後白河法皇(天皇)について簡単にわかりやすく徹底紹介するよ!【性格・系図や清盛、義経との関係など】

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後白河法皇

後白河法皇とは?白河上皇との違いと30年の院政をわかりやすく解説

もぐたろう
もぐたろう

今回は、平安末期に「日本一の大天狗」と呼ばれた後白河法皇ごしらかわほうおうについて、生涯・白河上皇との違い・清盛や頼朝との関係まで、わかりやすく丁寧に解説していくよ!

「後白河法皇」と聞くと、武士たちに振り回された頼りない法皇——というイメージを持つ人が多いかもしれません。

でも実は、後白河法皇は平清盛・木曽義仲・源頼朝という3人の権力者から何度も幽閉されながら、30年以上も院政を続けた最強の生き残りでした。

あの源頼朝に「日本国一の大天狗」と言わしめた、平安末期最大の謀略家。この記事では、そんな後白河法皇の生涯と人物像を、白河上皇との違い・清盛や頼朝との関係まで含めてじっくり解説していきます。

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後白河法皇ごしらかわほうおう(天皇)とは?

後白河法皇の肖像画
後白河法皇の肖像(出典:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

後白河法皇とは?

第77代天皇として在位(1155〜1158年)、生没年は1127〜1192年(享年66)。
② 「天皇 → 上皇 → 法皇」と称号を変えながら、平安末期に約30年間院政を行った「治天の君」。
③ 保元の乱・平治の乱・治承寿永の乱を生き抜き、源頼朝から「日本国一の大天狗」と評された平安末期最大の政治家。

後白河法皇は、平安時代の終わりごろに天皇・上皇・法皇として君臨し、平清盛源頼朝といった武士たちと激しく渡り合った人物です。

もともとは皇位継承の本命ではなく、「今様いまよう」という当時の流行歌に熱中する一風変わった皇子でした。それがひょんなきっかけで天皇になり、その後は退位・出家を経ながらも30年以上にわたって政治の実権を握り続けます。

もぐたろう
もぐたろう

後白河法皇って、ざっくり言うと「大河ドラマの黒幕枠」みたいなポジションの人なんだ。表に出て戦うわけじゃないんだけど、清盛・義仲・頼朝を裏で動かして、平氏滅亡・鎌倉幕府成立という大事件を全部見届けた人なんだよ!

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天皇・上皇・法皇の違いって何?

「後白河天皇」「後白河上皇」「後白河法皇」と3つの呼び方を見かけて、「結局どれが本当なの?」と混乱した人も多いはず。じつはこれ、全部同じ一人の人物なんです。

あゆみ
あゆみ

大河ドラマだと「上皇」って呼ばれてたり「法皇」って呼ばれてたり…名前がコロコロ変わるから別人だと思ってたわ。

もぐたろう
もぐたろう

あるある!じつは全部同じ人だよ。天皇=在位中上皇=退位したあと法皇=さらに出家したあとの呼び方なんだ。人生のステージで呼ばれ方が変わるイメージだね!

① 天皇:在位中の称号(在位=皇位についている期間)

② 上皇(太上天皇):退位したあとの称号(譲位して「院」に移った状態)

③ 法皇(太上法皇):さらに出家したあとの称号(仏門に入った上皇)

後白河の場合、この3段階の称号変化が実際に当てはまります。

後白河の称号変化(実例)

後白河天皇(1155〜1158年):第77代天皇として在位
後白河上皇(1158〜1169年):二条天皇に譲位し、院政を開始
後白河法皇(1169〜1192年):出家して仏門に入ったあとも院政を継続

※同じ一人の人物の人生の段階の違い。教科書や記事によってどの時期を指すかで呼び方が変わります。

ゆうき
ゆうき

じゃあ「後白河上皇」って時期って、退位後〜出家前の1158〜1169年ごろの話ってことになる?

もぐたろう
もぐたろう

そうそう!ざっくりだけど「上皇」なら平治の乱〜清盛の台頭まで、「法皇」なら源平合戦〜鎌倉幕府成立までの時期、って覚えておくと年代も整理しやすいよ!

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後白河天皇ごしらかわてんのうと白河天皇しらかわてんのう(白河上皇)の違いは?

