【元弘の乱で獅子奮迅の活躍をした楠木正成】
今回は、1331年〜1333年に起こった後醍醐天皇VS鎌倉幕府の戦い「元弘の乱(げんこうのらん)」について紹介します。
元弘の乱によって鎌倉幕府は滅亡することになりますが、元弘の乱はまさに1つの時代の最期に相応しい壮絶な戦いになっています。
平安時代の終焉を源平合戦が飾ったとするなら、鎌倉時代の終焉を飾ったのは元弘の乱。
そこには、源平合戦さながらの人間ドラマ、二転三転して先の読めない戦局・・・などなどの面白さがあります。
そして、源平合戦が平家物語として語られているように元弘の乱は太平記(たいへいき)という軍記物語によって今でも語り継がれている戦いです。
この記事では、そんな元弘の乱についてハイライトでサクッとまとめてみたいと思います。戦いや人物の詳しいお話は別の記事で随時追加していく予定です。
元弘の乱が始まるまで
最初に元弘の乱が起こった当時の時代背景について紹介しておきます。
まず、元弘の乱の前哨戦と言えるのが1324年に起こった正中の変。正中の変は、後醍醐天皇による倒幕計画未遂事件です。
つまり元弘の乱は、正中の変で失敗した倒幕運動のリベンジ戦ってわけです。
正中の変については、以下の記事で紹介していますので気になる方はどぞ。
さて、2回目ともなれば幕府側もマークしているわけで、後醍醐天皇も慎重にならざるを得ません。そこで後醍醐天皇が密かに協力者として接近したのが南都北嶺(なんとほくれい)、つまり比叡山と興福寺を始めとした奈良の寺院でした。
延暦寺と興福寺は、平安時代以降も依然として強大な力を持っており、幕府の影響(守護・地頭の配置など)を受けない地域。そこに後醍醐天皇が注目したわけです。
後醍醐天皇は、久しく実施されていなかった南都行幸を行ったり、息子の護良親王(もりよししんのう)を天台座主(てんだいざす。比叡山の一番偉い人)にするなどして、南都北嶺との接近を図っていました。
【悲報】元弘の乱、幕府にリークされる
ところが、1331年6月、元弘の乱の計画は何者かの手によって幕府側にリークされてしまいます。
正中の変に続き、2度目の計画漏洩です。「またかよ!ww」って感じですね。
この時、情報を漏らしたのは後醍醐天皇の側近だった吉田定房(よしださだふさ)だと言われています。
【吉田定房】
吉田定房は、当初から後醍醐天皇の倒幕運動には反対でした。というのも、幕府の武力が圧倒的すぎて勝ち目なしと思っていたからです。実際にこの意見は正しいと思います。
しかし、吉田定房の意見は後醍醐天皇には受け入れられません。後醍醐天皇はとにかく早く鎌倉幕府をぶっ倒したかった!!
それでもなんとかして後醍醐天皇の暴走を止めたい吉田定房は、後醍醐天皇ではなく臣下の日野俊基が首謀者ということにして幕府に倒幕計画をリークした・・・と考えられています。
吉田定房からすれば、「臣下のせいにして幕府にリークすれば、正中の変の時のように後醍醐天皇に被害が及ぶことなく事が収まるだろう。後醍醐天皇が私の言う事を聞かない以上、このような荒療治で倒幕運動を止めるしかない」と思ったのでした。
・・・ところが、吉田定房の意図に反して、このリークのせいで後醍醐天皇と鎌倉幕府は全面戦争に突入してしまいます。
元弘の乱と笠置城の戦い
倒幕計画を知った幕府は早速、関係者を捕らえます。
首謀者として報告された日野俊基(ひのとしもと)は鎌倉に連行され、翌年の1332年、亡き者に・・・。日野俊基は後醍醐天皇の身代わりになったのでう。
日野俊基は亡くなる直前、次のような辞世の句を残しています。
元弘の乱と赤坂の戦い
幕府軍が笠置山の攻略に苦戦する間、赤坂では楠木正成が幕府軍と対峙していました。楠木正成の兵力は、なんとたったの500。
そして一方の幕府軍はなんと!!!30万wwww
太平記の数字を使ってますが、これもさすがに嘘です。ただ、楠木正成が兵力的に圧倒的不利だったのは間違いなさそうです。
赤坂城は笠置山ほどの要塞ではありません。圧倒的兵力を持つ幕府軍は余裕です。「こんな雑魚、一瞬で終わらせてやるわw」
