梶原景時ってどんな人?簡単にわかりやすく紹介!【義経との関係、梶原景時の乱とその最期など】

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今回は、源頼朝の側近中の側近で非業の死を遂げた梶原景時(かじわらかげとき)という人物について紹介します。

 

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梶原景時の一世一代の大勝負、石橋山の戦い!

梶原景時が歴史の表舞台に本格的に登場するのは、源平合戦初期に起こった石橋山の戦い。

 

 

北条時政らと協力して流刑地の伊豆を抜け出した源頼朝とそれを追ってきた平家軍との戦いです。

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源頼朝の側近だった梶原景時も、実は当時は平家軍に属していました。

 

流刑地を命からがら抜け出した頼朝軍の兵力は少なく、応戦するも頼朝軍はあっけなく敗北。

 

窮地に陥った頼朝は洞窟に身を潜め、敵の目をやり過ごそうとしますが、梶原景時らに見つかり、頼朝は死を覚悟。

 

「敵の手でやられるぐらいなら、せめて自分の手で自害してやる!」と腰から刀を抜き自害しようとしますが、そこで奇跡が起こりました。

 

梶原景時「俺、実は頼朝さんを応援してるんです。平家には嫌々従ってるだけなんだ。だから、ここは見なかったことにしておきます。お礼は、頼朝さんがこの窮地を脱してしっかりと生き延びた後にくださいね!待ってますから!」

 

大庭景親(梶原景時の上司)「おーい、その洞窟に頼朝はいたか?」

 

梶原景時「いやー。いないっすねー。どこか別な場所に逃げたっぽいすわ。」

 

大庭景親「ほんとか?ちょっと中見せてみろよ。」

 

梶原景時「おい、それは俺のことを疑っているということか?中に立ち入ってこれ以上私のプライドを傷つけるようなことがあればタダじゃおかねーぞ!!!!」

 

大庭景親「お、おう。わかったからそんなムキになるなよな・・・」

 

 

こうして頼朝は九死に一生を得たわけで、梶原景時は頼朝にとって命の恩人とも言えるとても重要な人物なんです。頼朝の側近なのも納得。

 

 

ところで、なぜ梶原景時は平家軍に属しながらも源頼朝に味方したのでしょうか。その点をもうちょっと掘り下げてみます。

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梶原景時と後三年の役

梶原景時が裏で親頼朝派だった理由は、1083年に起こった後三年の役にあります。

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後三年の役は、東北の蝦夷と源義家が激戦を繰り広げた戦い。源義家は、その武勇により源氏の名を世間に轟かせた英雄で、頼朝のご先祖様。

 

そして梶原景時のご先祖様は、英雄だった源義家と主従関係を結んでいた鎌倉政景という人物。後三年の役で武勇伝も残している勇将です。

 

 

石橋山の戦いで源頼朝と戦った梶原一族と大庭一族は、両者ともにこの鎌倉家から派生しています。なので、梶原家も大庭家も元々は源氏を主人として仕えていました。

 

 

しかし、頼朝の父で源氏の棟梁でもあった源義朝が平治の乱で命を落とすと、平清盛率いる平家の力が強くなり、両者ともに平家に従うようになります。

 

 

これは一見裏切り行為に見えますが、源氏が没落した当時、平家に歯向かったら弱小一族なんか簡単に滅びるわけで、一族を守るためには強い者に従うしかありません。

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もちろん、心情的には複雑なものがあったはずで、だからこそ梶原景時は頼朝を助けたわけです。

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梶原景時と源頼朝

さて、石橋山の戦いで敗北したものの梶原景時のナイスフォローで命を繋いだ源頼朝。

 

房総半島の先っちょにある安房国(あわのくに)で体制を立て直すのですが、これがなんかもう凄くて、立て直すどころか2万超える圧倒的兵力を源頼朝は手に入れます。

 

梶原景時と同じく表面上は平家に従っていても心の中では源氏を主人と慕う人、そもそも平家と対立していた者らが頼朝に味方しました。

 

 

大量の兵を揃えた源頼朝は、平安京へ向けて進軍を開始します。1180年10月に富士川の戦いで平家軍に勝利。

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そして1181年1月、梶原景時は源頼朝の元に馳せ参じます。梶原景時は頼朝の信頼が非常に厚く、頼朝の側近No1とっても過言ではない地位を手に入れます。

 

 

頼朝にとって梶原景時は命の恩人というのもありますが、それよりも何よりも梶原景時が頼朝に信頼された理由として、関東武士にしては貴重な、教養があって知略にも長けた参謀的な人物であったというのが挙げられます。

 

 

武家による新政権樹立を頭に描いていた頼朝にとって、関東武士たちは確かに勇猛果敢で必要不可欠な存在です。しかし、武士たちを束ねる源頼朝にとって最も必要だったものは実は武力ではなく、政治力でした。政治力とはすなわち、人を動かす力。

 

 

しかし、ひたすら一族のことを考え所領争いに明け暮れていた関東武士は「政治力って何?美味しいの」状態。源頼朝の政治理念を理解できる者は多くありませんでした。

 