「白河天皇」と「後白河天皇」——名前が似ているので同一人物だと思っている人がとても多いのですが、じつは2人はまったくの別人です。

あゆみ
あゆみ

ドラマで見てたけど、白河上皇と後白河上皇って同じ人じゃないの?「後」がついてるだけだから、晩年の呼び方かと…

もぐたろう
もぐたろう

これ、ほんとに間違えやすいんだ!白河天皇と後白河天皇は約70〜100年も離れた別人だよ。「後」っていうのは、後白河天皇が「あの白河天皇みたいになりたい」と憧れて、後ろにつけた追号おくりななんだ!

白河天皇 vs 後白河天皇 比較

白河天皇(第72代)
生没年:1053〜1129年/在位:1073〜1086年
業績:1086年に院政を始めた創始者。摂関政治から院政への大転換を主導

後白河天皇(第77代)
生没年:1127〜1192年/在位:1155〜1158年
業績:保元の乱に勝利し、武士の力を借りて院政を約30年継続。源平合戦を生き抜く

👉 両者には約75年(約5代)のひらきがあり、白河は後白河のひいおじいさんの代の人物。同一人物ではありません。

白河天皇の肖像
白河天皇の肖像(出典:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

■ 「後」の意味って何?

「後白河」「後鳥羽」「後醍醐」など、天皇名の頭に「後」がつくのを見たことがあると思います。これは加後号かごごうと呼ばれるルールで、過去の同名の天皇を尊敬して、その後に「後」をつけて名乗る仕組みです。

📌 豆知識:「後」がつく有名な天皇
・後白河天皇(白河天皇を尊んだ追号)
・後鳥羽天皇(鳥羽天皇を尊んだ追号)
・後醍醐天皇(醍醐天皇を尊んだ追号)
いずれも、過去の偉大な天皇にあやかって「後」をつけた呼び名なんだよ。

後白河天皇の「後」も、院政を始めた白河天皇への敬意を込めてつけられたもの。つまり、名前の段階で「白河天皇のような院政を行いたい」という意思表示がされているのです。

後白河天皇の幼少期と即位まで

後白河天皇は1127年、鳥羽天皇とばてんのう第4皇子として生まれました。母は待賢門院璋子。同じ母から生まれた同母兄に、のちに保元の乱で対立する崇徳天皇がいます。

第4皇子という立場上、後白河は本来なら皇位とは無縁のはずでした。皇位継承を本気で意識していなかった彼が熱中したのが、当時流行していた庶民の歌謡「今様いまよう」です。

今様ってなに?

「今様」とは、平安時代後期に流行した「今ふうの歌謡」のこと。遊女や白拍子(女性芸能者)が歌い踊った大衆的な流行歌で、現代でいえば「ヒットチャートのポップス」のような存在でした。後白河はこの今様の魅力に取り憑かれ、生涯にわたって歌い続けます。

後白河法皇
後白河法皇

今様を歌うことだけが、わしの楽しみだったのだ…。皇位など、まさかわしのところに回ってくるとは思いもしなかった。

父・鳥羽法皇からは「帝王の器ではない」と見なされていたとも言われ、当時の公家社会では「歌いすぎる変わり者の親王」として浮いた存在だったようです。

■ 思いがけない即位(1155年)

後白河に思いがけないチャンスが訪れたのは、1155年のこと。兄・崇徳天皇の異母弟である近衛天皇このえてんのうが、わずか17歳で病死してしまったのです。

当時の朝廷では「次の天皇を誰にするか」をめぐって激しい綱引きがありました。崇徳上皇は自分の子・重仁親王しげひとしんのうを天皇にしたかったのですが、これを阻止したのが父・鳥羽法皇でした。

鳥羽法皇は崇徳系の即位を許さず、苦肉の策として後白河を「中継ぎの天皇」として即位させることを決断。こうして後白河は29歳で第77代天皇になりました。

ゆうき
ゆうき

「中継ぎ」って、すぐ次の人にバトンタッチするってこと?

もぐたろう
もぐたろう

そう!本命は後白河の息子・守仁親王(のちの二条天皇)だったんだ。「息子が成人するまでパパが代わりに座っといて」みたいな扱いだったんだよ。ところがこの「中継ぎ」が、結局30年以上も政治のトップに居座ることになるのが歴史の面白いところ!

