霜月騒動とは?なぜ起こった?わかりやすく紹介【安達泰盛VS平頼綱】

今回は、鎌倉時代最後の壮大な内ゲバ争い!霜月騒動(しもつきそうどう)について紹介します。

 

 

鎌倉幕府の創設者である源頼朝を失った鎌倉幕府では長い間、御家人同士の権力争いが耐えることがありませんでした。犠牲となった御家人は、梶原景時、畠山重忠、和田義盛、三浦一族などなど挙げればキリがありません。

 

 

源平合戦で活躍した一族は、鎌倉時代中期〜後期なるとそのほとんどが消えて無くなっています・・・。鎌倉時代はガチで修羅の時代。

 

 

 

そして、今回紹介する霜月騒動で犠牲になったのは安達という一族。

 

 

霜月騒動で安達氏が滅びると、北条氏以外の有力一族は全て消え去り、鎌倉幕府は名実ともに北条得宗家の完全独裁制(得宗政治)の時代へ突入します。

 

 

では、その霜月騒動とはどんな事件だったのでしょうか。この記事で詳しく紹介していきたいと思います。

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霜月騒動当時の政治情勢

霜月騒動は、1285年11月に起こりました。「霜月」というのは11月に事件が起こったことに由来しています。

 

 

当時がどんな時代だったかというと、ポイントは大きく2つ。

 

1284年に権力者の北条時宗が亡くなり、若年の北条時貞(ほうじょうさだとき)がその跡を継いだ。
若年の北条貞時が執権になると重鎮達が権力争いを始め、安達泰盛と平頼綱が対立するようになる。

 

 

権力者の変わり目というのは古今東西、政局が不安定になるものです。そして、後継者がまだ若い場合はなおさらです。北条時宗によって絶妙に保たれていた幕府内の権力バランスは完全に崩れ、安達泰盛と平頼綱はバチバチと火花を散らすようになったのです。

 

 

次に霜月騒動の主役である安達泰盛と平頼綱について簡単に紹介しておきます。

霜月騒動と安達泰盛(あだちやすもり)

安達泰盛は、北条氏と強い血縁関係で結ばれた安達氏の1人。北条氏を除いて、おそらく当時最も力を持っていた御家人。

 

 

安達泰盛のお爺ちゃんに当たる安達景盛(あだちかげもり)という人物が最大のライバルだった三浦氏を宝治合戦(ほうじかっせん)で打ち滅ぼしたことで、盤石の地位を築き上げました。

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当時の執権だった北条貞時の嫁さんが、安達泰盛の妹だったりと血縁関係でも強く結ばれていました。

 

 

蒙古襲来で有名な竹崎季長が、恩賞を貰おうと九州からはるばる鎌倉にやってきて、懇願に向かったのも安達泰盛のところでした。

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さらに安達泰盛は、蒙古襲来で忙殺されてる北条時宗の治世を裏から支えた幕府の重鎮という一面も持っています。

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1284年、北条時宗が亡くなると安達泰盛は若き後継者である北条貞時を補佐し、政治の実権を握るようになります。

 

 

当時の幕府の最重要案件は、弘安の役の後の恩賞問題と再度の蒙古襲来への防衛策。北条時宗が亡くなった後は、安達泰盛がこの過酷な仕事を引き受けることになります。

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特に恩賞問題は深刻でした。内乱ならいいんです。敗者の土地を勝者に与えればいいんですから。しかし蒙古襲来の防衛戦は、勝っても新しい土地が得られません。そのため、恩賞問題に頭を悩まされ続けることになります。この難題に立ち向かったのが安達泰盛でした。

 

 

さらに安達泰盛は、北条時頼→北条時宗と続く治世で進んだ北条氏嫡流(得宗家)による評定衆や引付衆び独占支配化にストップをかけようと、影の薄い将軍を面に立たせようとします。将軍の下、昔のようにいろんな御家人同士が集まって幕政を支える・・・そんな政治を目指したのだと思います。

 

 

この政策方針によって安達泰盛は得宗北条氏に不満を持つ多くの御家人たちから支持を受けることになります。さらに、安達泰盛が北条貞時を補佐した治世は「弘安徳政」とも呼ばれ、非常に評判の良い政治を行なっていました。

 

 

・・・しかし!この政治改革の流れをよく思わない人物がいました。その人物こそが平頼綱だったんです。

霜月騒動と平頼綱(たいらのよりつな)

平頼綱は、北条嫡流(得宗家)に代々仕える一族で北条貞時の乳母の夫。貞時からすれば父みたいな存在です。

 

お家に関する様々な雑務をこなすことが仕事で、執事(しつじ)とか御内人(みうちびと)なんて呼ばれることも。

 

 

執権職が世襲化した北条時宗の頃になると、幕府の運営において重要なのは、執権か否かよりも北条氏嫡流の家督(得宗)かどうかになっていきました。得宗の力が強くなったんです。この感じは、天皇よりも上皇の方が偉い院政のイメージに近いです!

 

 

そして得宗家の影響力が高まるにつれ、同じく強い影響力を手に入れたのが得宗家の執事だった平頼綱だったのでした。

 

 

平頼綱は執事という立場から貞時を補佐することで、政治の実権を握ろうと考えます。

 

 

そして、そんな平頼綱にとって一番の邪魔者こそが安達泰盛だったんです。安達泰盛の政治理念は「御家人による御家人のための政治」

 

 

一方の平頼綱が望んだのは「北条得宗家による専制政治」でした。両者の政治理念は相いれないものであり、二人は真っ向から対立したのです。

 

 

霜月騒動の主役である2人をまとめておくと、

北条貞時の親戚の立場から、御家人中心の政治を目指したのが安達泰盛
北条貞時の執事の立場から、北条得宗家中心の政治を目指したのが平頼綱

といった感じです!

