

今回は宝治合戦(ほうじがっせん)について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!「なぜ起きたのか」「宮騒動って何?」「三浦泰村ってどんな人?」まで全部まとめているから、テスト前にもぜひ読んでみてね!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応
「宝治合戦=北条時頼が三浦氏を謀略で滅ぼした事件」——そう思っている方は多いかもしれません。
実は、三浦氏を滅ぼす戦いを強引に仕掛けたのは、北条時頼ではなく、高齢の老武士・安達景盛でした。執権の時頼はむしろ平和的な解決を望んでいたとも伝わっています。鎌倉幕府の命運を変えたこの合戦の「真相」を、じっくりひも解いていきましょう。
宝治合戦とは?
- 1247年(宝治元年)、鎌倉幕府内で起きた三浦氏vs北条氏の権力闘争
- 安達景盛が主導し、三浦泰村一族が鎌倉・法華堂で自害して全滅
- この結果、北条氏の得宗専制体制が完成した
宝治合戦とは、1247年(宝治元年)6月に鎌倉幕府内で起きた、三浦泰村を当主とする三浦氏と、北条時頼・安達景盛を中心とする北条・安達連合軍との武力衝突です。
戦いは半日ほどで決着し、敗れた三浦泰村・光村ら一族郎党約500人が、源頼朝の墓所である法華堂に籠もって全員自害。鎌倉幕府の有力御家人だった三浦氏は、この日をもって滅亡しました。
この事件によって、北条氏に対抗できる勢力が幕府からほぼ姿を消し、北条氏嫡流(得宗家)による独裁体制=得宗専制が確立していくきっかけになりました。事件は「三浦氏の乱」とも呼ばれます。

読み方は「ほうじがっせん」が正解だよ!「ほうちがっせん」「宝地合戦」「法治合戦」と書かれていることもあるけど、これは全部まちがい。「宝治」は元号で、1247〜1249年に使われた年の名前なんだ。事件はその「宝治元年」に起きたから、こう呼ばれているんだよ。

三浦氏って、たしか源頼朝のころから鎌倉幕府を支えてきた有名な御家人だよね?なんで急に滅ぼされちゃったの?

いいところに気付いたね!三浦氏はもともと頼朝の挙兵を助けた超古参の御家人で、北条氏に次ぐくらい強い一族だったんだ。だからこそ「次に幕府を乗っ取るとしたら三浦氏だ」って警戒もされていたんだよ。その火種は、宝治合戦の前年に起きた「宮騒動」って事件で一気に燃え上がっちゃうんだ。
宮騒動とは?宝治合戦の「導火線」
宮騒動とは、1246年(寛元4年)、前将軍・藤原頼経が一部の御家人と結んで、執権・北条時頼を倒そうとして失敗した政争のことです。
頼経は1244年にすでに将軍職を息子の頼嗣にゆずっていましたが、本人は「大殿」と呼ばれて鎌倉に残り、幕府内に隠然たる影響力を保っていました。この頼経を担いで時頼政権をひっくり返そうとしたのが、北条氏の一族・名越光時たちです。
ところが計画は事前に時頼側に察知され、首謀者の名越光時は出家して伊豆へ追放、頼経も将軍御所を追われて京都に送り返されてしまいます。この騒動の中で、三浦氏が頼経派とつながっていたのではないかという疑いが浮上しました。これが翌年の宝治合戦の直接の「導火線」となります。
宮騒動のポイント:前将軍・藤原頼経+名越光時ら反時頼派が、執権・北条時頼を倒そうとして失敗。頼経は京都へ送還、三浦氏は「黒幕」として疑われた

宮騒動って、将軍をクビにした事件ってこと?ちょっとごちゃっとしててむずかしい…!

