足利義詮が地味すぎて謎人物だったのでわかりやすく解説してみた!

今回は、室町幕府二代将軍の足利義詮(あしかがよしあきら)について紹介します。

 

室町幕府の将軍と言えば、初代の足利尊氏三代目で金閣寺を建てた足利義満なんかが有名ですが、この2人の間に将軍位に着いた2代目の義詮はどうも地味です。

 

 

しかし、地味だからと言って何もしてなかったわけではありません。なぜ足利義詮が地味なのかというと、内政を頑張った人物だったからです。

 

 

足利義詮に与えられたミッションは、観応の擾乱の戦後処理でした。観応の擾乱により、

1 朝廷は南朝と北朝に分裂し、戦争が継続中
2 室町幕府に目を転じると、観応の擾乱を通じて反乱分子になった足利直冬と交戦中
3 室町幕府内部の権力争いが続く。敗者は南朝や足利直冬に味方して、1,2の戦争は複雑化

 

という非常に難しい問題を室町幕府は抱えることになります。この争いを終わらせることこそが、足利義詮に課せられたミッションだったのです。

 

 

結論から言ってしまうと義詮は、このミッションをクリアする道半ばで亡くなってしまいます。

 

しかし、息子の足利義満が義詮の偉業を受け継ぎこれを成功させることになります。足利義満の時代は室町時代の全盛期と言われますが、その下地を作ったのは紛れもなく義詮だったのです。

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戦乱の世に生まれた足利義詮

足利義詮が生まれたは1330年。父は初代室町幕府将軍の足利尊氏。嫡男として生まれました。(つまり、次の将軍候補!)

 

1331年になると、後醍醐天皇VS鎌倉幕府の元弘の乱が勃発します。詳細は以下の記事で解説していますので、合わせて読んでみてください!

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この戦い、最初は父の足利尊氏は鎌倉幕府軍として参戦していました。しかし、1333年、足利尊氏は鎌倉幕府を見限り、後醍醐天皇側へ寝返ります。

 

 

当時、足利義詮はお母さんと一緒に人質として鎌倉に滞在していましたが、尊氏の寝返りのため密かに鎌倉を脱出。その後、鎌倉攻めに向かう新田義貞と合流し、鎌倉幕府を滅ぼしました。

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滅ぼしたと言っても、義詮はまだ今でいう保育園児。もちろん何もしていませんが、義詮の存在はちょっとした問題を引き起こします。

 

 

その問題とは簡単言うと鎌倉幕府を滅ぼした手柄争いです。鎌倉に攻め込んで実際に戦ったのは新田義貞ですが、足利尊氏は「息子の義詮が現地にいたでしょ?実は、鎌倉を滅ぼした時の総大将は義詮だから。新田義貞はただ、義詮に仕えていただけじゃねーかww」と新田義貞の手柄を否定。

 

 

詳細は不明ですが、手柄争いに敗北した新田義貞は後醍醐天皇を頼って京へ向かい、共闘していたはずの新田義貞と足利尊氏の関係は早くも崩壊してしまいました。

 

このような経過(鎌倉攻めの際の総大将だった)もあり足利義詮は、足利氏の関東支配の象徴として関東に残ることになります。

激動の時代 〜南北朝の分裂、観応の擾乱〜

元弘の乱で鎌倉幕府が滅んだ後、時代は目まぐるしく激動します。

 

1333年、元弘の乱で勝者となった後醍醐天皇は建武の新政を開始。

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1336年、建武の新政に不満を持った足利尊氏・直義兄弟は、後醍醐天皇を京から追放。

室町幕府を創設し、一方の後醍醐天皇は吉野に逃げて南朝を創設。

 

この時起こった湊川の戦いなんかは、とても有名な戦いです。

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幼き足利義詮は、関東支配の象徴として引き続き関東に滞在します。

 

 

その後、北朝を担いだ室町幕府と南朝との戦いが続きます。南朝は、北畠親房(きたばたけちかふさ)と言う秀才の主導により室町幕府と抗戦を続けますが、ジワジワと劣勢に立たされます。

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ところが1349年、次は幕府内で足利直義と高師直が対立。この内部闘争は激化し、観応の擾乱へと発展し、全国を巻き込んだ大内乱となります。

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この緊急事態に関東にいた足利義詮は京に呼び戻されることに。関東統治のトップには義詮に代わって尊氏の四男だった足利基氏が置かれます。これが後にトラブルメーカーになる鎌倉公方(かまくらくぼう)の始まりとなります。

 

 

