今回は、日本三大悪女の1人で室町時代に活躍した日野富子についてわかりやすく丁寧に解説していきます。
名門貴族、日野氏
日野富子が属する日野氏は、貴族の一族でした。しかも藤原北家の血筋を引いた名門中の名門貴族です。
鎌倉時代になり武士が力を持つようになると、貴族には冬の時代がやってきます。ところが、室町時代になると、日野氏は3代将軍の足利義満に正室を輩出。この頃から、日野氏は再び栄え始めました。
日野氏と将軍家の親密な関係はその後も続きます。しかし、日野家の発言力が強くなりすぎたことを恐れた6代の足利義教は、日野家の領地を没収するなど弾圧を加えます。
こうして日野家は再び窮地に追い込まれますが、1441年に足利義教が嘉吉の変で殺されたことで、なんとか生き残ることができました。
日野富子は、この一年前(1440年)に産まれました。日野家が絶体絶命のピンチの中、産まれたわけです。
日野富子、足利義政と結婚する
足利義教が殺されると、7代目にはその息子の足利義勝が将軍になりますが、わずか10歳で急死。
ピンチヒッターとして義勝の弟だった若き足利義政が、1449年に元服したタイミングで8代目の将軍となります。(1449年までは将軍不在が続きました)
ここで、日野家に大チャンスが到来します。・・・というのも、足利義政の母は日野重子。日野氏出身だったのです。
日野重子「私の息子(義政)には、姪っ子の日野富子を嫁がせましょう。将軍家との強い結びつきによって、日野家を復興させるのよ!!」
こうして1455年、16歳になっていた日野富子は足利義政の正室となります。
そして、同じく日野家の復興を目指した日野富子もこんなことを考えます。
日野富子「男の子を産んで、次期将軍にするわ。そうすれば、私は将軍の母として強い影響力を持つことができる!!」
日野富子VS今参局
1459年、日野富子と足利義政の間に念願の第一子が産まれました。
ところが、産まれた子はその日に死亡。日野富子は悲しみに暮れます。
・・・しかし、日野富子はタダでは起きません。子の早世を利用して、日野家の躍進を阻もうとしていた今参局を失脚させようと目論んだのです。
日野富子の子が亡くなると、京ではこんな噂が広がりました。
日野富子の子がすぐ亡くなったのって、足利義政の乳母である今参局が呪い殺した(呪詛した)かららしいわよ・・・。
まぁ、義政の実母の日野重子と今参局は犬猿の仲だったから、疑われても仕方ないわよね。
日野富子はこの噂を信用し、呪詛の罪によって今参局の処罰を夫(将軍)に要求します。
日野富子「あなた(義政)の乳母が呪詛したせいで、私の大事な子供が亡くなったわ。呪詛は重罪よ。乳母を処罰しなさい!」
理由が無理やりすぎだろ。
でも日野家のバックにはいろんな人が付いてるし、簡単に逆らうことはできないか・・・。
結局、足利義政は強引な日野富子のやり口に押される形で、確たる証拠もないまま乳母(今参局)を流罪にしてしまいます。
今参局は流刑地に向かう途中に自害。こうして、日野富子は邪魔者を1人消すことに成功します。
しかし、肝心の男の子には恵まれませんでした。1462年、1463年と子を出産しますが、2人とも女の子。
さらに1464年、夫の足利義政は次第に政治に嫌気がさして引退を望むようになります。
みんな俺の言うこと聞かないで好き勝手やるから、もう政治する気失せたわ。将軍なんてやめて隠居する。
息子がいないから、次期将軍は弟の足利義視が頑張ってくれ!
日野富子「私に息子さえ産まれていれば・・・!!」
日野富子は自らの運命を悔やんだことでしょう。しかし、ここから日野富子の大逆転ドラマが始まります・・・!!!
足利義視と足利義尚
1464年に足利義視が次期将軍になることが決定すると、義視が将軍になるための準備が着実に進められていきます。いきなり義視が政治手腕を振るうのは難しいので、管領の細川勝元がこれを補佐することになります。
そんな真っ只中の1465年、大事件が起こります。
日野富子「念願の男を出産したっ!!!!!!」
絶妙のタイミングで、日野富子が男の子を出産したのです。この子供は、後の足利義尚となります。
日野富子自身は、足利義視を足利義尚が成長するまでのつなぎ役と考えていたようです。しかし、幕府の中には「幼い義尚を将軍に担ぎ出して、俺が裏で政治を支配してやるわww」と考える輩もいました。
その代表人物が伊勢貞親という人物でした。足利義尚の育て役(乳父)で、幕府の政治の中枢にいた優秀な男です。
伊勢貞親は「足利義視の命さえ奪えば、否が応でも義尚が将軍になれる!」という過激な考えを持っていました。
そして、この過激な思想は、伊勢貞親に不満を持っていた勢力に貞親を攻撃する口実を与えてしまい、1466年に伊勢貞親は幕府から追放されてしまいます。
こうして義視と義尚の次期将軍問題は政争の具となり、1467年に起こる応仁の乱の1つのきっかけとなってしまいます。
日野富子、超金持ちだった
話が少し変わりますが、実は日野富子、超金持ちでした。
日野富子は金の亡者であり、強欲の限りを尽くし巨万の富を築きました。その露骨なやり口などから、日野富子は「日本三大悪女の1人!」と言われることもあります。
なぜ、日野富子はそれほどまでに金に執着したのか?
