今回は平安時代中期、熾烈な出世競争を勝ち抜き貴族としてぶっちぎりで日本の頂点に登りつめた藤原道長(ふじわらのみちなが)について紹介します。
藤原道長って有名なんですけど何をしたのかよくわからん!っていう人も多いんじゃないかと思います。ところが、「約1、000年前の日本社会で、熾烈で陰鬱な出世競争を圧倒的な強さで勝ち抜いた藤原道長ってどんな凄いやつなんだろう?」みたいな視点で見てみるとそれが実に面白い!
藤原道長が権力者になると、それまで定期的に起こっていた陰湿な政争が突如として無くなります。なぜかというと、圧倒的な藤原道長の権力を前に道長に歯向かおうとするものすらいなくなってしまったから。
権力って言葉はどちらかというとネガティブなイメージが強いかもしれません。確かに権力が暴走すると恐ろしいことは歴史が証明しています。しかし、権力者がいるからこそ世が平和になるという考え方もありますよね。
ちょっと違うかもしれませんが、そんな権力のあり方も藤原道長の生き様から学ぶことができるような気がします。
では本題へ。
本題に入る前に【平安時代の系図の見方】
系図なんですが、この時代の歴史をより楽しむには見方にちょっとしたコツがあります。それは「自分の気になる人物や時代があったら、まずは誰が天皇か調べる。そして天皇の母方の祖父を調べる」という方法。
当時は、子供が生まれると基本的に母の実家で育てられました。なので、実家の祖父には子供に対して強い発言力があって、その子供が天皇だと、母方の祖父は政治にも強い影響力を持つようになる・・・こんな仕組みで日本の政治が動いていました。
天皇と言えどもおじいちゃんには簡単に逆らえないわけです。
だから、天皇の母方の祖父を見ると、当時の権力者が誰なのかすぐわかるんですよね。もし、母方の祖父が権力者になっていないのなら、祖父が早死にしているか、何か政変などのトラブルが起こっている可能性が高い。こんな見方ができるわけです。
この記事もそんな感じで系図を使っています。
藤原道長の偉大な父
後に大権力者になる藤原道長ですが、決して1人の力で権力を手に入れたわけではありません。その権力の土台を作ったのは、藤原兼家(ふじわらのかねいえ)という偉大な父でした。
【藤原兼家】
時代は円融(えんゆう)天皇の時代(969年〜984年)。
円融天皇を系図で見ると、母方の祖父(外祖父)は藤原師輔(ふじわらのもろすけ)。兼家の父であり、道長のじいちゃん。安和の変が起こった頃に活躍した人物です。

藤原師輔は、娘の藤原安子を村上天皇に嫁がせ、冷泉天皇・円融天皇と2人の天皇の外祖父のポジションを手に入れていましたが、残念ながら960年には亡くなってしまいました。
この師輔を受け継いだのが、師輔の長男だった藤原伊尹(ふじわらのこれただ)という人物。が、藤原伊尹も972年に死亡。藤原伊尹の後継を巡って、師輔の次男の藤原兼通と三男の藤原兼家の間で政争が起こります。
この時なぜ争いが起こったかというと、三男の藤原兼家の方が周囲の評判が高く、次男を抜いて後継になろうとしたから。これに兼通が怒ったわけです。
この政争に兼家は敗北。藤原兼通からはかなり虐げられてしまい、出世もロクに出来ず、不遇の時期を過ごします。ところが、この兼通も977年に死亡。冷遇されていた藤原兼家に自然と出番が回ってきました。
978年には娘の藤原詮子を円融天皇に嫁がせ、979年には右大臣に昇進。さらに980年になると、円融天皇と藤原詮子の間に男子が生まれます。これが後に藤原道長と長い付き合いとなる一条天皇。
藤原兼家はもうウキウキです。一条天皇が即位すれば、自分は外祖父になり政治の権力を支配できるわけですから。
しかし、982年、藤原忠頼が娘を円融天皇に嫁がせ、正妻(中宮)に。円融天皇は藤原兼家の権力欲に満ちた強引な政治のやり口を嫌い、そこで藤原忠頼に接近したとも言われています。こうして、子供(後の一条天皇)がいるにも関わらず、藤原詮子は後宮争いに負けてしまいます。
さらに984年、円融天皇が譲位し、花山(かざん)天皇が即位します。一条天皇はこの時、皇太子となります。系図を改めて見てください。
【系図(再掲)】
花山天皇の外祖父は兼家の亡き兄、藤原伊尹です。すると、伊尹の息子が政治の実権を握るようになります。
【花山天皇】
こうしてライバルが増えてきた藤原兼家は不安を覚えます。
「娘の詮子が男子まで産んでくれたのに、このままだと俺の時代が終わってしまうかも知れん。一条天皇の皇太子もいつ廃止されるかわからんしな。すぐに、今すぐにでも孫の一条天皇を即位させて早急に俺が実権を握らないと・・・」
こう考えた藤原兼家は、一計を案じ、花山天皇を騙して強制出家させ、譲位に追い込みます。この政変のことを寛和の変と言います。こうして藤原兼家は強引に一条天皇を即位させました。986年の話です。

