多々良浜の戦い(南北朝時代)とは?簡単にわかりやすく紹介【足利尊氏VS菊池武敏】

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今回は、足利尊氏と菊池武敏が戦った多々良浜(たたらはま)の戦いについて紹介します。

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多々良浜の戦いまでの経過

本題に入る前に、多々良浜の戦いまでの戦乱の経過を整理しておきます。

 

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足利尊氏、後醍醐天皇の帰還命令を無視して鎌倉に居座る。
後醍醐天皇、命令を背いた足利尊氏を朝敵に認定。新田義貞に尊氏討伐を命じる。
1335年12月、足利尊氏と新田義貞が箱根・竹の下で衝突。足利尊氏勝利。
足利尊氏、そのまま京に逃げる新田義貞を追撃。後醍醐天皇は比叡山に避難。
足利尊氏、楠木正成・北畠顕家と戦うも連戦連敗。ボロボロになりながら西へ落ち延び、九州で再興を図る。

 

そして1336年3月、足利尊氏と後醍醐天皇に味方する菊池一族が戦った戦いが多々良浜の戦いとなります。

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菊池武敏と少弐頼尚〜多々良浜の戦いの主役たち〜

足利尊氏は九州に落ち延びると今の博多付近で勢力を保っていた少弐頼尚(しょうによりなお)という人物を頼りに勢力の挽回を図ります。

 

 

しかし、後醍醐天皇側に付いていた肥後の菊池武敏(きくちたけしげ)が尊氏を匿う少弐頼尚に襲い掛かります。

 

 

こうして少弐頼尚・足利尊氏VS菊池武敏という構図で多々良浜の戦いが始まるのですが、実は菊池氏と少弐氏の間には因縁の関係がありました。

少弐氏と菊池氏の因縁

時代は少しさかのぼって、鎌倉幕府が滅びた元弘の乱のお話。

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元弘の乱と言えば、楠木正成がチート級の活躍をした千早城の戦いや、新田義貞の鎌倉攻めなどが有名です。この頃、実は九州地方でも人々が鎌倉幕府派と後醍醐天皇派に分かれて争いが起こっていました。

 

 

九州では元寇(蒙古襲来)以降、鎌倉幕府の出先機関である鎮西探題が置かれていました。鎮西探題のトップには北条氏が就任。そして北条氏が九州一帯に影響力を持つようになると九州の有力者たちは鎮西探題を煙たがるようになります。

 

 

そんな中起きたのが、後醍醐天皇による倒幕運動でした。各地で起こったのと同様に九州でも「各地の倒幕運動に呼応して俺らもウザい鎮西探題ぶっ倒そーぜ!!」って話が浮上してきます。

 

 

 

1333年3月、菊池武時(きくちたけとき)という人物が九州各地に挙兵を呼びかけます。

【菊池武時】

 

菊池武時「少弐貞経さ、鎮西探題のこと嫌いだろ?一緒に挙兵して鎮西探題倒そうぜ!」

 

少弐貞経「いいね!やるやるー」

 

北条英時(鎮西探題のボス)「最近、者共が不穏な動きをしている。ちょっと菊池武時を呼び出して、探りを入れてみるか」

 

菊池武時「ヤバい、これ行ったら命消されるやつだ。ならば、いっそここで反乱を起こしてしまおう。少弐貞経、共に立ち上がろうぞ!」

 

少弐貞経「・・・。(京では鎌倉幕府軍が優勢のようだ。今北条と戦うのは得策じゃないな。悪いな菊池武時よ。)」

 

こうして少弐貞経は、菊池氏からの使者の首をとり、鎮西探題に報告しました。少弐貞経は菊池武時を裏切ったのです。

 

 

菊池武時「こんな奴を信用した俺がバカだった。こうなったら、菊池一族だけで北条英時に攻め入ってやるわ。味方などいなくても戦えるわ!!」

 

 

こうして1333年3月13日、菊池武時は少数で鎮西探題へと攻め入ります。この話は本題じゃないんですけど、もう少しお付き合うください(汗。

 

菊池武時は捨て身で北条英時に襲い掛かり、劣勢でありながら敵を最後の城(本丸)まで追い詰めます。

 

 

菊池武時「あと少しで北条英時を打ち取れるぞ!皆続けー!!!」

 

 

その時、城の背後から敵の援軍がやってきます。

 

少弐貞経「悪く思うなよ菊池武時。これが戦争というものだ」

 

 

こうして菊池武時は少弐氏や大友氏の率いる軍に討ち取られてしまいます。

*会話は私の妄想です。

 

 

さらに1333年5月に鎌倉幕府が滅んだのを知ると少弐貞経は、すかさず再び後醍醐側に寝返り、鎮西探題をぶっ倒すことになります。

 

 

変わり身の速さで乱世を乗り切った少弐貞経と、その少弐貞経に裏切られ攻め滅ぼされた菊池武時。

 

 