保元の乱ほうげんのらんと崇徳天皇との対立

1156年、後白河が即位した翌年に起きたのが保元の乱です。父・鳥羽法皇が崩御したことをきっかけに、それまで押さえつけられていた天皇家・摂関家の不満が一気に爆発しました。

保元の乱の合戦図(保元平治合戦図屏風)
保元の乱を描いた絵巻(出典:Wikimedia Commons・パブリックドメイン)

戦いの構図は、ざっくり次のとおりです。

保元の乱(1156年)の対立構図

後白河天皇方(勝者)
 天皇:後白河天皇/摂関家:藤原忠通/武士:平清盛源義朝みなもとのよしとも

崇徳上皇方(敗者)
 上皇:崇徳上皇/摂関家:藤原頼長/武士:源為義・源為朝みなもとのためとも(義朝の弟・父)

👉 兄弟(後白河 vs 崇徳)、摂関家の兄弟(忠通 vs 頼長)、武士の親子(義朝 vs 為義)が真っ二つに分かれて戦う異常事態でした。

ゆうき
ゆうき

保元の乱って何が起きたの?「初めて貴族の争いで武士が動員された戦い」って聞いたけど、どういうこと?

もぐたろう
もぐたろう

そう、まさにそれ!それまで貴族の争いは「話し合い」「儀式」で決着していたのに、保元の乱では初めて武士が決着役になったんだ。「武士の時代の始まり」とよく言われる超重要な戦いだよ!

■ 崇徳上皇の讃岐流刑と怨霊伝説

崇徳天皇の肖像
崇徳天皇の肖像(出典:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

戦いは清盛・義朝率いる後白河方が勝利。敗れた崇徳上皇は捕らえられ、讃岐(現在の香川県)に流罪となります。これは奈良時代の淳仁天皇以来、約400年ぶりの天皇経験者の流刑でした。

崇徳天皇
崇徳天皇

朕は天皇であったぞ…。それを弟ごときに敗れ、罪人として島流しとは…。この恨み、決して忘れぬ。

讃岐での崇徳上皇は写経に励みながら都への帰還を願いますが、後白河側はこれを拒否。失意のうちに1164年、配流先で崩御します。

保元物語ほうげんものがたり』などの軍記物語によると、崇徳は最期に「われ日本国の大魔縁となり、天下を乱さん」と誓い、舌を噛み切って血で経文に呪詛を書き残したと伝えられます。その後、京で天変地異・疫病・後白河近親の死が相次いだことから、「崇徳の怨霊」として広く恐れられるようになりました。

日本三大怨霊のひとり

崇徳天皇は、菅原道真・平将門と並んで「日本三大怨霊」と呼ばれるほどの存在になりました。後白河にとっても、兄を死に追いやった負い目は生涯ついて回り、後年わざわざ崇徳の霊を慰めるための寺院(粟田宮など)を建立しています。

※「血で呪詛を書いた」「大魔縁になる」といった逸話は『保元物語』など後世の軍記物による伝承で、史実性には諸説あります。

もぐたろう
もぐたろう

保元の乱の勝利は、後白河にとって「玉座を守った」だけじゃなく、「兄を死に追いやった」という重荷も残したんだ。だからこそ、その後の30年間ずっと崇徳の怨霊に怯えながら政治をすることになるんだよ…。

平清盛たいらのきよもりとの関係と院政の始まり

平清盛の肖像
平清盛の肖像(出典:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

保元の乱の勝利から2年後の1158年、後白河天皇は息子の二条天皇にじょうてんのうに譲位し、後白河上皇として院政を開始します。31歳での退位は当時としては早く、ここから30年以上におよぶ「治天の君」としての政治が始まりました。

■ 院政とはどんな仕組み?

あゆみ
あゆみ

そもそも「院政」ってどういう意味?「天皇じゃないのに政治するの?」ってモヤモヤするわ。

もぐたろう
もぐたろう

院政」っていうのは、天皇を退位した上皇が「院」と呼ばれる場所から政治を動かす仕組みのこと。今でいうと「会長職になって、社長を息子にさせつつ実権は握り続ける」みたいなイメージだね!

