面白いほどわかる平治の乱!簡単にわかりやすく徹底解説【平清盛VS源義朝】

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平治の乱の様子

今回は1159年に起こった平治の乱へいじのらんについて、丁寧にわかりやすく解説していきます!

先に超簡単に平治の乱について説明しておくと、ざっくりこんな感じの戦いでした↓

平治の乱を簡単にまとめると・・・

後白河上皇の院近臣いんのきんしん(部下)たちの間で起きた権力争い

この記事では平治の乱について以下の3点を中心にわかりやすく解説します。

  • 平治の乱が起こった原因は?
  • 結局、誰と誰が戦ったの?
  • 平治の乱の経過は?
  • 平治の乱の影響は?
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平治の乱が起こるまでの流れ

最初に平治の乱が起こるまでの流れをチェックしましょう!

平治の乱が起こるまでの流れ
  • 1156年
    保元の乱、起こる

    皇位をめぐって崇徳上皇VS後白河天皇。後白河天皇が勝利

    後白河天皇の側近である信西しんぜいが権勢を奮う時代へ。

  • 1157年
    後白河天皇派 VS 二条天皇派

    朝廷内では、政治スタイルをめぐり2つの派閥で対立が起こる。

    • 1 後白河天皇を譲位させて院政を目指すグループ
    • 2 二条天皇の親政を目指すグループ
  • 1158年
    二条天皇即位

    後白河院政派と二条天皇親政派で話し合いが行われ、二条天皇の即位が決まる。

    後白河院政派はさらに2つの派閥に分裂。朝廷に3つ巴の勢力が生まれる。

    • 1 後白河院政派ー信西グループ
    • 2 後白河院政派ー藤原信頼ふじわらののぶよりグループ
    • 3 二条天皇親政派ー美福門院びふくもんいんグループ

    そして、政治の実権を握っていたのは1番の信西グループでした。

  • 1159年
    平治の乱、起こる←この記事はココ

    1番の信西グループを2・3の藤原信頼・美福門院グループが襲撃。

    平治の乱勃発!

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保元の乱を終えて 〜 暗躍する美福門院 〜

平治の乱は、1156年に起きた保元の乱と密接に関連しています。というわけで、まずは保元の乱について簡単に説明しておきます。詳しくは以下の記事を合わせて読んでみてくださいね。

保元の乱は、皇位継承を崇徳天皇すとくてんのうルートにするか後白河天皇ごしらかわてんのうルートにするか・・・をめぐって争われた戦いでした。

下の系図の鳥羽天皇から分かれている75代・77代の部分です。(76代の近衛天皇このえてんのうは早世しているため対象外)

結論を先に言うと、保元の乱は後白河天皇側の勝利に終わり、後白河天皇→二条天皇というルートがほぼ確定しました。

当時、亡き鳥羽上皇の妃だった藤原得子ふじわらのなりこが裏で強大な影響力を持っていました。鳥羽上皇の遺産を受け継ぎ、広大な荘園と富を手に入れていたからです。藤原得子は別名「美福門院びふくもんいん」と呼ばれ、この記事では美福門院で統一します。

裏のボス、美福門院

美福門院は守仁親王もりひとしんのう(後の二条天皇)を養子としており、何としても守仁親王を即位させようと考えていました。

ところが、守仁親王には父(後白河天皇)がいます。父を差し置いて子だけ天皇になるなど、男系血族に重きを置く日本の天皇制度においては前代未聞・・・というわけで、まずは後白河天皇を即位させることにしました。これが1155年(保元の乱の一年前)の出来事。

つまり、後白河天皇の即位は二条天皇が即位するおまけみたいな扱いだったので、誰も後白河天皇に期待をしていません。好んで後白河天皇を支持していたのは後白河天皇の乳母を嫁に持っていた信西ぐらいなものでした。

1158年、美福門院は後白河天皇の側近として活躍していた信西に迫ります。

美福門院
美福門院

そろそろ後白河天皇を譲位させてくれないかしら?