・・・しかし!雑魚と思っていたはず赤坂城を幕府軍は全く攻略することができません。赤坂城に篭る楠木正成がチートすぎて、全く歯が立たなかったんです。
とにかく楠木正成は勝つために手段を選ばない。奇襲・夜襲は当たり前で、塀に細工を仕掛けたり、投石や熱湯をかけたりと奇計のオンパレード。幕府軍は、この奇想天外な攻撃に手も足も出ません。
正攻法では攻め落とせないと悟った幕府軍は、城の周囲を囲い兵糧攻めを開始します。しかし、これはおそらく楠木正成の想定の範囲内。
楠木正成は兵糧攻めをされては不利と見るや、無駄な被害を増やさないためすぐに撤退の準備に移ります。楠木正成は、自らが自害したと敵方を騙すため、屍に自分の鎧・兜を着せて炎上。さらに城に火をつけてそのどさくさに紛れて逃亡してしまったのです。
灰燼と帰した赤坂城に入った幕府軍は大量の焼けた屍を見て、楠木正成は亡くなったものと思い込みます。「敵ながらあっぱれ」と楠木正成を褒める声すらありました。
楠木正成は戦には負けたましたが、勝負に確実に勝ったわけです。
元弘の乱と千早城の戦い
1332年3月、捕らえられた後醍醐天皇は隠岐に流されます。展開は、承久の乱で隠岐に流された後鳥羽上皇と全く同じ。
しかし、承久の乱と決定的に違うのは戦いがこれで終わらなかったこと。楠木正成は未だ健在だし、護良親王は熊野に潜んで、各地に倒幕のための挙兵を呼びかけていました。
そして1332年4月、またもや楠木正成が動き始めます。幕府の手に落ちていた赤坂城に奇襲を仕掛けあっという間に城を奪い返してしまったのです。
その後も小競り合いが続き1333年1月、遂に幕府のメイン部隊が大軍を引き連れて畿内に到着。畿内の反乱分子の鎮圧に取り掛かります。
ターゲットは、赤坂城・千早城に構える楠木正成。そして、吉野にいる護良親王。
圧倒的兵力差により、赤坂城は陥落。護良親王も、吉野を攻め落とされ、命からがら逃げる有様でした。
一方の楠木正成は、千早城で幕府軍と籠城戦をすることになります。この時の戦力、楠木正成の1000に対して幕府軍はなんと100万だったとも言われています。(実際はもっと少ないだろうけどね!)
そして、この千早城での戦い。楠木正成がとにかくチート!!!
兵力は少ないのに異常なほど強い。楠木正成は、敵の心理をたくみに読み取り、奇策に奇策を重ね、幕府軍に甚大な被害を与えます。しかも、今回は兵糧攻め対策も完璧でした。もはや、戦いは正成の独壇場です。
いくら攻めても攻めても、落とせない千早城。千早城をめぐる攻防戦は長期戦の様相を呈することになりますが、そうなると不利になるのは大軍を維持しなければならない幕府軍の方です。
おまけに、護良親王の命で馳せ参じた吉野方面の武者たちが山や谷に隠れながら潜伏し、敵の兵糧輸送を遮断してしまいます。
こうして、幕府軍の兵量は底を突き始め、幕府軍は一転して苦境に立たされることになります。「戦いは兵力差だけがものを言うわけではない」というのをこれほど物語る戦いも珍しい。
しかも、幕府軍が千早城攻略に苦戦している間、トンデモナイ情報が舞い込んできます。それが・・・
_人人人人人人人人人人人人人人人人人_
> 後醍醐天皇が隠岐から脱走!!! <
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1332年2月24日のことでした。さらにこれと同時並行的に、各地で次々と反乱が起き、
が次々と倒幕の狼煙を挙げます。
「後醍醐天皇、隠岐脱出!!!」の知らせは、千早城にもすぐに届き、楠木軍が歓喜の声を上げる一方、幕府軍はその知らせに恐怖しました。
そして、千早城で楠木正成が幕府軍を釘付けにしている間、京でも大事件が起こります。その大事件とは、幕府軍の京の本拠地、六波羅探題の陥落でした。
元寇の乱と六波羅探題陥落
後醍醐天皇の隠岐脱出、そして各地での倒幕運動の拡大。日に日に事態が悪化していく中、鎌倉幕府は、援軍の派遣を決定します。
この援軍の中には、後に鎌倉幕府を裏切る足利尊氏の姿もありました。
足利尊氏の攻める先は、隠岐を脱出した後醍醐天皇が身を置いている船上山(今の鳥取県琴浦町にある)!!