・・・その理由は、室町幕府の崩壊にあります。
当時将軍だった足利義政(8代目)が、有力守護や側近達の手綱を握ることができなくなると、将軍の権威は失墜。人々は義政の言うことを聞かなくなり、税収も滞ることになってしまいます。
そして、室町幕府が財政難になれば将軍はさらに舐められる・・・という悪循環に陥りました。
これを防ごうとしたのが日野富子です。
今まで通りの税収が役に立たないことを悟った日野富子は、外部要因に左右されないよう自力でお金を稼ぐ方法を模索します。
日野富子「税収が当てにならないのなら、私自身でお金をたっぷり稼いでやるわよ。夫の義政は頼りにならないし、私がやるわ!!」
日野富子は、お金のためなら手段を選びませんでした。将軍の正室という地位を利用して、多くの人たちから賄賂を要求。
そして、賄賂などで手に入れた資金を利用して、
などの事業を展開。これによって資金をさらに増やすことに成功し、大富豪に成り上がったです。
軍事力を持たない日野富子にとってこの巨万の富は、強大な軍事力を持つ有力守護たちを牽制する最大の武器となります。
日野富子の話でよく話題になるのは「日野富子は私利私欲のために手段を選ばず金儲けに走った金の亡者!」という話。しかし、実際のところは私利私欲のためだけに金の亡者になったわけではありません。
確かに、日野富子は派手な生活をしていました。ただ、将軍家を守るためにも日野富子にはどうしてもお金が必要だった・・・というのも事実です。
そして、日野富子は目的を達成するだけの才能と行動力を持ち合わせていました。歴史に名を残すだけあって、日野富子はやはりただ者ではありません。
本当は、俺がしっかりしなきゃいけなかったんだけどね・・・(汗
ちなみに、日野富子が築いたこの巨万の富は、応仁の乱で大活躍することになります。
足利義政「富子と一緒にいるのもう無理。疲れた」
1467年、有力守護たちの家督争いをきっかけに応仁の乱が起こります。
1468年になると、有力守護たちの家督争いに義視と義尚の後継者争いが利用され、京を東西に分けた大戦乱となります。
京の西に陣を構えたのは、足利義視を支持する勢力。総大将は山名宗全で、この勢力のことを西軍と言います。
一方、京の東に陣を構えたのは、足利義尚を支持する勢力。総大将は細川勝元で、この勢力は東軍と呼ばれました。
もちろん日野富子は、息子の義尚を支持する東軍に加担します。
応仁の乱は、各々が家督争いのために自分勝手に行動しているため、その経過を追うのがメチャクチャ難しいことで有名です。
というのも、例えば、西軍に属していても「家督争いに勝つには東軍に寝返った方がいいな・・・」と思えば、人々は簡単に東軍に寝返ってしまいます。
昨日の敵は今日の味方になっていることも日常茶飯事で、戦況はぐちゃぐちゃのカオスと化していたのです。
そんな中、日野富子の行動原理はいたってシンプル。「息子の足利義尚を将軍にする!」という昔と変わらぬ理念のみです。
日野富子は目的のためならば手段を選ばない女です。その巨万の富と将軍の正室の立場をフル活用して、裏で暗躍を続けていました。
ただ、肉食系な日野富子の振る舞いに、夫の義政は次第に嫌気が差してきます。
日野富子が肉食系すぎて、俺の言うこと全く聞いてくれないんだが・・・。
なんかもう富子は俺の「将軍」っていう地位を利用しているだけで、夫婦の関係なんてずっと前から破綻しているんだな。
政治もプライベート(夫婦関係)も何もかもうまくいかないし、将軍なんかやめてひっそりと隠居するわ。
1463年、足利義政は富子の望みどおりに足利義尚を次期将軍にして、翌年(1464年)には隠居を開始。
すると、日野富子は兄の日野勝光とともに幼い足利義尚を後見する立場となり、幕府の大権を掌握します。
日野富子「あんなパッとしない夫(義政)、いなくなってくれてスッキリしたわ。これからは息子の義尚のために、政治は私が支配するのよ」
これらが合わさって、日野富子は悪女という称号をゲット?したのです。
【朗報】日野富子、金の力で応仁の乱を終わらせる
念願の目標(足利義尚を将軍にすること)を達成して、幕政の大権を握った日野富子が次に目標としたのは、「平穏無事に室町幕府の運営を行うこと」でした。
足利義尚が将軍になってしまえば、幕政の安定を乱す応仁の乱は邪魔でしかありません。そこで日野富子は、応仁の乱を終わらすことを考えます。
日野富子「私がこの戦いを終わらせるわ。お金の力を使って・・・!!!」
1473年、東西両軍の総大将だった細川勝元と山名宗全が亡くなります。これをきっかけに、応仁の乱は収束に向かいますが、西軍に収束を邪魔する勢力が2つありました。