 

そんな中、忠誠心抜群でしかも命の恩人で話もわかる梶原景時の存在は源頼朝にとってとても貴重なものでした。

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梶原景時と上総広常

頼朝の側近No1として活躍する梶原景時にとって、おそらく最初の大仕事だったのが上総広常(かずさひろつね)の誅殺でした。

 

 

上総広常は頼朝軍の一員で、集まった武士たちの中でもダントツの軍事力を持っている人物。上総広常は頼朝の軍事力として重要な役割を担っていた一方で、頼朝を軽視するような発言や、関東での独立を示唆するような発言が目立っていました。

 

 

頼れる武将である反面、敵になれば最も厄介なのが上総広常だったわけです。源頼朝は、危険分子になりうる上総広常を消し去ろうと考えますが、大軍を率いて頼朝軍に味方してくれている上総広常を消すには大義名分がありません。それに関東武士団の総大将である源頼朝が表立って動くのも不都合が多い。そこで代わりに動いたのが梶原景時。

 

 

1183年12月、梶原景時は上総広常と双六をしていると、突如として双六盤を乗り越え、上総広常の首を切り落とします。謀反の嫌疑があった・・・というのがその理由。

 

 

しかし、事後調査により上総広常に謀反の企みはなかったことが判明。源頼朝は上総広常が死んだことをたいそう後悔したと言います。・・・うーん、なんか裏がありそうなオチですよねこれ。

 

 

上総広常誅殺事件は謎な点も多いのですが、限りなく源頼朝による陰謀の可能性が高いと思います。源頼朝が上総広常の死を後悔したというのも、政治パフォーマンスなんじゃないかと思う。

 

上総広常が謀反の計画など立てていないことを最初から知りつつ、「梶原景時が謀反の嫌疑で独断で上総広常を殺した!」という程にして頼朝自身に責任が及ばないようにして危険分子を消し去った・・・というのが真相な気がしている。(個人的意見)

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梶原景時と源平合戦

時は源平合戦真っ只中の1184年1月、木曽義仲を討ち取った宇治川の戦い。

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多くの武将たちの戦果報告は「勝ったよ!」だったのに、梶原景時は具体的な被害状況や戦局の様子を頼朝に丁寧に説明。完璧な戦果報告に頼朝はますます景時への信頼を深めていきます。

 

 

1184年に起こった一ノ谷の戦いでは、先走りすぎて敵陣で孤立してしまった息子を助けるため2度も敵主戦力へ特攻を仕掛けた・・・という武勇伝もあったりします。。これは、梶原景時が頭でっかちなインテリ男ではないことを示しています。

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1185年の屋島の戦いでは義経との間で口論が起こり、景時と義経の不和が鮮明になります。いわゆる逆櫓論争(さかろろんそう)というやつです。詳しくは以下の記事を。

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屋島の戦い当時の梶原景時のポジションはざっくり言うと義経の監視役。義経は自分勝手な行動が多く、頼朝はそんな義経を危険視していました。監視する側とされる側ですからね、まぁ普通に考えて良い関係なわけないですよね。ただ、義経と梶原景時の不仲エピソードが大量に残されているのは、お互いの立場上の対立だけじゃなくて性格的にも合わなかったんだろうなぁ・・・とも思う。

 

屋島の戦い後、梶原景時の義経をディスりまくりの報告によって頼朝と義経の仲はますます悪化。全てが梶原景時のせいと言うわけではありませんが、源義経は兄の頼朝に追い詰められ、奥州藤原氏と共に討ち取られることになります。

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梶原景時の変

梶原景時は、源平合戦が終わった後も源頼朝の右腕として活躍し続けます。1192年、梶原景時は侍所と言う御家人の指揮、警察、罪人の取扱いなど担う組織のトップに選ばれます。

 

 

梶原景時の任務は、頼朝の御家人たちの動きを監視し不測の事態に備えること。御家人から見れば、常に梶原景時に監視されているわけであんまり良い気持ちはしません。

 

上総広常を誅殺した話もそうですが、梶原景時が徹底して頼朝の代わりに嫌われ役を引き受けているのは興味深いです。これは頼朝が景時を信頼している確固たる証拠なんですが、御家人の梶原景時に対する不満は次第に溜まっていき、最終的に梶原景時は命を落とすことになってしまいます・・・。

 

 

1199年、源頼朝が亡くなると、息子の源頼家(みなもとのよりいえ)が2代目の鎌倉幕府将軍に選ばれます。

 

 

源頼家は、頼朝と同じように将軍中心に関東を治めようとします。ところが、これが超難しい。

 

 

源頼朝が鎌倉幕府という新しい組織を築き上げ、権力を握り、幕府の運営を出来ていたのはズバ抜けた頼朝の政治スキルによるところが大きかったのです。複雑な利害関係の中に生きる武家たちの調整や幕府を嫌う朝廷との政治交渉を同時並行で行なうことは並大抵のことではありません。

 

 

