今回は、楠木正成の戦いの中で最も有名であろう千早城(ちはやじょう)の戦いについて紹介します。
千早城の戦いは、「戦の勝敗は、武勇のみで決するものではない」というのよーくわかるのと同時に、楠木正成の強さがいかにチート級であったかがわかる戦いでもあります。
千早城の戦い前夜
千早城の戦いは1333年2月に起こった戦いですが、まずは千早城の戦いが起こるまでの当時の戦況を簡単に紹介しておきます。
って感じの流れです。
当初は吉野の護良親王・河内の楠木正成の二方面作戦だったんですが、1331年2月に吉野の護良親王が幕府軍に敗北。
一方の楠木正成も次々と攻め込まれ、1333年2月、最後の砦である千早城で幕府軍と対峙したのでした。
つまり!千早城の戦い当時の楠木正成は、かなり絶望的な状況に立たされていたのです。
千早城の戦い、絶望の戦力差
この千早城の戦い、幕府軍は100万とも200万とも言われている圧倒的兵力で楠木正成に襲い掛かります。吉野の護良親王を打ち破った兵が千早城に集まったことで大戦力となったのです。
一方の楠木正成軍の兵力はわずか1000。まさにミジンコと象の戦い。
幕府軍の兵力数はさすがにカサ増しされているでしょうけど、それでも楠木正成は兵力だけを見れば圧倒的不利だったことは間違いありません。
千早城の四方八方は、微塵の隙間もないほどに幕府軍の兵で埋め尽くされ、その広さ2里・3里(約8km〜12km)だったとも言われています。
しかし、楠木正成には山上に築かれた千早城の地の利、そして何よりも歴史に名を残すことになる数多くの知略がありました。
(出典:wikipedia「千早城の戦い」,Author:Wikiwikiyarou)
【千早城の模型】
千早城の戦い初戦
地の利はあると言えども、千早城にはたったの1000しか兵がいません。「力攻めで攻めれば、こんな城、一瞬で落とせるだろ」と考えた一部の幕府軍が、命令も聞かず力任せに千早城に攻め込みます。
当時は、「先駆け」と言って、誰よりも早く敵を討ち取ることは名誉ある功績と考えられていて、皆真っ先に敵陣に特攻し、功績を挙げて恩賞を貰おうと躍起になっていたのです。
が、これは楠木正成の思うツボ。楠木軍は動揺することなく静かに敵を待ち構え、櫓(やぐら)からの落石攻撃で敵を撃破。しかも、落石攻撃で敵が同様しているところをすかさず弓矢を射て幕府軍をボッコボコに。
幕府軍の被害は5000とも6000とも言われ、死傷者の検証に3日もかかったほどだと言われています。その後、幕府軍の中で「勲功に目が眩んで、勝手に先陣を切るようなことはするな!!」と命令が下り、幕府軍は一度戦いを止め、態勢を立て直します。
千早城の断水攻防戦
さらに幕府軍では軍議が行われます。
「千早城は山の頂にある。あそこにそれほどの水が蓄えられているとも思えない。それならば、敵は必ず山の麓(ふもと)で水を補給しているはずだ。そこを狙い撃ち水の補給を断てば、敵は渇きに苦しみ自滅していくだろう」
このアイデアは採用され、幕府軍は楠木軍が水を補給しそうな水辺近くに兵を配置し、時が来るのを待ちます。
・・・が、いくら待っても楠木軍はやってきません。楠木正成は、千早城での戦いは長期戦になることを見越し、水の補給を完璧な状態にしていたのです。
その山の修行僧のみが知る秘密の湧き水。大量に用意した木製の水槽。そして、降り落ちる雨が貯まるよう改造した建物の軒。
この完璧な備えによって、わざわざ危険を冒してまで山の麓に降りる必要がなかったのです。
これを知らない幕府軍は、待てども待てどもやってこない楠木軍に次第に油断するようになりますが、その隙を楠木正成は見逃しません。
楠木正成は、弓の使い手300人を山から下ろし、水辺にいる幕府軍に夜襲を仕掛けます。そこにいたのは、名越時見(なごしときみ)の兵士たち。20名が斬り伏せられ、そのままの勢いで迫って来る楠木軍になすすべもなく撤退。
しかもその翌日、楠木正成は、城壁の上から前日の奇襲で奪った敵の旗を降って、名越軍を挑発します。
「この旗は名越氏のものである。名越氏以外の者には不要であるから、どうぞここまで取りに来てくだされー^^」
この露骨な挑発に名越時見はブチ切れ。特攻する名越軍にまたもや楠木軍は、大木を崖から落とし、敵をフルボッコにしてしまいます。この時の名越軍の被害は5000人にもなったと言われています。