院政もしないで頂戴ね。これからは二条天皇の時代なの。

信西にとっては、後白河が院政をしなくなれば政治的な立場が失われてしまうので、簡単に美福門院の言うことを聞くわけにはいきません。・・・が、両者の間で秘密会合が行われ、信西が美福門院の案を受け入れます。(どんな話し合いが行われたかは不明)

こうして1158年、二条天皇が即位しました。

二条天皇
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二条天皇派と後白河上皇派

二条天皇の即位を受けて、何も知らない人々は今後の政治のあり方について大きく以下の2つ派閥に分かれることとなります。

後白河上皇支持派

後白河上皇の院政を望むグループ。元々、後白河上皇と親密な関係にあった者の多くはこちらの属します。グループの中心にいたのは信西。

二条天皇支持派

二条天皇の親政を望むグループ。美福門院や二条天皇に近い者はこちらに属しました。

ここに、二条天皇親政派VS後白河上皇院政派の対立が生まれることになります。

有利な立場に立っていたのは後白河上皇院政派。頭脳明晰だった信西が着実に権力を掌握していきます。

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三つ巴の朝廷

二条天皇親政派にとって信西は邪魔な存在でした。しかし、後白河上皇院政派の中でも「低い身分のくせに偉そうにしやがって・・・!」と信西に不満を持つグループが形成されました。

こうして争いは三つ巴の様相をていしてきます。

朝廷内の3大勢力
  • 1 二条天皇親政派
  • 2 後白河上皇院政派だけど反信西派
  • 3 後白河上皇院政派で信西派

さらに、1・2のグループは「信西排除」で利害が一致したため一時的に協力関係を結び、信西を追放する計画を立て始めました。これが平治の乱へとつながっていきます。

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平治の乱、始まる

1159年12月、「後白河上皇院政派だけど反信西派」の代表格だった藤原信頼ふじわらののぶよりという人物が源義朝みなもとのよしともと協力し、信西を襲撃しました。

源義朝(鎌倉幕府を開いた源頼朝のお父さん!)

藤原信頼は、後白河上皇の院近臣いんのきんしんとして活躍した人物です。後白河上皇との男色関係を通じて、重用され出世したと言われており、政治能力自体は皆無でいわゆる「無能」だった・・・と言われています。(本当かどうかは謎)

藤原信頼は、後白河上皇との親密な関係を利用して自分の有利に人事や政治を操りたい!と考えますが、それには権力者の信西は邪魔です。

しかし信西を排除しようにも、信西のバックには平氏の武士たちがついています。藤原信頼だけで対抗するのは不可能。そこで、平氏と双璧をなす武士の名門、源氏の源義朝に近づくことにしました。

源義朝は保元の乱の際に、主戦力として活躍したにも関わらず低い地位のまま源氏を放置した信西に強い敵対心を抱いていたと言われています。

1159年12月9日の夜、平清盛たいらのきよもりが京を離れ、信西の護衛が手薄になっているところを狙い、源義朝は院御所いんのごしょ(上皇が住むところ)だった三条殿さんじょうどのを奇襲。

後白河上皇は皇居内へ運び込まれ軟禁。信西は三条殿からの脱出には成功したものの、その逃走中に敵に追い込まれ自害。

この時、後白河上皇を皇居に軟禁できたのは二条天皇親政派も藤原信頼に協力していたからです。先ほども書いたように「信西、反対!」と言う点で両派は利害が一致していました。

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平清盛、動く

藤原信頼の奇襲があった翌日の12月10日、平清盛にもその知らせが届きます。平氏にとって信西は最大の支援者です。その信西が亡くなったというのは、平氏にとっては由々しき事態でした。

12月16日、平清盛は京の六波羅ろくはらにある自宅へ戻り、ひとまず様子を見ることにします。信西の弔い合戦をする選択肢もありましたが、上皇・天皇のいる皇居を本拠地とする藤原信頼・源義朝と戦うことはあまりにも不利。(安易に戦えば「朝敵」として日本中から敵として認定されてしまう可能性がある)

一方の藤原信頼・源義朝も奇襲用の少数の兵しかおらず、平清盛と戦争をするには援軍を待つ必要がありました。

こうしてしばらく、こう着状態が続きますが、その間に平清盛が裏工作に動きます。二条天皇親政派だった藤原惟方ふじわらのこれかた藤原経宗ふじわらのつねむねの二人に接近したのです。

