箱根・竹の下の戦いとは?簡単にわかりやすく紹介【新田義貞VS足利尊氏】

今回は、新田義貞と足利尊氏が戦った箱根・竹の下の戦いについて紹介します。

 

 

箱根竹の下の戦いは、後醍醐天皇と足利尊氏が決別した後の初めての戦い。1335年12月に起こりました。

 

 

足利尊氏と新田義貞、元弘の乱では共に鎌倉幕府を裏切り共闘した関係だったはずなのに、なぜ両者は戦うことになったのでしょう。

 

そんな視点を中心に箱根竹の下の戦いについて紹介してみたいと思います。

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足利尊氏と新田義貞

本題の箱根・竹之下の戦いに入る前に、当時の新田義貞と足利尊氏の関係について説明しておきます。

 

結論を先に言っておくとこの2人、凄まじいほどに犬猿の仲でした。

 

 

新田家と足利家はどちらも源氏の血を引いています。「同じ源氏同士ならなぜ犬猿の仲なんだ?」と思うかもしれませんが、むしろ同じ源氏同士だからこそ犬猿の仲になってしまったのです。

 

 

北条氏が支配する鎌倉幕府が滅びると、新田義貞も足利尊氏も北条氏に代わって武家の世界の頂点に立ちたいと考えるようになりました。これは昔に鎌倉幕府を新しく創設した源頼朝を意識しての野望であり、源氏としての意地でもあります。しかし、源氏として武家の頂点に立てるのは1人だけ。

 

 

つまり、武家の頂点を狙うもの同士、新田義貞と足利尊氏はライバルの関係だったのです。源平合戦当時の源頼朝と源(木曽)義仲との関係が近いかもしれません。

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箱根・竹之下の戦いの前哨戦

足利尊氏と新田義貞は、1335年12月箱根と竹之下で戦うことになるのですが、実は水面下では政治戦が繰り広げられていました。

 

 

1335年10月、中先代の乱の後、後醍醐天皇の命令を無視して鎌倉に居座っていた足利尊氏は書面で後醍醐天皇にこう訴えました。

 

 

足利尊氏「私が京に戻らないのは、新田義貞が公家と組んで私を貶めようとしているからだ。このような君側の奸(くんそくのかん。君主のそばで君主を思うがままに操る悪い臣下)は討伐すべきです。」

 

 

これを聞いた新田義貞は当然反論します。

 

新田義貞「いやいやw鎌倉で好き勝手やってるお前の方がダメダメだろ。そもそも、お前、帝の息子だった護良親王をこっそり消してるよな?」

 

*これ以前の経過については、以下の中先代の乱の記事を参考にしてみてください。

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護良親王の世話人だった人(女性)「その通りですわ。私、目の前で護良親王が命を奪われるところを見ましたの!」

 

 

後醍醐天皇「息子を奪ったのは貴様か・・・、悪いのは足利尊氏な」

 

※護良親王の話は闇が深くて、後醍醐天皇の命令で消されたという説もあります。護良親王についてのお話は、以下の記事も参考にしてみてください!

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こうして足利尊氏は朝敵となり、尊氏に強い対抗心を燃やす新田義貞が尊氏討伐の総大将に選ばれました。

【悲報】足利尊氏、駄々をこねて引きこもる

こうして新田義貞が京から攻めてきますが、一方の足利尊氏は後醍醐天皇から朝敵認定されてことで精神的に病んでしまいます。

 

後醍醐天皇に朝敵扱いとされてしまったことに対する絶望
弟の直義が自分の知らぬ間に護良親王を殺めたことへの後悔
そして慕う後醍醐天皇に対して刃を向けることへのためらい

 

 

これらのことで頭がいっぱいになり、突如こんなことを言い始めます。

 

 

足利尊氏「俺はもうダメだ。出家して寺に引きこもるからあとは直義に任せるわ・・・」

 

 

こうして足利尊氏が戦線から離脱。新田義貞との戦いは尊氏の弟の直義に託されることになります。

 

 

しかし、足利直義は三河の方まで進軍しますが、敗戦に敗戦を重ね、箱根付近まで新田義貞の侵入を許してしまいます。直義は、中先代の乱でも敗北しており、どうも戦は苦手だったようです。

