中先代の乱とは?簡単にわかりやすく紹介!【なぜ北条時行は乱を起こしたのか】

今回は1335年7月に起こった中先代(なかせんだい)の乱について紹介します。

 

 

1333年5月、北条高時をボスとする鎌倉幕府が元弘の乱により滅亡すると、後醍醐天皇による新しい政治が始まります。いわゆる建武の新政ってやつです。

元弘の乱とは?簡単にわかりやすく徹底紹介するよ【後醍醐天皇が鎌倉幕府を滅亡させるまでの物語】
【元弘の乱で獅子奮迅の活躍をした楠木正成】 今回は、1331年〜1333年に起こった後醍醐天皇VS鎌倉幕府の戦い「元弘の乱(げんこうのらん)」について紹介します。 元弘の乱によって鎌倉幕府は滅亡することになりますが、元弘の乱はまさに1つの時代の最期に相応しい壮絶な戦いになっています。 平安時代の終焉を...

 

 

後醍醐天皇による建武の新政は、その内容があまりに急進的すぎて世の中は大混乱。地方では建武の新政に対する不満から、反乱を起こす者が多くいました。(その多くは北条一族の残党たち)

建武の新政とは?簡単にわかりやすく紹介!【建武の新政が失敗に終わった理由とは?】
今回は、1333年〜1336年にかけて行われた後醍醐天皇による建武の新政(けんむのしんせい)について紹介します。 1333年、元弘の乱によって後醍醐天皇の長年の悲願だった「鎌倉幕府ぶっ倒す!」が実現。後醍醐天皇は遂に理想の政治を行えるようになりました。しかし!!その政治(建武の新政)がそれはもうグダグダすぎて目も当てられない有り...

 

そして、反乱を起こした人物の一人が滅ぼされた北条高時の遺児、北条時行(ときゆき)。この北条時行が起こした反乱が中先代の乱となります。

 

 

中先代の乱は、北条時行による父の弔い合戦だったわけです。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

中先代の乱の前哨戦

中先代の乱は1335年7月に起こりましたが、実は乱が起こる前、京では乱の前兆とも言える事件が起こっていました。

 

 

1335年6月、西園寺公宗(さいおんじ きんむね)と言う公家が北条高時の弟である北条泰家と組んで、クーデターを起こそうと計画していることが発覚します。

 

 

北条泰家はわかるとして、なぜ公家である西園寺公宗が後醍醐天皇に対して謀反を起こそうとしたのでしょうか?

 

 

それは西園寺家が代々、朝廷と鎌倉幕府を結ぶ調整役になっていたからです。幕府と親しかった西園寺家は、建武の新政では疎まれるようになり、その待遇に不満を持っていたのです。

 

 

しかし、このクーデター計画は事前に計画がバレて失敗。そして、この事件に呼応するように翌月の7月、中先代の乱が起こります。

 

 

北条時行が潜んでいたのは信濃国。おそらく京と信濃国の二方面攻撃を目論んでいたのでしょう。

中先代の乱と足利直義の敗北

挙兵した北条時行は北陸の北条氏残党とも合流し、5万の兵力で信濃国から鎌倉めがけて進軍してきます。

 

 

連戦連勝で進軍する北条時行はあっという間に武蔵国に入り、鎌倉を目指しました。

 

 

当時、鎌倉を守っていたのは足利尊氏の弟の足利直義(あしかがただよし)

 

 

鎌倉に「北条時行挙兵!」の情報が伝わるのが遅れたこともあって、足利直義は後手後手に回ります。(多くの人が北条時行は京に攻め込んでくると思い込んでいて鎌倉に情報が伝わるのが遅れたらしい)

 

 

後手に回った足利直義は、北条時行に簡単に鎌倉への接近を許してしまい、7月22日、井出の沢(今の東京都町田市内)で北条時行軍と戦うも敗走。三河の方へと落ちのびます。

 

 

