面白いほどわかる平将門の乱!簡単にわかりやすく解説【平将門の生涯がバッチリわかります】

今回は、939年に起こった平将門たいらのまさかどの乱についてわかりやすく丁寧に解説します。

高校の教科書では、平将門はこんな風に紹介されています。

平将門のプロフィール(教科書風)

平将門は下総かずさを根拠地にして一族との争いをくり返すうちに、国司とも対立するようになり、939年に反乱を起こした。常陸ひたち下野しもつけ上野こうづけの国府を攻め落とし、東国の大半を占領して新皇と自称したが、平貞盛たいらのさだもり藤原秀郷ふじわらのひでさとらによって討たれた。

この記事では、平将門の乱について以下の点を中心にもっと詳しく見ていくことにします。

  • 平将門の乱が起こった理由
  • 平将門の乱の経過
  • 平将門という男の生涯
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桓武平氏の血を引く平将門

最初に、平将門がどんな人物だったのか出自の話をメインに紹介します。

平将門はそのご先祖様を辿っていくと、桓武天皇に辿り着きます。つまり、天皇の血を引いているということ。

将門のおじいちゃんに当たる平高望たいらのたかもちの頃から「平」という氏を与えられ平氏と名乗るようになりました。桓武天皇の血を引く平氏なのでこれを桓武平氏と言ったりします。

890年頃、平高望は上総国の受領に赴任しますが、その任期が終わった後も関東地方の有力者としてそこに根を張り、子孫たちも関東で勢力を拡大するようになります。

当時の関東地方の国の配置
(たくさん国が登場するのでこの地図を参考にしてください)

平高望は一族の繁栄のため、実に多くの子孫を残します。

平高望の子孫たち。「平」の字は省略
  • 国香くにか ー 貞盛
  • 良兼よしかね
  • 良将よしまさ ー 将門
  • 良広よしひろ
  • 良文よしふみ
  • 良持よしもち
  • 良茂よししげ

平高望亡き後、出世に成功した息子は国香良将の2人。この2人は朝廷との関係を深めるため、それぞれ自分の息子を京へ送って士官させました。

平将門は朝廷の権力者藤原忠平ふじわらのただひらに仕え、滝口の武士などを務めますが出世への道に挫折し、930年頃に関東へと戻ります。

一方の平貞盛は、京での栄達を目指して京に残り続けました。

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平将門VS平国香(常陸国の役人)

関東に戻ると、平将門は下総国にあった本拠地が叔父たちに狙われていることに気付きます。将門は父の良持失っており、その隙を叔父たちが狙っていたのです。(930年当時、将門はまだ30歳ぐらいだった)

ある時、平真樹たいらのまさきという人物が将門に相談を持ちかけます。

真樹「源護みなもとのまもるとかいうやつと所領をめぐってトラブったんだけど助けてくれないか・・・?」

平将門
平将門

OK!源護を攻め滅ぼせばいいんだな。

平将門
平将門

そう言えば、源護の娘たちって俺の所領を狙っている国香・良兼・良正おじさんに嫁いでたな。

ってことは、源護と戦えば便乗して国香たちも倒せるかも・・・。

935年2月、利害の一致した将門と真樹は、国香と源護を襲撃しました。

結果は将門の勝ち。国香と源護の3人の息子が亡くなり、これに激怒した良正が将門に攻めかかりますが、これも撃破します。

この時、平国香は常陸国のじょうという身分の役人だったので、将門は国家に対して反乱を起こしたことになります。

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平将門VS平良兼(上総国の役人)

936年6月、次は上総国のすけという身分だった良兼が動きます。(下総介だという説もある)

地方の役人(国司)は、

地方役人ランキング
  • No1:かみ
  • No2:すけ
  • No3:じょう
  • No4:さかん

の順番で偉かった。No1の守は京にいることがほとんどで、現地では介以下が力を持っていました。(ちなみに、国司が京に残ることを遙任ようにんと言います。)

良兼は、

  • 再挙を目指す良正
  • 亡き国香の息子である貞盛

と組んで将門に攻めかかりますが、敗北。将門は良兼の命を奪うこともできましたが、さすがに介の身分の者を討つのはマズいと思ったのか、良兼を逃しました。

936年9月には二度にわたる役人への反乱のため、将門は朝廷に呼ばれお咎めを受けることになります。しかしちょうどその頃、朱雀天皇の元服に伴って恩赦おんしゃが行われ、罪は免除に。むしろ、その武勇に将門の名は京でも有名になった・・・と言います。