霜月騒動の経過

1285年11月、霜月騒動は起こります。先に仕掛けたのは平頼綱。

 

 

平頼綱は、霜月騒動の大義名分を得るためまだ10代も前半だった北条貞時にこんな讒言をしたと言われています。

 

 

平頼綱「安達泰盛の息子の宗景(むねかげ)が、先祖である安達景盛は実は源頼朝の息子であったなどと称しております。これは、源氏の名の下に謀反を企んでいるに違いありません!」

 

 

これを北条貞時は信じてしまいます。北条貞時にとって、平頼綱は父のような存在であったし、それに北条氏のご先祖様は平氏です。源氏の名を出されるのは良い気持ちはしません。

 

 

若い北条貞時は、この謀反への対応を平頼綱に一任してしまいます。

 

 

北条貞時「頼綱よ、私はどうすれば良いかわからぬ。そなたに対応は任せる」(イメージです)

 

平頼綱「ははっ!」

 

こうして1285年11月17日、遂に安達泰盛に魔の手が忍び寄ります。霜月騒動の始まりです。

 

 

周囲が慌ただしいことに疑念を持った安達泰盛は異変を感じ、急ぎ北条貞時の館へ向かいますが、館には既に平頼綱の兵が待ち構えていました。

 

 

館で待ち伏せしていた平頼綱の兵たちが安達泰盛一向に襲い掛かります。この時の襲撃によって30名が命を落としたと言われています。

 

 

安達泰盛「クソっ!嵌められた!!!」

 

 

その後は鎌倉一帯を巻き込んでの戦いが続けられましたが、安達泰盛は敗北。最後は一族もろとも自害したと言います。被害はこれだけに止まらず、安達泰盛に与していない多くの者までもが平頼綱によって命を奪われます。

 

 

おそらく、鎌倉一帯が地獄絵図と化していたのでしょう。平頼綱に命じた北条貞時ですら、混沌を極める鎌倉から逃げ出した有様です。

 

 

しかも、戦いはこれだけでは終わりません。安達泰盛が討たれたことで、日本各地に点在する安達泰盛派の御家人も平頼綱と戦わざるを得なくなったからです。北条貞時の意思に反して日本全国に戦果が広がってしまったわけです。

 

 

特に関東一帯では平頼綱派の御家人たちによる安達泰盛派の討伐が行われ、多くの者たちが命を落としました。安達泰盛派には自害した者も多く、奇襲のような形で討ち滅ぼされたのだと思います。もし奇襲だとすれば、各地での戦も全て平頼綱の計画通りと言うことになります。

霜月騒動と岩戸合戦

そして戦いは、九州にまで波及します。九州には安達泰盛の次男である安達盛宗がいたからです。

 

 

しかも事情はさらに複雑で、元寇でも大活躍した少弐氏が家督争いを始めたんです。兄の少弐経資が平頼綱派、弟の少弐景資が安達泰盛派に別れて戦を始めてしまいます。

 

 

少弐氏と言えば元寇の際に総大将として大活躍した一族ですが、敵がいなくなると早速身内同士で争っている・・・。

 

 

霜月騒動から始まった九州の戦いも平頼綱派の勝利に終わり、全国で安達派の人物は一掃され、平頼綱の完全勝利で霜月騒動は幕を閉じます。

霜月騒動のその後

平頼綱は、霜月騒動で意図的に戦火を広げて邪魔者を全て消し去りました。こうして平頼綱は、霜月騒動後の幕府の実権を完璧に握ることになります。

 

 

霜月騒動の経過からもわかるように、平頼綱は目的のためなら手段を選ばない冷酷な人物。そして、その政治もまた平頼綱の性格が色濃く反映された恐怖政治でした。

 

 

平頼綱の恐怖政治はとにかく凄かった。鎌倉の街では安易に平頼綱の悪口すら言うことができない状況だったと言われています。鎌倉の街は頼綱派の人間によって監視され、変なことを言えば命すら奪われかねない状況だったんです。

 

 

平頼綱が政治の実権を握ってとにかく腐心したのは、得宗家の力を強めること。平頼綱の恐怖政治により、得宗家に逆らえる者はいなくなり、平頼綱は豪華絢爛な家に住んだと言います。

 

まさにアニメや漫画で登場する悪者の典型!!笑

 

 

しかし平頼綱の独裁政治は長くは続きません。1292年、平頼綱の暴走に危機感を抱いた北条貞時によって平頼綱は誅殺されてしまうからです。

 

 

こうして、霜月騒動の主役だった安達泰盛・平頼綱は両方ともいなくなってしまうのでした・・・。

霜月騒動まとめ

霜月騒動は一見すると単なる安達泰盛と平頼綱との政争ですが、全国各地で戦乱を巻き起こしたかなり大規模な政争になっています。

 

 

全国各地に安達泰盛派と平頼綱派の御家人がいたので、戦火が拡大するのは当然と言えば当然かもしれません。しかし、御家人の中には少弐氏のように家督争いに霜月騒動のイザコザを利用した一族もいました。

 

この全国各地の動きって、なんだか応仁の乱とも似ていますね。

 

 

霜月騒動による安達氏の敗北により、北条氏に逆らえる力を持つ御家人は完全に消え去り、霜月騒動後は御家人同士の争いは無くなっていきます。

 

 

さらに霜月騒動により、北条氏嫡流の家督が政治の実権を握る得宗政治の形が完璧に完成することに。そして、それと併せて政治の腐敗化が進み、鎌倉幕府は滅亡へと一歩一歩進んでいくことになるのです。

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