藤原兼家はついに念願の天皇の外祖父へ。政治の実権を握り、朝廷を思うがままに操ります。兼家は能力や経歴なんてガン無視のコネによって息子たちを大きく昇進させ、要職に就かせます。
パッとしなかった藤原道長のキャリアもこの時に大いに躍進しました。
権力争いに明け暮れる日々
990年、藤原道長の偉大な父である兼家が亡くなります。その後を継いだのは兼家の長男だった藤原道隆(ふじわらのみちたか)という人物。藤原道長は4男で道隆は道長から見れば兄になります。四男の藤原道長には、まだ出番はありません。
ところが995年、この道隆も亡くなってしまいます。後を継いだは、兼家の三男である藤原道兼。さらにさらに、この道兼も同年(995年)に亡くなってしまいます。詳しくは以下の記事で紹介しています!

次男は藤原道綱という人物でしたが、母の身分が低く戦力外。道綱の母は蜻蛉日記という、兼家の不倫の愚痴をぶちまけた赤裸々日記で有名です。

道隆・道兼と次々と兼家の後継者が亡くなり、次に候補に上がったのが藤原道長と道隆の息子の藤原伊周(ふじわらのこれちか)でした。
【藤原伊周】
藤原道長と藤原伊周は非常に仲が悪く、両者は火花を散らしますが、政争を有利に進めたのは藤原道長。一条天皇の母であり道長の姉である藤原詮子が道長のことを好いていたことが藤原道長の有利に働きました。
藤原道長は内覧(ないらん)という権限を得て、遂に政治の実権を握りるようになります。詳しくは以下の記事をご覧ください!

さらに996年、対立していた藤原伊周が色恋沙汰でトラブって、勝手に政治の世界から消えてくれました。

こうして、目の前に強力な敵はいなくなり、藤原道長は朝廷の第一人者となります。前置きが超長くなりましたが、こうして藤原道長が権力者として歴史の表舞台に登場します。
・・・こうやって経過を追うと、藤原道長ってめっちゃ運いいんですよね。だって、邪魔者が勝手に次々と消えていくんですから。藤原道長は4男なので、順当に行けば朝廷社会のトップになど君臨できるわけがないのに、それがトントン拍子で超出世を遂げるんだから凄いです。その豪運を少し私にも分けて欲しい・・・(切実。
朝廷ラブロマンス
しかし、藤原道長は運がいいだけの男ではありません。豪運で掴み取った機会を決して逃さず、自らの権力を盤石にするため後宮政策に本腰を入れ始めます。
たまに「藤原道長は運が良かっただけ」みたいな話もありますけど、その運を最大限に活かし切った藤原道長の器量はやはり評価されるべきだと思います。
道長は娘の藤原彰子(ふじわらのしょうし)を一条天皇の嫁がせ、1000年に一条天皇の正妻とします。

【藤原彰子(左上)】
一条天皇には既に藤原定子という正妻がいたのですが、道長は「別に正妻2人いても大丈夫大丈夫。『中宮』と『皇后』ってことで言葉を使い分ければいいから」というトンデモ理論を展開。このトンデモ理論は、昔に兄の藤原道隆が発明したもので道長はこれをパクりました。
こうして一条天皇と藤原定子、藤原彰子の微妙な三角関係が始まります。この辺の話は朝廷ラブストーリーとして非常に面白いんですが、書くとキリがないので省略。気になる方は以下の記事を読んでみてください。

