

今回は、1840年に起きたアヘン戦争について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
アヘン戦争とは
アヘン戦争とは、麻薬の一種であるアヘンを清ヘどんどん売って儲けたいイギリスと、それを阻止したい清との間で起きた戦争のことを言います。
結果は、イギリスの勝利。敗北した清は、イギリスと不平等な条約(南京条約)を強いられ、アヘン戦争後も長い間、イギリスの影響を受け続けることになります。
一方、勝者となったイギリスは、アヘン戦争での勝利を足掛かりとして、東アジア・東南アジアへの進出を加速するようになり、東南アジアを植民地化したり、日本と接触するようになっていきました。

東アジアの歴史を大きく動かしたアヘン戦争は、歴史を学ぶ上で絶対に知っておきたい出来事の1つです。
アヘン戦争がどんな戦争でなぜ起きたのか、この記事を通じてバッチリ確認しておきましょう!
そもそもアヘンってなに?

アヘンが麻薬って話はよく聞くけど、具体的にどんなものなのかしら?

アヘンっていうのは、ケシの実の果汁を乾燥させて得られる麻薬のことだよ。
アルコールに漬けて飲んだり、火で炙って煙を吸ったりすると快楽を得られて中毒性もあったから、一度アヘンにハマってしまうとそのまま廃人になってしまう人も多かったんだ・・・。

1800年代に入ると、清ではアヘン中毒者の急増が大きな社会問題になりました。
そこで清は、アヘンの輸入に規制をかけたり、密輸の取り締まりを強化しようとしますが、アヘン取引で大儲けしていたイギリスはそれを簡単には許しませんでした。
イギリスと清の関係〜三角貿易〜

イギリスは、なぜそこまでアヘンにこだわるの?
大儲けできたのはわかるよ。でも、それで戦争を起こすっていうのは少しやりすぎなんじゃないかな。

それはね、イギリスの経済がアヘンに強く依存していたからなんだ。
当時のイギリスと清には、下図のような三角貿易と呼ばれる経済関係がありました。

三角貿易をザックリ説明すると、『イギリスがインドを仲介して清国にアヘンを売りつけ、イギリスが銀貨をたっぷり設ける仕組み』です。
※「三角貿易ってなに?」って人は、まずは三角貿易の記事を先に読んでみてくださいね!
三角貿易によって清に大量のアヘンが流入した結果、清は2つの大きな社会問題に直面することになります。
アヘンの中毒によって、廃人になる清国民が続出したこと
アヘンを購入するため、清の保有する銀貨が大量に国外へ流出してしまったこと
この2つの社会問題は、三角貿易が始まってから日に日に深刻化し、清はアヘンの取り締まりを実施しますが、なかなか効果が上がりません。

取り締まりを強化しても、商人たちは闇取引でアヘンの売買を継続したり、取り締まりをするはずの清の役人が賄賂で買収されてしまったりして、効果はイマイチでした。
1838年、清はアヘン取り締まりを強化するため、林則徐という人物を広東省へ送り込みます。
※広東省は、アヘン取引が活発に行われていた場所でした。場所は香港やマカオがあるあたりです。

林則徐、アヘン取り締まりを本格化
林則徐は、それまでの担当者と違って賄賂によって買収されることもなく、軍部と連携しながら、アヘンの闇取引を続けるイギリス商人たち(※)を徹底的に取り締まりました。
※アヘンを売りに来る多くの商人はイギリス人だったのです・・・!

1839年3月、林則徐は、広州市(広東省の省都)に滞在しているイギリス商人に対して、「もし、今後も清と貿易を続けたいなら次の2つのことを守れ!」と厳しい要求を突きつけました。
【要求その1】
今後、アヘン取引をしないと誓約書を書くこと。なお、もし誓約を破ったら死刑に処す。
【要求その2】
イギリス商人が今持っているアヘンは全て清国政府が没収すること
清の貿易監督官(※)を任されていたチャールズ・エリオットは、これらの要求を無視します。
・・・が、これにブチギレた林則徐が官兵を率いて脅してきたため、ひとまず、要求その2だけを飲むことにしました。
※トラブルの絶えなかったイギリスと清との貿易を監督するために設置されたイギリス政府の役職のこと

