今回は、1247年に起きた三浦氏の反乱である宝治合戦(ほうじかっせん)について紹介します。
宝治合戦は、とてもとても複雑な人間関係の中で起こった戦であり、いろんな人々の思惑と人間ドラマを垣間見ることができます。特に三浦一族の最期は感動なしには語れない名シーンです。
今回は、そんな宝治合戦についてわかりやすく紹介します!
宝治合戦のきっかけ
宝治合戦のきっかけは、1246年に起こった宮騒動(みやそうどう)という事件にあります。
宮騒動は、執権が4代目の北条経時から5代目の北条時頼に移った北条氏の権力が不安定な時期を狙ったクーデター未遂事件です。
首謀者は、北条氏の分家(庶流)だった北条光時と北条氏嫡流の政治に不安を持つ御家人たち。それに加え、そんな人たちに担ぎ出された前将軍の藤原頼経の姿もそこにはありました。宮騒動が起こった背景は以下の記事が詳しいので参考までに。
北条光時のクーデターは北条時頼によって未然に防がれ、関係者は処罰されることに。そして、前将軍の藤原頼経は鎌倉にいると反北条勢力の求心力となることから、京へ強制送還されます。
しかし、昔からの反北条勢力だった三浦一族はこの事件には関与せず、依然として幕府の中で北条氏に次ぐ強い力を持っていました。
北条時頼と三浦氏、ここに北条氏嫡流と外戚関係にあった安達氏が加わり宝治合戦のお話は非常にややこしくなっていきます。
宝治合戦と三浦泰村・光村
当時、三浦氏を束ねる棟梁は三浦泰村(みうらやすむら)という人物でした。三浦氏の中にも反北条の態度に強硬派と保守派の2つの派閥が存在し、三浦泰村は保守派の人間でした。
三浦泰村は、北条時頼と頻繁に話し合いを行い、これまで通り微妙な緊張関係の中で融和を図ろうと考えていました。北条時頼も事を大きくするつもりもなかったので、両者の話し合いで平和裡に物事が解決する・・・はずでした。
しかし、三浦泰村の弟で北条氏に対する強硬派だった三浦光村が事を荒だててしまいます。
三浦光村は1246年10月、鎌倉から追放され京へ向かう藤原頼経に同行し、藤原頼経に対して「いつか必ず鎌倉へお迎えします」と発言。この発言は鎌倉にいる北条時頼にも伝わり、三浦氏と北条時頼の間に微妙な空気が流れます。
不穏な噂は鎌倉中に広まったようで「三浦氏は北条時頼を滅ぼすために、何か企んでいるのではないか?」という話が広まり、鎌倉の街も宝治合戦が始まるのではないかと様々な憶測が飛び交うようになります。
それでも北条時頼と三浦泰村は和解の道を探ります。三浦泰村は時頼に謀反の心がないことを誓い、北条時頼も三浦泰村の家に訪れるなどして、平和裡に問題を収めようと必死でした。
しかし1247年4月、次は北条時頼側から強硬派が現れ、宝治合戦はさらに複雑な様相を呈してきます。
宝治合戦と安達景盛
1247年に入ると、鎌倉では羽蟻の大群が発生したり、空に光る物体(彗星?)が現れたりと不吉な出来事が数多く起こり、「三浦氏と北条氏の争いで鎌倉が大変なことになる予兆では?」と人々を不安に陥れます。
そんな中、1247年4月、出家して高野山にいた高齢の安達景盛(あだちかげもり)という男が約25年ぶりに鎌倉へと戻ってきました。
安達景盛は元々は、源実朝の側近中の側近。そして、源実朝の暗殺事件と同時に出家。実朝の菩提を弔うため、高野山で金剛三昧院を建立し、そのまま高野山で暮らしていました。
それがなぜ、こんな政局が混沌としているときに鎌倉に戻ってきたかというと、鎌倉で活躍する息子や孫に喝を入れるためでした。
安達景盛は3代目執権の北条泰時ととても仲が良く、娘を泰時の息子である北条時氏に嫁がせ、娘と時氏の間に生まれた子がなんと北条時頼になります。
