今回は戦国武将の一人、上杉謙信についてわかりやすく丁寧に解説していきます。
教科書では、上杉謙信についてはこれしか書かれていません。
この記事ではもっと詳しく上杉謙信の生涯に迫ってみようと思います。
上杉謙信、長尾氏として生まれる
1530年1月21日、上杉謙信は長尾為景の4男として産まれました。(次男・3男説もあり)
幼名は虎千代。大人になる(元服する)と長尾景虎と名乗りました。この記事では「上杉謙信」で名を統一して使います。
父の長尾為景は越後国の守護代という役職に就いていました。守護の下に就く役職で、上司は守護です。
ところが、長尾為景は越後の守護である上杉定実を傀儡とし、実質的な越後の最高権力者として君臨します。部下が上司に取って代わる、まさに戦国の世の下克上そのものです。
1540年、父の為景は長尾家の家督を長男の長尾晴景に譲ります。
当時の越後は、為景の下克上の影響もあり情勢が不安定で、各地で反乱が起こっていました。越後平定は、家督を継いだ晴景の最重要任務となります。
1542年に父の為景が亡くなると、その隙をついてさらに反乱が激化。晴景が拠点とした春日山城の目前にまで敵が迫るほど、追い込まれます。
栃尾城という別の場所にいた上杉謙信もターゲットにされました。しかし1544年、数えでわずか15歳の謙信(当時は長尾景虎)は、巧みな戦略で敵を蹴散らしてしまいます。
晴信が越後を平定できずにいると、謙信の圧倒的強さを知った家臣たちは次第にこんな風に思います。
晴信がリーダーでは不安すぎる。謙信が長尾家の家督を継いだ方が良いのではないか?
1548年、家臣の声が強くなると、色々あった末に晴景は謙信に家督を譲渡します。上杉謙信は、わずか19才で長尾家の家督を背負うことになったのです。
1550年、越後守護の上杉定実が後継者のないまま死去。越後守護は断絶しますが、室町幕府の公認の下、上杉謙信が守護の仕事を代行することになります。
上杉謙信は当時20歳ちょっとですが、この時点で波乱万丈すぎる人生を歩んでいます・・・。
上杉謙信VS武田信玄 〜川中島の戦い〜
家督を継いだ謙信は着実に越後を平定し、1552年には強敵だった上田長尾氏という一族を倒しました。
しかし、越後平定は戦乱の序章にすぎません。
1552年、関東管領だった上杉憲政が相模の北条氏康に破れ、越後の謙信にヘルプを求めてきました。
さらに1553年、武田信玄に攻め込まれた信濃国の村上義清も、謙信に助けを求め越後にやってきます。
上杉謙信は当時の政治情勢も踏まえ、この2人を受け入れることとし、2人を追い詰めた武田信玄・北条氏康と徹底抗戦することを決めます。
このうち、武田信玄と戦った戦いは川中島の戦いと呼ばれるもので、5回に渡って戦いが行われました。
この川中島の戦いについて簡単に紹介しておきます。
第1次川中島の戦い
村上義清が謙信に助けを求めた時、両者の間を仲介したのは信濃国北部に住む高梨氏という一族でした。
高梨氏は長尾氏との関係が深く、上杉謙信のおばあちゃんはこの高梨氏でした。
1553年8月、謙信は祖母の母国を武田信玄から守るため、村上氏の領地奪還の名目で信濃へ攻め込みます。
武田軍と上杉軍は信濃国の川中島で対峙。所詮は小競り合いで終わり、結果は引き分け。謙信は、村上氏の領土奪還には失敗したものの、これ以上の武田信玄の進軍を防ぐことに成功しました。
川中島・上杉謙信の拠点(春日山城)・武田信玄の拠点・後北条氏の拠点(小田原城)をGooglemapで整理してみたので、記事を読み進める際の参考としてください。
以下は、中部地方の各国の様子です。合わせて参考にしてみてください。
第2次川中島の戦い
1554年、武田信玄は信濃国の攻略に全力を注ぐため、駿河の今川氏と相模の後北条氏と同盟を結びます。(甲相駿三国同盟)
この同盟により後顧の憂いを絶った信玄は1555年、信濃の川中島へ侵攻。再び上杉謙信と対峙します。しかし、両者迂闊に動けず、200日ものにらみ合いが続き、兵の士気は低下。
謙信は武田信玄に「奪った北信濃の領地を返還する」との約束をさせて、兵を引き揚げます。
1556年、上杉謙信は200日間のにらみ合いで家臣たちが内紛を起こしたことに疲れ果て、高野山に隠居してしまいます。
・・・が、慌てた部下たちは急ぎ謙信を説得。なんとか、謙信を戦線へ復帰させることに成功します。