目的は、藤原信頼派と二条天皇親政派の協力関係を瓦解させること。

これは簡単でした。むしろ二条天皇親政派にしてみれば、皇居に立て籠もって信西に代わって権力を振りかざしていた藤原信頼はもはや敵でしかありません。

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天皇争奪戦

平清盛のターゲットはあくまで、藤原信頼と源義朝です。清盛はこの2人を倒すため、次のような計画を立てました。

藤原信頼・源義朝を倒す方法
  • STEP1
    藤原信頼に恭順の意を示し、敵を油断させる。

    藤原信頼の息子と平清盛の娘が婚姻関係にあり、藤原信頼も思慮深い男ではなかったため、これは楽勝。

  • STEP2
    二条天皇・後白河上皇を密かに皇居から脱出させる。

    天皇・上皇が皇居にいなければ、思いっきり敵と戦えます。ここで二条天皇親政派との連携が活きることに。

  • STEP3
    皇居に攻め込んで敵をボコボコにする!!

計画の実行日は12月25日の夜。

二条天皇を女装させて皇居を脱出し、平清盛の邸宅のある六波羅へと避難。後白河上皇は仁和寺にんなじへと避難します。

そして12月26日、二条天皇の名の下に藤原信頼ら追討の宣旨せんじ(天皇からの命令)が出されます。藤原信頼・源義朝は朝敵になってしまったのです。この宣旨を受けて、平清盛らは皇居にいる原信頼・源義朝に攻撃を開始しました。

これで全て計画通り!形勢は完全に逆転しました。

油断していた藤原信頼は虚を突かれ、慌てふためくばかりで何もすることができません。そのあまりにも惨めな様子を見た源義朝は大激怒。

源義朝
源義朝

何やってんだよお前!俺はこんな奴と一緒にいたのかよ・・・。

もう終わりだよ。お前は日本一の大馬鹿野郎だこのやろう!!!

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平治の乱、終結!

皇居を戦場にするのは良くないと考えた清盛は、一度撤退したフリをして敵を六波羅付近におびき出します。

結果は、平清盛の圧勝。藤原信頼側はクーデター用の少兵力だったのに加え、朝敵にされたことで援軍も望めず、勝ち目はありませんでした。

藤原信頼軍には、メチャクチャ強いことで有名だった源義平みなもとのよしひらという若者もいました。劣勢の中、清盛の嫡男だった平重盛を追い詰める武勇伝を残しますが、戦局を左右するには至りません。

平重盛を追う源義平(後ろの黒馬)

ちなみに、源義平は後世の人々に大人気で、こんなカッコいい絵画も残されています↓

カッコいい・・・

源義朝の逃走劇

六条河原で敗戦した源義朝は、命からがら平安京内から抜け出し、息子の源頼朝を引き連れ東国へ向かいます。しかし、落ち武者狩りに襲われ息子の頼朝と離れ離れに。その後、味方の裏切りにより死亡。

息子の源頼朝は捕らえられ、伊豆に流罪となりました。

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平清盛の時代始まる

平治の乱により源氏の棟梁である源義朝が亡くなったことで、源氏は力を失います。すると、軍事力が必要な仕事は、平氏に頼るほかありません。

当時、武力を必要とする仕事は山ほどあったので、もはや平氏なしでは政治運営は成り立たなくなっていました。天皇や貴族たちは、平安京の治安維持、所領問題、強訴などなどを全て平氏に頼らざるを得ないわけです。

そして、平清盛は引っ張りだことなった自らの地位を巧みに利用し、朝廷内での地位を高めようと企みます。おまけに平清盛は武力だけではなく貿易などによって財も成すようになり、もはや清盛の助けなしに政治をすることはできません。

こうして、終わってみれば平清盛こそが平治の乱の一番の勝者となっていました。

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平治の影響

箇条書きで簡単にまとめると・・・

影響その1

二条天皇親政派の勝利によって後白河上皇は力を失った。

影響その2

保元の乱・平治の乱と続いた皇位継承争いは一応の終止符が打たれた。

影響その3

武力と財力を持つ平清盛なしには政治が回らなくなってしまった。

特に影響3の部分は重要で、平治の乱以降、平清盛は武士の身分でありながら朝廷で圧倒的な発言力と権力を持つようになります。

平清盛は晩年になると、天皇即位ですら自分の思うがままに操り、孫の安徳天皇を強引に即位させ、人々は強い不満を持つようになります。この不満が爆発し、治承・寿永じしょう じゅえいの乱(源平合戦)へと繋がっていくのです。

平治の乱を描いた平治物語。わかりやすい現代語訳付き!
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この記事を書いた人
もぐたろう

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