院政が始まったのは1086年、白河上皇の代から。天皇でいる間は摂関家(藤原氏)の影響を強く受けるけれど、上皇になれば摂関家の枠から自由になって、自分の意思で政治を動かせる——というのが院政の最大のメリットでした。

📌 院政の仕組みざっくり整理
・上皇が「院庁いんのちょう」を設けて政務を行う
・側近を「院近臣いんのきんしん」として登用
・武士を「北面の武士」として直属の軍事力に
👉 後白河はこの3点セットを駆使して、武士と直接やり取りできるルートを確保していたよ

■ 平治の乱と清盛の台頭

1159年、院政開始の翌年に勃発したのが平治の乱です。藤原信頼・源義朝が後白河上皇の側近・藤原通憲(信西)を討つクーデターを起こし、後白河と二条天皇を一時的に幽閉しました。

しかしこのとき熊野詣に出かけていた平清盛が迅速に京へ戻り、義朝らを撃破。後白河と二条天皇を救出します。この戦いを境に源氏は没落し、平氏が朝廷で急速に台頭していきました。

平治の乱の勝利後、清盛は1167年に武士として初めて太政大臣に就任し、娘の徳子を高倉天皇に嫁がせて外戚として権力を握る「平氏政権」を築き上げます。後白河院政と平氏政権は、お互いに利用しあう蜜月期を迎えました。

■ 治承3年のクーデターと後白河幽閉(1179年)

蜜月は長くは続きませんでした。1169年に後白河は出家して法皇となり、いよいよ院政の独自色を強めようとします。すると後白河は反平氏勢力を院近臣として登用し始め、平氏との対立が深まっていきました。

平清盛
平清盛

後白河上皇…なかなか厄介な相手だわい。協力する相手でもあるが、放っておけばすぐに我ら平氏を抑え込もうとなさる。

決定的だったのが1177年の鹿ヶ谷ししがたにの陰謀(後白河の側近が平氏打倒を企てた事件)の発覚。そして1179年、ついに清盛が動きます。

治承3年(1179年)のクーデター:清盛が福原(現在の神戸)から大軍を率いて京へ進軍。後白河法皇を鳥羽殿とばどのに幽閉し、院政を強制停止させた。

このクーデターによって、後白河は約1年半にわたって政治の表舞台から退場させられます。しかし1181年に清盛が熱病で急死すると、後白河はすぐさま院政を再開。「幽閉されてもしぶとく復活する」——これが後白河の真骨頂でした。

もぐたろう
もぐたろう

1179年のクーデターは、後白河にとって3回幽閉される人生の1回目。このあと木曽義仲・源頼朝にも振り回されるけど、それでも院政を続けたのが後白河のすごいところ。次の章では、義経・頼朝との関係をくわしく見ていくよ!

義経よしつね・頼朝よりともとの関係と「日本一の大天狗だいてんぐ」評

1180年、後白河法皇の皇子・以仁王もちひとおうが平氏打倒の令旨りょうじを全国の源氏に発したことで、いわゆる治承・寿永の乱(源平合戦)が始まります。後白河法皇はこの戦乱を、武士たちを巧みに使い分けて生き延びる絶好の機会ととらえました。

源平合戦の主要な戦いの地図
源平合戦の主要な戦場(manareki.com作成)

■ 源義経を利用した戦略

1183年に平氏が都落ちすると、後白河は鎌倉で挙兵した源頼朝の弟・源義経に目をつけます。義経は一ノ谷いちのたに屋島やしま壇ノ浦の戦いで平氏を次々と打ち破る天才的な軍才を発揮し、1185年に平氏を滅亡へと追い込みました。

源義経の肖像
源義経の肖像(出典:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

その義経に、後白河法皇は頼朝の許可なく官位を授けるという思い切った行動に出ます。狙いは明確で、強くなりすぎた頼朝を義経で牽制し、兄弟を対立させて武士の力を削ぐこと——典型的な「分割統治」の発想でした。

このとき後白河が義経に与えた官位は検非違使けびいし(京都の治安を司る重要職)でした。頼朝は以前から義経への官位授与を後白河に禁じており、これを後白河が無視した形です。義経を朝廷の官人として取り込むことで、「頼朝の部下ではなく、院の手下にする」——後白河の計算は鮮やかでしたが、頼朝を激怒させ、兄弟の決裂を決定的にしました。

木曽義仲きそよしなか追討と義経の利用

義経が活躍する前には、もうひとり後白河を悩ませた武将がいました。それが木曽義仲(源義仲)です。1183年に平氏を都から追い払って入京した義仲ですが、軍勢の乱暴狼藉と政治への介入で後白河と対立。1183年11月には後白河法皇を法住寺殿に攻撃して幽閉するという暴挙に出ました(法住寺合戦ほうじゅうじかっせん)。

