大塔宮護良親王とは?その性格や生涯、鎌倉での最期をわかりやすく紹介してみる

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今回は、鎌倉幕府滅亡の際に大活躍し、悲劇の死を遂げた護良親王(もりよししんのう)について紹介します。

 

 

護良親王は後醍醐天皇の息子であり、元弘の乱ではエース級の大活躍をし、鎌倉幕府滅亡の大きな原動力になった男です。護良親王無くして、鎌倉幕府滅亡はまずありえないと言っても過言ではありません。

 

 

しかし、そんな活躍にも関わらず護良親王は父の後醍醐天皇から疎まれ、悲劇的な死を遂げることになります。源平合戦当時、神がかり的な活躍で戦いを勝利に導いた後、兄に疎まれ命を落としたあの源義経のように・・・。

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というわけで、今回は護良親王の悲劇的な一生について紹介してみます。

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護良親王と後醍醐天皇

護良親王は1308年、後醍醐天皇の息子として生まれました。

 

 

そして父の後醍醐天皇は、邦良親王が成長するまでのつなぎ役として1318年に天皇即位します。

 

ところが、後醍醐天皇はつなぎ役というオマケみたいな扱いに強く反発しました。

 

 

後醍醐天皇「俺はオマケなんかじゃない!俺こそが天皇家の嫡流なんだ!立派な政治をして皆を見返し、さらには鎌倉幕府もぶっ倒して、俺が正統であることを証明してやる!!」

 

要するに皇位継承について色々と問題ごとがあったわけです。当時のイザコザについては以下の記事も参考にしてみてください。

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そんな後醍醐天皇ですが、天皇即位するとさっそく倒幕運動を計画し始めます。1324年にその計画がバレて、一度挫折をしますがよほど鎌倉幕府にムカついていたのか、それでも「打倒!鎌倉幕府」の志を曲げません。

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懲りずに再び倒幕計画を企てるのですが、その時に後醍醐天皇が協力を求めたのが南都北嶺の寺院勢力。

 

 

そして、後醍醐天皇が南都北嶺のうちの北嶺、つまり比叡山に近づこうとした時に登場するのが、この記事の主役である護良親王だったのです。

 

 

護良親王と比叡山には一体どんな関係があったのでしょうか?

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護良親王、出家したってよ

実は護良親王、6歳の頃に出家して11歳になると比叡山で暮らしていたんです。護良親王が幼い頃から出家したのには、大きく2つの理由がありました。

 

 

1 なぎ役確定だった後醍醐天皇の息子に皇族としての栄達(えいたつ。出世すること)は望めず、不用意な争いに巻き込まれるぐらいなら、出家してひっそりと暮らした方が子供も幸せだろう・・・という配慮。逆に言えば、「お前は栄達の見込みなし!」という宣言とも言える。

 

2 出家してお寺で面倒を見てもらうことで出費を減らす。

 

 

2番についてもう少し補足しておくと、当時の皇族や貴族たちは鎌倉幕府が各地に地頭を設置したことで平安時代ほど贅沢な暮らしはできなくなっていました。だから、皇位の望めない皇子だったら出家させて、養育費用や皇族ならではの諸々の儀式費用などを浮かせたり、お寺から経済的支援を受けようと考えたのです。

 

平安時代に頻繁に行われていた臣籍降下(しんせきこうか)と似ています。

 

 

ちなみに、皇族が出家するお寺はだいたい決まっていて、皇族が決まって出家するお寺を門跡寺院(もんぜきじいん)と呼びました。お寺にとっても皇族との密接な結びつきができると嬉しいので比較的win-winな関係だったんです。

 

 

以上の理由を踏まえれば、自ら正統と主張する後醍醐天皇が護良親王を出家させるわけがないので、護良親王の出家はおそらく祖父の後宇多天皇の意向だったのだろうと思います。

 

 

