日野富子とは?なぜ悪女・守銭奴と呼ばれたのか【室町幕府を支えた女の真実】

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日野富子

もぐたろう
もぐたろう

今回は日野富子ひのとみこについて、わかりやすく丁寧に解説していくよ!「悪女・守銭奴」と呼ばれた3つの理由から、近年の再評価まで、徹底的にまとめたから最後まで読んでいってね!

この記事を読んでわかること
  • 日野富子がなぜ悪女と呼ばれたのか(3つの具体的な理由)
  • 日本三大悪女(富子・北条政子・淀殿が並ぶ理由)
  • 足利義政との夫婦関係(政治を放棄した夫と実権を握った妻の実像)
  • 応仁の乱と富子の真の関係(富子原因説は本当か?近年の研究)
  • 室町幕府財政を支えた功績(悪女イメージとは正反対の再評価ポイント)

「日野富子は応仁の乱を起こした悪女・守銭奴」——そんなイメージを持っていませんか?

実は、近年の歴史研究ではその評価が大きく覆されつつあります。夫・足利義政が政治をほぼ放棄して東山文化に耽るなか、崩壊寸前の室町幕府財政を独力で支え続けたのは富子でした。応仁の乱の「火付け役」という説も、じつは後世に作られた物語だということが史料研究から明らかになっています。

「悪女」ではなく「室町幕府の守護者」——今回は、そんな日野富子の真の姿を掘り下げていきます。

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日野富子とはどんな人物?

日野富子とは?3行まとめ
  • 室町幕府第8代将軍・足利義政の正室(1440〜1496年)
  • 義政が政治を放棄するなか、幕府財政を独力で支え続けた
  • 日本三大悪女の一人とされるが、近年は「幕府の守護者」として再評価されている

日野富子ひのとみこは、永享えいきょう12年(1440年)に名門・日野家の娘として生まれました。日野家は藤原氏ふじわらしの流れをくむ公家の名門で、代々室町将軍家と深い縁を持っていました。富子の家系は、祖母の代から将軍家に正室を送り込んでいるほどのエリート家柄です。

康正こうしょう元年(1455年)、富子は16歳のときに室町幕府第8代将軍・足利義政に嫁ぎ、御台所みだいどころ(将軍の正室)となりました。当時の将軍家は応仁の乱前夜の政治的混乱が始まっていた時期で、富子はその嵐の只中に身を置くことになります。

文明ぶんめい5年(1473年)、富子の息子・足利義尚あしかがよしひさが第9代将軍に就任。富子は名実ともに「将軍の母」として幕府内に強い影響力を持つようになりました。

あゆみ
あゆみ

日野家って、代々将軍家と繋がりのある名家だったんですね。富子って、どんな経緯で義政と結婚したんですか?

もぐたろう
もぐたろう

日野家は「将軍家の正室ポスト」をほぼ独占していたエリート一族なんだ。富子の祖母の代から3代続けて将軍の妻を出していた名門中の名門。今でいう「政略結婚の相手として最上位の家柄」ってイメージだね!

📌 日本三大悪女とは、日野富子・北条政子淀殿の3人を指します。いずれも「将軍・大名の正室が権力を持った」ことで後世に批判された女性たち。「女性が政治に関わることへの偏見」が「悪女」呼びにつながったという側面もあります。

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なぜ悪女・守銭奴と呼ばれたのか?3つの理由

日野富子が「悪女」「守銭奴」と後世に批判される主な理由は3つあります。それぞれ見ていきましょう。

■理由① 側室を嫉妬から追放した

富子が悪女と呼ばれるようになった最初のきっかけは、義政に寵愛されていた乳母・今参局いままいりのつぼねとの確執です。

義政が今参局を溺愛するなか、富子が生んだ息子が生後まもなく次々と死亡するという悲劇が続きました。当時の習慣では、このような不幸は「呪詛じゅそ」が原因とされることがありました。富子はこれを今参局の呪いによるものと断じ、彼女を近江おうみの沖ノ島に流罪と主張。今参局は流刑地への移送中に自害したとされています(諸説あり)。