これは後白河にとって2回目の幽閉。しかし後白河は脱出すると、すぐさま鎌倉の頼朝に救援を要請。頼朝は範頼・義経を派遣し、1184年に義仲を近江おうみ粟津あわづで討ち取らせました。

📌 後白河の3回の幽閉
① 1179年:平清盛に鳥羽殿で幽閉(治承3年のクーデター)
② 1183年:木曽義仲に法住寺殿で幽閉(法住寺合戦)
③ それでも3回とも復活し、院政を続けた
👉 「権力者に幽閉される→脱出して再起」を繰り返したのが後白河の異様な強さです。

■ 頼朝との緊張関係と「大天狗」評

1185年に平氏が滅亡すると、義経と頼朝の関係は急速に悪化します。義経が頼朝の許可なく後白河から官位を受けたことで、頼朝は弟を「朝廷に取り込まれた裏切り者」とみなすようになりました。

後白河法皇
後白河法皇

義経という駒は使い勝手がよかったのだがな…。頼朝が思いのほか怒り狂うとは、わしも計算違いであった。

ゆうき
ゆうき

頼朝が後白河を「日本一の大天狗」って呼んだって聞いたんだけど、これってどういう意味?ただの悪口じゃないよね?

もぐたろう
もぐたろう

吾妻鏡あづまかがみ』っていう鎌倉幕府の歴史書に出てくる有名な言葉なんだ。頼朝が「日本国第一の大天狗は、ほかの者ではない」って後白河を指して言ったとされる。「大天狗=人を欺く最高の謀略家」って意味で、皮肉と賞賛が混ざった評価だよ!

義経追討を口実に、頼朝は1185年11月に後白河から守護しゅご地頭じとうの設置権を引き出します。これが事実上の鎌倉幕府成立につながる重要な制度で、後白河は武家政権の基盤づくりに「協力」せざるを得ませんでした。

「大天狗」発言の出典と諸説

「日本一の大天狗」発言は、鎌倉幕府の準公式記録『吾妻鏡』文治元年(1185年)11月15日条に登場します。頼朝が義経追討の使者に語った言葉とされ、原文では「日本第一之大天狗、更非他者也」と記されています。

ただし、これが本当に頼朝の発言かどうかには諸説あり、「『吾妻鏡』編纂時の脚色」「文脈的には後白河ではなく別の側近を指す」とする研究者もいます。「謀略家のラスボス」というニュアンスでイメージが定着したのは江戸時代以降だと言われています。

もぐたろう
もぐたろう

清盛・義仲・頼朝という3人の最強武士をそれぞれ手玉に取り、3回幽閉されながら一度も退場しなかった——これが後白河が「大天狗」と呼ばれた理由なんだ。次の章では、文化人としてのもうひとつの顔を見ていくよ!

後白河法皇の文化への貢献

謀略家としての顔の裏で、後白河法皇には類まれな文化人としての一面がありました。今様への熱中・34回もの熊野参詣・三十三間堂の建立——どれも平安末期の文化を語るうえで欠かせない業績です。

梁塵秘抄りょうじんひしょうと今様への熱中

後白河が最も愛したのは「今様いまよう」という当時の流行歌でした。今様は7・5調で歌われる庶民的な歌謡で、貴族からは「下品」と軽蔑されることもありましたが、後白河は青年期から夢中になり、芸能民である白拍子しらびょうし遊女たちを宮中に呼んで歌を習いました。

「昼は一日中歌い、夜は一晩中歌い明かした」

後白河自身が『梁塵秘抄口伝集』に書き残した言葉が有名です。曰く——「十余歳の時より今に至るまで、今様を好みて怠ることなし。昼は終日歌い暮らし、夜は終夜歌い明かす」。あまりに歌いすぎて声を3度もつぶしたといいます。

そして1180年頃、自分が集めた今様の歌詞と歌い方の心得をまとめたのが『梁塵秘抄』です。歌詞集10巻と口伝集10巻からなる大著で、後白河の文化的執念の結晶でした。