恩赦:人々の刑罰を軽減または消滅させること。この時は朱雀天皇の元服がめでたいということで恩赦になった。

将門は、天運をも味方につけていたようです。

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平将門、苦しむ人々のために立ち上がる

国司の重税に虐げられていた人々にとって、これらの事件は心が晴れる実に爽快な事件でした。将門は次第に庶民の中で英雄視され、いろんな問題が将門の元に舞い込んできます。

そして938年、また事件が起こりました。

武蔵国の郡司ぐんじだった武蔵武芝むさしのたけしばという男が、国司の酷使を訴えてきたのです。

郡司:集落ごとのリーダーで国司に税金を納める役割を持つ。農民と国司の間に立つ中間管理職

事情はこうです。

武蔵武芝
武蔵武芝

新任の

・武蔵権守ごんのかみ興世王おきよおう

・武蔵介の源経基みなもとのつねもと

が、現地視察という名目で集落の略奪を目論んでいる。

興世王
興世王

雑魚のくせにうるせーな。黙って俺にひれ伏せ。

権守:守と介の間に置かれた官位。必ず任命されるわけではなく、不定期に置かれました。

興世王らは武芝の集落を襲撃し、略奪をほしいままにしました。

武蔵武芝
武蔵武芝

将門様、どうか略奪された金品を取り返すため、協力してくれないでしょう・・・。

平将門
平将門

わかった。まずは私が興世王と交渉してみよう。

これまで自分のために戦っていた将門は、この時は純粋に「苛政かせいに苦しむ郡司のため」に立ち上がりました。これは将門の性格によるもので、将門はヒーローとなる資質を持ち合わせていたのです。

将門と興世王の交渉は成立し、二人は酒宴により親睦を深めます。しかし、外では事情を知らない武芝の軍勢が手違いにより、源経基を襲撃。

この事件により決まりかけた交渉は決裂。源経基は将門の暴挙を朝廷に訴えます。

朝廷「また将門かよ。今は藤原純友の乱で余裕がないと言っているのに・・・。」

朝廷は将門について謀反の真相について報告を求めますが、将門が謀反を認めるわけもなく、「謀反の嫌疑なし!」という結論に終わりました。

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平将門、受領をぶっ倒す

939年、次は常陸国から藤原玄明ふじわらのはるあきが将門に助けを求めてきます。

藤原玄明
藤原玄明

常陸介(受領じゅりょう)の藤原維幾ふじわらのこれちかの言うことを無視し続けて、税金を滞納していたら逮捕されそうになった。

助けて将門!