また、今参局の追放と同時期に、富子は義政の側室4名も御所から追放したとされており、「嫉妬深い将軍の妻」というイメージが形成されていきました。 この事件の背景を理解するためには、当時の富子の状況を知る必要があります。記録によれば、富子は義尚が生まれる前に複数の子を失っており、「また子が亡くなった」と繰り返す日々が続いていました。乳母という立場で将軍に日々近侍し、絶大な寵愛を受ける今参局の存在は、子を失い続ける富子にとって許し難いものに映ったのかもしれません。「呪詛じゅそ」という言葉が持つ重さは、現代人には想像しにくいですが、当時の人々にとっては切実な現実でした。

今参局の最期については、いくつかの説が残っています。流刑地へ向かう途中、近江の湖岸で自ら命を絶ったとも、移送中に病で没したとも伝えられますが、いずれにせよ彼女は配流先に辿り着くことなく亡くなりました。

見落とされがちなのは、今参局が義政にとってただの乳母ではなかったということです。幼少期から側に置かれ、政治的な相談相手でもあった今参局を失ったことは、義政に深い傷を残しました。史料には義政が今参局の処遇をめぐって激しく抵抗したことが示されており、富子はそれを押し切ったとされています。この一件が、ふたりの夫婦関係を決定的に冷え込ませたとも言われています。「嫉妬から義政の寵愛を奪い去った」——そう語られることで、富子の悪女像はより鮮明なものになっていきます。

日野富子
日野富子

生まれた子が次々と亡くなっていく…その恐怖と悲しみは、誰にもわかってもらえないわ。もし呪いが原因なら、私は母親として行動するしかなかったのよ。

■理由② 応仁の乱に介入し、息子を将軍にしようとした

応仁おうにん元年(1467年)に勃発した応仁の乱。この大乱に富子が深く関与したとされることが、「悪女」呼びの大きな理由の一つです。

当時、義政には弟・足利義視あしかがよしみがいました。義政が後継ぎのいなかった頃、義視を次期将軍の有力候補としていたのです。ところが文正元年(1465年)に富子が義尚を出産すると、富子は自分の息子を将軍にしようと東軍の細川勝元に近づいたとされます。一方の義視は西軍の山名宗全やまなそうぜん側についたとされ、これが東西両軍の対立を煽った——という俗説が広まりました。

ゆうき
ゆうき

じゃあ、応仁の乱って富子が引き起こしたってこと?実際には誰が本当の原因なの?

もぐたろう
もぐたろう

実は「応仁の乱の主因は将軍継嗣問題と管領家(細川・山名)の対立」なんだよ!富子が原因という説は後世の解釈で、同時代の史料に直接的な根拠はないんだ。詳しくは後ほど解説するね!

■理由③ 高利貸し・米相場で莫大な財産を蓄えた

「守銭奴」と呼ばれる最大の理由が、富子の驚くほどの蓄財です。その主な手段は以下の3つでした。

蓄財①:関所の通行料収入

富子は自ら関所せきしょを設置・管理し、通行料を徴収しました。現代でいえば「高速道路の料金所」のようなものです。当時の京都は応仁の乱の影響で経済が疲弊しており、富子の関所は流通を止めたとして民衆の恨みを買いました。京都周辺に設けられた関所は複数にのぼり、農民や商人は米一俵を運ぶにも銭を支払わなければなりませんでした。当時の公家の日記には「関所が増えて商人が困っている」という記述も残っており、民衆の不満は深刻でした。

蓄財②:米の投機的売買

米の値段が下がったときに大量に買い付け、値上がりしたときに売りさばく「米相場」を行いました。今でいう「株の先物取引」に近いやり方で、応仁の乱で食料不足が深刻だった時代に大きな利益を得たとされています。

蓄財③:大名への高利貸し

資金を必要とする大名・守護たちに金を貸し、利子を取る「高利貸し」も行いました。息子・義尚の将軍就任費用なども富子の私財から出されており、「幕府の財政担当者」としての側面が見えてきます。

