面白いほどわかる班田収授法!簡単にわかりやすく解説【目的は?戸籍と計帳、口分田までバッチリわかります】

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今回は、飛鳥時代末期(701年)に制定された班田収授法はんでんしゅうじゅほうについてわかりやすく丁寧に解説します。

はじめに教科書風に班田収授法の概要を載せておきます↓

専門用語が多すぎで意味不明だと思いますが、この記事を全部読み終わった後に見返してもらうと、スッと理解できると思います。

班田収授法とは

班田収授法は、豪族による土地・人民の支配を排除して国家が直接民衆を掌握しようとしたもの。

民衆は家族を中心としたという単位で管理された。民衆は戸籍こせき、土地は計帳けいちょうというもので管理され、戸を単位として民衆に農地(口分田くぶんでん)が与えられた。

民衆は与えられた口分田を耕して生計を立てながら、収穫の約3%をと呼ばれる税金として国に納めた。

この記事を読んでわかること
  • なぜ班田収授法は制定されたの?
  • 班田収授の仕組みは?
  • 班田収授法の影響や問題点は?
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なぜ班田収授法は制定されたのか?

班田収授法が制定された理由は、

朝廷が民衆を直接支配できるようにするため!

です。

これだけだとよくわからないので、図解してみました↓

飛鳥時代の朝廷(ヤマト政権)の政治は基本的に、左図の状態が続いていました。

朝廷が地方の有力豪族に「税金納めろ」「兵士を送れ」と命令すると、それを受けた豪族は自分の支配下にある部曲かきべと呼ばれる人々に命じ、朝廷の命令を実行します。

この制度、一見問題なさそうに見えますが、実は朝廷にとっては非常に悩ましい制度でした。

有力豪族が逆らう=有力豪族が従える部曲たちも一気に逆らう

ということになるので、大反乱になったり、朝廷が豪族の力に屈してしまうことがあったんです。

こうして大反乱になったのが6世紀初めに起きた磐井の乱、朝廷が屈した代表的な豪族が7世紀初期に権勢を振るった蘇我氏でした。

7世紀になって、アジアでとうという大国が登場し、朝鮮半島は高句麗こうくり新羅しらぎ百済くだらの三国の情勢が不安定になると、朝廷はこんなことを思います。

朝廷
朝廷

アジアの情勢が不安定すぎて、日本も巻き込まれたら戦争になるんじゃね?

でも、ヤマト政権は蘇我氏に支配されてグダグダだし、戦争になったら負けてしまうのでは・・・(汗

こうして、ヤマト政権は右図のように、部曲・田荘を廃止して民衆と土地をヤマト政権が直接支配できる政治を目指しました。

この動きの大きな転機になったのが、645年に起こった乙巳の変です。

最大の邪魔者だった蘇我氏を滅したことでヤマト政権による民衆支配が進み、701年にその集大成として班田収授法が成立することになります。

ヤマト朝廷から日本へ

ヤマト政権は天皇と豪族による連合政権ですが、政権のトップである天皇が民衆を直接支配するようになると、連合政権というよりも天皇政権となり、それに合わせるかのように、この頃から自国の名称として「日本」が使われるようになります。

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班田収授法ができるまでの流れ

次に簡単にですが班田収授法ができるまでの時代の流れをまとめておきます。

班田収授法ができるまで

班田収授法が制定されたのは701年ですが、班田収授自体はそれ以前から実施されていたと言われています。

646年以降少しずつ班田収授の仕組みが出来上がり、701年にようやくその仕組みが完成したわけです。決して、701年に突如として生まれた制度ではありません。

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班田収授には必要な戸籍と計帳

班田収授法が制定された理由を確認したので、次は班田収授の仕組みについて見ていきます。

班田収授とは言い換えれば、「国が民衆に農地を与える」ってことです。これをちゃんと行うために国は日本に「どれぐらい人がいるのか?」「どれぐらい農地があるのか?」を調べないといけません。そこで、人・土地を管理するために作られたのが戸籍計帳と呼ばれるものです。

