出るポイント
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。

テストで一番落とすと痛いのはどこ?

「鎮圧者は源頼信」を間違えないこと!「源頼朝」「源頼義」「源頼光」など似た名前が多いから、ひっかけ問題で狙われやすいんだ。「1028年・源頼信・房総三国」の3点セットだけは絶対に死守しよう!
よくある質問(FAQ)
1028年(長元元年)、桓武平氏・良文流の東国豪族である平忠常が、安房守を殺害して始めた反乱です。上総・下総・安房の房総三国(現在の千葉県全域)を実効支配し、約3年間にわたって朝廷の追討軍を翻弄しました。最終的に1031年、追討使に任命された源頼信のもとで降伏し、護送中に病死しています。平将門の乱・藤原純友の乱に続く、武士台頭を象徴する大規模反乱として高校日本史では必出のトピックです。
主な原因は3つあります。①国司との対立――税の取り立てや権限をめぐって、中央派遣の国司と平忠常が衝突していたこと。②東国豪族としての面子――房総三国を実効支配する大豪族として、地元豪族をまとめるために強い姿勢を見せざるを得なかったこと。③朝廷の軍事的脆弱化――律令制の機能不全で、追討軍を東国に送ること自体が容易ではないと忠常が見抜いていたこと。これらが重なり、1028年に安房守を殺害するという形で爆発しました。
期間は1028年(長元元年)〜1031年(長元4年)の約3年間です。舞台となったのは上総・下総・安房の「房総三国」、現在の千葉県全域および茨城県・埼玉県の一部にあたります。京都から見れば陸路でも海路でも遠い辺境で、追討軍の派遣や兵糧の輸送が難しい土地でした。この「攻めにくさ」も、3年間鎮圧できなかった大きな要因のひとつです。
後一条天皇(ごいちじょうてんのう、在位1016〜1036年)です。藤原道長の娘・彰子を母にもつ天皇で、まさに藤原摂関政治の全盛期にあたります。当時の関白は道長の子・藤原頼通で、政治の実権は藤原家が握っていました。文化的には『源氏物語』が読まれた華やかな時代ですが、地方の武力反乱に対しては脆弱で、平忠常の乱は朝廷の軍事的限界を露呈した事件として後世に位置づけられています。
平忠常が、もともと源頼信の「家来(家人)」であったためです。頼信は若い頃から東国で国司をつとめ、現地の武士団と主従関係を結んできた人物でした。『今昔物語集』には、頼信がひとにらみで忠常を従えたという逸話も残ります。そのため、忠常にとって頼信は「ただの朝廷の追討使」ではなく「かつて忠誠を誓った主君」だったのです。武士同士の主従の絆は、朝廷の命令よりも重い。これが3年苦戦した戦いを無血で終わらせた最大の理由です。
大きく2つあります。①朝廷(律令国家)の限界の露呈――追討軍が3年間機能しなかった事実が、中央政権の軍事的弱体化を示しました。②河内源氏の東国進出――源頼信が無血鎮圧に成功したことで、東国武士団の支持が河内源氏に集まりました。子の源頼義は平直方の娘と結婚して鎌倉の地盤を引き継ぎ、孫の義家、ひ孫の頼朝へと続いていきます。つまり平忠常の乱は、貴族の世から武士の世への転換点であり、鎌倉幕府成立の遠因となった事件と評価されます。
直接「平忠常の乱→鎌倉幕府」とつながるわけではありませんが、この乱を通じて、河内源氏は東国における軍事的・人的ネットワークを確立しました。源頼信の子・頼義は平直方の娘と結婚し、直方が拠点としていた鎌倉の屋敷を譲り受けたとも伝えられます。これによって鎌倉は河内源氏のゆかりの地となり、約150年後に源頼朝が幕府を開く土地として選ばれる伏線になったのです。教科書では別々に学ぶ事件ですが、「平忠常の乱→前九年の役→後三年の役→源平合戦→鎌倉幕府」と一本の線でつなげて理解すると、武士の歴史が一気に見通せます。
まとめ:平忠常の乱が教えてくれること
平忠常の乱は、教科書ではほんの数行で済まされがちですが、その本当の意味は「武士の時代の幕開けを示す事件」にあります。朝廷の追討軍が3年かかっても鎮圧できなかったという事実は、律令国家の限界を、誰の目にも明らかな形で示しました。そして、それを無血で収めたのが、清和源氏・河内源氏の祖・源頼信だったのです。
この乱を起点に、源氏は東国に確固たる地盤を築き、子の頼義・孫の義家、そしてひ孫の源頼朝へと血脈と権威を継承していきます。「鎌倉幕府の物語」は、実は1028年の房総半島から静かに動き始めていたのです。

以上、平忠常の乱のまとめでした!「武士の世」がどう始まったのかをイメージできるようになると、平安後期から鎌倉時代の流れがぐっと理解しやすくなるよ。下の関連記事もあわせて読んで、武士の台頭の全体像をつかんでみてね!
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1028年平忠常、安房守・平惟忠を殺害し反乱を開始(房総三国へ拡大)
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1028年9月朝廷、平直方・中原成通を追討使として東国に派遣
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1029〜1030年平直方の追討軍、現地で空回り。兵糧不足と地元武士の非協力で進展なし
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1030年朝廷、源頼信を新たな追討使に任命
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1031年4月源頼信が東国に下る途上で、平忠常が降伏。剃髪して京都へ護送される
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1031年6月護送途中、平忠常が美濃国で病没。首級が京都に運ばれ乱は終結
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乱後源頼信、東国における河内源氏の地盤を確立。のちの頼義・義家・頼朝へとつながる
📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「平忠常の乱」「平忠常」「源頼信」「平直方」「平良文」(2026年5月確認)
コトバンク「平忠常」「平忠常の乱」「源頼信」(デジタル大辞泉・日本大百科全書・世界大百科事典、2026年5月確認)
Historist「平忠常の乱」(2026年5月確認)
山川出版社『詳説日本史』(2022年版)
『今昔物語集』(巻第二十五・第九話「源頼信朝臣令清原滝口殺平忠常子語」ほか)
『小右記』『左経記』『日本紀略』(同時代史料)
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。

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