富子の死後には莫大な財産が残されていたとされており(諸説あり)、この蓄財ぶりが「守銭奴」という評価に直結しました。

ただし、富子の蓄財には「出口」もありました。1473年に息子・足利義尚あしかがよしひさが第9代将軍に就任する際、その就任式(御即位の費用)は当時の幕府には到底賄えない額でした。不足分を補填したのは富子の私財でした。義政が「財政は知らない」と言い続けるなか、富子は「将軍家の体面を保つため」に自ら稼ぎ、自ら使うという役割を一手に引き受けていたのです。

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足利義政との夫婦関係

政治を捨て文化・芸術に生きた義政と、幕府財政を必死に守り続けた富子——。二人の関係は、ある意味で「室町時代最大の夫婦漫才」とも呼べる対照的な人生でした。

足利義政の肖像画(伝・土佐光信作)
足利義政の肖像画(伝・土佐光信作、土佐光信の時代に制作) 出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

足利義政:「東山で美しいものに囲まれて暮らしたい。政治はもうこりごりだ」

日野富子:「幕府の財政が崩壊する!私がなんとかしなきゃ、将軍家が終わってしまう!」

足利義政は、室町幕府第8代将軍でありながら、政治への関心が薄い人物として知られています。応仁の乱が続くなかでも、東山に別荘(後の銀閣寺)を造営することに情熱を注ぎ、能・茶道・詩・作庭などを愛した「芸術家気質の将軍」でした。その文化的功績は「東山文化」として今も語り継がれています。

一方で義政は、幕府財政を顧みることなく湯水のように費やす一面もありました。応仁の乱で京都が焼け野原になっても、庭園造りを続けたほどです。

足利義政
足利義政

政治はもう富子に任せた。私は東山で美しいものに囲まれて暮らすよ。銀閣寺ができたら、どんなに素晴らしいだろう……。

日野富子
日野富子

夫が趣味に夢中なのはわかった。でも、幕府が財政破綻したら義尚が将軍を続けられないじゃない。私がやるしかないのよ!

応仁の乱が続いた10年間、京都の町は何度も炎に包まれました。公家の邸宅も、老舗の商家も、寺社も——戦火で失われたものは数知れません。そのさなか、義政は東山の土地を買い集め、庭師を呼び寄せ、銘石を全国から取り寄せ続けました。「戦乱よりも美しさを求めた将軍」という評価は、見方を変えれば「焼け野原に庭を造った男」でもあります。

📌 義政の浪費の実態:義政は東山の造営以外にも、高価な唐物からもの(中国からの輸入品)や茶道具を次々と購入し続けました。室町幕府の公式財政が立ち行かなくなるなか、富子は私財で不足分を埋める日々が続きました。「夫が買い物をし、妻が稼ぐ」という構図は、当時の感覚では異様なことでしたが、富子には他に選択肢がなかったのです。

義政の「政治的無関心」と「浪費癖」が続くなか、富子は幕府の実質的な財政責任者として動き続けました。将軍の後見として諸大名と交渉し、資金を調達し、息子・義尚の将軍権威を守ることに生涯をかけました。

この夫婦の関係を「政治的役割分担」という視点で見ると、義政が文化面(東山文化)を担い、富子が政治・財政面を担うという形の分業が成立していたとも言えます。

📌 東山文化と富子の関係:義政が銀閣寺ぎんかくじ(慈照寺)や枯山水かれさんすいの庭を造り、能・茶道・水墨画が花開いた「東山文化」。この文化が花開けたのは、富子が私財を使って義政の活動を財政的に支えたからという側面もあります。「悪女の夫が作った文化」の裏には、妻の財力があった——という歴史の皮肉があります。

銀閣寺の境内全景(空撮)
足利義政が富子の財力を背景に建立した銀閣寺(慈照寺)。東山文化の象徴であり、義政の政治的無関心を体現する場所でもある

あゆみ
あゆみ

大河ドラマで見たけど、義政って本当に政治に無関心だったんですか?富子との関係は夫婦仲良かったのかな?

