【崇徳天皇が怨霊になったところ。左上ね】
今回は、怨霊についての話です。
怨霊とは、不遇の死を遂げた人物の霊魂をいい、人に災いをもたらすものとされています。
怨霊は、日本人にとってとても身近(?)な存在。最近はあまり見ないけどTVでは心霊写真特集をやっているし、肝試しは日本の夏の風物詩です。
ちなみに、日本では次の3人が日本三大怨霊として有名です。
・崇徳天皇
・平将門
・菅原道真
すべて平安時代の人たちです。怨霊が本格的に世間に広まったのも平安時代なのです。
他にも、藤原広嗣なんかも怨霊として有名です。詳しくは以下の記事をどうぞ。
これらの人物は、怨霊として有名なだけではなく、日本の歴史上でも重要な人物たちです。今回は、怨霊の起源について見ていきます。
変わっていく鎮魂祭
まずは、魂を鎮める儀式である鎮魂祭のお話。
昔々、ヤマト朝廷と地方豪族(地元の権力者)との激しい争いがありました。
(有名なのは雄略天皇です。あまり参考になりませんが、以下の記事の時代になります。
その時に、ヤマト朝廷が敵の霊を弔ったのが鎮魂祭の起源と言われています。反抗者や被征服者の霊を鎮め、封じ込めることで災いを防ごうとしたものと考えられています。
鎮魂祭は、国に災いをもたらす霊を封じ込めるための儀式、という意味合いが大変強く、日本ではとても重要視されていた儀式でした。
これが、平安時代になると一変してしまいます。
平安時代の鎮魂祭は天皇の魂を鎮めるもの
時代が進み、平安時代になると天皇の権力強化や神格化により、本来、国を守るための儀式だった鎮魂祭は、天皇のための儀式へと変貌していきます。
そして、天皇のための儀式へと変貌していくに伴って儀式の意味合いも変わってしまいました。鎮魂祭は、亡き天皇たちの魂を鎮めるための儀式へ変わっていったのです。
対象が「国」から「天皇」に変化し、それまで漠然としていた「国に災いをもたらす霊」は「天皇個人の霊」と具体的な個人の霊へ変化していきます。
漠然としたイメージの霊が、天皇個人の具体的な霊へと変化していく点が重要です。
現代風の怨霊が誕生!
鎮魂祭は、天皇のための儀式へと変わりました。しかし、国に災いをもたらす怨霊自体は消えません。
そこで、鎮魂祭の代わりに霊を鎮めるために造りだされたのが御霊会(ごりょうえ)と言われる儀式です。
御霊会は、霊を鎮めることを目的としたものですが、ここでいう霊についても、鎮魂祭が天皇のための儀式となっていた過程と同様に、「国に災いをもたらす霊」から「誰々の霊」というような具体的な個人を指す霊へと変貌していくのです。
ここに登場する具体的な個人の霊というのが、現代に至るまで続く怨霊の原型となります。実は、怨霊と天皇という、一見関わりのなさそうな2者ですが、実は、意外と密接に結び付いた関係にあります。
国風文化の芽生え
唐を真似し続けていた日本ですが、平安時代初期になると少しずつですが、日本独自の文化、いわゆる「国風文化」的な動きが始まっていきます。
怨霊の登場もちょうど日本に国風文化が芽生えた頃でした。なので、この怨霊についても、国風文化により生まれた日本独自の信仰の1つと私は思っています。
最後に
今でこそ怨霊というのは、エンターテインメントや文化的な面が強いですが、当時は怨霊を恐れるあまり、国が大きく動いてしまうほどに政治的な要素が強いものでした。
いくつかの記事で怨霊が登場したのを機に、今回の記事を作成してみました。
怨霊に関しては、
という記事の中で触れています。
日本三大怨霊の一人:菅原道真の活躍
菅原道真について記事を書きました!
日本三大怨霊の一人:平将門の活躍
平将門について記事を書きました!
次:承和の変(じょうわのへん)とは?超わかりやすく【淳和天皇と嵯峨上皇】1/2
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