しかし、息子(護良親王)を出家させられても後醍醐天皇はタダでは起きません。

 

 

1327年、後醍醐天皇は裏で根回しを行い、20歳になろうとしていた護良親王を天台座主(てんだいざす。天台宗のトップ)としたのです。後醍醐天皇は、護良親王を通じて比叡山の僧兵らの戦力に味方に引き入れようとしたのです。

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護良親王の性格・人柄について考えてみる

太平記によれば、護良親王は非常に聡明な子供であり、後醍醐天皇の1番のお気に入りでもありました。

 

 

しかし、護良親王自身が何よりも関心を示したのは、学問や仏教よりも武術でした。天台座主という天台宗のトップにありながら、日々鍛錬を怠らず、剣や武芸の腕は超一流。

 

 

これほどまでに武芸に励んだのは、もちろん護良親王自身が武芸を好んだのもありますが、鎌倉幕府を倒すためだったとも言われています。

 

 

しかも、武芸大好き!と言っても脳筋バカ的な感じではありません。元々頭の良かった護良親王は智謀にも長けています。皇族でありながら武勇と知略を兼ね備えた護良親王は、血筋良し、頭良し、戦闘良しのパーフェクト人間でした。

 

 

ただ、その性格にはちょっと問題がありました。護良親王は、戦闘大好き人間にありがちな粗野で乱暴な一面が見られ、これが後に護良親王が後醍醐天皇に嫌われる大きな一因となってしまいます。

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護良親王、元弘の乱を勝利に導く

1331年、またもや後醍醐天皇の倒幕計画が幕府にバレてしまいます。元弘の乱の始まりです。

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後醍醐天皇は、護良親王の勧めによって笠置山に避難して幕府と戦いますが敗北。後醍醐天皇は隠岐に流されてしまいます。

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そしてこの時、後醍醐天皇に代わって倒幕運動を続けたのが護良親王でした。護良親王は吉野(今の奈良県十津川村のあたり)に潜み、ゲリラ戦で敵を苦しめながら、各地に令旨(りょうじ。皇太子などからの命令のこと)を送り、幕府に不満を持つ者の挙兵を後押ししていました。

 

 

後醍醐天皇が隠岐に流されても、その息子が天皇の意思を継ぎ抵抗をし続ける限り、倒幕運動は終わらないのです。この辺りに「護良親王がいなければ、元弘の乱は勝利できなかった」と言われる所以があります。

 

 

護良親王はゲリラ戦では千早城を攻める幕府軍を苦しめ、令旨を出しては赤松則村(あかまつのりむら)や新田義貞(にったよしさだ)などを味方に引き寄せ、鎌倉幕府滅亡の決定的なチャンスを作りました。

 

当時、名を馳せた名武将と言えば楠木正成・足利尊氏・新田義貞あたりが有名ですが、実は裏では護良親王が色々と暗躍していたのです。

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護良親王の栄光と凋落

1333年5月、護良親王を始めとする後醍醐天皇軍の活躍により鎌倉幕府は滅亡。時代は後醍醐天皇の親政時代へと進んでいきます。

 

 

そして、元弘の乱での活躍をピークに、この頃から護良親王の周囲には不穏な空気が漂い始めます。

 

 

戦いが終わると、護良親王と後醍醐天皇が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)という官位を巡って親子ゲンカを始めます。

 

 

征夷大将軍は戦いなどで大きな貢献をした者に与えられる名誉職。名誉職なので形骸化しつつも征夷大将軍は本来は朝廷軍の総大将のことであり、征夷大将軍になるということは、天皇から軍隊としての最大級のお墨付きが貰えたのと同じ意味になるのです。

 

 

なぜ護良親王がそんな征夷大将軍の官位を欲したかというと、それは同じく元弘の乱の功労者だった足利尊氏に対抗するためだと言われています。

 

 