ざっくり言うと「引退したのに口出ししてくる元将軍と、それを担いだ反主流派が、執権・時頼にクーデターを仕掛けようとして失敗した事件」だよ!今でいうと、引退した社長が一部の役員と組んで、現社長を追い出そうとしたけどバレちゃった——みたいなイメージ。問題は、このとき三浦氏も頼経側だったんじゃ?って疑われたことなんだ。
実際、三浦光村は前将軍・頼経と非常に親密で、京都へ送り返されるときも光村は涙ながらに「いつか必ず鎌倉へお迎えします」と誓ったと『吾妻鏡』に記されています。この一件で「三浦氏はいずれ時頼に弓を引くつもりではないか」という疑念が、安達景盛をはじめとする北条派の中に深く根を下ろしていきました。
宝治合戦はなぜ起きた?背景と原因
宝治合戦が起きた原因を一言でまとめると、「三浦氏と北条氏の長年の対立に、宮騒動の不信感と、安達景盛の強硬論が一気に加わって爆発した」ということになります。順番に見ていきましょう。
対立①:三浦氏 vs 北条氏——源頼朝以来の勢力争い。三浦氏は得宗家に次ぐ実力をもち、常に「次のライバル」として警戒されていた
対立②:三浦泰村 vs 安達景盛——宮騒動で生まれた「三浦氏は頼経と組んでいた」という疑念。安達氏は北条氏の側近として三浦氏を激しく敵視した
■ 源頼朝以来くすぶり続けた三浦vs北条の因縁
三浦氏は相模国(現在の神奈川県)の三浦半島を本拠地とする有力武士で、三浦義明・義澄の代から源頼朝に従って鎌倉幕府の創設に貢献しました。義澄の子・三浦義村は、執権・北条義時と並ぶ幕府の最有力者として「両執権」とまで呼ばれた人物です。
しかし、強力すぎる御家人は北条氏にとって常に脅威でもあります。比企氏・畠山氏・和田氏など、かつて鎌倉幕府を支えた有力一族は次々と北条氏に滅ぼされてきました。三浦氏もいつか、その「整理対象」の最後の砦になる運命だったのです。
■ 宮騒動で深まった不信感
そこに前章で触れた宮騒動が重なります。当主の三浦泰村は事件の直接的な関与を否定しましたが、弟の光村が前将軍・頼経と深くつながっていたのは事実。北条派から見れば「三浦氏全体が黒幕」と見えてもおかしくありません。
泰村は時頼にひたすら忠誠を誓い、いったん事態は沈静化したかに見えました。しかし、表面上の和解の裏で、両家の不信感は確実にふくらんでいたのです。
■ 高齢の老武士・安達景盛が高野山から帰還
そこに決定的な一手を打ったのが、安達景盛でした。景盛はかつて源頼朝の側近として活躍した重鎮で、北条時頼の外祖父(母方の祖父)にあたる人物です。生年は不詳ですが相当の高齢で、すでに25年以上にわたって高野山で出家生活を送っていたといわれます。
その景盛が、宝治元年(1247年)の春、突然鎌倉に戻ってきました。目的はただ一つ——「三浦氏に先手を打って、安達氏を守ること」。景盛から見れば、宮騒動を引きずる三浦氏を放置すれば、必ずいつか自分たちが滅ぼされる。だったら、まだ時頼が執権で、自分も生きているうちに決着をつけるしかない、というわけです。

三浦氏をこのまま放置すれば、いずれ安達氏が先に滅ぼされるだろう。年寄りのわしが言うのだ、まちがいない。運否天賦——天運に賭けてでも、ここで戦うしかないのだ!

「運否天賦」っていうのは「天運に身をまかせて、運がよければ勝つしかない」って意味の言葉。要はイチかバチかの賭けだね。執権の時頼は最後まで和平を模索していたんだけど、外祖父である景盛のおじいちゃんに強硬に押し切られて、最終的に開戦を黙認することになっちゃうんだ。
宝治合戦の主要人物
宝治合戦の登場人物は、ざっくり覚えるなら「三浦泰村・三浦光村・安達景盛・北条時頼」の4人です。それぞれの立場と思惑を押さえると、事件の流れがぐっと理解しやすくなります。
■ 三浦泰村(みうらやすむら)——悲劇の総大将
三浦泰村は三浦氏の当主で、宝治合戦時には43歳前後(1204年生まれ説による)。父・三浦義村の跡を継ぎ、評定衆(幕府の最高政務機関のメンバー)として幕政の中心にいた人物です。北条泰時の娘を妻にむかえるなど、北条氏とは姻戚関係でも結ばれていました。
性格は穏健で、戦いを避けたいタイプ。安達景盛が挑発を仕掛けてきても、泰村は最後まで「戦は避けたい」と和平交渉に望みをかけました。しかし、北条派の強硬論を抑えきれず、ついに兵を集めて法華堂に立てこもり、一族とともに自害して果てます。

