【新田義貞が剣を海に捧げて潮を引かせようとする場面】
今回は1333年5月に起こった新田義貞(にったよしさだ)による鎌倉攻めについて紹介します。
この新田義貞の鎌倉攻めにより鎌倉幕府は滅亡し、3年間続いた元弘の乱に遂に終止符が打たれることになります。つまり、新田義貞の鎌倉攻めは鎌倉時代の最期を飾った戦いってことです。
新田義貞の鎌倉攻めは、そんな1つの時代の終わりに相応しい壮絶な戦いとなりました。
新田義貞の鎌倉攻めまでの流れを確認する
まずは、新田義貞が鎌倉を攻めるまでの経過を簡単にまとめておきます。元弘の乱全体のハイライトは以下の記事でも整理してますので、参考にしてみてください。
1331年8月に後醍醐天皇の倒幕計画が幕府に漏洩すると、1331年9月、後醍醐天皇は奈良市の北東部にある笠置山に篭り、幕府と対峙することになります。これが元弘の乱の始まり。
が、この戦いは後醍醐天皇の敗北に終わり、1332年3月、後醍醐天皇は隠岐に島流しに。1333年2月になると、楠木正成が千早城で幕府の大軍と大激戦!
楠木正成が千早城に敵軍を釘打ちにしている間に、後醍醐天皇は隠岐を脱出し、各地で次々と倒幕の狼煙が上がり始めます。
遂には幕府軍の中枢にも裏切り者が現れ、その代表人物が足利尊氏とこの記事の主役である新田義貞でした。
1331年5月7日、鎌倉幕府を裏切った足利尊氏が六波羅探題を滅ぼすと、その翌日の5月8日、次は関東で裏切った新田義貞が鎌倉めがけて挙兵!
こうして鎌倉幕府滅亡のクライマックス、新田義貞の鎌倉攻めが始まります。
なぜ新田義貞は鎌倉幕府を裏切った?
ところで、新田義貞はなぜ鎌倉幕府を裏切ったのでしょうか?
簡単に言ってしまうと「平氏の血を引く北条氏に、源氏の血を引く新田氏が服従しなきゃいけない今の境遇にもう耐えられん!!」と思ったから。
太平記に沿って、その辺の話をもうちょっと詳しく見てみます。
実は新田義貞、1333年5月に関東で挙兵していますが、2月には楠木正成の篭る千早城を幕府軍の一員として攻撃していました。この戦闘中に新田義貞は、鎌倉幕府を裏切ることを決意したと言われています。
新田義貞「古来より、源平は朝廷に仕えてきた。平氏が世を乱す時は源氏がこれを鎮め、源氏が上をないがしろにする時は、平氏が世を治めてきた。鎌倉幕府トップの北条高時の振る舞いを見るに、北条氏の滅亡は近い。ならば、いっそここで後醍醐天皇のためにお仕えし、源氏の再興と言う長年の志を果たそうではないか!!」
新田義貞は密かに後醍醐天皇側と密通し、1333年3月になると戦いの途中にも関わらず、病気と偽って関東へ戻ってしまいます。
関東に戻るとすぐに、新田義貞は鎌倉幕府からの厳しい兵糧米の取立てに迫られます。鎌倉幕府に愛想が尽きていた新田義貞はこの乱暴な取立てにブチギレ!幕府から送られていきた使者2名を刀でスパッとやってしまいました。
新田義貞「いずれ鎌倉幕府を裏切ってやろうと思ってたけど、どうせ使者を切ってしまったんだ。ならば一刻も早く、裏切り鎌倉を攻めてやろう!!」
こう奮い立った新田義貞は1333年5月8日、いよいよ関東にて挙兵したのです。
新田義貞の鎌倉攻め、連戦連勝!