後白河法皇
後白河法皇

治天の君として武士どもを使いこなしながらも、今様だけは誰にも負けぬ自信があった。歌は身分を超える。遊女の声にこそ、まことの調べがあるのだ。

『梁塵秘抄』には「遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけむ、遊ぶ子供の声聞けば、わが身さえこそ動がるれ」など、教科書にも載る有名な歌が収められています。後白河は身分を問わず歌の上手な人物を宮中に招き、貴族文化と庶民文化を結びつけた文化的功労者でもありました。

今様の師匠・乙前(おとまえ)との秘話

後白河が「今様の師」と仰いだのが、乙前おとまえという高齢の遊女でした。後白河が上皇になった後も彼女を宮中に呼び寄せ、何年もかけて歌を習い続けます。乙前が高齢・病身になると、後白河は自ら見舞いに出向くほどの深い師弟関係でした。身分制度が厳格だった平安時代に、法皇が遊女の元へ足を運ぶ——この破格のエピソードが、後白河の「身分を超えて芸能に向き合う姿勢」をよく表しています。

■ 熊野参詣34回という驚異の信仰

後白河法皇のもうひとつの「執着」は、紀伊(現在の和歌山県)の熊野三山への参詣でした。記録に残るだけで生涯34回もの熊野詣を行っており、これは歴代の上皇・法皇のなかでも群を抜く回数です。

京都から熊野までは片道20日ほどかかる難路で、往復1ヶ月以上の大旅行になります。そんな道のりを30回以上繰り返したというのは、政治の合間を縫ってでも信仰に時間を費やしたということ。後白河の精神世界の深さがうかがえるエピソードです。

もぐたろう
もぐたろう

34回の熊野詣はもうほぼ「1年に1回行ってる」レベル!崇徳の怨霊や政治の重圧から逃れたい気持ちもあったのかもね。ちなみに後白河の熊野好きが「熊野詣ブーム」を貴族たちに広げる火付け役にもなったんだよ。

蓮華王院れんげおういん(三十三間堂)の建立

1165年(長寛2年)、後白河は京都・東山に蓮華王院本堂(三十三間堂)を建立します。実際の建設は平清盛が後白河の命を受けて費用を負担したもので、当時の後白河と清盛の蜜月関係を象徴する建築物でもありました。

三十三間堂(蓮華王院)本堂外観
三十三間堂(蓮華王院)本堂外観

あゆみ
あゆみ

京都の三十三間堂って観光名所だけど、あれって後白河法皇と関係あるの?修学旅行で行ったときは何も知らなかったわ。

もぐたろう
もぐたろう

大ありだよ!三十三間堂は後白河法皇が清盛に造らせたお寺。本堂の正式名称が「蓮華王院本堂」で、内陣の柱間が33あることから「三十三間堂」と呼ばれるんだ。今は千手観音1001体が並ぶ国宝として大人気だよ!

創建時の本堂は1249年の火災で焼失しましたが、1266年に後嵯峨上皇の命で再建されたのが現存する本堂です。創建800年以上を経た今も、後白河法皇が選んだ場所に立ち続けているのです。

📌 三十三間堂の豆知識
・正式名称:蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)
・1165年(長寛2年)に後白河法皇の命で清盛が造営
・「三十三間」は柱の間(柱間)が33あることから
・現存する本堂は1266年再建、国宝
・1001体の千手観音立像がずらりと並ぶ姿は圧巻

後白河法皇の系図・皇子一覧

後白河法皇は複数の女御・更衣との間に多くの皇子・皇女をもうけました。そのなかには平氏滅亡のきっかけを作った皇子や、百人一首にも選ばれた皇女がいて、平安末期の歴史に直接影響を与えた人物が並んでいます。

■ 主要な皇子・皇女

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後白河法皇の主な子女

二条天皇(1143〜1165)
 第78代天皇。後白河の第1皇子。1158年に父の譲位で即位。後白河院政と対立した時期もあった。

以仁王(1151〜1180)
 後白河の第3皇子。1180年に平氏打倒の令旨を全国の源氏に発し、治承・寿永の乱の口火を切った。挙兵直後に宇治川の戦いで戦死。

高倉天皇(1161〜1181)
 第80代天皇。後白河の第7皇子で、平清盛の娘・徳子(建礼門院)を妻とした。清盛の外戚政策の要となった天皇。

守覚法親王(1150〜1202)
 仁和寺御室として真言密教を統率。文化人としても優れ、後白河の文化的志向を受け継いだ。

式子内親王(1149〜1201)
 後白河の皇女で、賀茂斎院を11年務めた。新古今集を代表する歌人で、百人一首89番「玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば 忍ぶることの弱りもぞする」の作者として有名。

ゆうき
ゆうき

以仁王って名前を初めて聞いたけど、なんで令旨を出せたの?皇子ってだけで全国の武士が動くの?