多々良浜の戦いはその両者の息子たち、少弐頼尚と菊池武敏との戦いでもありました。この両者の戦いは、単なる足利派と後醍醐派を超えた因縁の対決だったのです。

 

 

余談ですが、菊池武時には嫡男として菊池武重という人物もいました。この人物は、新田義貞と足利尊氏が戦った箱根・竹之下の戦いで、槍による集団戦法を戦場で本格的に導入した先駆者として有名。「菊池の千本槍」って言葉もあり、槍といえば菊池氏!という代名詞を作った男でもあります。

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多々良浜の戦い前哨戦〜菊池武敏の仇討ち〜

話が横道にそれてしまったので本題に戻ります。

 

 

父の命を奪った少弐氏が足利尊氏に寝返ったと聞いて、菊池武敏は少弐氏を討ち取ろうと考えます。このタイミングで菊池武敏が動いた理由はわかりませんが、おそらくはこんな理由だったのだろうと想像します。

 

少弐氏が尊氏に加担すれば少弐氏も朝敵となり、戦う正当な理由を得て憎き少弐氏を滅ぼすことができる!(さらに、勝てば恩賞も貰えるかもしれない!)

 

菊池氏が攻め込んでくることを知った少弐貞経は、息子の少弐頼尚に主力軍を与え、足利尊氏の元に向かわせ、自らは残った兵で決死の防衛戦に望みます。

 

 

九州地方では、後醍醐天皇を支持する者が多く、菊池武敏の兵力はたちまちに膨れ上がり、博多付近に陣を構えた少弐貞経はフルボッコ。

 

 

さらに、城内からも裏切り者が現れ、万策尽きた少弐貞経は自ら命を落とすことになりました。巧みな裏切りで戦乱の世を生き残った少弐貞経でしたが、最後はその裏切りによって命を奪われたのでした。

 

 

一応補足しておきますが、これまで裏切りを重ねてきた少弐氏ですが、決して悪者なんかではありません。

 

当時の人々にとって最大の関心ごとは「勝ち馬に乗って褒美をもらい、一族を繁栄させること」でした。その目的を達成するため、同じ主君に忠誠を誓う者もいれば、身を激動する時代の変化に委ねて飄々と生き残ろうとする者もいたというだけの話。いずれも一族を想っての行動であって、行動原理の根本は同じです。

 

 

「一族を守りたい!」という少弐氏のことを悪く言えるのは、実際に裏切られた菊池一族のみであり、私たちがそれを悪いと断言することはできないでしょう。

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【悲報】足利尊氏、自害しようとする

少弐頼尚と足利尊氏は多々良浜で勢いに乗る菊池武敏を迎え撃つことになりますが、状況は絶望的でした。

 

 

京で楠木正成&北畠顕家らにボコボコにされ、疲労困憊で命からがら多々良浜に辿り着いた尊氏の兵は500にまで減っていたと言われています。

 

 

さらに少弐氏も菊池武敏にボコボコにされた後であり、一方の菊池軍は大軍です。敗将2人が集まったところで菊池氏に勝てるわけがありません。

 

 

足利尊氏は、この絶望的な状況を目前としてこんなことを言い始めます。

 

足利尊氏「こんな戦い勝てるわけがない。いっそここで自害してしまおうと思う。」

 

 

そして、弟の直義がこれを諌めます。

 

足利直義「兄よ、戦は兵の大小のみで決まるものではありませんよ。あの源頼朝だって、石橋山の戦いで敗北して味方わずか数騎となった後で逆転して平家を滅ぼしたのです。今なすべきは敵と戦い機を伺うことです。ですから、早まった行動はやめて下さい。まずは私が敵と戦ってみせましょう。」

 

 

こうして足利直義は、敵陣に特攻を仕掛けます。この時の足利と菊池の兵力は、諸説ありますが、だいたい2千と2万だったと言われています。何れにしても菊池氏の方が圧倒的に優勢だったことは間違いありません。

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多々良浜の戦い!

太平記では、150騎を引き連れた足利直義は魚鱗の陣形で5000の菊池軍に命を賭しての特攻を試みました。

 

 

魚鱗の陣系とは三角形△の陣形で敵に突っ込む中央突破型の陣形。大将は三角形△の底辺である後方に構えます。背後や側面からの奇襲には弱いけど、一点集中の攻撃には有効で、少数の兵で敵の大将めがけて一点突破を狙う時なんかにオススメの陣形です。

 

 

 

この戦い、なんとわずか150の足利直義が勝利します。直義の気迫に押されて菊池軍が撤退してしまったのです。

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足利尊氏の策略「元弘没収返付令」

この菊池軍の撤退で戦局は大きく動きます。

 

 

このたった一回の敗戦で、菊池武敏を見限り、足利尊氏に寝返る者が大量に現れたのです。

 

 

先ほども話したように多く人々がこの時考えていたのは、「勝ち馬に乗って褒美をもらう!」ってこと。

 

 

九州の人々も例外ではなくて、みんな後醍醐天皇側の菊池氏に味方した方が得だろうとあくまで打算的に菊池武敏に協力していただけ

 

 

状況が変わればあっという間に敵に寝返る危険性を秘めていたんです。そして、このたった一回の敗戦で、多くの人が「足利尊氏についた方が良さそうだな」と思っちゃったわけなのです。

 

 

敗北したとは言え、多勢に無勢の状況は変わっていないし、菊池武敏の有利には変わりないはずなのに、なぜこんなことが起こったのでしょうか?