新田義貞の本拠地は新田荘と呼ばれ、今の群馬県と埼玉県の県境あたり(猛暑で有名な熊谷市からちょっと北西に行ったあたり)にありました。
新田義貞はここから南下して鎌倉へ目指します。新田荘を飛び出した当時はわずか150騎だったと言われています。
わずか150で鎌倉に攻め込むとは無謀に感じるかもしれませんが、新田義貞が鎌倉へ向かっている途中、鎌倉幕府に不満を持つ者が次々と新田義貞の味方となりました。
同じく寝返った足利尊氏の嫡男だった足利義詮(あしかがよしあきら)と合流すると、味方は一気に増え、兵力は20万にもなったと言われています。足利尊氏と新田義貞、それぞれ単独で挙兵したわけではなく、詳細は不明ながらも連携があったのでしょうね。
大軍になった新田義貞軍は、その後も度重なる戦いで連戦連勝。
あっという間に鎌倉付近まで接近することになります。
鉄壁の守備!鎌倉の切通(きりとおし)
鎌倉という土地は、南は海、残り三方を山に囲まれた天然の要塞です。簡単には攻め落とせません。
源頼朝が鎌倉を本拠地にしたのは父の故郷だったこともありますが、地勢上非常に守備に有利な土地だったことにも理由があります。
しかし、その鉄壁の守備ゆえに鎌倉は人や物資の行き来にはとても不便な場所でもありました。RPG風に言えば、守備力は高すぎだけど、素早さはダメダメだったのわけです。
そのため、鎌倉を囲む山々には、山を切り開いて通路が造られました。この鎌倉の内と外を結ぶ切り開かれた山道は切通(きりとおし)と呼ばれ、鎌倉の交通の要所となります。
鎌倉には7つの切通があり、新田義貞はそのうちの3つの切通を狙って鎌倉に攻め込みました。
新田義貞が動いたのは5月18日。軍を3手に分けて、それぞれ鎌倉へ攻め込みました。
の3つの部隊です。それぞれの切通の場所は以下の地図で確認してみてください。
赤いマークの部分が新田義貞が攻め込んだ切通で、左下から順に極楽寺坂・化粧坂・巨福呂坂となっています。新田義貞は鎌倉の西方面から攻め込んだわけです。
切通は鎌倉の交通の要所ですから、もちろん鎌倉幕府もそこを重点的に守ります。こうして、極楽寺坂、化粧坂、巨福呂坂ではそれぞれ以下のような構図で激戦が繰り広げられることになりました。
【新田軍】 | 【幕府軍】 | |
極楽寺坂 | 大館宗氏、江田行義 | 大仏貞直 |
化粧坂 | 新田義貞、脇屋義助 | 金沢貞将 |
巨福呂坂 | 堀口貞満、大島守之 | 赤橋守時 |
ちなみに、金沢氏も大仏(おさらぎ)氏も赤橋氏も3人ともみんな北条氏の人たちです。この頃になると一言に北条氏と言っても様々な分家があったのです。
さらに補足すると幕府軍の大将に北条氏しかいないのは、当時の幕府の政治は北条氏嫡流の北条高時を中心に北条氏によって支配されていたから。この状況に北条以外の一族は大いに不満だったわけです。
では、それぞれの戦いについてサクッと見ていきましょう。
新田義貞の鎌倉攻め〜巨福呂坂の戦い〜
巨福呂坂で鎌倉を守るのは赤橋守時(あかはし もりとき)。
実は赤橋守時、妹がいて、その妹の嫁いだ先がなんと幕府を裏切った足利尊氏!!
赤橋守時は、幕府のトップ北条高時に「赤橋守時も裏切るんじゃねーか?」と疑われることを恥じ、そのような卑怯な考えがないことを身をもって示すため、死を覚悟して全力で巨福呂坂防衛戦に臨みます。
その赤橋守時の覚悟のおかげなのか、新田軍は最期まで巨福呂坂を攻略できません。むしろ、序盤は赤橋に押されるほどでした。
新田義貞の鎌倉攻め〜極楽寺坂の戦い〜
極楽寺坂を守るのは大仏貞直(おさらぎ さだなお)。ちょっと変わった名前の人物です。
ここでも新田軍は大苦戦。というか、切通での戦いは地の利が完全に幕府側にあったので、新田軍がいくら大軍とは言え、接戦となることは必須です。
新田軍の大将である大館宗氏(おおだち むねうじ)までもが討ち取られ、新田軍は劣勢に立たされました。
新田義貞の鎌倉攻め〜化粧坂の戦い〜
化粧坂を守るのは、金沢貞将(かなざわ さだゆき)。
【金沢貞将。若い!】
一方の新田軍は、総大将の新田義貞(にった よしさだ)とその弟の脇屋義助(わきや よしすけ)。
【新田義貞】
この化粧坂でも、新田軍は苦戦します。鎌倉という土地は切通さえ守り抜けばまさに鉄壁の要塞だったんです。
しかも、金沢貞将相手に苦戦している間に極楽寺坂での大館宗氏の敗死の情報が伝わってきます。大館宗氏は、極楽寺坂攻略部隊の大将です。その大将がいなくなれば、極楽寺坂攻略部隊の指揮・統率できなくなるわけで、新田義貞は自ら極楽寺坂攻略部隊を指揮するべく、化粧坂を弟に託して極楽寺坂へと向かいます。
【悲報】新田義貞、胡散臭い
極楽寺坂に向かうと確かに敵は強い。極楽寺坂を攻略するのは困難と見た新田義貞は、鎌倉攻めの活路をその南の海岸沿いにある稲村ヶ崎に見出します。