頼朝様が開いたこの鎌倉の地で、命を終えるのだ。北条殿に恨みはない。武士として、ただ武士らしく生きた——それでよい。
■ 三浦光村(みうらみつむら)——強硬派の弟
三浦光村は泰村の弟で、宝治合戦時には43歳前後。前将軍・藤原頼経の側近として絶大な信頼を得ており、宮騒動のあとも頼経の鎌倉復帰を夢見ていた、強硬派の中心人物です。
合戦の最期では、法華堂に籠もった後、自分の顔を刀で切り刻んだという衝撃的な逸話が残ります。理由は「死後に首級を取られたとき、敵に自分の顔を見せて恥をかきたくない」というもの。光村の激しい気性と、北条氏への執念が伝わるエピソードです。

兄者が和平などと甘いことを言うから…!あのとき決断していれば、三浦氏が幕府の頂点に立てたものを…!この顔、敵にさらしてなるものか——!
■ 安達景盛(あだちかげもり)——宝治合戦の仕掛け人
安達景盛は源頼朝・頼家・実朝の三代に仕えた古参の御家人で、執権・北条時頼の母(松下禅尼)の父、つまり時頼の外祖父にあたります。宝治合戦のときには生年不詳ながら相当の高齢で、すでに出家して高野山に入っていた老武士でした。
三浦氏の勢力を放置すれば、いずれ安達氏が逆に滅ぼされる——そう確信した景盛は、高野山での隠居生活を切り上げて鎌倉に帰還し、息子・義景や孫・泰盛を叱咤激励して開戦を主導します。和平を望む時頼を最終的に押し切ったのは、まさにこのおじいちゃんの執念でした。
■ 北条時頼(ほうじょうときより)——板挟みの執権
北条時頼は鎌倉幕府の第5代執権で、宝治合戦時には20歳の若き為政者でした。父は北条時氏、祖父は名執権として知られる北条泰時。後年「廻国伝説」が伝えられるほど名君として慕われた人物です。
宝治合戦の前、時頼は三浦泰村と何度も書状をやり取りし、和平の道を探っていたといわれます。しかし外祖父・安達景盛の強硬論には逆らえず、最終的には合戦を「黙認」する形で安達軍の挙兵を許しました。事件後は冷静に幕政改革を進め、引付衆の設置など、得宗専制の基礎を築いていきます。