一条天皇は藤原定子が大好きでした。1001年に定子が亡くなると、一条天皇は定子との子を天皇にしたいと強く望みます。しかし、これは彰子の父である藤原道長が許しません。道長としては彰子の息子を天皇にしたいからです。
この時の藤原彰子の心境はとても複雑でした。なぜなら、彰子は非常に頭の切れる女性で、一条天皇の定子への愛をちゃんと察していたからです。(そして、彰子は一条天皇のことも愛していた!!)
彰子は、一条天皇の言うとおり定子の息子を天皇にしてあげたかったのに、父の道長が「彰子!お前が子供を産んで、その子が天皇になるんだからな!定子の男子なんて知らんわ!!!」とうるさいもんだから、父のことを嫌っていたんじゃないか?とまで言われています。
さらに、一条天皇も道長を嫌っていたとも言われています。ただ、藤原道長が政治の実権を握っており、道長なしには何もできないことをちゃんと理解している一条天皇は、表面的には藤原道長とは良好な関係を維持しました。

藤原道長「三条天皇邪魔だからいじめたろ」
【過去記事の使い回しで色がついてますが気にせずに】
1011年、一条天皇が崩御。次に即位したのは三条天皇。一条天皇との関係が良好だった時とは一変し、藤原道長と三条天皇は次期天皇を巡って激しく対立しました。
【三条天皇】
1011年当時、藤原道長は娘の彰子が産んだ敦成親王(後の後一条天皇)の即位に夢中でした。道長にとって、三条天皇は後一条天皇が即位するまでのつなぎ役でしかなかったんです。
ところが、当の三条天皇はそうは思わず、自らの力で政治を立派に行いたいと考えます。さらに、三条天皇には藤原せい子という妃の間に敦明親王という息子が生まれていて、三条天皇は敦明親王を次期天皇にしたいとまで望みます。三条天皇と藤原道長の政治理念は相容れないものだったのです。
それでも、藤原道長は保険をかけました。1012年、三条天皇に娘の藤原妍子(ふじわらのけんし)を中宮(正妻)にさせます。「妍子との間に男子が産まれれば、三条天皇が頑張っちゃっても俺の外祖父の地位は盤石だ。三条天皇の思うようにさせてやってもよいかな」とかって道長は思ったわけです。
が、藤原道長の強引な後宮政策を嫌った三条天皇は、すぐに藤原せい子も皇后(正妻)に格上。一条天皇の時のように正妻が2人いるという異常事態に。この時、道長が藤原せい子に執拗な嫌がらせをしたことが記録に残っています。せい子の心を折ろうとしたのです。この記事を読み進めていくとわかりますが、道長は目的のためなら手段を選ばない男でした。
1013年、藤原妍子と三条天皇の間に念願の子どもが産まれます・・・が女子でした。女子では天皇即位は不可能で、道長はこの出産に不快感を示します。というか、三条天皇に見切りをつけ始めます。
道長「保険をかけて三条天皇にも娘を嫁がせたけど、やっぱダメだな。所詮、三条天皇は皇位継承のつなぎ役。次の天皇は後一条天皇にするかー」
1014年、三条天皇が眼病を患います。藤原道長も、さすがに天皇に向かって「とっとと譲位しろや」と言うのをためらっていましたが、この眼病は三条天皇を譲位に追い込む絶好のチャンスとなりました。道長は、三条天皇の眼病回復祈願の邪魔をしたりと陰湿な嫌がらせを続け、三条天皇を精神的に追い詰めます。
遂に1016年、メンタルをへし折られた三条天皇は譲位。道長が心の奥底から望んでいた後一条天皇が即位します。しかし三条天皇もタダで譲位したわけじゃありません。「後一条天皇に譲位してやるから、後一条天皇の後の天皇は敦明親王にしろよな」と道長に交換条件を突きつけたのです。
ところが、眼病に犯された三条天皇は1017年に崩御。もはや三条天皇との約束を守る必要もなくなった藤原道長はあの手この手で敦明親王に皇太子を降りるように迫ります。こうして同年、道長の精神攻撃に屈した敦明親王は皇太子を自ら辞退。後の後朱雀天皇が皇太子となります。