険しい切通が攻め落とせないなら、海岸沿いから鎌倉に侵入してやろうという魂胆です。
もちろん、敵がそれを許すわけがありません。沖には船が浮かんでおり、海岸線を通ろうものなら、船からの弓矢でボコボコにされること間違いなしです。
しかし、新田義貞はウルトラCの超裏技ワザを使ってこの難局を乗り越えることになります。
新田義貞は潮が引くことを念じ、こんなことを唱えます。
新田義貞「日本国創設の主、天照大神は大日如来の化身であり、大海原の龍神に姿を変えて現れたと言われております。今、天照大神の子孫であるわが君、後醍醐天皇は、逆臣北条によって隠岐に流されておりました。そして私、新田義貞は君に忠義を尽さんとし、敵陣に臨んでおります。願わくば、龍神を始めとする八部衆の神々よ。どうか私のため、道を開いてください」
こう言って金で飾った刀を海に沈めると、なんと!本当に潮が引き始めたのです。
潮が引くと潮の流れにつられ、幕府軍の軍船は沖から遠く離れていきます。新田義貞はここぞとばかり、稲村ヶ崎から海岸沿いを伝って由比ヶ浜へ出て、そこから鎌倉に猛攻撃を仕掛けました。
こうして、遂に鎌倉の防衛戦線は破られ、戦場は鎌倉の市街地へと移っていきます。
・・・まぁ、さすがに剣を捧げたら潮が引いたって話は作り話でしょうけどね。
潮の満ち引きを利用したのは事実かもしれませんが、神に祈るシーンは太平記の脚色でしょう。「神よ、道を開きたまえ!」でズゴゴゴッと道が開けたら、もはやドラクエの世界ですし(汗。
でも、読み物としては新田義貞が神のご加護まで手に入れた最終決戦に相応しい名シーンになっているので、それはそれで良いのです。ちなみにその時の新田義貞の様子がこちら↓
東勝寺合戦、鎌倉幕府滅亡へ
こうして、戦場となった鎌倉の市街地の様子は凄惨を極めました。火で覆われる鎌倉、逃げ場を失って次々と新田軍に討たれる兵士たち、そして逃げ遅れ倒れている女子供のその姿。鎌倉は、まさに地獄絵図そのものとなったのです。
新田軍の方が兵力では優っていますから、どこか1箇所でも鎌倉侵入を許してしまうと、どうしても幕府軍は脆かったのです。
火は北条高時邸にも及び、北条高時は一族を引き連れて北条氏の菩提寺だった東勝寺に避難します。菩提寺とは、亡くなったご先祖を弔うお寺。菩提寺に逃げ込んだ時点で、もう死亡フラグが立ちまくってます。
既に多くの者が運命を悟る中、長崎高重(ながさきたかしげ)という人物が一矢報いんと最後の特攻を試みました。
長崎高重は150騎を引き連れ、笠印(かさじるし。敵味方を見分ける目印のこと)を捨てて、敵の総大将である新田義貞のもとへ向かいます。笠印を捨てたのは敵である事を隠し新田義貞に近づくためです。
しかし、これは失敗します。そもそも笠印を付けていない事自体が怪しいのです。気付かれてしまえば、敵に囲まれた長崎高重は逆に袋の鼠です。150騎で新田義貞めがけて捨て身の戦いをしますが、生き残ったのは8名のみ。
特攻に失敗し、東勝寺に戻った長崎高重は北条高時に最後の戦況報告を行い、「まずは、私が切腹の手本を見せようぞ!」と北条高時の前で壮絶な死を遂げることになります。
その後、みんな次々と長崎高重の後に続き、遂には北条高時も自害。こうして約150年続いた鎌倉幕府は遂に滅亡してしまったのです。
1333年5月22日、新田義貞が挙兵してからわずか2週間後の出来事でした。
極楽坂を守っていた大仏貞直は、戦地から北条高時邸が炎上しているのを見て多くの者が自ら命を絶つ中、
「(自ら命を絶つ行為は)日本一の不心得者のすることだ。千騎が一騎になったとしても、敵を倒し続け後世に名を残すことこそが、武士の誉である。そうであるならば!潔(いさぎよ)く最後に一合戦を交えて後代の者に義を伝えようではないか」
と言って、わずか250騎余りで敵陣へ特攻。新田義貞の弟の脇屋義助の大軍によって全滅。
化粧坂を守っていた金沢貞将は北条高時のいる東勝寺に戻り、これはもう1日とて耐えきれないだろうと悟ると、「我が百年の命を棄て、君(北条高時)が一日の恩を奉ず」を紙に残し、敵陣へ特攻し朽ち果てました。
このように、皆関東武士の名に恥じぬ最期を遂げていったのです。太平記では、この辺りの壮絶な鎌倉武将たちの最期が実に細かに描かれています。
新田義貞の鎌倉攻めまとめ
新田義貞の鎌倉攻めについてまとめて見ました。この戦いの後、鎌倉幕府滅亡の知らせを受け取った後醍醐天皇は、船上山(せんじょうさん。今の鳥取県琴浦町)から京へ帰還し、有名な建武の新政が始まります。
また、この時に鎌倉から脱出していた北条高時の息子である北条時行は、北条氏復権のため後に中先代の乱と呼ばる戦を起こすことになります。
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