義詮は足利尊氏の遠征中の京の護衛を任されていましたが、京を守りきることができず、何度か南朝に京を奪われています・・・。それどころか、北朝の天皇たちを京に置いたまま逃げ出してしまい、北朝の天皇らが南朝に拘束されるという大失態までやらかしています。

父、尊氏の死

1352年、足利尊氏と対立していた足利直義が亡くなることで観応の擾乱は終結。(ただし、直義の残党が南朝と組んで尊氏との抗戦は続けていた。)

 

 

1358年、父の尊氏が亡くなると足利義詮は遂に2代目の室町幕府将軍になります。しかし、その治世は最初から前途多難でした。

 

 

というのも、これまで尊氏の力やカリスマ性でまとめられていた武将たちが、尊氏の死をきっかけに一挙に暴れ始めるからです。

 

1360年、仁木義長(にき よしなが)が細川清氏と対立。翌年には仁木義長が幕府から離反し、南朝に寝返る。
1361年、次はその細川清氏が佐々木道誉の謀略により幕府から追放され、同じく南朝へ寝返ります。
同じ1361年、関東地方では畠山国基が離反。
さらに同じ1361年12月、義詮は南朝に攻め込まれ今日から追放。散々な目にあっています。

 

足利義詮は

尊氏の死で統率を失った部下同士が権力争い→負けた側が南朝に加担する→南朝の勢力が増す

という悪循環を食い止める必要性を深く痛感したはずです。

足利義詮の政治

義詮は、将軍の権力を高めるため裁判制度を見直しました。ここで細かい話はしませんが、これまでの裁判制度は引付衆→評定衆(ここに将軍が入る)という三ステップを経て判決が下されていましたが、これとは別に全てを将軍で決める特別な訴訟機関を設けました

 

 

賛否両論ありますが、2つの会議をすっ飛ばして将軍独裁で判決を下すことで、将軍権力の強化を図りました。

 

 

また、将軍の仕事を補佐する管領(かんれい)と呼ばれる役職が登場したのもこの頃だと言われています。

管領については以下の記事で解説しているので、合わせて読んでみてください!

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1363年、中国地方で南朝軍として勢力を誇っていた大内義弘・山名時氏との和平が成立し、両者を幕府側へ寝返らせることに成功します。「幕府に寝返ってくれたら中国地方の守護職を与える」という交渉カードで両者を説得しました。(この後、大内・山名の両氏は中国地方で強い勢力を持つようになる。)

 

 

こうして経過を追うと、最初は混沌としていた世の中が少しずつ平和になっているのがわかると思います。

 

 

将軍権力の強化と南朝側への懐柔工作により、少なくとも、

部下同士が争う→負けた側が南朝に加担する→南朝の勢力が増す

という悪循環が減ったことは間違いありません。そして、この悪循環が減ることで南朝の勢力は少しずつ衰えていきます。

 

 

こうした義詮の政策によって、世は平穏を取り戻しつつあり、南朝と北朝の争いも終焉を迎えようとしていました。南朝と北朝の争いを実質的に終わらせた点は足利義詮の最も評価されるべき功績だと思います。

 

 

しかし、南朝は幕府にとっては非常にやっかいな存在で、いくら南朝が衰退しても、幕府からの離反者が南朝に加担する可能性がある限り、南朝の脅威は消えません。

 

というわけで、次の目標は南朝と北朝の統一となるわけですが、足利義詮は1368年、統一を実現することなく亡くなってしまいます。38歳という若さでした。

 

 

南朝と北朝の統一は1392年、義詮の息子で三代目将軍の義満によって成し遂げられることになりますが、その土台を作ったのは足利義詮だったのです。

足利義詮まとめ

以上、足利義詮について紹介してみました。ド派手は功績はないですが、観応の擾乱以降、カオスと化していた世の中を少しずつ秩序化していった点は義詮の最たる功績でしょう。

 

 

そして、南北朝統一だけではなく足利義満の数々の実績の背景には父である義詮の努力の結晶があったことも忘れてはいけないように思います。

 

 

その存在も地味ながら、実は義詮の後世の評価もあまり良くありません。太平記では、優柔不断ですぐ人に口車に乗る酒に溺れたバカ(超訳)とボロクソに書かれています。

 

 

太平記はどちらかというと南朝寄りの内容だと言われています。戦乱の際に、義詮の大失態のおかげで北朝の天皇を拘束できた南朝側にとって、義詮は嘲笑の対象に映ったのだろうと思います。確かにこれは大失態だし、父の尊氏のようなカリスマ性溢れる人物ではなかったのかもしれません。

 

 

確かに地味な存在ですが、室町時代の全盛期を築く義満について知りたいのなら義詮が何をしたのか、知っておくべきだと思い記事としてまとめてみました。

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