つまり、安達景盛は北条時頼の母方のおじいちゃん。出家し高野山にいながらも北条時頼に強い発言力を持つ重要な人物なのでした。
そんな安達景盛ですが、体たらくな息子の安達義景、孫の安達泰盛をこう叱りつけます。
安達景盛「三浦氏が武力に任せて傍若無人な振る舞いをしているのはお前らが怠けているからだ!!北条氏嫡流と外戚関係になった安達一族だ。いずれ強大な力を持つ三浦氏と戦うこともあろう。このまま三浦氏に好き勝手にされれば、いざ戦うって時に兵力で勝てなくなる。ちゃんと今のうちに三浦氏と戦う準備ちゃんとしとけよな!!!」
そうなんです。この安達景盛こそがウルトラ強硬派の人間で、北条時頼と三浦泰村との話し合いは安達景盛の登場でメチャクチャになってしまいます。
宝治合戦、始まる
1247年5月、鎌倉の鶴岡八幡宮の鳥居の前に次のようなことが書かれた竹が立てかけられていました。
「三浦泰村は自分勝手で幕府の命令も聞かないので近いうちに征伐されるでしょう。良く考えておとなしくすべきです。」
・・・もう完璧な嫌がらせですよね。おそらくは安達一族の仕業でしょう。
1247年6月、次は三浦泰村の家の前にこんな落書きがあります。
「最近鎌倉が騒がしいのは、三浦泰村が討たれるからだ。そのことをしっかりと心に留めておくことだ」
このような執拗な挑発で、鎌倉は緊張した空気に包まれます。
三浦泰村はすぐに北条時頼に、謀反のつもりはないことを伝えますが、不安に苛まれた三浦泰村はご飯も喉を通らなかったと言います。
その後、北条時頼も「三浦泰村に謀反のつもりがないことはわかっている。世間が騒がしいのは天魔が人々の心に入り込んでいるせいでしょう」と手紙を送り泰村をフォロー。和平の話も持ち上がりました。
三浦泰村はこれに歓喜し、北条時頼に和平に応じる旨の返答の手紙を書きます。この時の三浦泰村は、緊張のあまり食べたものを吐き出してしまうほどの状態でした。三浦泰村が詭弁ではなく、ガチで争う気などないことがわかります。
こうして、一年続いた三浦氏と北条氏のイザコザは平和裡に解決しましたとさめでたしめでたし・・・とはなりませんでした!
安達景盛がこの和平交渉にブチ切れたんです。
安達景盛「三浦泰村と和平をしては、三浦一族はさらに調子に乗ることだろう。ますます三浦氏が繁栄すれば、安達氏の立場も危うい。こうなったら、運否天賦で三浦氏に戦争を仕掛けようではないか!!」
こうして1247年6月5日の朝、北条時頼を無視して安達氏が三浦泰村邸を襲撃します。宝治合戦の始まりです。
急な襲撃にも関わらず、三浦氏は安達氏と善戦を繰り広げます。さすが北条氏に次ぐ有力御家人だけのことはあります。
昼ごろになると北条時頼も安達氏側として宝治合戦に加勢。和平の話を進めていた北条時頼の心境は複雑ですが、ここはおじいちゃんの安達景盛の意向に従うことにしたようです。(おそらく不本意だったと思います)
昼になり風向きが変わると安達郡は三浦邸に火を放ち、戦場は三浦邸のすぐ東にあった源頼朝のお墓がある法華堂に移ります。
三浦泰村とは正反対に、やる気満々だったのが弟の三浦光村。地の利のある永福寺というお寺を拠点に移し、兄の泰村にも永福寺に来るよう進めますが、三浦泰村はこれを拒否しこう言います。
三浦泰村「私は頼朝様の肖像画の前でこの命を終えようと思っている。光村も法華堂へ来るのです」
この時、既に三浦泰村は戦意を喪失し、自ら生涯を閉じようと考えていました。
一刻の猶予もない中、光村は兄の指示に従い法華堂へと向かいます。源頼朝のお墓がある法華堂には500人もの人々が集まったと言われています。
壮絶な三浦氏の最期