私は今、林則徐に対抗しうる軍事力を持ち合わせていない。悔しいが、今は清の言うことに従うしかない。
この緊迫した状況を大至急でイギリス本土に伝え、本国からの指示や援軍を待つほかないか・・・。
イギリス「アヘン取引を認めないなら清と戦争する!」
1839年9月末、エリオットからの報告がイギリス本土に届くと、10月1日、イギリス政府は清への報復措置として、遠征軍を派遣してアヘン取引を拒む清を懲らしめることにしました。
1840年3月には、イギリス議会にて遠征軍派遣に向けた予算案も可決され、出兵の準備が整いました。
実は、アヘン取引を拒む清を武力で屈服させることには、イギリス国内でも反対の声が多くありました。

麻薬(アヘン)の密輸を清に認めさせるために戦争をするなんて、あまりに非人道的すぎない?
イギリス議会では激しい論戦が交わされ、予算案は賛成多数で可決されたものの、反対票との差はわずか数票でした。
イギリスは清との戦争を決定しましたが、イギリスの世論は必ずしも戦争一辺倒ではなかったのです・・・。

要するに「林則徐によるアヘン取り締まり強化が、イギリスに戦争を決断させた」ってことだと思うんだけど、アヘン取引ってイギリスにとってそんなに大事なことだったの?
戦争はイギリスにも負担を強いるものだし、よほどのことがない限り簡単に決断できないことだと思うんだけど・・・。
実は、アヘン取引が莫大な利益をイギリスにもたらし続けた結果、イギリス経済はアヘン取引がなければ成り立たないほど、アヘンに強く依存するようになっていました。
すると、「清がアヘン取引を取り締まる」=「イギリス経済が大ダメージを受けて国民の生活が苦しくなる」って構図が成り立つので、アヘンの話はイギリスにとっても決して他人事ではなくなっていたのです。

清では多くの人たちがアヘンのせいで廃人になった・・・って話をしたけど、実はイギリス経済もアヘン依存症に陥っていて、アヘンなしには資本主義化したイギリスの国民生活を支えられなくなっていたんだ。
アヘン戦争
1840年5月、イギリスはインドに駐留していた海軍を清へ派遣。イギリス海軍は6月には清に到着し、清への攻撃を開始しました。こうして起きたのがアヘン戦争です。
イギリスは軍艦を主戦力として、海沿いの主要都市に攻撃を仕掛けます。
イギリスは最初こそ攻めあぐねたものの、1841年に入ると1月には香港を占領し、快進撃を続けました。
その後も厦門・寧波などを攻略し、1841年の秋には中国南部の主要港の掌握に成功します。

イギリスの圧倒的な海軍力の前に、清軍はコテンパンにやられてしまったんだ。
当時、船というのは風の力で動かす帆船が一般的でした。
帆に風を当てて船を動かすので、船の操舵は風力や風向に大きく左右されました。
・・・ところが、イギリスの最新鋭軍艦は蒸気機関を搭載していたので、風や潮流に左右されず、帆船と比べて自由に海上を動くことが可能でした。
※蒸気機関:石炭を燃やして発生させた蒸気の力でもの動かす機関のこと
船の動きを正確に操作できると、大砲の照準も正確に狙うことができ、正確無比なイギリス軍艦からの砲撃が、清の帆船を次々と木っ端微塵にしていったのです。

1842年に入ると、イギリス軍は陸上から攻め上がるのではなく、長江を上って軍艦ごと清国へ侵入することを目論みます。
イギリスはその圧倒的な海軍の力で清を圧倒しますが、実は地上戦では苦戦を強いられていました。
イギリス軍が上陸すると現地に住む漁民・農民はイギリス軍に徹底抗戦しました。漁民・農民は、強力な武器を持たない代わりに、地の利を生かした徹底したゲリラ戦を展開してイギリス軍を窮地に追い込みました。