もぐたろう
もぐたろう

史料的には夫婦仲は良かったり悪かったりで一概には言えないんだ。義政が出家を願ったときも富子が反対したっていうエピソードがあって、「夫に政治的責任を果たしてほしい妻」という姿が見えるよ。完全な仲違いでもなく、かといって仲睦まじいとも言えない——複雑な関係だったんだね。

実は室町幕府を支えていた?富子の功績

悪女・守銭奴のイメージが強い富子ですが、近年の歴史研究では「室町幕府の財政を独力で維持した人物」として再評価されています。富子の主な功績を3つ見てみましょう。

功績①:幕府財政の立て直し

義政が浪費を続ける一方、富子は私財を使って幕府の運営費用を補填し続けました。息子・義尚が将軍に就任する際の費用も富子の私財から出されたとされています。幕府が財政的に機能し続けられたのは、富子の資金繰りがあってこそだったのです。

功績②:応仁の乱の収束への貢献

「乱を起こした」と批判される富子ですが、じつは乱を終わらせた側面もあります。西軍の有力大名・大内政弘おおうちまさひろに対して富子が銀子(資金)を送り、撤退を促したと伝えられています。応仁の乱は文明ぶんめい9年(1477年)に西軍が撤退して終結しましたが、その工作に富子が関与していた可能性があります。

大内家は現在の山口県を拠点とする西国最大級の大名でしたが、10年以上続く京都での戦に疲弊しきっていました。「戦い続けても得るものはない」と感じていた大内政弘に対し、富子は敵陣への「銀子外交」を仕掛けたとされます。これは正規の外交ルートではなく、あくまでも富子個人の資金を使った秘密の停戦工作でした。表舞台に立てない女性が、カネという力で歴史を動かした——このエピソードこそ、富子の本質を表すものではないでしょうか。

功績③:公家・寺社への経済支援

富子は公家や寺社に対しても積極的に資金援助を行いました。応仁の乱で疲弊した京都の文化・宗教施設の維持に、富子の財力が貢献した側面があります。「守銭奴」のイメージとは裏腹に、単に溜め込むだけでなく積極的に使う場面もあったのです。

あゆみ
あゆみ

最近の研究では、富子の評価ってどのくらい変わってきているんですか?

もぐたろう
もぐたろう

最近の室町時代研究では、富子の蓄財を「幕府財政の崩壊を防ぐための必然的な行動」として見直す動きが出てきているよ。「悪女」という評価は主に江戸時代以降の後世の価値観が色濃く反映されているとも言われているんだ。「時代に翻弄されながら必死に幕府を守ろうとした女性」という見方が広まりつつあるね!

応仁の乱は本当に富子のせい?

応仁の乱における東軍(細川勝元)と西軍(山名宗全)の構成図
応仁の乱の東軍・西軍構成図。東軍を率いた細川勝元と西軍を率いた山名宗全の対立が主因

応仁の乱の原因は日野富子」——この説は広く知られていますが、じつは近年の歴史学研究によって否定されつつある俗説です。

応仁の乱(1467〜1477年)の直接原因は、大きく分けて2つあります。

原因①:将軍継嗣問題——義政の後継をめぐる将軍家・畠山はたけやま氏・斯波しば氏の内紛

原因②:管領家の権力争い——東軍の細川勝元と西軍の山名宗全やまなそうぜんの対立

富子が細川勝元・山名宗全それぞれに接近し対立を煽ったという説がありますが、当時の公家の日記や僧侶そうりょの記録(一次史料)には、富子を乱の主原因とする記述は確認されていません。「富子が応仁の乱を起こした」という評価は、江戸時代以降に書かれた軍記物語などによって広められた「後世の解釈」という見方が有力です。

📌 史料的根拠について:応仁の乱を記した同時代の一次史料である『応仁記おうにんき』や公家の日記類には、富子が乱の主犯・煽動者であるという直接的な記述はありません。「富子原因説」が広まるのは、江戸時代後期以降のことです。近年の室町時代研究(今谷明・呉座勇一など)では、乱の主原因を管領家の権力構造に求める見方が主流になっています。

日野富子
日野富子

私が応仁の乱を起こしたですって?根拠があるなら見せてほしいわね。あの乱は、細川と山名が権力争いをした結果よ。私はただ、息子の将来を守ろうとしただけ。

もぐたろう
もぐたろう

まとめると、応仁の乱の本当の原因は「細川勝元(東軍)vs山名宗全(西軍)の権力争い+将軍継嗣問題」なんだ!富子が原因という説は「俗説」に過ぎず、近年の研究では否定されているんだよ。だから富子を一方的に「悪女」と決めつけるのは、ちょっと早計なんだよね!