口分田

班田収授によって民衆に与えられた農地のことを口分田と言います。

戸籍と計帳

戸籍は班田収授法が制定される前から準備が進められていて、670年には日本で初めての戸籍である庚午年籍こうごねんじゃくが作られていました。

毎年生まれる人・亡くなる人がいるので戸籍は常に更新する必要があります。かと言って、毎年戸籍調査を行うのは膨大な労力が必要なため、戸籍は6年に一回更新するルールとなりました。

そして、「戸籍に載っているAさんは〇〇の土地を与えられている」というような、誰にどの土地を与えているかを記録しているのが計帳です。

また、民衆一人一人に口分田を与えるのはメチャクチャ大変な業務だったので、戸籍や計帳は、小さな集落単位でまとめられました。この単位のことを「戸」と呼び、戸の代表者を戸主と言います。

大体、1戸=25名程度だったとされています。

このように、人と土地をしっかり管理する仕組み(公地公民制)があって初めて成立するが班田収授の仕組みです。なので、班田収授法は国が目指した民衆支配の集大成とも言えるかもしれません。

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班田収授の仕組みはどうなっているの?

口分田は6才以上の人々に与えられ、女性は男性よりも与えられる口分田は少なくなっていました。

与えられる口分田は、男は田2段で女性はその3/4でした。1段=390歩=11.9aと単位変換について教科書に書いてますが、わかりにくいので全てメートルに直してみました↓

教科書を参考に簡単に計算した例

実際は戸単位で25名分ぐらいを一気にドンッと与えられるので、それをみんなで協力して耕していたことでしょう。

また、与えられる口分田は6年に一回見直されました。この6年というのは、戸籍の6年に一回更新ルールに合わせてのもの戸籍の更新に合わせて口分田の見直しも行われたのです。

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班田収授と租

班田収授法によって、人々は国から与えられた口分田から稲を収穫することで生計を立てるようになりました。

こうしておけば、昔のように「有力豪族が大量の部曲を従えて朝廷に反抗する」なんてことは起こらなくなります。これが班田収授の大きな目的の1つです。

しかし、班田収授にはもう1つの目的があります。それが税金の徴収です。

国は「国が民衆が生活するのに必要な農地を与えているんだから、当然、民衆は税金を払う必要があるよね^^」と口分田で収穫した稲の約3%を「租」と呼ばれる税金として徴収しました。

3つの税「租・調・庸」
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班田収授法の問題点

ここまでの話だけだと、民衆も国も助かるwin-winな関係で班田収授はとても優秀な仕組みに見えるかもしれません。

しかし、いくつかの問題点もありました。

問題点1:土地が少なすぎる問題

結論から言うと、口分田が少なすぎて不作になると人々は食糧難に陥り、苦しい生活を強いられることになりました。

口分田だけでは米が足りないので、有力者の土地を借りてそこで小作農をしないと多くの民衆はまともな生活ができませんでした。

小作農とは

人から農地を借りて、農地を耕すこと。農地を借りる代わりに、収穫物の一部を農地の持ち主に納めました。

奈良時代になるとこれに重税も加わって、口分田を放棄して逃げ出す人も増えていきます。

問題点2:人口が増えると土地が足りなくなる

民衆は与えられた土地を耕すだけでOKなので、新しい農地を開墾できません。

すると、人口が増えるにつれ土地が足りなくなっていきます。さらに「土地が増やせない=税金の租を増やせない」と、税収の上でも問題となっていきます。

この問題は、「開墾してくれたらその土地は開墾した人にあげるよ!」と言う大判振舞いな墾田永年私財法が743年に制定されることで解決されますが、次は貧富の差の拡大が大きな社会問題となっていきます。政治というのは難しいものです。

この2つの問題は根の深い問題であり、結局、班田収授の仕組みは800年頃になるとうまく機能しなくなり、少しずつ崩壊していきます。そして、班田収授の仕組みは税金の仕組みと連動しているので、税の仕組みも班田収授の崩壊と合わせて変化していくことになります・・・。

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この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
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