わずか1000しかいない楠木軍に、幕府軍は完全に踊らされていました。ちなみに、修行僧のみが知る湧き水を楠木正成が知っているということは、楠木正成は現地の人々を味方にしていたことの証拠でもあります。
現地住民の協力を得たゲリラ戦法は、敵がいかに大軍といえど、簡単に破ることはできません。(大国アメリカですらベトナム戦争の際、ジャングルの地の利を活かしたベトナム軍のゲリラ戦を簡単に破ることはできませんでした。)
千早城の戦い〜兵糧攻めVSわら人形作戦〜
度重なる敗北に、幕府軍は遂に戦うのを止めてしまいます。千早城を囲んで兵糧攻めにしようと考えたのです。ここまでは、おおむね赤坂城の戦いと同じ展開です。
同じ展開ですから、当然、楠木正成も兵糧攻めに来ることは想定していたはず。そこで楠木正成は一計を案じます。
兵糧攻めは、戦いは長期化を意味します。何もせずにひたすら敵の食糧が尽きるのを待つわけですが、その間、多くの兵たちは手持ち無沙汰となり、幕府軍の中には遊びふけるものが増えていきます。
しかし、それは楠木軍とて同じこと。そこで、楠木正成は敵をボコボコにできて、かつ、味方の士気を上げる妙案を思いつきます。
とある日の夜、楠木正成は城の麓に鎧を着せて盾を持たせたわら人形を20〜30ほど作って配置しました。
夜が明けると、幕府軍は遠目に20〜30ほどの楠木軍の姿を発見。もう幕府軍の心の中はこんな感じですよ↓
「フフ、フハハハ!遂に食料が尽きて城から出てきたか!今こそ攻め時ぞ!!」
好機とばかりに矢を放ち敵へ襲いかかりますが、近づいてみると敵兵と思っていた人影は、敵兵ではなくわら人形。幕府軍は完全に楠木正成に術中にハマってしまいます。
そして、計画どおり城の真下に敵をおびき寄せると城から岩を落とし、敵をボッコボコにしてしまいました。
これは敵の心理を逆手に取った巧妙な作戦です。普通に戦っていてはわら人形など一瞬で見破られてしまいます。「兵糧攻めでいつか敵は城外にでてくるはず」そう思い込む幕府軍の心理を巧みに利用してこそ初めて成功する作戦です。しかも、こんなことをされてしまっては幕府軍は兵糧攻めすら迂闊にできなくなってしまいます。
やはり、楠木正成は超強い(確信)。ちなみにわら人形を作っている様子を描いているのが以下の絵。
千早城の戦い〜長梯子作戦VS火計〜
度重なる敗北に幕府軍はもはや打つ手がなくなり、戦いもしないまま時間だけが無為に経過します。
楠木軍が士気を上げている一方、幕府軍の統制は次第に乱れていきます。遊女を読んで遊ぶ者、双六で遊ぶ者。どんどん兵のモチベーションが下がっていきます。
しかも双六遊びの際に、その出目について喧嘩が始まり味方同士で命を奪い合う事件まで起こっています。
この無様な幕府軍の様子を見て、楠木軍は「天皇に逆らった天誅なり」と笑ったと言います。
そんな中、鎌倉にいる幕府軍のボスである北条高時(ほうじょうたかとき)から「お前ら、無駄に日を送るな。早く城を攻め落とせ!!」と叱咤の命令が下り、再び幕府軍は千早城攻略に乗り出します。
そこで考えられたのが、長梯子(ながはしご)作戦。味方陣営近くと敵城の間を遮る深い堀(おそらくは天然の崖)に長い梯子をかけて、そこから直接、敵城へ攻め入ろう!と考えたのです。
奇襲や岩落としなどによって迂闊に城に近寄れないなら、敵の想定しないところからショートカットして攻めてやろう!っていう魂胆です。幕府軍は、大工を集め、梯子を作らせます。
そして、長梯子が完成していざ敵城に侵入せんとする時、またもや幕府軍の目の前に楠木正成の知略が立ちはだかります。
敵が、梯子を渡って城に取り付こうとしているところに火の付いた松明(たいまつ)と薪(たきぎ)を投げ込み、そこに油を撒き散らします。こうして、木製の梯子は一気に炎上し、幕府軍はまたもやコテンパンにやられてしまいます。
梯子を進めばその身は焼き尽くされ、下がろうとすれば事態を知らぬ兵たちが次々と押し寄せてくる。万事休すのこの絶望状態に数千の兵が犠牲になったと言います。その時の様子を描いたのが以下の絵。まさに地獄絵図。
千早城の戦いの狙いは、実は時間稼ぎだった
断水作戦に兵糧攻め、千早城では数カ月に渡る長期戦が行われましたが、ここまでは全て楠木正成の想定通りの展開。
楠木正成は自分に敵の大軍を釘付けにしている間に、諸国の人々が挙兵するのをずーっと待っていたのです。
と言ってもなんの考えもなしに待っていたのではありません。1332年の間に、後醍醐天皇の息子である護良親王が各地に挙兵を呼びかけており、楠木正成は自らの武勇を起爆剤とし、それらの者の挙兵を促そうと考えたのでした。