日野富子の晩年と死

数十年にわたって幕府財政を支え続けた日野富子でしたが、晩年は相次ぐ肉親の死によって深い孤独のなかに置かれていきます。

1489年(長享ちょうきょう3年)、息子の足利義尚あしかがよしひさ近江おうみ遠征の陣中で病に倒れ、わずか25歳で世を去りました。富子が全力をつくして将軍にまで育て上げた、たった一人の息子でした。

翌1490年には、夫・足利義政も55歳で死去します。政治をほとんど富子に委ねながらも、東山文化を花開かせた人物でした。夫婦として歩んだ約35年間——心の距離はあれど、幕府という船を二人で支えてきた事実は変わりません。

日野富子
日野富子

義尚まで逝ってしまって…。私はいったい、何のために戦ってきたのかしら。

義政の死後、富子は引き続き幕府政治に関与しようとしますが、次第に影響力を失っていきます。将軍家では、10代将軍に足利義材あしかがよしきが就任しますが、翌年には管領・細川政元ほそかわまさもとによって追放されるなど(明応の政変めいおうのせいへん・1493年)、幕府内の政争は止む気配がありませんでした。

📌 明応の政変(1493年):管領・細川政元が足利義材を追放し、足利義澄を11代将軍に擁立したクーデター。これ以降、室町幕府は管領家による実権掌握が続いていく。

そして1496年(明応めいおう5年)、日野富子は57歳でその生涯を閉じました。死後の財産は7万貫とも伝えられますが(諸説あり)、これもまた「悪女・守銭奴」のイメージとともに後世に語り継がれることになります。

あゆみ
あゆみ

息子にも先立たれて、最後は孤独だったんだね…。あれだけ頑張ったのに。

もぐたろう
もぐたろう

そうなんだよ。義政・義尚という2人の「守るべき存在」を失い、富子が長年積み上げてきた権力基盤も揺らいでいった。晩年の孤独さは、本当に胸に刺さるよね。

日野富子について詳しく知るための本

もぐたろう
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日野富子についてもっと詳しく知りたい人へ

もぐたろう
もぐたろう

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なぜ「悪女」イメージは消えなかったのか?

近年の歴史研究で富子の再評価が進んでいるにもかかわらず、「悪女・守銭奴」というイメージは今も根強く残っています。なぜでしょうか?

最大の理由のひとつが、江戸時代に広まった儒教的価値観です。江戸時代の女性に求められた規範は「三従さんじゅう(父に従い、夫に従い、子に従う)」という考え方でした。富子のように「夫を差し置いて財政を仕切り、政治に介入する妻」は、この価値観と真っ向から対立します。江戸時代に書かれた軍記物や通俗本のなかで富子が悪役として描かれるようになったのは、こうした時代背景と無関係ではありません。

あゆみ
あゆみ

確かに…北条政子も淀殿も「権力を持った女性」だから悪女扱いされてますよね。

もぐたろう
もぐたろう

鋭い指摘だね!日本三大悪女——北条政子・日野富子・淀殿——に共通するのは「将軍・大名の正室が政治の表舞台に出た」という点だけなんだ。もし富子と同じことを男性の武将がやっていたら「乱世の財政家」として称えられていたかもしれない。「悪女」という評価には、時代の価値観がそのまま映し出されているんだよね。

こうした文脈で捉え直すと、富子が「守銭奴」と批判された関所の収益や高利貸しも見え方が変わってきます。男性の武将が領国内に関所を設けて通行料を取ることは「合理的な経営」とみなされましたが、女性が同じことをすると「金に汚い」と批判される——この非対称な評価の構造こそが、富子の悪女イメージの真の源泉だったのかもしれません。