 

 

一方の新田義貞は絶好調です。官軍としての権威はやはり大きく、行軍の途中でも次々と新田義貞に味方するものが現れ、その兵力は10万にもなったと太平記は言います。太平記の戦力表記はあてにならないですが、大軍だったことは間違い無いでしょう。

【朗報】足利尊氏、戦線復帰

箱根・竹之下ラインを越えられると鎌倉はもう目の前です。太平記によれば、足利直義は勝利には兄が必要不可欠だ!と悟り、鎌倉に戻って兄の説得を始めます。

 

 

ここで、足利直義はハッタリをかましました。

 

足利直義「兄さん。帝からこんな手紙がきたよ。『隠居しようがしまいが、足利尊氏は朝敵であることに変わりはない。よって容赦無く潰す^^』(嘘)。こうなったら戦うしかないね兄さん!」

 

足利尊氏「むむ・・・足利一族の危機とあらばやむを得まい。こうなったら戦うしかないな・・・」

 

 

一方「梅松論」という資料では、弟の直義が亡くなったという誤報を受けて、重い腰をあげたとも言われています。どっちが真実かはわかりませんが、こっちの方が真実味もあるような気がします。

箱根・竹之下の戦い、尊氏の勝利

足利尊氏が参戦すると、足利軍の士気は一気に上昇します。

 

 

足利尊氏自身も武勇には長けていたようですが、足利尊氏の最大武器は武勇よりも何よりも「人望」でした。

 

 

足利尊氏は、とにかく懐の深い人物だったと言われています。裏切り者も比較的簡単に許すし、散財癖があってなんでもかんでも全部ひとに与えてしまうような人間でした。

 

 

悪く言えば人や物に関心がないとも言えるんですが、それでも、裏切っても許してくれて、褒美もたくさんくれる足利尊氏の下には多くの武士たちが集まったのです。

 

 

 

足利尊氏って戦場にいるだけで士気は上がるし兵も増えるし、その存在自体が最大の武器だったりします。

 

 

 

足利尊氏と新田義貞は、箱根山の挟んで東西に構えます。そして新田義貞は、箱根山の南の箱根と北の竹之下から二方面作戦で進軍してきます。箱根方面が主力で新田義貞自ら、7万の兵を率いて進軍。一方の竹之下は7千の兵で軍を進ます。

 

 

一方の足利側は、箱根方面には足利直義、竹之下には足利尊氏がそれぞれ向かいます。まとめるとこんな感じ

 

新田軍足利軍
箱根新田義貞

(7万)

足利直義

(6万)

竹之下脇屋義助(新田義貞の弟)

(7千)

足利尊氏

(18万)

兵力は参考程度に。箱根方面は五分五分。竹之下は尊氏有利な情勢でした。

 

 

地図で表示するとこんな感じ。上の赤い点が竹之下。下の点が箱根です。


1335年12月11日、遂に戦いが始まります。

 

 

まず、箱根方面の戦いですが、またもや足利直義は敗北してしまいます。やはり直義は戦が苦手のようです。

 

 

優勢に立つ新田義貞軍は士気を上げ、箱根から敵の防衛網を突破しようとしますが、竹之下方面での戦いは、足利尊氏の圧倒的有利に展開が進んでいきます。

 

 

足利尊氏と対峙した脇屋義助軍は、ただでさえ兵力的に不利なのに裏切り者まで続出し、コテンパンにやられてしまったのです。

 

 

足利尊氏が出陣する前は、逆に足利軍から新田軍に寝返る者が多かったことを考えると、全く逆の展開です。

 

 

なぜこれほどまでに状況が変わってしまったかというと、それはやはり足利尊氏の存在でしょう。先ほどお話しましたが、足利尊氏はもはやそこに居るだけで圧倒的な力を持っていたのです。

 

 

こうして竹之下方面での尊氏の勝利が決定すると、尊氏はそのまま南下し箱根へ向かいます。劣勢に立っている直義軍を援護するためです。

 

 

新田義貞「箱根の直義は弱い。箱根から突破ができるぞ!!」

 

 