20代で一国の主人になってその上、外も中も争いだらけでは、隠居したい気持ちもわかるような気がします・・・。
第3次川中島の戦い
1557年、武田信玄は上杉謙信との約束を破り、再び川中島へ攻め込んできます。
武田信玄は謙信との直接対決を避けながら、ジワジワと川中島を攻略していきます。信玄は、後北条氏とも戦っている謙信が川中島で長期戦をすることは不可能だと知っていたのです。
こうして、川中島の一帯は武田の手に落ちました。血縁関係のある高梨氏も領土を失い、越後へ逃亡することになります・・・。
・第4次川中島の戦い
1560年、駿河の今川義元が織田信長に討たれます。(桶狭間の戦い)
これにより甲相駿三国同盟の一翼が崩壊。このチャンスを狙って上杉謙信は関東攻略を試みます。
上杉謙信は敗走した関東管領の上杉憲政を匿っており、関東攻略の大義名分(戦う理由)を持っていたのです。
1561年3月、上杉謙信は北条氏康の拠点だった相模の小田原城に攻め込みます。しかし、小田原城の守備は堅く、城を落とすことができません。
上杉謙信は小田原城の攻略と同時に、関東で上杉憲政から上杉氏の家督を譲り受け、関東管領に就任します。この時、名を上杉政虎と改め、ようやく上杉を名乗るようになります。
謙信が小田原を攻めている間、同盟国の相模を援助するため武田信玄は川中島へ侵攻し、謙信にプレッシャーを与えます。
この時、謙信は思いました。
駄目だこいつ(武田信玄)・・・
早くなんとかしないと・・・
謙信は急ぎ越後へ戻り、1561年6月、武田信玄のいる川中島へと攻め込みます。
1〜3回目と違い、4回目の川中島の戦いは本格的な大決戦となります。互角の戦いを繰り広げ、両者ともに大損害を受け、戦いは引き分けに終わります。
(第5次は消化試合なので省略します・・・!)
上杉謙信VS北条氏康 〜小田原の戦い〜
上杉謙信は甲斐の武田信玄と同時並行で、上杉憲政を敗走させた相模の北条氏康との戦いを強いられていました。
上杉謙信は、関東に攻め込む正当な理由を得るため、1553年と1559年に上洛して、将軍の足利義輝から関東管領の後任になることを認められます。
こうして上杉謙信は、「前任の関東管領(上杉憲政)をフルボッコにした北条氏康を、新しい関東管領として成敗してやる!」という大義名分を得ることになります。
1560年、今川氏が桶狭間の戦いに敗れ、甲相駿三国同盟が乱れると上杉謙信は、いよいよ相模の小田原攻略を決意します。
謙信は大義名分も得て、関東の反後北条派を味方にしながら、意気揚々と小田原城へ攻め込みます。
・・・しかし、小田原城は難攻不落の要塞でした。おまけに、強い謙信とまともに戦いたくない北条氏康は籠城戦に持ち込み、越後からはるばる遠征してきた謙信の心を折る作戦にでました。
この作戦は成功し、上杉軍の士気は低下。おまけに北条氏康と同盟関係にある武田信玄が謙信の背後を突いて川中島へ攻め込んできます。(この後に起こったのが、先ほど紹介した第4次川中島の戦いです)
こうして、謙信は越後に撤退せざるを得なくなり、小田原攻めは失敗に終わります。
その後も上杉謙信と北条氏康は争いを続けますが、お互いに別のことで精一杯で、大きな戦に発展することはありませんでした。
上杉謙信VS一向宗
上杉謙信は、越後のとなり越中の一向宗とも敵対関係にありました。
一向宗との対立は、祖父の代から続く根の深い問題でした。謙信を嫌う一向宗は、上杉謙信を共通の敵に持つ武田信玄と連携し、武田や後北条と戦っている上杉謙信を背後から苦しめ続けていました。
そんな非常に厄介な敵が1572年、一揆を起こします。この時、上杉謙信はちょうど関東で北条氏康と戦っていましたが、一揆のせいで越後に撤退せざるを得なくなります。
この絶妙なタイミングでの一揆は、裏で武田信玄が手を引いていた・・・とも言われています。
上杉謙信は周囲に敵が多すぎるため、一箇所を集中して攻略することが生涯できませんでした。
「二頭を追うものは一頭をも得ず」ということわざがあります。謙信は積極的に戦いを望んだわけではないかもしれませんが、結果的に小田原攻めも川中島の戦いも道半ばで終わってしまいます。
織田信長VS上杉謙信
1576年、長く続いた一向宗との戦いはようやく終わりを見せはじめます。
上杉謙信が、一向宗の総本山である石山本願寺と和睦をしたからです。当時、石山本願寺は織田信長と戦っている最中であり、上杉謙信も将軍(足利義昭)を京から追放(1573年)した織田信長を快く思っておらず、両者の利害が一致します。