・・・のはずでしたが、その足利尊氏が突如として後醍醐側に寝返り、六波羅探題に攻め込んできます。超展開過ぎワロタw
足利一族は、関東ではかなりの名門で鎌倉幕府でも重要な軍事力として重用されていました。しかし、足利尊氏は北条氏に服従し続けることにどうしても納得がいかない。
というのも、足利氏は元を辿れば後三年の役で活躍した源氏の英雄、源義家から繋がる血筋。
一方、北条氏は桓武平氏、つまり平清盛も属していた平氏の一族だったんです。これに足利尊氏は不満でした。
足利尊氏「源平合戦では源氏が勝利し、そのおかげで今の鎌倉幕府がある。それなのにこの現状はなんだ。俺は本当に桓武平氏の北条氏に服従しているだけで良いのか?今こそ、再び源氏が立ち上がる時だ!」
しかも当時は、こんな伝説が噂として広まっていました。
「平氏【平家政権】→源氏【鎌倉時代初期】→平氏(北条氏)【鎌倉時代中期以降】と歴史が動いている。とするならばだ、次は源氏の時代になるんじゃねーか?」(これは源平交代説とも呼ばれる)
こんな噂も足利尊氏を後押しし、足利尊氏は大胆な行動に出たわけです。
足利尊氏が裏切った頃、実は京都は既に戦場になっていました。豊後国で放棄した赤松則村が六波羅のある京に攻め込んでいたからです。赤松則村は劣勢に立たされていましたが、そこに足利尊氏も参戦し、京では激戦が繰り広げられたと言われています。
この戦いで六波羅探題は滅亡。六波羅探題の統括者であった北条仲時、北条時益は自害。そして、後醍醐天皇の意を無視して即位した光厳天皇は捕らえられてしまいます。
5月10日、本拠地(六波羅探題)を落とされた千早城攻め中の幕府軍は、もはや城を攻めている場合ではありません。撤退を余儀なくされますが、撤退の途中、ゲリラ部隊の奇襲を受け、多くの者が撤退途中に命を落としました。
千早城の戦いは、巧みな戦略でひたすら敵を足止めをし、他の者たちが挙兵する時間を稼いだ楠木正成の粘り勝ちでした。
元弘の乱と鎌倉幕府滅亡
足利尊氏が六波羅探題に攻め入ったのは1331年5月7日、実はその翌日の5月8日、関東ではさらにトンデモナイことが起こりました。
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> 新田貞義、裏切り!鎌倉に向けて挙兵! <
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【新田義貞】
北条氏の専制政治に不満を持った新田義貞(にったよしさだ)が、挙兵。しかも、行き先は京ではなく鎌倉。京での混乱に乗じて、鎌倉を乗っ取ろうとしたのです。
1333年5月22日には、新田義貞軍は鎌倉に到達し、鎌倉では大混戦が行われます。その様子はまさに地獄絵図。戦乱の後、鎌倉には大量の屍が無造作に横たわり、修羅の街と化しました。
鎌倉幕府の得宗であった北条高時も、東勝寺というお寺で自ら命を絶ち、この高時の死によって、鎌倉幕府は滅ぶことになります。
そして、この東勝寺での戦いによって、ようやく元弘の乱は終わりを迎えることになります。
ちなみに、この新田義貞もご先祖を辿れば、足利尊氏と同じく源氏の一族。元弘の乱は、平氏VS源氏の源平合戦の再来だったのです。
元弘の乱まとめ
ここまでハイライトで元寇の乱を紹介しました。元弘の乱は1331年〜1333年の2年間のお話なんですけど、密度が濃過ぎてとても2年とは思えません(汗。
後醍醐天皇の隠岐脱出から始まり、チート級の最強無敵を誇る楠木正成、突如として幕府を裏切った足利尊氏、同じく北条を裏切り、敵の本拠地を一気に襲撃した新田義貞。
予想だにしない出来事が次々と起こる元弘の乱は、読み物としては非常に面白いです。「事実は小説よりも奇なり」のとおりで、歴史を追うだけでも変な小説を読むよりもずっと面白いです。
この記事では細かい戦局まで書ききれませんでしたが、もしこの記事を読んで元弘の乱に少しでも興味を持ったのなら、ぜひ太平記を読んでみてください!
ちょっと古いですが、以下の漫画がとてもわかりやすくてオススメ。
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