北条時頼って和平派だったの?意外!教科書だと「北条氏が三浦氏を滅ぼした」って単純に書いてあった気がする…。

そうなんだよ、ここがこの事件の面白いところ!『吾妻鏡』を読むと、時頼は合戦前日まで三浦泰村に「戦はやめよう」って手紙を送っていたんだ。最後は外祖父のおじいちゃん(景盛)の強硬論に押し切られた格好になっていて、「時頼の意志による粛清」というより「景盛の暴走を時頼が止めきれなかった事件」って読み方もできるんだよ。
宝治合戦の経過
宝治合戦は、ある日突然爆発したわけではなく、挑発→交渉決裂→奇襲→籠城・自害という、まるでドラマのような段階を踏んで進んでいきます。
■ 立て札嫌がらせ——開戦前夜の挑発
宝治元年(1247年)の春から夏にかけて、鎌倉の三浦邸近くには、安達景盛の指示と伝わる挑発の立て札が次々と立てられました。「三浦氏は逆心あり」「やがて誅殺されるべし」といった内容で、明らかな宣戦布告寸前の嫌がらせです。
三浦泰村はあくまで冷静に対応し、執権・時頼に「自分には謀反の意志はない」と訴えました。時頼も「景盛の暴走であって、自分の意志ではない」と返答し、両者の間で何度も和平交渉が行われます。一時はほぼ合意に達したという記録もあります。
📌 不吉な前兆:宝治合戦の直前、鎌倉では「羽蟻の大群」「由比ヶ浜の赤潮」「夜空に流れる彗星」など、奇妙な現象が続いたと『吾妻鏡』に記されている。当時の人々は天変地異を「大事件の予兆」と恐れ、宝治合戦の悲劇を「あの不吉な前兆が当たった」と語り伝えた。
■ 奇襲と籠城——1247年6月5日
しかし、和平合意の直前、ついに事態は動きます。1247年(宝治元年)6月5日、安達景盛の指示を受けた子の義景・孫の泰盛ら安達一族が、独断で三浦泰村邸に攻め込みました。完全な奇襲です。
不意を突かれた三浦氏は、激しく抵抗しながらも徐々に押し込まれていきます。泰村は一族郎党を率いて屋敷を脱出し、源頼朝の墓所・法華堂へと退却しました。頼朝が祀られた神聖な場所に立てこもることで、追討側に「神域を攻めるのか」とためらいを起こさせる狙いがあったといわれます。
■ 法華堂の自害——三浦一族の最期
しかし、安達軍と北条軍は容赦なく法華堂を包囲します。三浦泰村は弟・光村らとともに頼朝の像の前に座り、「頼朝公の御前で命を終える」と覚悟を決めて自害しました。供をしたのは一族の武士たち約500人。鎌倉幕府創設以来の名門・三浦氏は、ここに完全に滅亡します。
三浦光村は、自害の直前に自分の顔を刀で切り刻んだと『吾妻鏡』に記されています。死後に首を取られて晒されたとき、誰の首かわからないようにするため——という壮絶なエピソードです。光村の最後の言葉は「来世でもう一度、頼経様にお仕えしたい」だったと伝わります。

三浦光村が自害のとき自分の顔を傷つけたって、本当の話なの?ちょっとリアルすぎてぞっとする…。

『吾妻鏡』っていう幕府の公式記録に載っている話だよ。当時の武士にとって、首を取られて顔をさらされるのは最大の恥だったんだ。だから光村は「敵にこの顔を見せてたまるか!」って気持ちで自分の顔を傷つけたんだね。ただ、『吾妻鏡』は北条氏寄りに書かれている部分もあるから、ここまで激しいエピソードが本当にそのまま史実なのか、研究者の間でも議論があるよ。
宝治合戦の詳細を私たちが知ることができるのは、ほぼ『吾妻鏡』のおかげですが、この史料は鎌倉幕府末期に北条氏の立場でまとめられた経緯があります。そのため「景盛の暴走説」や「光村の激情エピソード」も、北条氏に都合よく演出されている可能性が指摘されています。記録は鵜呑みにせず、複数の研究を見比べる視点もぜひ持っておきたいところです。
宝治合戦の結果と影響——北条氏専制体制の完成

宝治合戦は、ただの「鎌倉での内輪もめ」では終わりませんでした。三浦氏という巨大な対抗勢力が一夜で消えたことで、鎌倉幕府の権力地図が一気に書き換えられたのです。
三浦氏は、源頼朝が鎌倉に幕府を開いて以来の最大の御家人。所領は相模・上総・下総・河内など全国に広がり、その勢力は北条氏に次ぐ規模だったといわれます。宝治合戦ではこの三浦本宗家がほぼ滅亡し、一族郎党あわせて500人以上が法華堂で命を落としました。
■ 三浦氏滅亡が鎌倉幕府にあたえた衝撃
三浦氏の滅亡は、ほかの御家人たちにも強烈なメッセージを送りました。「北条氏に逆らえば、頼朝以来の名門でも一夜で消える」——このプレッシャーは絶大で、以後、御家人たちは北条氏に正面から対抗することができなくなっていきます。
つまり宝治合戦は、源頼朝が築いた「有力御家人の合議で幕府を運営する」という鎌倉幕府本来の体制が、事実上終わった瞬間でもあったのです。
宝治合戦の最大の意義:御家人の中で北条氏への対抗勢力がほぼ消滅し、鎌倉幕府は「北条氏による一元支配」(得宗専制)の体制へと大きく舵を切った
■ 得宗専制体制の始まり
宝治合戦後、北条時頼は矢継ぎ早に幕府改革を進めます。1249年には引付衆を新設し、御家人どうしの裁判を迅速・公平に処理する仕組みを整えました。表向きは「御家人のための改革」ですが、実態は北条氏が裁判権を一手に握る体制づくりでもありました。
こうして、執権そのものよりも北条氏の嫡流(=得宗家)が幕府権力の中心となる得宗専制が完成していきます。後年の霜月騒動(1285年)や元寇(1274・1281年)の対応も、すべてこの得宗専制の枠組みの上で進められていくことになります。