三浦光村は最後に胸の内を兄の泰村に打ち明けます。
三浦光村「ああ、藤原頼経が将軍だった頃、北条氏に代わって三浦氏を執権にするという話もあったのに。泰村が優柔不断だったせいでチャンスを逃してしまった。そればかりか、そのせいで今こうやって三浦氏が滅びそうになっていることが悔しくて悔しくてたまりませぬ」
こう言い残すと三浦泰村は自分で自分の顔を切りつけ始めます。自分がここにいたことを誰にも知られないようにするためです。
さらには法華堂を燃やそうとまでしますが、三浦泰村が許しません。
三浦泰村「光村よ、お前の血で頼朝様の肖像画が汚れてしまったぞ。これは不忠の極みである。それに加えこの法華堂を燃やすなど以ての外だ。」
さらに泰村は冷静にこう続けます。
三浦泰村「三浦一族の歴代の功績を考えれば、子孫にまで罪が及ぶことはないだろう。北条氏の外戚として長年補佐してきたものを、讒言によって誅滅の恥を与えられた恨みと悲しみは計り知れない。しかし、一方では父義村は他の一族の多くを滅ぼし、罪業を負ってきた。これはその報いであろう。もうすでに尽き果てる命であるし、もはや北条氏への恨みなどない。」
この言葉の後、法華堂に集まった500人は一同に自らの手で生涯を閉じました。
三浦一族は、源頼朝が源平合戦に参戦した初期から仕えていた有力御家人でした。源平合戦当時、石橋山の戦いで敗北した源頼朝が辛うじて安房国へ逃げられたのは、単身砦に残り命をかけて時間を稼いだ三浦義明の活躍があってこそだ・・・とも言われています。
しかし時間の流れはとは残酷なものです。そんな栄光とは裏腹に三浦一族は壮絶な最期を迎え、滅びることになるのでした。
こうして、宝治合戦は北条時頼の大勝利に終わり、宝治合戦・宮騒動の2つの事件によって御家人の中で北条氏に敵対する可能性のある勢力は消え去ることになります。
この事件の後、北条時頼は北条氏専制政治を目指し、政治改革を行なっていきます。
宝治合戦まとめ
以上、宝治合戦のお話でした。各々の思惑が複雑に絡み合った戦いであることがわかったと思います。
まとめてみると
うーん、複雑(汗。
血が流れずに平和に終わりそうなところを安達景盛が無理やり宝治合戦に持ち込むあたりがエグいです。三浦泰村が思いのほか聖人っぽい(不安で食事を食べれなかったり、吐いたり)のが余計に戦いの心象を悪くしています。
というかこれって宝治「合戦」なんでしょうかね・・・?そもそも三浦泰村に戦う意思があまりないので、一方的に三浦氏がやられているだけのようにも感じます。
宝治合戦で誰が得をしたかと言えば、安達一族です。この後しばらくは、安達一族は北条氏の外戚として力を振るうようになります。
宝治合戦は、「北条時頼による三浦氏排斥事件」って言われることがあるようだけど「安達景盛による三浦氏排斥事件」というのが正確な表現なんじゃないかな?と個人的には思う。(結果的に北条時頼にとっても邪魔が消えて良い話なんですがね!)
ちなみに、宝治合戦は「吾妻鏡」という史料にその経過が載っているのですが、「吾妻鏡」は北条氏が作った史料であり、北条氏に都合の悪いことは書いていなかったり、事実が改変されている可能性があります。
なので宝治合戦の経過や顛末もどこまでが事実なのかわからないのが正直なところです。(実は北条時頼はイケイケで三浦氏と潰したかもしれない)
宝治合戦を通じて三浦氏に何か想うことがあったのなら、少し時代を遡って畠山重忠の話もぜひ参考に読んでみてください。三浦泰村の最期と通ずるものがあるはずです。
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