足利尊氏は、鎮守府将軍という征夷大将軍より低い官位しか持っていなかったものの、後醍醐天皇の親政である建武の新政に不満を持つ御家人たちの求心力になっており、第二の鎌倉幕府を立ち上げかねない人物でした。(実際に1336年に足利尊氏は室町幕府を開くことになる)

 

 

後醍醐天皇の目指したのは天皇親政。公家も武士も全て天皇の下に掌握されるべきであり、武士のための独自政権である幕府は否定すべき存在でした。だから、護良親王は征夷大将軍の名の下に兵を集め、新たに幕府を立ち上げるかもしれない足利尊氏に対抗しようとしたのです。

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ところが、後醍醐天皇はこれを拒みます。「えっ?護良親王が征夷大将軍になった方が良いんじゃないの?」と思うかもしれませんが、天皇親政を目指す後醍醐天皇は、幕府うんぬん以前に自分以外の特定の人物が強力な軍事力を持つことをそもそも否定しました。

 

 

なので、足利尊氏が幕府を開くのは当然ダメだし、護良親王個人が大きな軍事力を持つことすら許さなかったのです。そして、後醍醐天皇が護良親王に望んだことは、護良親王が吉野での戦いで手に入れた兵士たちを後醍醐天皇に渡すことでした。

 

 

後醍醐天皇は護良親王に「戦いも終わったしさ、護良親王はまた比叡山に戻ってまた僧として生きればいいよ^^」と僧として生きることまで勧めますが、護良親王はこの父の態度に不快感を示します。

 

 

護良親王は、吉野に兵を集めて足利尊氏討伐を名目に京に攻め込む準備まで始めます。これには流石の後醍醐天皇も耐えかねず、護良親王にしぶしぶ征夷大将軍の官位を与えたのでした。

 

 

この征夷大将軍を巡る争いで父子の対立は決定的なものとなります。1333年9月頃になると護良親王の征夷大将軍の官位は白紙となり、一方の護良親王の方でも、後醍醐天皇の意向を無視して自分の名で味方の兵たちに恩賞を与えるようになっていました。もう完全に喧嘩状態です。

 

 

天皇以外の特定の個人が大きな軍事力を持つことを否定し、足利尊氏も護良親王も否定した後醍醐天皇
幕府を創設しうる危険人物だった足利尊氏を討伐するため、自ら軍事力を掌握して天皇親政の維持に努めようとした護良親王
護良親王には露骨に命を狙われ、後醍醐天皇にも疎まれるようになり身の危険を感じつつあった足利尊氏

 

とっても複雑な3人の関係は1333年から一年ほど続き、1334年に事件は起こりました。

 

 

1334年になると、護良親王は足利尊氏を討つため再び不穏な動きを見せるようになります。

 

 

太平記によれば、護良親王の荒くれ者の部下たちが夜の京にて辻斬り(試し切りで人を殺めること)までしていたと言われています。辻斬りの話は作り話っぽいですが、仮に作り話だったとしても護良親王の性格みたいなものが見え隠れします。

 

 

そこで足利尊氏は先手を打ちました。後醍醐天皇・・・ではなく後醍醐天皇が寵愛していた女房の阿野廉子(あのれんし)という女性を通じて、後醍醐天皇にこう言いました。

 

 

足利尊氏「護良親王が、各地で兵を集めています。これは皇位簒奪のクーデターを企てているからに決まっています!!」

 

 

足利尊氏が利用した阿野廉子という女性は美貌の持ち主で、後醍醐天皇は阿野廉子にゾッコンだったと言われています。阿野廉子の発言で政治が動くこともあり、当時の政界には阿野廉子を悪女として批判する人たちもいたほど。

 

 

ゾッコン中の阿野廉子から「護良親王が謀反を企んでるかもしれない!」という話を聞いた後醍醐天皇は当たり前のようにこれを信じます。

 

護良親王との関係は既に破綻していたし、元弘の乱の頃から護良親王が自分の名前で色々と命令(令旨)を出していたことが謀反の疑いに拍車をかけたのでした。

 

 

それにしても足利尊氏はなかなか狡猾な男です。後醍醐天皇との関係がイマイチなのを利用して女を利用するとは!!