「得宗専制」っていうのは、ザックリ言うと「会社の社長(執権)よりも、創業家のオーナー(得宗家)が事実上の決定権を握る体制」のこと。表向きの執権職よりも、北条氏の本家のトップが裏で全部決めるイメージだね。宝治合戦は、その体制が始まる「号砲」になったわけ。
■ 安達氏と三浦氏のその後
宝治合戦の仕掛け人・安達景盛は、翌宝治2年(1248年)5月18日に高野山で亡くなりました(合戦から約11か月後)。仕掛けたい戦をすべてやり遂げた、まさに「死に場所を選んだ老武士」の最期でした。一方、安達氏は孫の泰盛の代になると北条得宗家の側近として絶大な権勢を誇りますが、1285年の霜月騒動で今度は逆に滅ぼされてしまいます。歴史の皮肉です。
三浦氏の方はというと、本宗家こそ滅亡したものの、合戦時に北条方についた佐原盛時(三浦一族の傍流)の家系が「三浦氏」を継ぐことを許され、御家人として存続しました。完全消滅ではなく、北条氏の支配下で「飼い慣らされた三浦氏」として再出発したかたちです。

結局、宝治合戦って「鎌倉幕府にとって何がポイント」って言えばいいの?テストでひとことで聞かれそう…!

ひとことで言うなら「宝治合戦=得宗専制の出発点」でOK!「1247年・三浦氏滅亡・北条氏の独裁体制が始まった事件」って3点セットで覚えておけば、定期テストでも共通テストでもほぼ対応できるよ。記述問題で出るときは「有力御家人の合議制から、得宗家の専制へ転換した」って言えると満点だね!
もっと詳しく知りたい人へ——おすすめの本
「宝治合戦をもっと深く知りたい」「三浦氏や北条氏の動きをもう一段くわしく追いたい」という方には、テーマを正面から扱った新書が1冊あります。
鎌倉幕府研究の第一人者・細川重男氏が、宝治合戦に正面から取り組んだ新書です。解説パート+歴史小説パートの二段構えになっていて、史料を踏まえながら三浦泰村・光村・安達景盛らの心理にまで踏み込んで描かれているのが特徴。「宝治合戦って結局なんだったの?」というモヤモヤをスッキリ解消したい方や、論述対策で一歩踏み込んだ知識を得たい受験生におすすめです。