それが、西軍として戦っていた畠山義就と大内政弘という人物でした。
1473年以降、多くの人たちが和睦をしますが、この2人だけはやる気満々で争いを止める気配が一切ありませんでした。
そこで、日野富子の金の出番です。
日野富子は畠山義就は金で買収して、兵たちを撤退させます。(長期の戦いで金欠状態だったので金の力は効果テキメンでした。)
大内政弘に対しては、大内政弘が「勝利を手にしなければ自国に帰れぬ!」と引くに引けない状況だったのを利用しました。朝廷を金で買収して、大内政弘に官位を与えることにしたのです。
「官位をもらえる」=「朝廷に認められる」=「大内政弘の行動は正しい」=「大内政弘の勝利!」
という構図で大内政弘は朝廷から与えられた官位を手柄に帰国してしまいます。
こうして、京から戦乱の火種が消えると応仁の乱はようやく終結に向かいます。約10年にわたる長き戦乱がようやく終わったのです。
晩年の日野富子
マネーの力で応仁の乱を終わらせた日野富子の次の目標は、「足利義尚の将軍権威を高めること」です。
これまで、金の力と圧倒的行動力で次々と望むものを手に入れてきた日野富子ですが、この時ばかりは頓挫します。
成人した足利義尚が、いろいろ口出ししてくる日野富子を邪魔者扱いし始めたからです。1483年には足利義尚は引越しをしてしまい、日野富子から距離を置くようになります。
こうして日野富子の権力は次第に衰え、1487年に足利義尚が25歳の若さで死去。1490年には夫の足利義政も亡くなり、将軍の権力に依存していた日野富子の力にも陰りが見え始めます。
将軍不在になると1490年に足利義視の息子である足利義稙が10代将軍になります。
足利義視と言えば、応仁の乱で富子の息子(義尚)と争った間柄です。足利義視は足利義稙を後見する立場になると、力を持ちすぎた日野富子を弾圧し始めます。(6代足利義教のときのデジャブですね)
日野富子「私を怒らせるとどうなるか思い知らせてやる。老いたからと言って舐めていると痛い目みるわよ」
1493年、日野富子は義稙から疎んじられていた細川政元と協力して、足利義稙が京を離れている隙にクーデターを実行。義稙を将軍の座から引き摺り下ろし、甥っ子の足利義澄を11代将軍にしてしまいました。(このクーデターは明応の政変と呼ばれています)
そして、明応の政変の3年後(1496年)、日野富子は57歳でこの世を去ることになります。
こうやって生涯を振り返ってみると、日野富子に睨まれた人たちが、ほぼ確実に消されるか失脚しているのがわかると思います。日野富子は、激しい政争を勝ち続けた百戦錬磨の手練と言っても良いでしょう。本当に日野富子は恐ろしい人物です。
日野富子の巷の評判は「金の亡者」「夫を蔑ろにしたダメ女」って話が定番ですが、日野富子の何よりも凄い点は、目的のためなら手段を選ばないその胆力と行動力にあります。
夫の足利義政がだらしなかったこともあり、日野富子が幕政を裏で操らなければ応仁の乱以上に日本は悲惨なことになっていたかもしれません。
・・・という感じで、私個人的には日野富子は「信念を貫いた」という意味で立派な人物だったんじゃないかな?と高評価をしておきたいと思います。(女性としてどうかは別問題)
日野富子の生涯まとめ【年表付】
- 1440年日野富子、生まれる
- 1441年嘉吉の変
日野家を弾圧していた足利義教が殺される
- 1455年日野富子、8代将軍足利義政の正室になる
- 1459年政敵だった今参局を追放
- 1464年夫の義政、次期将軍に弟(足利義視)を指名
- 1465年日野富子、男の子(足利義尚)を出生
- 1466年足利義尚、権力争いに利用される
義尚の乳父だった伊勢貞親が、義視を排除して義尚を将軍にしようとするが、返り討ちにあって失脚。
- 1467年応仁の乱
有力守護たちの家督争いが全国を巻き込んだ戦乱に発展
- 1468年義尚VS義視、後継者争い始まる
応仁の乱は、将軍の後継者争いにまで発展
- 1473年足利義政、足利義尚に将軍位を譲る
日野富子の悲願がようやく叶う。
- 1477年応仁の乱、終結へ
日野富子は畠山義就・大内政弘を金で買収し、応仁の乱を終わらせた
- 1487年足利義尚、亡くなる
次期将軍には足利義視の息子、足利義稙が就任する。
- 1493年明応の政変
日野富子は、自分を邪魔者扱いする足利義稙をクーデターにより追放
日野富子は、甥っ子の足利義澄を将軍に擁立
- 1496年日野富子、他界
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