もぐたろう
もぐたろう

以仁王は皇位継承から外された不満を抱えていた皇子で、源頼政と組んで挙兵したんだ。本人はすぐ討たれちゃったけど、彼が出した「令旨(皇族の命令書)」が全国の源氏を動かして、結果的に平氏滅亡につながった!「火付け役」として歴史的にすごく重要な存在だよ。

■ 後白河法皇の晩年(1185〜1192年)

1185年の平氏滅亡後、後白河は鎌倉幕府の頼朝とのギリギリの駆け引きを続けながら院政を維持しました。1190年には頼朝が初めて上洛し、後白河と直接対面します。形式上は頼朝が法皇に拝謁する立場でしたが、実権は完全に頼朝側に傾いていました。

そして1192年3月13日、後白河法皇は66歳で崩御。1158年の院政開始から34年、5代の天皇(二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽)にわたる長期院政を貫きました。後白河の死からわずか4ヶ月後、頼朝が征夷大将軍に任じられ、名実ともに鎌倉幕府が成立します。

後白河法皇
後白河法皇

清盛、義仲、頼朝——皆わしより先に動いて、皆わしより先に去っていった。最後まで朝廷に残ったのはわしだけだったわ。今様の声を残せたことだけが、わが生涯の慰めじゃ。

よくある質問

すべて同一人物(後白河)の称号の変化です。「天皇」は在位中(1155〜1158年)、「上皇」は退位後(1158〜1169年)、「法皇」は出家後(1169〜1192年)に使われる呼び名です。最終的には法皇として崩御したため、後白河法皇という呼称が一般的になっています。

まったくの別人で、約70年の時代差があります。白河上皇(第72代・1053〜1129)は1086年に院政を始めた創始者。後白河上皇(第77代・1127〜1192)は1158年に院政を復興させた人物です。「後」は白河天皇を尊敬してつけた追号で、両者の直接の血縁は5代離れています。

鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』文治元年(1185年)11月15日条に記された、源頼朝が後白河法皇を評した言葉とされています。「大天狗=人を欺く最高の謀略家」という意味で、皮肉と畏敬が混ざった表現です。ただし出典の解釈には諸説あり、「頼朝発言ではなく『吾妻鏡』編者の脚色」とする研究者もいます。

後白河は院政で武家政権の独走を抑えようと反対勢力を巧みに動かしたため、武士たちから常に警戒されました。1179年に平清盛、1183年に木曽義仲によって幽閉されています。しかし両方とも相手の死去や敗死後に院政を再開し、最終的には鎌倉幕府成立まで生き残りました。「幽閉されても復活する」のが後白河の最大の特徴です。

後白河法皇が1180年頃に編纂した「今様(当時の流行歌)」の歌謡集です。歌詞集10巻と口伝集10巻からなり、「遊びをせんとや生まれけむ」など教科書にも載る有名な歌が収められています。後白河は「昼は一日中、夜は一晩中歌い明かす」ほど今様に熱中し、白拍子や遊女を宮中に呼んで習いました。庶民文化と貴族文化を結びつけた重要な業績です。

後白河法皇についてもっと詳しく知りたい人へ

もぐたろう
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後白河法皇についてもっと深く知りたい人に、おすすめの本を3冊紹介するよ!平安末期の激動を「読み物」として楽しみたい人から、原典に触れたい人まで、目的に合わせて選んでみてね。

①後白河法皇を手軽に全体像をつかみたいなら|まず読む1冊

後白河法皇

河合敦 著|幻冬舎

歴史作家・河合敦による読みやすい人物伝。保元の乱から院政終焉まで、後白河法皇の生涯をわかりやすい文章でたどれます。平清盛・源頼朝との確執や「日本一の大天狗」と呼ばれた権謀術数が一気読みできる入門書として最適です。