謙信は、武田信玄に対抗するため織田信長と同盟を結んでいましたが、1573年に信玄が亡くなると、同盟は意味を失います。
織田信長が1574年に長篠の戦いで武田氏を破り、さらには北陸地方に進出するようになると、謙信は逆に織田を警戒し、1576年に石山本願寺と連携したのです。
1577年、北陸の能登地方で畠山家の家督争いが勃発。この争いに北陸の支配権を巡って織田信長と上杉謙信が介入します。
こうして織田と上杉は、ついに激突することになります。
謙信は、織田派が篭る七尾城を謀略を駆使して速攻で落とします。七尾城を助ける織田の援軍部隊は、七尾城陥落を知らないまま能登へ進行。
織田軍は手取川を渡ったところを七尾城から出撃した上杉謙信に攻め込まれ、前には上杉軍、後ろには手取川という挟み撃ち状態となり、織田信長は謙信に大敗北を喫することになります。
手取川の戦いによって、上杉謙信は織田信長の北陸侵攻を阻止することに成功します。
上杉謙信の最期
手取川の戦い後、謙信は次の遠征の動員令を出しますが、次の戦いは決行されることなく、1578年3月9日謙信は49歳で亡くなります。
上杉謙信の死後、上杉家では家督争い(御館の乱)が起こり、弱体化。とはいえ上杉氏は戦国時代を生き残り、江戸時代になると米沢藩の藩主として、その勢力を維持することになります。
上杉謙信の人柄
元服してから亡くなるまで、戦いに明け暮れた生涯でした。
上杉謙信は清廉潔白な性格で大義名分を重んじ、自分の欲のために戦うことはほとんどありませんでした。長期にわたって戦った武田・北条との戦いも、その発端は上杉謙信にヘルプを求めてきた人々を助けるためです。
上杉謙信は毘沙門天を深く信仰しました。毘沙門天は、仏教世界を守る四天王の一人。四天王の中でも最強の男でした。
その信仰のおかげ?で上杉謙信は、戦闘で無類の強さを発揮します。これだけ戦いに明け暮れた生涯を送りながら、実は敵に負けたことがほとんどありません。
その驚異的な強さから、上杉謙信は毘沙門天の化身だという異名を持つほどです。同じく圧倒的な強さを持つ武田信玄や織田信長からも恐れられたほどで、まさに最強という言葉がふさわしいです。
特に武田信玄は、幾度も上杉謙信と戦いながら、謙信のことを高く評価しており、息子の武田勝頼に次のように述べたと言われています。
あいつ(上杉謙信)は信頼できる男だ。戦の強さは抜群だし、何より約束を守り、嘘をつかない。
息子(武田勝頼)よ、私が亡くなって本当に困った時は上杉謙信を頼るがいい。
上杉謙信の年表まとめ
最後に上杉謙信の生涯について年表でまとめておきます。
- 1530年上杉謙信、生まれる
長尾為景の男子として生まれる。幼名は虎千代。
- 1544年わずか15歳で敵を蹴散らす
元服後は長尾景虎と名乗る。
- 1548年長尾家の家督を兄から譲り受ける
兄の晴景は越後の内乱を抑え切れず、家臣たちの批判もあって謙信に家督を譲りました。
- 1552年関東攻め、開始
北条氏康に敗れた関東管領の上杉憲政が謙信に助けを求めてきた。
この年から、関東への遠征を開始する
- 1553年第一次川中島の戦い
武田信玄に敗北して信濃から越後へ逃げ込んできた村上氏などを助けるため、川中島で信玄と戦う。
- 1555年~1557年第2・3次川中島の戦い
- 1559年京に上洛。
将軍の足利義輝から、関東管領を受け継ぐことを正式に認められる
- 1600年桶狭間の戦いで今川氏敗れる
武田・今川・北条による甲相駿三国同盟の一翼が敗れる。
- 1601年小田原の戦い・第4次川中島の戦い
甲相駿三国同盟が崩れた隙を狙い小田原に攻め込むも、攻略に失敗。
逆に留守の越後を武田信玄に狙われ、武田信玄と決戦をする(第4次川中島の戦い)
この後も、武田・後北条との戦いは続くが、大きい戦いには発展せず。
- 1572年〜1576年一向一揆の平定
長年、謙信を苦しめ続けた越中の一向宗との戦いを終わらせ、織田信長に対抗するため両者は和睦する。
- 1577年手取川の戦い
能登で織田信長の軍と戦う。謙信は織田軍を惨敗に追い込む
- 1578年上杉謙信、逝く
新たな戦いへ出陣しようとした矢先、急に倒れて亡くなる。
酒の飲み過ぎが原因とも言われている。
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