そして、この楠木正成の作戦は見事に成功。まず1333年2月、後醍醐天皇が名和長年(なわながとし)という人物の協力を得て隠岐を脱出。
さらに、播磨国(はりまのくに。今の兵庫県あたり)の赤松則村(あかまつのりむら)が、幕府軍が千早城に貼り付けとなり手薄となっていた京を襲撃。そのほか、伊予国・長門国・肥後国など西国の各地で倒幕運動が起こります。
おまけに千早城の戦いに参戦していた鎌倉方の武将の新田義貞が密かに護良親王に接近し、鎌倉幕府からの寝返りを計画し始めていました。
楠木正成が千早城で粘っている間、各地で次々と倒幕の狼煙が上がるわけですが、その起爆剤となったのが千早城の戦いだったのです。そーゆー意味では千早城の戦いは後醍醐天皇の勝利を決定づけた重要な戦だとも言えます。
千早城の戦い〜楠木正成大勝利〜
長梯子作戦も失敗した幕府軍は戦意を喪失し、次第に逃げ出す者まで現れます。
しかし、1331年2月に吉野にて幕府軍に敗北した護良親王が逃亡を許しません。吉野を脱出した護良親王は7000の残党を集めて、各地の山に隠れ潜み、幕府軍をゲリラ戦で攻撃し始めたのです。
進退窮まった幕府軍。日に日に兵は減っていき、残るはわずか10万だったとも言われています。
おまけに、耳に入る情報は不吉な情報ばかりです。
「後醍醐天皇、隠岐脱出!」
「西国の各地で倒幕の動きあり!」
「赤松氏、京へ進軍!」
1333年5月になるとさらにトンデモナイ情報が入り込んできます。
「足利尊氏、謀反!!」
「六波羅探題、足利尊氏により陥落!!」
この知らせを受けるや、幕府軍はもはや千早城で戦ってる場合ではなくなり、総撤退をすることになります。ところが、統率の取れない撤退に幕府軍は大混乱。落ち武者狩りに遭遇したり、道に迷って自滅したり、多くの者が撤退途中に命を落としました。
こうして、5月10日、遂に千早城の戦いは終結。3ヶ月もの長期戦でしたが兵の数わずか1000の楠木正成が勝利したわけです。凄すぎワロタ。
さらに5月8日には新田義貞が関東にて挙兵。鎌倉に攻め込み、5月22日に新田義貞は壮絶な戦いを制し、鎌倉幕府は滅亡することになります。
後醍醐天皇が隠岐に流された後からの大逆転勝利ってわけです。
千早城の戦いと太平記
以上が、千早城の戦いのハイライトです。主に「太平記」を参考にしながら千早城の戦いを描いてみました。
太平記はその内容的に後醍醐天皇びいきの内容になっているので、楠木正成の強さが誇張されるようなストーリーで書かれていると考えられています。だから、楠木軍の兵力は少なめに、そして幕府軍の兵力はおそらく多めに記述されています。そっちの方が楠木正成の武勇を目立たせることができますからね。
この辺の事情は、平家物語で平家がディスられているのに似ています。
千早城の戦いと楠木正成
断水作戦のところで少し触れましたが、楠木正成は現地住民の協力を得て戦っていました。さらに地元の者が食料を千早城に密かに送っていた記録も残されています。千早城の戦いの勝利は全て楠木正成個人の功績に帰するものではなく、現地の人々の協力があってこそだったことは忘れてはいけません。古今東西、現地住民と連携したゲリラ戦は最強の戦略です。
また、楠木正成は伊賀国と密接な関わりを持っていたとも言われています。伊賀といえば忍者!実は鎌倉時代末期のこの頃から忍者的な人々は存在していて、伊賀の人々は諜報活動を得意としていました。そんな伊賀からの情報も、楠木正成を勝利に導いた一因かもしれません。おそらく、楠木正成は各地の倒幕の動きを正確に把握していたんじゃないかと思います。(だからこそ、長期戦になっても冷静に対処できた)
さらに楠木正成の戦法ですが、この数々の奇抜な戦法は、楠木正成が悪党として近隣と争い続ける中で取得した戦法なのではないか?とも言われています。
最後に。もしこの時代について少しでも興味があるようでしたら、マンガでも良いのでぜひ「太平記」を読んでみてください。解説本的なものを読むよりも絶対に面白いし頭にスラスラ入りますよ!
ちょっと古いですがマンガなら、以下の本がわかりやすくてオススメです。
このほか、元弘の乱の全体の流れについても記事にまとめてますので気になる方は参考にしてみてください。
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