こう思った矢先、「竹之下方面が足利尊氏に破られた!」という話が新田義貞軍の下に届くと、それにビビった兵たちは雲散霧消(うんさんむしょう。霧のように消え去ってしまうこと)。

 

 

形勢は逆転し、新田義貞は退却を余儀なくされます。

箱根・竹之下の戦いと部下の裏切り

ここまでザッと箱根・竹之下の戦いの状況を説明しましたが、少し補足をしておきます。

 

この時代、味方の裏切りというのがとてつもなく多いです。箱根・竹之下の戦いでも、前半戦では官軍の権威にビビった足利軍が新田義貞に寝返り、後半戦は足利尊氏の人望や尊氏の勝利を見て、一気に新田軍が足利側へ寝返ります。

 

 

当時、多く人々が戦いの目的としていたのは「勝ち馬に乗って褒美を貰うこと」。(もちろん、主君のために命を捧げる人たちもいましたよ)

 

 

裏切りはある種の処世術の1つであり、当時の人々には「裏切りは悪だ!」みたいな感情はさほどなかったんじゃないかと思います。というか、戦乱の世を生き残るのに必死でそんなこと考えている余裕なんてなかったはず。

 

 

そして、裏切りが日常茶飯事だった時代だからこそ、足利尊氏の人望の強さは類を見ないほどに強力な武器となり得たのでした。

箱根・竹之下の戦いと槍の登場

箱根・竹之下の戦いは、槍が本格的に戦術として用いられた戦いでもありました。新田義貞軍の中に、菊池武重(きくちたけしげ)と言う人物がいました。

 

この菊池武重が「槍の歩兵集団を編成し一斉に敵を槍で刺す」という今までの日本には見られなかった新しい戦術を編み出したのです。

【菊池武重】

 

「いやいやw集団で敵を槍で刺すって別に普通のことじゃね?」って思う人もいるかもしれませんが、日本ではそうではないのです。鎌倉時代以前の日本では、槍云々以前にそもそも集団で戦術を取ること自体稀でした。

 

 

一度戦いが始まれば各々が各個撃破で敵を討ち取ろうとします。「敵を首を持って来た者に恩賞をやる!」という制度上、みんな恩賞に目が眩んで「我こそ先に!」と単独プレーが多かった。だから、槍自体は昔から存在するものの、槍は個人プレーではあまり威力を発揮しないため、利用されることは少なかったのです

 

 

それがこの時代になると、集団歩兵が登場します。なぜこの時代に集団歩兵が登場したのかというと、ザックリ言えば身分が低かったり貧しい多くの人々が戦いに参戦するようになったからです。この辺の話は鎌倉時代末期の悪党の登場とも関わりがあります。

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その証拠に菊池武重が用いた槍はとても質素です。そもそも戦場に持参したわけではなく、そこらへんに生えている竹に脇差(わきざし。脇に差す短刀)をくっ付けただけのシンプルなもの。弓や剣を潤沢に持つ者にはまず生まれない発想でしょう。

 

 

 

菊池武重は1000の兵たちに槍を持たせ、敵を間合いに引き込み、一斉に敵を槍で突き刺すことで敵に大打撃を与えました。箱根・竹之下の戦い自体は新田義貞の敗北に終わったものの、これは日本初の槍を用いた集団戦術とも言われ、この時の戦法は「菊池千本槍」という名で現代まで語り継がれています。

箱根・竹之下の戦いの後

箱根・竹之下の戦いで敗北した新田義貞は敗走。京を目指します。

 

 

一方の足利尊氏も新田義貞を追撃するため京へ向かいます。

 

 

足利尊氏は遂に京を占領し、新田義貞は後醍醐天皇と共に比叡山へと逃げ込みます。しかし、後醍醐天皇側には楠木正成と北畠顕家という最強チート野郎が2人もいます。

 

 

足利尊氏は楠木正成・北畠顕家・新田義貞の反撃に耐えることができず敗走。その後も敗北に敗北を重ね、なんと九州まで敗走を続けました。

 

 

こうして箱根・竹之下の戦いの後、戦場は一気に九州へと移り、九州でも足利軍と後醍醐軍は激しい戦いを繰り広げることになります。両者互角の戦いで経過を追うだけでも激アツですね!

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