今回は、1028年に起きた平忠常の乱について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
平忠常の乱とは
平忠常の乱とは、1028年に関東の上総国・下総国・安房国(おおむね今の千葉県全域)で起きた大規模な反乱のことを言います。
平将門の乱(935年)以来、関東で久しぶりに起きた反乱で、鎮圧に3年を要したとても大規模な反乱となりました。
平忠常って何者?
まず初めに、この記事の主役である平忠常って何者?って話からスタートしようと思います。
平忠常は、あの有名な平将門の叔父、平良文の孫にあたる人物でした。
平良文はもともと下総国に本拠地を持っていた豪族でしたが、平将門の乱(935年)が起きた際、平良文はその鎮圧に貢献し、乱の後は関東で自らの基盤を着実に固めていきました。
その勢力は、平良文→忠頼→忠常と次の世代へ受け継がれていき、平忠常の代になると、上総国・下総国・常陸国に広大な所領を持つようになり、もはや国司の言うことを無視できるほどの力を持つようになっていました。
つまり、乱の主役・平忠常は、あの有名な平将門の親戚筋にあたる武将で、関東で絶大な力を持っていたんだね。
平忠常の乱が起きた理由
朝廷に第一報が届いたのは1028年6月。平忠常が安房守(※)・平維忠を殺害したとの報告が入ります。
殺害動機は、実はあまり詳しくはわかっていません。
ただ、国を治める立場の受領(国司)と、現地の領主である平忠常は、税金などをめぐって意見が対立しがちな立場だったので、その対立が激化した結果だろうと考えられています。
もともと当時の在地豪族たちは、しばしば受領(国司)に反抗的な行動をとっていました。しかし、多くの場合は中央の有力貴族との私的なコネを使って、お咎めなしになることがほとんど。なかには実質的な内乱状態になっても、追討令が下されないケースもありました。
・・・しかし、受領(国司)が殺されたとあっては、さすがの朝廷も黙ってはいられません。今回ばかりは、朝廷も追討軍を派遣して、忠常を懲らしめることにしました。
当時の在地豪族は、国司の命令に従わないことも多かったけど、国司を殺害するなんてことはめったになかったんだ。
平忠常の行動は、当時としてはかなり異例だったと言えるね。
最初の報告から少し経って、次は『平忠常、上総国の国衙を占領!』との報告が朝廷に入ります。
安房国・上総国が平忠常の手に落ちたのを見た現地の有力者たち(地方豪族)は、こんなことを思いました。
もしかして今、平忠常に味方して暴れたら『納税、納税』ってうるさい役人たちを駆逐できるのでは・・・!?
こうして安房国から始まった国司と平忠常とのトラブルはだんだん大きくなり、上総国・下総国・安房国の3国にまたがる大反乱へと発展していったのです。
苦戦する追討軍
平忠常の反乱の報告を受けた朝廷は、検非違使である平直方・中原成通の2人を追討使に任命します。
平直方は、先ほど掲載した系図でいうところの貞盛流平氏であり、貞盛流平氏は長年、平忠常が属する良文流平氏と敵対関係にありました。
ちょうど平直方は、当時の最高権力者であった関白の藤原頼通に仕えていたため、頼通に対して『(忠常をぶっ潰したいから)どうかその任、私にお任せ願えないでしょうか?』とお願いし、追討使に選ばれたと言われています。
平直方からすれば、追討使になれば朝廷の公認を受けて忠常と戦えるという大きなメリットがあったんだ。
1028年8月、平直方と中原成通は約200人の兵を率いて京都を出発。夜中にもかかわらず、多くの見物人が集まって見送ったといいます。
追討軍は、想定以上の苦戦を強いられることになります。
1028年12月、追討使の1人であった中原成通が解任されます。平直方が積極戦法を採用したのに対して、中原成通は戦いに消極的で2人の意見が合わず、最終的に都への戦況報告を怠ったという理由で解任されてしまったのです。
ただ、中原成通が解任された後も、反乱鎮圧は思うようには進みませんでした。
戦乱は長期化し、戦場となった下総・上総・安房の3国では、兵糧(兵士の食糧)確保のため田畑は荒廃。
戦乱の後に新しく赴任した上総介の報告によれば、上総国の田んぼの広さは本来2万2千町あったものが、わずか18町にまで減少してしまった(つまりほぼ全滅!)といいます。
※ただし、被害の原因は平忠常軍だけではなく、追討使の平直方や諸国兵士による収奪も大きかったとも言われています。
源氏のエース、源頼信の登場
1030年7月、業を煮やした朝廷は平直方をクビにして、9月に代わって源頼信という人物を追討使に任命します。
源頼信と平忠常は過去に会ったことがあるようで、「今昔物語」には次のようなエピソードが残されています。
朝廷としては、過去に忠常を従えていた源頼信であれば、乱を鎮圧できるだろう・・・と考えたものと思われます。
いくら武勇に長けていようとも、忠常も主人である源頼信には逆らえまい・・・
1031年春、頼信が上総国へ出発しようとすると、平忠常は出家し、争うことなく頼信の前にあっけなく降伏してしまいました。
平直方の追討軍にもびくともしなかった平忠常が、源頼信の出陣であっさり降伏したのは、かつて平忠常が頼信の家人だったからだと言われているよ。
頼信は平忠常を連れて帰還の途につきますが、同年6月、帰路の途中で平忠常は病死してしまいます。
頼信は病死した平忠常の首をとって帰京。平忠常の首は京でさらし首にされたものの、一度梟首晒し首されましたが、「降伏した者の首を晒すのはよくない」という声があがり、従者に返されました。
3年間も大反乱を起こした人物にしては、なんともあっけない最期でした。
平忠常の乱が歴史に与えた影響
平忠常の乱は、その後の源氏の台頭に大きな影響を与えることになりました。
乱の後、関東の平氏たちの多くが源頼信と主従関係を結ぶこととなり、平氏が幅を利かせていた関東に大きな勢力を築くことに成功しました。
平忠常の乱の後も源氏の活躍は続きます。奥州(今の東北地方)で前九年の役(1051年)・後三年の役(1083年)が起きると、再び源氏が大活躍し、源氏は平氏に並ぶ武家として成長していくことになります。
平忠常の乱まとめ
平忠常の乱は、平安時代の関東で起きた反乱としては平将門の乱に次ぐ大きな反乱だったけど、その後の平氏・源氏の勢力関係に大きな影響を与えた点でも重要な事件だったんだね。
コメント
めちゃくちゃわかりやすくてとても助かりました。砕けた口調の解説が、逆に記憶に定着しやすかったです!