父の後醍醐天皇との関係が悪化していた護良親王(もりよししんのう)が鎌倉に幽閉されていましたが、北条時行が護良親王を担ぎ出すことを恐れた足利直義はこの時に護良親王の命を奪うことになります。(直義のこの行動が、直義自らの意思か?それとも後醍醐天皇の指示なのか?は意見が分かれるところ)

大塔宮護良親王とは?その性格や生涯、鎌倉での最期をわかりやすく紹介してみる
今回は、鎌倉幕府滅亡の際に大活躍し、悲劇の死を遂げた護良親王(もりよししんのう)について紹介します。 護良親王は後醍醐天皇の息子であり、元弘の乱ではエース級の大活躍をし、鎌倉幕府滅亡の大きな原動力になった男です。護良親王無くして、鎌倉幕府滅亡はまずありえないと言っても過言ではありません。 しかし、そんな活躍...

 

 

そして1335年7月25日、北条時行は遂に鎌倉を奪還し、鎌倉幕府の復興を目指します。

後醍醐天皇と足利尊氏の対立

当時、足利尊氏は京にいました。8月1日、弟の直義が敗北したを知ると、すぐに直義の加勢に向かおうとします。

 

 

しかし、官軍として北条時行と戦うには後醍醐天皇の許可が必要です。足利尊氏は、「征夷大将軍」と「惣追捕使(そうついぶし)」と言う役職を後醍醐天皇に望みました。

 

 

征夷大将軍は名前だけで中身のない名誉職ですが、権威性があります。「俺は征夷大将軍だよ^^」って言えば、それだけで「すげー!」ってなってみんな尊氏に協力してくれるわけです。

 

 

惣追捕使は、戦争を理由に各地の収穫物を徴収できる強力な権限を持つ役職です。鎌倉幕府を開いた源頼朝も、戦時中限定だった惣追捕使の権限を、平時にも適用することで各地に守護・地頭を配置した過去があります。

鎌倉幕府の守護・地頭を簡単にわかりやすく解説する!
今回は、鎌倉幕府に源頼朝によって配置された「守護」「地頭」という役職について紹介してみます。 教科書的に言えば、 地頭:各国の年貢徴収や土地管理の責任者。 守護:国の治安維持を行う軍事責任者 という感じでしょう。これだけだと無味乾燥で面白くありませんので、ここではもう少し掘り下げて守護地頭について解説してみ...

 

 

でも、後醍醐天皇はこれを全て拒否します。以下の建武の新政の記事でもお話ししてますが、後醍醐天皇は鎌倉幕府みたいに武家が独自に政権を創ることを全面的に否定しているのです。

建武の新政とは?簡単にわかりやすく紹介!【建武の新政が失敗に終わった理由とは?】
今回は、1333年〜1336年にかけて行われた後醍醐天皇による建武の新政(けんむのしんせい)について紹介します。 1333年、元弘の乱によって後醍醐天皇の長年の悲願だった「鎌倉幕府ぶっ倒す!」が実現。後醍醐天皇は遂に理想の政治を行えるようになりました。しかし!!その政治(建武の新政)がそれはもうグダグダすぎて目も当てられない有り...

 

 

足利尊氏は当時、建武の新政に不満を持つ多くの御家人の求心力になっており、その足利尊氏にこれ以上の権力や権威を与えることはとても危険な行為だったんです。

 

 

 

後醍醐天皇から拒否られた次の日の8月2日、弟を助けたい一心だった足利尊氏は、後醍醐天皇の制止を無視して、三河へと旅立ちます。

 

 

 

さて、京にいた足利尊氏は建武の新政に不満を持つ御家人らの求心力となっていました。そのため後醍醐天皇の意に反する行動だったとは言え、三河に向かう足利尊氏の下には多くの兵士たちが従っていました。

 

 

多くの者を引き連れたこの行動に後醍醐天皇を強い危機感を抱きます。

 

 

