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面白ほどわかる霜月騒動!簡単にわかりやすく解説【御家人代表の安達泰盛VS内管領の平頼綱】

この記事は約8分で読めます。

今回は、鎌倉時代最後の壮大な内ゲバ争い!霜月騒動しもつきそうどうについて紹介します。

霜月騒動の概要を最初に載せておきます↓

霜月騒動とは

鎌倉時代末期、幕府内で北条氏の権力が強くなると、北条氏の家督を継ぐ者(得宗とくそう)が特に絶大な権力を誇るようになった。

それとともに得宗の家臣である御内人みうちびとと御家人との対立が激しくなり、時宗の子の北条貞時の時代になると、1285年、御内人のトップ(内管領うちかんれい)の平頼綱たいらのよりつなと有力御家人の安達泰盛あだちやすもりが争い、安達泰盛が滅びた。(霜月騒動)

この記事では霜月騒動について以下の点を中心にわかりやすく丁寧に解説してきます。

  • 霜月騒動が起こった時代背景・理由は?
  • 争うことになった平頼綱と安達泰盛ってどんな人?
  • 霜月騒動の経過は?
  • 霜月騒動の後、鎌倉幕府はどうなったの?
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霜月騒動が起こった当時の時代背景と理由

霜月騒動が起こった理由、時代背景を時系列でチェックしておきます。

霜月騒動の時代背景

ポイントになるのは1284年に北条時宗が亡くなったところです。

権力者の北条時宗が亡くなり、若い北条貞時が得宗を継いだことで、時宗によって絶妙に保たれていた幕府内の権力バランスが崩壊。幕府内で権力争いが起こりました。

この権力争いの主役は2人。安達泰盛と平頼綱という男たちです。というわけで、次に安達泰盛・平頼綱の両人物について簡単に紹介していきます。

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安達泰盛(あだちやすもり)

安達泰盛は、北条氏と強い血縁関係で結ばれた安達氏の1人。北条氏を除いて、おそらく当時最も力を持っていた御家人です。

安達泰盛のお爺ちゃんに当たる安達景盛あだちかげもりという人物が最大のライバルだった三浦氏を宝治合戦で打ち滅ぼしたことで、安達一族は盤石の地位を築き上げます。

安達泰盛は、北条時宗の時代から幕府の重臣として活躍していて、蒙古襲来で有名な竹崎季長たけざきすえながが、恩賞をもらうために懇願に向かったのも安達泰盛です。

1284年、北条時宗が亡くなると安達泰盛は若き後継者である北条貞時をサポートするようになり、政治の実権を握るようになります。

当時、日本で大きな問題になっていたのは、

弘安の役の恩賞問題

蒙古襲来に備えた防衛策

です。

特に恩賞問題は深刻でした。元寇と戦っても敗者から土地を奪えないので、戦ってくれた人に恩賞として与える土地が不足してしまい、「土地を恩賞として与える」という制度そのものが破綻しかけていたからです。

安達泰盛はこのハードな仕事を行いながら、鎌倉幕府の組織改革にも乗り出します。

詳細は触れませんが、簡単に言うと「北条得宗家が権力を牛耳って、政治がおかしくなってるから、ちゃんと将軍がトップに立って、いろんな御家人の意見を反映できるような仕組みを作ろうぜ!」と言う改革です。

この改革は、北条得宗家の専制政治に不満を持つ多くの御家人の支持を受けました。しかし、北条得宗家が権力を持っているおかげで恩恵を受けていた人もいたわけで、そんな人たちは安達泰盛のやり方に強く反対しました。

そして、安達泰盛に反対していた中心人物が、この記事のもう一人の主役であり平頼綱と言う男です。

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裏のボスだった平頼綱(たいらのよりつな)

平頼綱は、北条嫡流(得宗家)に代々仕える一族で北条貞時の乳母の夫。貞時からすれば父みたいな存在です。

平頼綱の仕事は、お家(得宗家)に関する様々な雑務をこなすことです。このような仕事をする人を当時は御内人と呼び、御内人の中で一番力を持つ人のことを内管領と読んでいました。平頼綱はその内管領でした。

そして、北条得宗家が鎌倉幕府内で権力を強めれば強めるほど、それに合わせて平頼綱も得宗家を支える立場から絶大な権力を誇るようになりました。

つまり、平頼綱としては北条得宗家が幕府内の実権を握ってくれた方が都合が良いわけで、これに反対しようとする安達泰盛の政治改革を黙って見過ごすことはできませんでした。

御家人という立場から、得宗家の権力集中を防ぎたい安達泰盛

内管領という立場から、得宗家の権力集中をさらに進めたい平頼綱

この立場も意見も真っ向から対立する2人が、争った事件が霜月騒動になります。

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霜月騒動の経過

先手を打ったのは平頼綱の方でした。

平頼綱は、安達泰盛を消す大義名分を作るため、まだ10代だった北条貞時にこんな嘘を吹き込みます。

平頼綱
平頼綱

安達泰盛の息子(宗景)が、自分のご先祖は源頼朝の息子だったなどと言っております。

こんなことを言うのは、源氏の名の下に謀反を企んでいるからに違いありませんぞ!

