今回は、高校の「政治・経済」の授業で学ぶ政教分離にまつわる重要な2つの訴訟、「津地鎮祭訴訟」と「愛媛玉串料訴訟」についてわかりやすく丁寧に解説していきます。
政教分離とは
日本は戦前、神道を重要視するあまり他の宗教を抑圧してきた過去があります。その反省を踏まえ、日本国憲法では、国(政府)が特定の宗教を重んじることを禁止しています。
このように国と宗教を分離して、国に中立の姿勢を求めることを政教分離と言います。
政教分離のルールは、具体的に次のように憲法で書かれています。
2つ合わせて簡単に言うと「国は宗教的活動をしたり、特定の宗教団体に対して公金をあげたらダメだよ」ってことを憲法では言っています。
憲法ではこのように政教分離のルールをしっかり定めていますが、実はこのルールだけでは不十分です。
というのも、私たちの日常生活には、宗教的活動なのかどうか曖昧な出来事が多くあるからです。
例えば、神社に初詣に行く・仏教の作法で葬儀をあげる・・・などの行為は宗教的活動なの?とか、数えればキリがありません。
なので、日常生活でどこまでの行為が宗教的活動なのか?をしっかりと線引きする必要があります。
そのきっかけになったのが今回紹介する2つの訴訟「津地鎮祭訴訟」と「愛媛玉串料訴訟」なのです。
津地鎮祭訴訟
この訴訟のきっかけは、1965年に三重県津市が、市体育館の起工式に神社神道の儀式にのっとった地鎮祭を実施したことでした。
津市は、地鎮祭をしてくれた神主さんに公金から謝礼を支払いました。
この行為に、とある市議会の議員が声をあげます。
地鎮祭は神道の行事だから宗教的活動だよね。その宗教的活動に対して公金を支払うって憲法第20条や第89条に違反してない?
こうして起こった訴訟が津地鎮祭訴訟です。
最高裁判所が下した判決は、津市の行為は「合憲」であるというものでした。つまり、地鎮祭で神主に謝礼を払っても、政教分離は守られている・・・というのです。
最高裁判所は、政教分離だからと言って、国が宗教と完全に分離されるわけではないと言います。
そこで、問題になるのが、どこまでの関わり合いならOKなのかという点です。
判例では、その関わり合いが援助、助長、促進等になるような行為なら違反にあたるとしました。
この判断基準は、行為そのものよりもその行為の目的や効果が政教分離の判断基準になっていることから、目的効果判断といいます。
津市が地鎮祭に参加することは確かに宗教的活動かもしれません。しかし、地鎮祭は土地の平安と工事の安全を願う一般的な習慣であって、地鎮祭によって国が神道を援助、助長、促進をするものではない。
だから、津市が政教分離に違反しているとは言えない・・・っていうのが最高裁判所の判決結果でした。
津地鎮祭訴訟によって、政教分離の解釈が以下のようにはっきりと示されました。その意味で、津地鎮祭訴訟は教科書に載るほどの大事な訴訟なのです。
特定の宗教を援助、助長、促進する行為は宗教的活動に当たる。
ただし、宗教的イベントなどであっても、それが習慣化して特定の宗教を援助、助長、促進しない場合は、国が宗教と関わっていても、それだけで政教分離のルールを破っているとは言えない。
愛媛玉串料訴訟
もう1つ、政教分離にまつわる大事な訴訟が愛媛玉串料訴訟です。
この訴訟のきっかけは、愛媛県知事が1981年から1986年にかけて、靖国神社や愛媛県護国神社が挙行する大祭の玉串料などに対して、公金を支出したことでした。
これに住民達が反対して訴訟を起こしました。こうして起こった訴訟が愛媛玉串料訴訟です。
判決は、津地鎮祭訴訟の時に最高裁判所が示した考え方に沿って行われました。
つまり、愛媛玉串料訴訟の争点は「靖国神社・護国神社に玉串料などを奉納することは、特定の宗教を援助、助長、促進する行為なのかどうか?」という点です。
最高裁判所が下した判決は、愛媛県の行為は「違憲」であるというものでした。
玉串料を奉納することは単なる習慣の限度を超えており、宗教的な意義を持つ特定の宗教を援助、助長、促進する行為である・・・というのが最高裁判所の判決です。
こうして愛媛県の行為は、宗教的活動を行なっているため憲法第20条第3項に違憲であり、公金を特定の宗教組織に支出したため憲法第89条に違憲であるということになりました。
津地鎮祭訴訟によって政教分離の解釈が示されましたが、愛媛玉串料訴訟の判決結果を受けて、次は「どこまでが習慣で、どこまでが習慣ではないのか?」の線引きが曖昧になってしまいました。
このような政教分離の解釈の曖昧さは、内閣総理大臣や閣僚達が靖国神社に参拝するのは憲法違反ではないか?とする靖国神社参拝問題とも間接的に結びついています。
日本の歴史は、神道・仏教と強固に結びついています。神道・仏教を抜きに日本の歴史を語るのは不可能と言ってもいいでしょう。
それゆえに政教分離の問題が、簡単に白黒はっきりできない問題であるのは当然と言えば当然なのかもしれません。
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