息子の頼家は、優秀な若者として成長しますが父頼朝のような巧みな政治術は持ち合わせていませんでした。・・・というよりも頼朝が異常すぎたんですよきっと。それでも父のように将軍を中心に鎌倉幕府を運営したいという源頼家の想いは、御家人に対して「よくわからんけど、とにかく俺(将軍)の言うこと聞けや!」と強引な態度として現れてしまいました。

 

 

これに御家人たちは大激怒。

 

 

御家人一同「おい、若造のクセに何生意気なこと言ってんだ?鎌倉幕府は俺らがいて初めて成立するんだが?」

 

 

それでも、梶原景時は主君の頼家に仕え続けました。そして頼家も梶原景時を信頼していました。ただ、これによって梶原景時は御家人たちからますます嫌われることになります。

 

 

「なんで俺らみんなディスられてんのに、梶原景時だけ頼家とベッタリなの?コネかな?マジ許せん」みたいな感じ。

 

 

ある日、結城朝光という人物が亡くなった頼朝を回顧してこんなことを言います。

 

「『忠臣、二君に仕えず』というが、自分も出家してそうするべきだったと悔やまれる。なにやら今の世は薄氷を踏むような思いだ」

 

 

源頼家と御家人たちの関係がギクシャクしているのを見てこう言ったのでしょう。その数日後、周囲にこんな噂が広まります。

 

 

「結城朝光が『頼家に仕えなきゃ良かったー。』って言ったのを梶原景時が知って、これは頼家に対する謀反の意思表明だ!とか思ったらしく、今度結城朝光が消されるらしいよ」

 

 

と。噂を広めたのは阿波局(あわのつぼね)という女官。これにビビった結城朝光は、他の御家人に事情を相談すると、いよいよ御家人たちも景時の傲慢な振る舞いに我慢できなくなりブチギレ。なんとわずか一日で66人の著名を集め、頼家に「梶原景時のやっていることはおかしい!!」と直談判します。

 

 

ビックリした源頼家は、梶原景時に弁明を求めると景時は何も答えずに、その後、一族揃って関東を離れていきます。

 

 

梶原景時が何も答えなかった理由ははっきりとはわかりませんが、源頼家のことを考えてのことだったのではないかと個人的に思っています。御家人の直談判に屈してしまえば、頼家は梶原景時の処遇について責められるわけだし、逆に御家人の直談判を無下にすれば御家人の頼家に対する人望はますます薄れてゆく。

 

 

「頼家殿が何を答えても八方塞がりなら、俺が無言で消え去ることですべて俺の責任にしてしまおう・・・」

 

 

と考えたのだろうと思います。これまで嫌われ役を引き受け続けてきた梶原景時ならきっとこう考えるはず!

 

 

梶原景時は、自分の所領だった播磨(はりま。今の兵庫県あたり)を目指しますが、駿河で襲撃を受け命を落とすことになります。

 

 

ちなみに梶原景時が襲撃を受けた播磨は北条時政の所領。さらに結城朝光に噂を広めた阿波局も時政の娘。

 

 

表面上は梶原景時VS景時を嫌う御家人という対立構図ですが、裏では頼家を孤立させてみずから実権を握ろうとした北条時政の陰謀なんじゃないか?なんて説もあります。

 

 

そもそもたった1日で66人の著名を集められたことも不自然です。事前に誰かが裏工作をしていたと考えた方が自然だし、誰が発起人か?と考えてみるとやっぱり登場頻度の多い北条家の人間が有力候補なんじゃないか・・・という話になります。

 

 

それに、梶原景時のことが記録されている「吾妻鏡」という歴史書は露骨に北条びいきの内容。加えて梶原景時の死後、有力御家人たちが次々と北条家による謀略により消え去っていきます。

 

 

これらの話は憶測の域をでないのですが、それゆえに色々と考えてみるのも面白いかもしれません。

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梶原景時まとめ

以上、梶原景時についてハイライトでまとめてみました。

 

 

「梶原景時ってどんな人?」と聞かれたら、一番わかりやすい答えは「鎌倉時代版の石田三成だよ」って答えだと思います。

 

 

政権運営に必要不可欠な嫌われ役を一手に引き受け、周囲の人々から疎まれ、恨まれながらも立派に任務を全うするその様子は石田三成そのもの。

 

 

昔に大河ドラマ「女城主直虎」に登場していた但馬政次なんかもそんな感じですよね。なんていうか、政治の世界には陽を浴びることのない嫌われ役っていうが絶対に必要なんでしょうね。これは現代においても同じことが言える気がする。周囲の嫌われてる人の中には、きっと計画的に嫌われ役になっている人もいるはずです。

 

 

梶原景時って、みんなの人気者である源義経を追い詰めた人物として、悪者みたいに言われることも多いのですが、決してそんなことはありません。全ては幕府を円滑に運営するためであり、梶原景時はあえて泥臭くて人に恨まれ、光を浴びにくい仕事をこなし続け、政権を影からガッチリと支えていたのです。まさにTHE縁の下の力持ち!!

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この記事を書いた人
もぐたろう

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