若い北条貞時はこれを信じました。平頼綱は貞時にとっては父のような存在ですし、北条氏の先祖は平氏です。それに平氏のライバルである源氏の名を出されるのは心情的にも良い気持ちではなかったのかもしれません。

北条貞時
北条貞時

それは本当か!?

私にはどうして良いのかわからぬから、後の対処は頼綱に任せるぞ!

平頼綱
平頼綱

ハハっ!

(これで安達泰盛を襲う理由ができたぞ。計画通り・・・!!)

こうして口実を得た平頼綱は、安達泰盛抹殺計画を練り上げ、1285年11月17日にその計画を実行に移します。(これが霜月騒動になります)

安達泰盛
安達泰盛

ムムっ・・・、何やら外が慌ただしいぞ。なにかあったのか!?

鎌倉の館にいた安達泰盛は周囲の異変を感じ、急ぐ北条貞時の館へと向かいます。

・・・ところが、北条貞時の館の前には兵が待ち構えており、安達泰盛に襲いかかります。

安達泰盛
安達泰盛

くそ!嵌められた!

平頼綱の仕業だな。あいつ何をしやがったんだ・・・!

犠牲を出しながらも一命をとりとめた安達泰盛は反撃を開始。

争いは鎌倉一帯に拡大しますが、結局、安達泰盛は敗北してしまいます。最後は一族みなで自害した・・・とも言われています。

北条貞時も、まさか平頼綱がここまでやるとは思っていませんでした。

北条貞時
北条貞時

鎌倉が戦火で地獄絵図と化している・・・。

私も逃げなければ!

得宗の北条貞時が鎌倉を脱出するぐらいですから、鎌倉の戦火は相当なものだったのでしょう・・・。

しかも、戦いはこれだけでは終わりませんでした。安達泰盛が討たれたことで、日本各地で安達泰盛派VS平頼綱派の御家人同士の争いが始まってしまったからです。

特に関東一帯と九州で争いが多く起こりますが、平頼綱派が優勢であり、地方でも安達泰盛派は敗北してしまいました。

この一連の事件のことを11月(霜月)に起こったので霜月騒動と言います。

安達泰盛派があっけなく敗れてしまった背景には、平頼綱の用意周到な準備があったと言われています。平頼綱は、霜月騒動をきっかけに安達泰盛だけではなく、自分の邪魔をする勢力を全て一掃してしまおう・・・と考えたのだと思われます。

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霜月騒動のその後

霜月騒動によって、北条得宗家の専制政治に反対する勢力は一掃され、北条得宗家の権力は盤石なものとなります。

そして、北条得宗家の権力UPはそのまま、北条得宗家の内管領である平頼綱の権力が盤石になることを意味しています。(得宗の北条貞時が若かったこともこれを後押ししました。)

平頼綱
平頼綱

計画は全てうまくいった。

霜月騒動を通じて北条得宗家に歯向かうやつは全員粛清してやった。

これからは俺が裏で鎌倉幕府を牛耳るのだ!

フフ、フハハハハッー!!

霜月騒動によって確立された北条得宗家による専制政治のことを、得宗専制政治とくそうせんせいせいじと言います。

得宗専制政治とは

実質的な最高権力を持つ「執権しっけん」職に北条家の得宗が世襲で就任することで、鎌倉幕府を北条得宗家が完全に支配してしまった政治のこと。

いろんな御家人たちが意見を出し合う組織だったはずの評定衆ひょうじょうしゅう引付衆ひきつけしゅうといった重要な機関も得宗の身内が占めるようになり、得宗家を束ねる得宗は絶対権力者として君臨することになりました。

霜月騒動の後、幕府の実験は平頼綱に握られることになります。平頼綱は「俺に逆らったやつは全員消す」と言うストロングスタイルで政治に臨んだため、多くの人々がその政治に恐怖します。

平頼綱は、鎌倉に厳格な監視体制を敷いており、頼綱の悪口でも言おうものなら、「あっ、それ謀反だからお前消すわww」ってことで消されかねないような状況だったと言われています。

しかし1292年、次は成長した北条貞時が暴走する平頼綱を消すことを決意。鎌倉が地震に見舞われて大騒ぎになっているのに便乗して、刺客を放ち平頼綱を討ち取ってしまいます。(この出来事を平禅門へいぜんもんの乱と言います。受験では出てこないので覚えなくてOK)

北条貞時
北条貞時

平頼綱よ、流石にお前はやりすぎだ。

平禅門の乱で暴走気味だった平頼綱が消されたことで、北条得宗家の力はますます強くなっていきます。

霜月騒動以後行われたこの得宗専制政治は、鎌倉幕府が滅亡する1333年まで続くことになります。

霜月騒動の歴史的意義は、「得宗専制政治のきっかけになった」という点です。鎌倉幕府のあり方を大きく変えた事件として、霜月騒動は日本史上でも重要な事件とされています。



鎌倉時代
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この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
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コメント

  1. 名無し より:

    1284年に権力者の北条時宗が亡くなり、若年の北条時貞(ほうじょうさだとき)がその跡を継いだ。

    漢字違いますよ!