なんか、道長に得意なことを聞いたら、「人を精神的に追い詰めることさ。ちょっとしたコツがあるんだよね」とか言いそうww
「この世をば〜」の有名な一句
1018年、藤原道長は娘の藤原威子を後一条天皇の中宮にします。こうして藤原道長は、娘を3人(彰子・妍子・威子)も天皇の正妻にするという前代未聞の偉業を成し遂げ、朝廷の全ての権力を我が手中に納めます。
天皇の母は、国母とまで呼ばれ政治に関しても非常に強い影響力を持ちます。それが3人も同時にいるんですから、誰も藤原道長には逆らえません。天皇に何か言おうにも、3人の国母か道長に話を通さなければならず、反対勢力と天皇との伝達ルートを完全にシャットアウトしてしまったからです。(当時の人々がこぞって娘を天皇に嫁がせようとした理由がここにあります)
藤原道長の後宮政策は、非の打ち所がないほどに完璧でした。そして威子が中宮になったことを祝う飲み会で、藤原道長が詠った一句が「この世をば〜」の有名な一句です。
ここでは詳細は触れられませんが、以下の記事で詳しく紹介しています。

その後、藤原道長は1019年に出家し、政界を引退。次を息子の藤原頼通に託します。(道長は出家後も息子の頼通に頻繁に口出ししていたらしい)
1028年、その豪運と完璧な後宮政策、そして豪快な政治手腕によって全てを手に入れた藤原道長は亡くなります。晩年は仏教に帰依し、法成寺というお寺も建立したほどでした(現存はしていませんが!)。
藤原道長と摂関政治にまつわる勘違い
藤原道長は摂関政治の代表的存在として語られることが多いですが、実は藤原道長はほとんどの期間摂政にも関白にもなっていません。1016年に後一条天皇が即位した際、摂政となりますが、翌年には辞任しています。

藤原道長の政治はもはや摂政・関白を超越した政治であり、「天皇の外祖父になったら無双状態すぎワロタw」というシンプルで強力な新しい政治スタイルを朝廷内で確立させました。
道長が確立した天皇の外祖父最強制度はその後も続きますが、平安時代末期になると天皇の外祖父が上皇となることが増え、上皇が政治の実権を握るようになります。これが有名な院政ってやつですが、その政治理念の基礎を作ったのは意外にも藤原道長でした。
ちなみに、藤原道長のやり方をパクった初めての上皇が白河上皇という人物です。

藤原道長の人物像
【藤原道長】
藤原道長が生きた時代は、貴族たちが残した日記が史料として多く残っていて、道長の人物像については多くの逸話が残っています。
藤原道長は豪快で細かいことを気にしない大らかな性格だったと言われています。以下は、道長の書いた御堂関白記(みどうかんぱくき)という日記。その文字からも道長の性格がにじみ出ています。
【文字の大きさとかバランスがバラバラw】
そして、娘を次々と強引に天皇に嫁がせ、三条天皇を譲位に追い込むその様からも藤原道長の豪腕さや大胆さが伺えます。
藤原道長って、「天皇に嫌がらせしたり、娘のことばかり考えたり、結局権力欲に溺れた浅ましい人間なんだろ?」って言うのもちょっと違います。藤原道長には人事面での才能があったようで、心の中では道長を嫌っていたであろう一条天皇も藤原道長の人事采配は高く評価していたなんて話もあります。朝廷貴族にとって人事とはまさに政治そのものですので、道長のこの人事スキルは自らの出世に大いに役立ったはずです。
さらに、当時宮内で流行っていた女房(にょうぼう。位高い女性に付く女官)たちの文学作品にも非常に興味津々でした。
藤原彰子の女房である紫式部が書いた「源氏物語」なんかは、道長はとても気に入っていて「紫式部ちゃん、続き気になるから早く書いてよー」って感じで紫式部とは親密な交流があったとも言われています。(紫式部と道長が密通している疑惑もあるほど)
道長は、源氏物語のスポンサーとも言える人物で、平安文学の隆盛にも大いに貢献しました。
藤原道長の人物像をまとめると「豪快でおおらか、人事に定評もあって権力欲も持ち合わせた人物。そして、遊び心もあって女房たちとキャッキャウフフしながら平安文学まで楽しんだ、現代でもおそらく大出世するであろうリア充チャラ男」って感じです。
藤原道長の話って、歴史っていうよりも昼ドラや大企業の出世競争ドラマ的な感じで見るとめっちゃ面白いんですよね。出世の見込みのない4男が、運と実力で大権力者にのし上がり、裏では様々な恋愛ドラマが繰り広げられ・・・って感じで。
最後に。平安時代の貴族社会の在り方って現代の旧体質な組織にそのまま当てはまるんじゃないか?って思うことがよくあります。日本人特有の組織論みたいなものが、平安貴族の社会には眠っているのかもしれません。
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