よくある質問

近年の歴史研究では、富子を単純に「悪女」とは評価しない見方が主流になっています。側室追放・蓄財・応仁の乱への介入という3点が批判の根拠とされてきましたが、蓄財については「夫・義政が政治を放棄した結果、富子が独力で幕府財政を支えざるを得なかった」という文脈で捉えるべきだという解釈も広がっています。時代の構造が生み出した「悪女像」という見方が有力です。

最大の理由は、夫・足利義政が政治・財政をほとんど顧みなかったことです。義政が東山文化に莫大な費用をつぎ込む一方、幕府の財政は慢性的な赤字状態でした。富子は関所の通行料徴収・大名への高利貸し・米の投機的売買などで独自に財源を確保し、幕府の命脈を保とうとしました。「悪意のある蓄財」ではなく、将軍家存続のための「やむを得ない財政措置」だったとも言えます。

「政治を放棄して芸術に没頭した夫」と「幕府財政を必死に守ろうとした妻」という対照的な夫婦でした。義政は銀閣寺建設や東山文化の振興に情熱を燃やす一方、実際の政治や財政には無関心。富子はその穴を埋めるように幕府の実権を掌握していきました。仲が悪かったわけではなく、ある種の「役割分担」が自然に形成された夫婦だったと考えられています。

「富子が原因」という説は後世に広まったものであり、同時代の公家・僧侶の日記などには富子を乱の主因とする記述はほとんど見られません。応仁の乱の直接の原因は、細川勝元(東軍)と山名宗全(西軍)という二大管領家の権力争い、および将軍継嗣問題(義政の後継者をめぐる対立)です。富子は息子・義尚を将軍に擁立しようとしましたが、それは複雑な政争の一要素に過ぎませんでした。

死後の財産は「7万貫」とも伝えられていますが、これは諸説あり確実な数字ではありません。収入源としては、京都郊外などの関所からの通行料収入・大名や公家への高利貸し・米相場への投機的参加などが知られています。当時としては破格の財産であったことは確かですが、その多くが幕府財政の補填や政治工作費用として使われたとも言われています。

日野富子は1496年(明応5年)に57歳で死去しました。息子・足利義尚が1489年に25歳で世を去り、夫・足利義政も1490年に没した後、富子は6年間を一人で生き続けました。晩年は幕府政治への影響力も弱まり、数十年にわたる激動の生涯に幕を閉じました。

まとめ

日野富子は、室町幕府第8代将軍・足利義政の正室として、激動の時代を生き抜いた女性です。「悪女・守銭奴」というイメージで語られることが多いですが、その背景には、政治を放棄した夫のもとで幕府財政を独力で支え続けたという事実があります。

応仁の乱の火付け役という俗説も後世の作り話に過ぎず、むしろ乱の終結に向けて裏工作を行った功績すら残っています。息子・義尚と夫・義政に先立たれながらも最後まで幕府に関わり続けた富子は、時代に翻弄されながら闘い続けた強い女性でした。

日野富子の年表
  • 1440年
    日野富子、誕生
  • 1455年
    足利義政の正室となる(御台所)
  • 1465年
    息子・足利義尚を出産
  • 1467年
    応仁の乱が勃発(〜1477年)
  • 1473年
    義尚が室町幕府第9代将軍に就任
  • 1489年
    息子・足利義尚、近江遠征の陣中で25歳没
  • 1490年
    夫・足利義政、死去(55歳)
  • 1496年
    日野富子、死去(57歳)

もぐたろう
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以上、日野富子のまとめでした!「悪女」というイメージだけじゃない、幕府を支え続けた強い女性の姿が伝わったかな?下の記事で応仁の乱や山名宗全についても読んでみてください!

📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版社『詳説日本史』(2022年版)

参考文献

Wikipedia日本語版「日野富子」(2026年5月確認)
コトバンク「日野富子」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』(2022年版)
今谷明『室町の王権』中公新書

記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。

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この記事を書いた人
もぐたろう

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