とはいえ、局地的に清が勝利することはあっても、戦局全体で見ればアヘン戦争はイギリスの圧倒的有利に展開していったよ。
5月には長江下流の占拠が完了し、長江から清国内部の侵入。7月には清国の要所だった鎮江を占領して、清国第2の都市である南京に迫りました。
要所の鎮江をイギリスに制圧されると、1842年8月、清はイギリスに対して降伏を宣言しました。
こうしてアヘンをめぐる約2年にわたる戦争(1840年6月〜1842年8月)は、イギリスの勝利に終わったのです・・・。
中国には昔から「南糧北調」という言葉があります。
『温暖な中国南部で産出した食糧を、首都北京がある中国北部で消費する』っていう中国の風習を指しています。
清国には、南で産出した食糧を首都の北京へ運ぶための大運河が存在しており、この大運河と長江を中継する要所が鎮江でした。
海路や長江から船で運ばれてきた物資は、一度鎮江に集められて、鎮江から北京へと運搬されていきます。
・・・つまり、鎮江をイギリスに奪われたというのは、「北京に食糧を送る物流ルートをイギリスに封鎖された」のと同じことを意味していて、首都(北京)は兵糧攻めの危機に陥ったわけです。
この危機的事態を受けて、清政府の対抗心もついに折れ、イギリスに降伏した・・・というわけです。
南京条約
1842年8月29日、戦後処理としてイギリスと清は、南京にて条約を締結します。(南京条約)
その内容は、
1.清はイギリスに多額の賠償金を払うこと
2.香港をイギリスに渡すこと
3.清の5つの主要港(広州・厦門・福州・寧波・上海)を開港して、自由な交易を認めること
などを清に認めさせたもので勝者イギリスにとって圧倒的に有利な内容でした。
さらに翌年(1843年)になると清は、イギリスの治外法権を認めたり、清の関税自主権を奪う不平等条約まで結ばされました。

清がイギリスに負けたってよww
俺もイギリスみたいに、アメリカに有利な条約を清に結ばさせようかなw

マジで!?
俺も参加するわ〜ww
という感じで、1844年にはイギリスと結んだ条約とほぼ同じ内容の条約をアメリカ・フランスとも結ばされることになりました。(アメリカ結んだのが望厦条約、フランスと結んだのが黄埔条約)
肝心のアヘンの話は、条約では一切触れられず、条約とは別にイギリスは清に『清はイギリスのアヘン貿易に口出しをしない』という密約を結ばさせました。

もともとアヘンは秘密裏に売買されていたから、公式の条約に堂々とアヘンの話を載せることはできなかったんだね。
こうしてアヘンの密輸は黙認されることになり、清へのアヘン輸入はさらに増える結果となりました。
アヘン戦争のその後
アロー戦争
南京条約を結んだイギリスは、今後の清との貿易に大きな期待を抱きます。

もともとイギリスは、産業革命で大量生産できるようになった綿製品を清に直接売り込みたいと考えていました。
・・・ところが、イギリスの綿製品は不評であまり売れませんでした。
だからイギリスは、仕方なくインド経由でアヘンを売り込む三角貿易に甘んじていたんだけど、南京条約をきっかけにイギリスは『今なら5つも港を開港させたわけだし、綿製品だってバンバン売れるんじゃね!?』と考えるようになったんだ。
※詳しくは、三角貿易の記事も読んでみてね!
しかし、南京条約の成果はイギリスの期待外れでした。開港させた港を増やしても、やっぱりイギリス産の綿製品は売れなかったのです・・・。(ただし、インド経由のアヘンは相変わらず爆売れでした)
そこでイギリスはこう考えます。

うーん、南京条約の内容が少し甘かったかなぁ・・・。もっと開港する港を増やしたり、イギリス商人が清国内で自由に商売できるように清に圧力をかければ、イギリス製品はきっともっとたくさん売れるはず!
圧力をかけるには戦争をして負かしてやるのが一番手っ取り早いから、何かイチャモンをつけてまた戦争吹っかけたろww
このイギリスの目論見は現実のものとなり、1856年、イギリスと清は再び戦争をすることになります。(アロー戦争)
太平天国の乱
一方の清国は、南京条約によって背負わされた多額の賠償金を支払うため国民に重税を課しました。
さらにアヘン戦争で負けたことによる威信の失墜、長年続く腐敗した政治への不信感も相まって、国民たちの間では清政府への不満が溜まっていきました。
1851年、この不満が爆発する形で清で大規模な反乱が起きました。(太平天国の乱)
こうして清は、内紛とイギリスからの外圧の板挟みとなり、苦難の時代を迎えることになります・・・。
コメント
1840年であるところが、1940年と誤記されているところが数箇所もあるので、早めに訂正してください。
ご指摘ありがとうございます。訂正いたしました。