今回は、楠正成が大活躍した赤坂城(あかさかじょう)の戦いについて紹介します。
幕府軍は後醍醐天皇がいる笠置山を攻略すると、すぐさま楠木正成のいる赤坂城の攻略へと向かいます。
笠置山の戦いは、以下の記事で詳しく紹介してます!
赤坂城の戦いは、楠木正成の初戦となる戦いです。この時代、チート級の活躍をする楠木正成は、一体どんな戦いをしたのでしょうか。というわけで本題に入ります!
幕府軍「城はしょぼい。敵も少ない。余裕っしょw」
赤坂城は楠木正成が急造で造ったお城です。お世辞にも立派とは言えないお城。それに楠木軍の兵力はわずか500。
そして、一方の幕府軍はなんと30万!!( д) ゚ ゚
もうね、幕府軍はこう思うわけですよ「こんな戦い、一瞬で終わるやろ」と。
当然ですよね、兵力が違いすぎますし。そんなわけで余裕かましている幕府軍は、力任せで強引に城を攻め落とそうとします。ところがどっこい!楠木正成の手にかかれば、たった500の兵力でも赤坂城の難攻不落の城に変えてしまうことができるんです。
楠木正成は屈強な弓兵200を城内に、残り300人を城外に潜ませ、敵が崖に囲まれた道を通るのを待ち伏せ。タイミングを見計らって、櫓から一気に弓矢を放ち敵1000人を討ち取ります。
この奇襲にビビった幕府軍は一旦退却。赤坂城がただのしょぼい城ではないことを知った幕府軍は長期戦も想定し、城の近くに陣を構え始めました。
その陣営で幕府軍が、馬を置き鎧を脱いで休んでいるところを楠木正成は見逃しません。300の楠木軍が東西2つに分かれて挟み撃ちで奇襲したのです。
無防備な状態での奇襲に幕府軍は蜘蛛の子を散らすように敗走。初戦は楠木軍の圧倒的勝利に終わりました。
「赤坂城は東側こそ山があって難所だけど、残り三方は平地で城は一重の堀(ほり)と塀(へい)に囲まれているだけである。それならば、その三方向から一気に城に攻め入れば、赤坂城を陥落させることができるだろう!」
こう考えた幕府軍は、三方向から一気に城に攻め入ります。しかし、城の中は静かで敵兵も一向に現れない。「流石の楠木も大軍にビビって逃げたか!?」そんな風に調子乗って、塀を登ろうとしたその時、遂に楠木軍が動きます。
実は、赤坂城の塀には細工が仕掛けてありました。塀が2重となっていて、外側の塀は縄を切ると、崩れ落ちるようになっていたんです。敵が塀に手をかけた時、楠木正成は縄を切り、塀を崩れ落とさせました。
すると、そこに手をかけていた幕府軍たちはひとたまりもありません。幕府軍は塀もろとも崖に落下し、多くの死傷者が出ました。その時の様子が下の絵。
しかも、塀を崩すと同時に楠木軍は城から大木や岩を投げ込み、敵を完膚なきまでに叩き伏せました。
この後、4、5日の間は幕府軍も赤坂城を攻めあぐねていましたが、その後、再び城壁によじ登ろうとすると、次は城から熱湯が降り注いできます。命を落とすものこそ少なかったものの、火傷によって戦線を離脱するものが後を絶ちません。温めた糞尿と言う説もあるようですが、ここではあまり触れません(意味深)。
正攻法で攻めては兵を無駄に犠牲にするだけだと、悟った幕府軍は遂に力攻めでの赤坂城攻略を断念。城の周囲を囲んで兵糧攻めとすることにします。楠木正成が只者ではないということを幕府側もようやく理解したわけです。
赤坂城、陥落!!
赤坂城は、楠木正成が急造したお城。食糧の用意は完璧ではありませんでした。幕府軍の兵糧攻めが始まってから約20日。城の食糧が底を突き始めます。
そんな状況の中、楠木正成もこれ以上の籠城は諦め、撤退すること決めます。
楠木正成「これまで多くの敵を滅ぼしてきたが、兵力が多いゆえ、敵は一向に衰える気配はない。それに加え食糧も尽きてきた。
皇軍として戦う以上、命を惜しむべきではないが、事態を冷静に分析し、計略を練ることこそ勇将のあるべき姿である。だから、赤坂城を捨てて楠木正成は自害をしたふりをしようと思う。
この楠木正成が亡くなったと知れば、敵は大いに喜び軍を引くであろう。その隙を狙って再び私は幕府軍と戦う。そして、また状況が悪くなれば逃げて機を伺う。これを繰り返せば、幕府軍も耐えられんだろう。」
こう言って、楠木正成は赤坂城からの撤退準備を開始します。
大きな穴を掘り、20〜30の屍をそこに埋め、その上に炭や薪を置き、雨風が降り続くのを待ち続けます。(逃げるときに雨風が吹いていた方が敵にばれにくいため)
そして、雨風の降り続く当日、赤坂城に1人を残して、楠木軍はチリジリになって城を脱出しました。みな兜・鎧を脱ぎ捨て、幕府軍の中に紛れ込み、密かにそれぞれの逃げるべき場所に落ち行きました。
楠木正成も敵にバレそうになるもかろうじて赤坂城を脱出。みんなが逃げ切った頃合いをみて、赤坂城に残っていた1人が城に火をつけます。
赤坂城が燃えているのを見た幕府軍は、今こそチャンス!とばかりに城に駆け込みますが、赤坂城はすでにもぬけの殻。城には大量の焼けた屍だけが大量に残っているのみでした。
幕府軍は、屍の山を見て、楠木正成が自害したものと勘違い。
「あぁ、あはれなり。楠木正成は早くも自害した。敵ながら立派な最期であったなぁ」と幕府軍はその最期を褒め称えたました。
赤坂城の戦い〜終〜
こうして、赤坂城の戦いは終わります。1331年10月下旬の話です。
ちなみにこの頃、備後国(びんごの国。今でいう兵庫県付近)では備後国の桜山茲俊(さくらやまじしゅん)という男が倒幕運動を続けていましたが、笠置山、そして赤坂城の陥落を知ると、自害し、備後国の倒幕運動も鎮圧されてしまいました。
戦い自体は幕府軍の勝利で終わるわけですが、全ては楠木正成の想定通り。楠木正成は戦いには負けても、勝負には負けていません。
その後、楠木正成は姿を隠しますが、1332年に再び挙兵。同年には、護良親王も再び倒幕運動を再開しており、元弘の乱はいよいよクライマックスへと近づいていくのです。
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