後醍醐天皇「俺の命令を無視して、しかも御家人たちを引き連れて鎌倉へ向かうとは、足利尊氏は自らの名で鎌倉幕府の再興を企んでいるのではないか?」

 

 

こんな後醍醐天皇の疑心暗鬼が、後に起こる足利尊氏と後醍醐天皇の間の軋轢(あつれき。仲が悪くなること)を生むことになります。

中先代の乱の経過

さて、ここから先の中先代の乱の経過は太平記に基づいて紹介してみます。

 

 

 

足利尊氏が加勢し大軍となって鎌倉へ向かっていることを知った北条時行は、積極戦法を提案します。

 

北条時行「足利軍は大軍である。ここで敵を待っていても敵の気迫に圧倒されるだけであろう。それならば、こっちから攻め込んでやろうではないか!!」

 

 

しかし、鎌倉を出発しようとした夜。鎌倉は強風に見舞われます。あまりにも強い風のため、兵たちが鎌倉の大仏殿に避難すると、強風によりその大仏殿自体も崩壊。大仏殿に避難した人々は、倒壊した建物に押しつぶされ一人残らず命を落としたと言われています。

 

 

ちなみに、今でこそ鎌倉の大仏は外に安置されてますが、当初はちゃんとした建物(鎌倉殿)に納められていました。それが、この中先代の乱も含めた度重なる大仏殿の倒壊により、大仏殿は消失し、大仏だけが今なお残っているのです。(豆知識)

 

 

この不吉な出来事に、北条時行は出発の日を改めることに。もう死亡フラグ立ちすぎでことの顛末が予想できてしまいますw

 

 

 

一方、8月7日になると今の静岡県掛川市にある小夜の中山付近まで北条時行軍が接近。ここで足利尊氏軍とのバトルが始まります。

 

 

足利尊氏「長路を経てきた敵は討つべし!という兵法がある。これはまさに今の北条時行の軍のことである。今こそ攻め時ぞ!」

 

 

こうして激戦が繰り広げられますが、次第に北条側では裏切る者が増え劣勢に。敗戦が続き、箱根までの後退を余儀なくされます。

 

 

さらに箱根でも、佐々木道誉(どうよ)という人物(バサラで有名な人)が獅子奮迅の活躍で北条軍をコテンパンにし、その後も北条軍は連戦連敗。

 

 

8月19日には、鎌倉は足利氏によって奪還され中先代の乱は鎮圧されることになります。

中先代の乱と北条時行

北条時行の下には、北条一族に仕える寵臣だった諏訪頼重(すわよりしげ)という人物がいました。

 

 

当時、北条時行はまだ10歳ぐらいの子供であり、中先代の乱を直接企てたのは諏訪頼重とも言われています。

 

 

連戦連敗で鎌倉を守りきれないことを悟った諏訪頼重は、主君の北条時行を逃し、自らは自害することを心に決めます。太平記によれば43人が自害しますが、これが本当に凄くて、43人の死体の全ての顔が剥ぎ取られており、敵に見られても誰が誰だかわからないようになっていたのです。

 

 

そうです・・・。諏訪頼重は誰が命を落としたのかをわからなくして、敵に北条時行もここで命を落としたと思いこませようとしたのです。

 

 

太平記では終始悪者扱いされる北条氏ですが、君臣の絆はとても強かったことがこのエピソードからわかります。諏訪頼重、マイナーな人物ですがその最期は賞賛に値する最期でした。

 

 

北条時行は無事に鎌倉を脱出し、この後始まる南北朝の動乱の際には南朝側として再び戦乱の中に身を投じることになります。

 

 

鎌倉幕府って単純に「1333年に滅びてはい終了!」ってわけでもないんですよね。北条時行を始めとする北条氏の残党たちはその意志を受け継ぎ、戦乱の中で再興の機会を虎視眈々と狙っていたのです。