新書1冊で「宝治合戦の全体像」が手に入る、いまのところ唯一と言ってもいい本!読み物としても面白いから、テスト勉強のあいまの息抜きにもピッタリだよ。
よくある質問(FAQ)
宝治合戦について検索でよく見かける疑問を、ポイントだけサクッとまとめておきます。
1247年(宝治元年)に鎌倉で起きた、北条氏・安達氏 vs 三浦氏の権力闘争です。安達景盛が主導して三浦泰村・光村ら三浦氏一族を攻め、三浦氏は鎌倉の法華堂で自害して滅亡しました。この事件の結果、北条氏による得宗専制体制の基礎が築かれました。
1246年、前将軍・藤原頼経が三浦光村らと結んで北条時頼を倒そうとした政争です。計画は露見し、頼経は将軍位を廃されて京都へ送還されました。三浦氏はこの事件で「北条氏の敵」として警戒されるようになり、翌年の宝治合戦の引き金になりました。
直接の引き金は1246年の宮騒動で、三浦氏と北条・安達氏の不信感が決定的に深まったことです。さらに高野山から鎌倉に戻ってきた老武士・安達景盛が「三浦氏を放置すれば安達氏が滅ぼされる」と強硬論を唱え、挑発の立て札を仕掛けて開戦に至りました。北条時頼自身は当初、和平を望んでいたとも伝えられます。
三浦氏の当主で、宝治合戦時は43歳前後(1204年生まれ説による)。北条泰時の娘を妻にむかえるなど北条氏とは姻戚関係で結ばれ、評定衆として幕政の中心にいた有力御家人です。性格は穏健で和平を望みましたが、安達景盛らの強硬論に押し切られ、弟・光村や一族郎党500人以上とともに鎌倉・法華堂で自害しました。
三浦氏という最大の対抗勢力が消滅したことで、北条氏が幕府権力を独占する「得宗専制」体制が始まりました。執権そのものよりも北条氏嫡流(得宗家)のトップが幕政を主導する仕組みへと転換し、以後、御家人たちが北条氏に正面から対抗することはできなくなっていきます。
正しくは「ほうじがっせん」です。「宝治(ほうじ)」は1247〜1249年に使われた元号で、その元年に起きた合戦なのでこの名がつきました。「ほうちがっせん」「宝地合戦」「法治合戦」は読み誤り・誤字なので、テスト解答ではしっかり「宝治」と書きましょう。
幕府の公式記録『吾妻鏡』に「光村は自害の直前、自分の顔を刀で切り刻んだ」と記されています。理由は「死後に首を取られて顔をさらされる恥を避けるため」とされます。ただし『吾妻鏡』は北条氏寄りに編まれたとされる史料のため、どこまで脚色なくそのままの事実なのかは研究者の間でも議論があります。
テストに出るポイント
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 暗記のコツ:「宮騒動(1246)→宝治合戦(1247)→引付衆(1249)」を1セットで覚える。論述では「有力御家人の合議制から、北条得宗家の専制へ転換した事件」と書けると満点。「宝治」の読みは「ほうじ」(「宝地」「法治」は誤字)に要注意!

テストで一番ねらわれそうなのって、どこ?「宮騒動」と「宝治合戦」どっちも出るとパニックになりそう…!

最頻出は「宝治合戦(1247年)」「三浦泰村」「得宗専制」の3点セット!宮騒動は宝治合戦の「直接の原因」として一緒に覚えれば一石二鳥だよ。「宮騒動の翌年に宝治合戦が起き、得宗専制が始まった」って一文で頭に入れちゃおう!
まとめ
ここまで宝治合戦について、宮騒動からの流れ・主要人物・経過・その後の影響まで一気に見てきました。最後にもう一度、要点を整理しておきましょう。
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1219年源実朝暗殺・源氏将軍断絶
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1221年承久の乱・北条氏が幕府の実権を確立
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1246年(3月)北条時頼が第5代執権に就任
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1246年宮騒動・前将軍藤原頼経が京都へ送還
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1247年宝治合戦・三浦泰村一族が法華堂で自害して滅亡
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1249年引付衆の設置・北条時頼が幕政改革を推進
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1285年霜月騒動・安達泰盛が滅ぼされ得宗専制が完成

以上、宝治合戦のまとめでした!「鎌倉幕府の権力構造が大きく変わった事件」として、宮騒動・引付衆・得宗専制とセットで覚えるのがオススメだよ。鎌倉幕府全体の流れや、執権・北条時頼の人物像については、下の関連記事もあわせて読んでみてね!

📅 最終確認:2026年6月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「宝治合戦」(2026年6月確認)
Wikipedia日本語版「宮騒動」(2026年6月確認)
Wikipedia日本語版「三浦泰村」(2026年6月確認)
コトバンク「宝治合戦」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
コトバンク「宮騒動」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』(2022年版)
細川重男『宝治合戦 北条得宗家と三浦一族の最終戦争』朝日新書、2022年
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