 

 

 

これは、足利尊氏が京から九州に逃げている間に発布していた「元弘没収地返付令(げんこうぼっしゅうちへんぷれい)」という命令の影響が大きかったのだろうと思います。

 

「元弘没収地返付令」。長ったらしい名前ですが、その中身はシンプルで簡単に言うと

 

「俺(尊氏)の味方になってくれたら、元弘の乱や建武の新政でめちゃくちゃになった所領を一旦リセットして、鎌倉幕府があった頃のように戻すことを認めてあげるよ。」

 

って内容。

 

 

これがもう武士たちに大歓迎!!

 

 

元弘の乱の際、鎌倉幕府に味方して、後醍醐天皇に所領を没収された人。後醍醐天皇に味方したけど恩賞を貰えなくて不満だった人。

 

 

それらの人々が、次々と尊氏へと寝返ったのです。

 

 

この政策は、当時の人々の不満を見抜いた上で行った尊氏の巧みな戦術であると同時に、背水の陣に立たされた尊氏の命を賭けた大博打でもありました。

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多々良浜の戦いと足利尊氏の英断

京で北畠顕家らに敗北した尊氏は、全滅の危機に直面していました。

朝敵のレッテルを貼られ上がらない兵の士気
「尊氏に勝ち目なし」と見て日に日に離反してゆく味方の兵たち
足利尊氏の本拠地である鎌倉から遠く離れたアウェイの地

 

足利尊氏は、一刻も早く崩壊した軍を立て直す必要がありました。そこで、味方の離反を防ぎ、逆に味方を増やすために考え出されたのが今紹介した「元弘没収地返付令」。

 

 

さらに、京から九州へ逃げる頃、これと同時に後醍醐天皇と対立していた持明院統の光厳上皇から院宣を貰って朝敵のレッテルを免れようとしていました。

 

 

そして、元弘没収地返付令と光厳上皇との接近の効果に期待しつつ、背水の陣で望んだ戦いが多々良浜の戦いでした。

 

 

足利尊氏は、九州に自らの基盤を持っていませんでした。アウェイの地に少弐氏だけを頼りにわずか500騎のみで九州に落ち延びたこと自体、尊氏の一世一代の大博打です。万が一、少弐氏に裏切られたら尊氏など瞬殺です。(まぁ、菊池氏と少弐氏との関係から少弐氏は簡単に裏切らないという尊氏の思惑もあったでしょうが・・・)

 

 

 

多々良浜の戦いの際に尊氏が「勝てるわけねーよ・・・」と弱気になって自害しようとしたという話をしましたが、状況的にはまさに弱音を吐きたくなるような絶望的な状態だったのです。

 

 

足利尊氏にできることは、自らの人望と元弘没収地返付令による敵の寝返りを信じて敵と戦い続けることだけ。弱みを見せてはいけません。劣勢に立たされていても常に「尊氏に寝返ったほうが良さそうだぞ」と敵に思わせないといけません。

 

 

そーゆー意味で、多々良浜の戦いでの足利直義の命を賭けた特攻は弱みを見せないために、非常に効果的でした。このような事情があったからこそ、わずか一回の菊池氏の敗北で、多くの敵が尊氏側に寝返ったのです。

 

 

こう考えてみると、

元弘没収地返付令や光厳上皇との接近と言った根回し
わずか500騎で身寄りのない九州へ逃げ込んだ尊氏の英断
劣勢にも関わらず、自らを大きく見せた多々良浜の戦いでの積極戦法

 

 

この全てが尊氏の意志によるものかはわかりませんが、多々良浜の戦いでの勝利は、結果的に足利尊氏軍の戦略と勇気に裏打ちされた勝利だったと言えそうです。

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多々良浜の戦いのその後

多々良浜の戦いでの足利尊氏の勝利は、その後の戦いの勝敗を決定づけるほど大きなものでした。

 

 

多々良浜の戦いでの尊氏の勝利が世間に知られるようになると、尊氏に味方するものはさらに増えます。わずか500騎で九州に落ち延びた尊氏は、気付けは大軍を率いるようになっており、圧倒的兵力で九州から再び京へ進軍を始めます。

 

 

多々良浜の戦いで勢力を挽回した尊氏はその後、今の神戸市付近で楠木正成・新田義貞軍と戦うも、ここでも勝利し、いよいよ京を奪還し、室町幕府を開くことになります。

 

 

全滅の危機にあった尊氏が大逆転に成功した、そのきっかけとなった戦いが多々良浜の戦いだったのです。

 

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