中先代の乱は新たな戦乱の序章にすぎない

中先代の乱は、旧勢力(北条氏)による反乱です。鎌倉を北条時行から奪い返したことで、戦いは終わるように思えますが実はそうはなりません。

 

 

中先代の乱が鎮圧されると、次は鎌倉にいる足利尊氏と後醍醐天皇の間で戦いが起こり、日本は再び戦乱の世へと突入していきます。

 

 

足利尊氏は中先代の乱で鎌倉を奪い取ると、一緒に戦ってくれた武士たちに自ら恩賞を与え始めます。

 

 

建武の新政では、恩賞も官位も全ては天皇が決めるもの。それなのに尊氏が勝手に恩賞を与えていることに後醍醐天皇は警戒感を抱きます。

 

 

後醍醐天皇「足利尊氏は、このまま鎌倉で幕府を創設するつもりなのでは?」

 

 

そして、足利尊氏にこんな命令を送ります。

 

 

後醍醐天皇「争乱を鎮圧させたらのなら、すぐに京に帰ってくるように。武士たちへの恩賞は私が行う。」

 

 

足利尊氏は潔くこの指示に従い、すぐに京に戻ろうとしますが、これに弟がストップをかけます。

 

足利尊氏「はい!わかりました!!」

 

 

足利直義「兄よ、ちょっと待てww兄は真っ直ぐな人間だからきっと今まで気付いていないんだろうけど、兄って強いし人望もあるから、朝廷から危険人物と見なされていて暗殺計画すらあったんだよ?京に戻ったら命を狙われるかもしれない。だから京に戻るってことは自ら死にに行くようなものなんだよ」

 

 

足利尊氏「えっ、俺って命狙われてたの!?確かに不穏な動きはあったかもしれないけど、それは俺を嫌う奴らの仕業であって、後醍醐天皇は関係ないよ。だって俺、臣下としての務めを果たそうと一生懸命に励んできたしさ。直義の考えすぎじゃない?^^」

 

 

足利直義「兄は異常なほど鈍感すぎるのですよ。誰がどう見たって、帝が裏で暗躍してるじゃないですか。死地に喜んで赴くなど愚の骨頂です。絶対に京には帰らせませんからね。」

 

 

足利尊氏「大好きな弟にそこまで言われたらなぁ。わかった!鎌倉に残るよ!

 

 

以上のやり取りは私の勝手なイメージですが、直義が兄の命の危険を感じて京への帰還をやめさせたって点はおそらく史実です。

 

 

10月になると、足利尊氏は昔に鎌倉幕府が置かれていた場所に屋敷を建てて、そこにドッシリと構えることになります。

 

 

この尊氏の「俺、鎌倉に居座るからww」という喧嘩を売った態度に後醍醐天皇はブチギレ。足利尊氏を遂に命令に背いた朝敵とみなし、新田義貞に足利尊氏追討を命じます。

 

 

こうして、中先代の乱をきっかけとして後醍醐天皇VS足利尊氏の戦いが起こり、全国に戦火を撒き散らすことになります。

 

 

中先代の乱での敗北後も身を潜め、鎌倉幕府復興を目論む北条時行

 

中先代の乱の鎮圧をキッカケに、鎌倉に居座り、後醍醐天皇と戦うこととなった足利尊氏
京への帰還命令を無視する足利尊氏を朝敵とし、新田義貞に討伐を命じた後醍醐天皇

 

これに加え、足利直義や新田義貞もそれぞれに様々な思惑を持っており、複雑な政局のまま戦いは全国に及び、そしてその戦いの中で天皇家が南朝と北朝に完全に分かれてしまう「南北朝の動乱」の時代へと突入していきます。

 

 

一見すると残党軍の最後の抵抗に過ぎない中先代の乱は、実は新たな戦乱の幕開けになってしまったのです。鎌倉幕府が滅び朝廷権力も失墜する中、権力者不在の日本は長い長い混沌の時代へと突入して行くわけです・・・。

コメント