将門はこれを受け入れ、藤原玄明は下総にいる将門の元へ逃げ込みます。藤原玄明はさらにこんなことを将門に打ち明けました。

藤原玄明
藤原玄明

実は・・・、憎き藤原維幾の命を奪おうと思っているんだ。

平将門
平将門

それは面白い。私も協力するぞ。常陸の国府を襲ってやろうw

この頃の将門は、国司に不満を持つ人々をとにかく受け入れました。

将門は、武蔵武芝の件で敵対していた武蔵権守の興世王をも受け入れていました。興世王は新任の武蔵守に不満を持ち、仕事を放棄して将門を頼ることにしたのです。

将門は常陸国府に対して

平将門
平将門

藤原玄明の逮捕命令を撤回して、再び常陸国に住めるようにしろ

と交渉をしますが国府はこれを拒否。そして939年11月、将門は常陸国府を襲撃します。

結果は将門の大勝利。将門軍は国府やその周辺で略奪と暴行のかぎりを尽くし、国府は完全に沈黙しました。

将門に味方する者の多くは国司の苛政に不満を持つ人々。この襲撃によって、彼らの長年の恨み辛みが爆発したのです。

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平将門「関東地方は俺が支配する」

常陸国府の襲撃以降、将門は関東地方の英雄となります。重税に苦しむ多くの人々が将門の味方となり、将門の軍勢は膨れ上がりました。

興世王はこの勢いに乗じて、関東一帯を支配してはどうか・・・と将門に提案します。

興世王
興世王

過去の事例を調べてみると、どうも一国を落とした程度では朝廷からの刑罰はそんなに重くないらしい。

それなら、この勢いに乗じて関東を支配下に置き、その後、朝廷の出方を伺うのが良いだろうな。

平将門
平将門

私は天皇の末裔(桓武平氏)であるから、まずは関東の八国を支配して、その後、私がこの国の王になろう。

939年12月、遂にこの計画が実行されます。もはや各地の国司は、現地民を味方に取り込んだ将門軍の敵ではありませんでした。

上野こうづけ下野しもつけ上総かずさ下総しもうさ安房あわ武蔵むさし相模さがみ伊豆いずの8国が将門の手に落ち、将門は自ら新皇と称して、8国の支配者であることを宣言しました。関東地方に独立国家が生まれたのです。

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平将門、散る

静観を続けていた朝廷もこの事態にはさすがに動きました。関東に将門追討部隊を送り込み、同時に将門を賞金首とします。

そして、これまでずーっと身を潜めて将門討伐のタイミングをうかがっていた平貞盛が、気を熟したとばかりに遂に行動を開始します。

平貞盛

貞盛は、下野国の押領使だった猛者の藤原秀郷に話を持ちかけ、これを味方に引き入れます。

藤原秀郷

転機は940年2月に訪れます。貞盛の放った偵察隊から「将門は軍を解散して、地元に戻ったらしい」と言う情報が入ってきます。兵の休息のためとも、農期を考慮してとも言われています。

平貞盛
平貞盛

今こそ、将門を討ち滅ぼす時ぞ。父の仇を討ち、京で名声を上げるのだ・・・!

940年2月1日、平貞盛・藤原秀郷らは下野国から将門のいる下総国に向けて進軍。途中、将門軍を撃破しながら2月13日には下総国の国境へ到着。

その頃、将門は身を潜め、呼びかけていた援軍の到着を待っていました。

・・・が、いくら待てども援軍はやってきません。冬で時期が悪いのと、将門が賞金首になったことが影響したのでしょう。

14日、敵に居場所を発見された将門は、約400の兵で出陣。4000の兵を率いる平貞盛・藤原秀郷軍と対峙します。

平将門の自慢の騎兵部隊は勇猛果敢に死闘に臨み、少数ながら貞盛らを圧倒。将門も獅子奮迅の活躍をしますが、途中、馬が足をとられたところを敵の矢を受け、亡くなりました。

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平将門は人気者

朝廷から見れば将門は反逆者ですが、農民たちにとっての将門は紛れもなく救世主であり英雄でした。

その武勇伝は語り継がれ、乱が終わってすぐ将門記しょうもんきと言う戦記物まで創作されています。

江戸時代、浮世絵にもなっていた将門

そして、各地で様々な伝説が生まれ、今では日本三大怨霊の一人として人々から愛されると同時に恐れられています。

東京千代田区では高層ビルが立ち並ぶ一角に将門の首塚が今もなおポツンと残されています。戦後(1950年頃)に工事のため首塚を壊そうとするも不吉な事件が起こり工事計画が中止されたためだと言われています。

怨霊の祟りというのは、意外とあったりするのかもしれませんね。

東京千代田区にある将門の首塚
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平将門の生涯まとめ(年表付き)

タイムラインのタイトル
  • 900年頃
    平将門、生まれる(時期は不明)
  • 920年頃
    平将門、京で藤原忠平に仕える
  • 930年頃
    京での生活を断念し、関東へ戻る。

    関東に戻った理由は、父親(良将)の死とも、京での栄達を諦めたとも言われているが詳細は不明。

  • 935年
    平将門、叔父の平国香を滅ぼす
  • 936年
    平将門、叔父で上総介の平良兼を打ち負かす
  • 938年
    武蔵武芝と興世王の争いを仲介

    手違いにより武蔵介の源経基を攻撃してしまい、謀反として朝廷に訴えられる。

  • 939年
    常陸国の国府を襲撃。その後、関東8国を支配下に置き「新皇」と名乗る。

    ここで朝廷は本気の対応を開始。これに呼応して将門討伐の機を待っていた平貞盛(国香の息子)が動き出す。

  • 940年
    将門、討たれる

    平貞盛・藤原秀郷の襲撃により、命を落とした。

文献等によって年表が微妙に異なるため、あくまで参考程度です。

もっと詳しく知りたい方はこんな本も



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