✓ こんな人におすすめ

平安末期を初めて学ぶ人・後白河法皇の全体像をサクッとつかみたい人・人物像を整理したい中高生・初心者

△ こんな人には向かない

史料に基づく詳細な政治分析を求める人・学術的な考証を重視する大学生・院政制度の仕組みを体系的に学びたい人


②後白河法皇を学術的に深掘りしたいなら|権力構造まで理解できる一冊

後白河法皇

棚橋光男 著|講談社

平安末期・中世史の第一人者・棚橋光男による講談社学術文庫の一冊。後白河法皇が「大天狗」と呼ばれた背景にある権力構造と情報独占の戦略、梁塵秘抄編纂の政治的意味まで多角的に論じます。歴史好きの社会人・大学生が「なぜ?」まで踏み込んで知りたい場合に最適です。

✓ こんな人におすすめ

後白河法皇の政治戦略を深く理解したい人・平安末期の権力構造を学術的に把握したい大学生・社会人の教養読書として

△ こんな人には向かない

気軽に読みたい人・人物の生涯を時系列で追いたい入門者・著者が途中で亡くなった遺稿集のため論点が未完の部分もある


③後白河法皇の「文化人」としての顔を知りたいなら|今様の原典に触れる

梁塵秘抄

後白河法皇(川村湊訳) 著|光文社

後白河法皇が自ら編んだ今様歌謡集『梁塵秘抄』の現代語訳。「昼は一日中、夜は一晩中歌い明かした」と言われた後白河の芸能への情熱が、800年の時を超えてリアルに伝わってきます。人物の素顔・感性に直接触れたい方に。

✓ こんな人におすすめ

後白河法皇の文化人としての側面を知りたい人・今様・平安文学に興味がある人・原典を現代語訳で読みたい社会人や大学生

△ こんな人には向かない

政治史・人物伝として後白河法皇を学びたい人・歌謡集より歴史ストーリーを追いたい人・入門書として使いたい人

まとめ:後白河法皇の30年間

後白河法皇は、保元の乱で兄・崇徳上皇を破って即位し、退位後は34年にわたって院政を続けた平安末期最大の実力者でした。平清盛・木曽義仲・源頼朝という3人の最強武士を相手にしながら、3度の幽閉を乗り越えてすべて生き残り、最後まで朝廷の頂点に立ち続けた——「日本一の大天狗」と呼ばれた背景には、こうした稀有な政治力がありました。

同時に、梁塵秘抄を編纂し、三十三間堂を建立し、熊野へ34回も参詣した文化人としての顔も忘れてはいけません。謀略家と芸能愛好家——二つの顔を併せ持つ後白河の生涯は、まさに「武士の時代へと移り変わる平安末期」を凝縮した30年間でした。

後白河法皇 略年表
  • 1127年
    鳥羽天皇の第4皇子として誕生
  • 1155年
    第77代天皇として即位(29歳)
  • 1156年
    保元の乱で崇徳上皇方を破る
  • 1158年
    二条天皇に譲位し、後白河上皇として院政を開始
  • 1159年
    平治の乱が勃発し、平清盛が源義朝を破る
  • 1165年
    蓮華王院本堂(三十三間堂)を建立
  • 1169年
    出家して後白河法皇となる
  • 1179年
    治承3年のクーデターで平清盛に幽閉される
  • 1180年
    梁塵秘抄を編纂(この頃)
  • 1183年
    法住寺合戦で木曽義仲に幽閉される(2回目)
  • 1185年
    壇ノ浦の戦いで平氏滅亡。頼朝に守護・地頭の設置権を認める
  • 1192年
    崩御(66歳)。その4ヶ月後、頼朝が征夷大将軍に

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以上、後白河法皇のまとめでした!「日本一の大天狗」って呼ばれるくらい謀略家で、でも今様を愛した文化人——一筋縄ではいかない人物だったね。下の関連記事で平清盛・崇徳天皇・院政・三十三間堂もあわせて読むと、平安末期の流れがもっと立体的に見えてくるよ!

📅 最終確認:2026年6月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)

参考文献

Wikipedia日本語版「後白河天皇」「保元の乱」「平治の乱」「梁塵秘抄」「蓮華王院本堂」(2026年6月確認)
コトバンク「後白河天皇」「梁塵秘抄」「院政」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)(2026年6月確認)
山川出版社『詳説日本史』(2022年版)
美川圭『後白河法皇 ── 「日本国第一の大天狗」の真実』(角川ソフィア文庫、2015年)

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この記事を書いた人
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