 

実は阿野廉子にとっても護良親王は邪魔な人間でした。なぜなら阿野廉子は自分の息子を次期天皇にしたかったからです。力を持つ護良親王は後醍醐天皇に嫌われているとは言え、阿野廉子の息子の対抗勢力になりうる危険な存在でした。もしかすると、この話も阿野廉子から持ちかけた話かもしれません。

 

 

とにかく、この陰謀めいた天皇への讒言で護良親王は捕らえられ、鎌倉にて幽閉されることになります。なぜ鎌倉に連れてかれたかは不明ですが、今の鎌倉市二階堂の土牢に閉じ込められていたと言われています。1334年10月の出来事でした。

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護良親王の最期

さらに翌年の1335年7月、鎌倉幕府復興のため北条時行が関東で挙兵しました。中先代の乱の勃発です。

 

 

当時、関東一帯の管理を任されていたのは足利尊氏の弟だった足利直義(あしかがただよし)

 

 

足利直義は、北条時行が鎌倉めがけて攻め込んでくることを知るやすぐさま幽閉されていた護良親王の命を奪います。万一、鎌倉を北条時行に奪われた際、後醍醐天皇と足利尊氏を憎む護良親王が北条時行に利用されることを恐れたためです。

 

 

その護良親王の最期のシーンを少しだけ紹介してお話を終わりにしたいと思います。

 

 

足利直義は、部下の淵辺義博(ふちべよしひろ)を護良親王の閉じ込められている土牢に向かわせ、その首を持ってくることを命じます。

 

 

護良親王は武芸の達人。生半可な力では簡単にその首を頂戴することはできません。

 

 

護良親王「お前は俺の首を取りに来たのだろう」

 

護良親王がこう言うと、案の定、護良親王は土牢に入り込んできた淵辺義博に襲い掛かりました。

 

 

ところが、9ヶ月もの間、狭い暗闇に閉じ込められていた護良親王は足腰を弱めており、倒れ込んでしまいます。そして、護良親王が起き上がろうとしたところを淵辺義博が護良親王の胸の上に乗り、首を狙って刀を振り落とします。

 

 

すると、なんということでしょう!護良親王は咄嗟に敵の刃を口で受け止め、その刀をへし折ってしまいました。(超人かよ)

 

 

淵辺義博は、刀が折れるやすぐさまもう一本の刀(脇差)を抜き、その刀で胸を刺し、弱ったところで首を奪いました。

 

 

土牢は光の届かぬ暗闇。淵辺義博が首を持って外に出ると、その首がもう鬼のような形相でした。目はくっきりと見開かれ、口で折った刀を死してなお咥えているのです。

 

 

この時、淵辺義博は、昔々の中国で刀を加えた打首が動き出し、口にくわえた刀で王を討ち取った逸話を思い出します。

 

 

「この首は不吉だ。ここで捨ててしまおう・・・」

 

 

こうして首は捨てられ、監禁されていた護良親王の世話役だった女性がその首を広い供養したのでした。

 

 

この土牢があったとされる場所は、今では護良親王を崇める鎌倉宮(かまくらぐう)と言う神社になっています。

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護良親王伝説

護良親王の首は捨てられてしまったため、実際にその首を見た人が少ないことから、護良親王には「実は生きていて別な場所で亡くなったんだ!!」って伝説が各地で多く残っています。

 

*公式には、同じく鎌倉にある理智光寺跡に護良親王のお墓があるとされています。

 

 

こうして、護良親王は父のために輝かしい活躍をしたにも関わらず監禁され、命を落とした悲劇のヒーローとして現代まで名を残し続けています。

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この記事を書いた人
もぐたろう

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