淳仁天皇の生涯を簡単にわかりやすく紹介!【淡路廃帝の悲しき一生】

今回は奈良時代末期、天皇位を廃止され、淡路に流され謎の死を遂げた淳仁天皇(じゅんにんてんのう)について紹介します。

 

淳仁天皇は通史的には地味な存在ながら、安徳天皇や崇峻天皇と並ぶと悲劇的な生涯を終えた天皇の一人。なかなか波乱万丈な人生を歩みました。

 

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複雑な淳仁天皇即位の背景

まずは淳仁天皇が即位した当時の政治情勢を。

 

758年、淳仁天皇は即位します。前代は女帝の孝謙天皇。

 

当時の天皇家は、必ず男系の血筋の者である必要がありました。(これはこの記事を書いている今もそうです)そのため、日本では女帝の即位までは認められていましたが、女系の血が混じらぬよう女帝は必ず独身である必要がありました。

 

すると、孝謙天皇は子を産まないわけで、息子に皇位を託すことができません。息子に皇位を託せないとなると、天皇の血を引く別な者を次期天皇に選ばなければなりません。

 

当時は、壬申の乱の勝者である天武天皇の血が重要視されました。ただ、天武天皇は子に恵まれたこともあり、子孫が沢山いました。

 

すると、皇位継承を巡って子孫同士で争う自体が起きてしまうわけです。

 

つまり!独身確定の女帝の孝謙天皇が即位=次の皇位継承者を巡って争いが激化することを意味していました。

 

淳仁天皇はそんな複雑な事情の中、即位してしまったわけです。

 

淳仁天皇と道祖王

【関連人物の系図です。小さくて見にくいですが参考までに・・・】

 

女帝の孝謙天皇の即位させたのは、聖武天皇。聖武天皇も孝謙天皇の後継問題を憂いており、756年、死ぬ間際にちゃんと遺言も残しています。

 

聖武天皇の遺言によって、孝謙天皇の後に即位させるのは道祖王(ふなどおう)と決まりました。

 

ところが聖武天皇が亡くなった翌年の757年、「道祖王が聖武天皇の喪中にも関わらず女官と通じ、朝廷の機密情報をもらした」との報告を受けた孝謙天皇はこれを聞いて激怒。

 

「道祖王は天皇に不適格な人間だから皇太子から外しますわ」と突如として道祖王の皇太子を廃止してしまいます。

 

道祖王も道祖王で「どうせ俺なんかに天皇なんていう重責が務まるはずがないし、いいよ〜」みたいな軽いノリでこれを了承。本心なのか、逆らったら殺されるからなのかは謎ですが、少し経った後に消されます。(恐怖)

 

孝謙天皇の後継者問題はこれで白紙に戻り、皇位継承問題が再浮上。そこで登場したのが大炊王(おおいおう)。後の淳仁天皇です。孝謙天皇は、こう言って大炊王を皇太子に指名します。

 

孝謙天皇「道祖王は、私の言うことも聞かないし淫らなこともするしダメなやつだった。皇位継承の候補者は他にも何人かいるが、どいつもこいつも欠点があるから、大炊王が一番ふさわしいだろう。大炊王はまだ若いが、若いゆえに欠点や過失がない。皆どうだろう?」

 

孝謙天皇の意見に反対する者は誰もおらず、こうして大炊王が皇太子になることが決まりました。

 

そして、道祖王の皇太子騒ぎがあった翌年の758年、大炊王は淳仁天皇として即位するのです。

淳仁天皇と藤原仲麻呂

上で紹介した一連の淳仁天皇即位までの流れ。実は、藤原仲麻呂という人物が暗躍していたと言われています。

 

確かに不自然なんですよね、偉大な聖武天皇の遺言を一年も経たないうちに反故にしてるところとか。それに「若くて過ちや欠点がない」って理由もよくわからないですよね。「過ちや欠点がない」んじゃなくて若いからまだ「過ちや欠点が見つかっていない」だけかもしれないですし。

 

淳仁天皇と藤原仲麻呂が過去にどんな関係だったのかはわかりません。しかし、淳仁天皇が皇太子になった後の関係は、誰がどう見ても親密すぎるものでした。

 

仲麻呂は亡き息子の未亡人であった粟田諸姉という人物を即位前の淳仁天皇に嫁がせ、さらに藤原仲麻呂の私邸に皇太子時代の淳仁天皇を住まわせることまでしています。

 

 

藤原仲麻呂は、亡き聖武天皇の皇后である藤原光明子の甥っ子で、孝謙天皇のいとこに当たる人物。非常に頭の切れる人物で、特に藤原光明子から非常に寵愛を受けていたと言われています。光明子は孝謙天皇のお母さん。この母を通じて、仲麻呂の影響力は孝謙天皇にも及び、仲麻呂は朝廷内でも強い力を持つようになります。

 

そんな藤原仲麻呂のさらなる権力欲が淳仁天皇の即位につながります。藤原仲麻呂は、自分の思うがままの政治を進めるため、自分の言うことをなんでも聞く御し易い天皇を望んでいたのです。

淳仁天皇と道鏡

758年に淳仁天皇が即位しますが、内実は藤原仲麻呂の傀儡政権でした。

 

叔母の藤原光明子を後ろ盾に思うがままの専制政治を進めます。そして、皇族以外では初の太政大臣(だじょうだいじん。当時の官僚制度において最高の官職)にまでなります。

 

藤原仲麻呂の政治スタイルは「邪魔をする奴は陰謀でぶっ潰す」というストロングスタイルだったので、邪魔をする者や淳仁天皇の皇位を脅かす者が次々と消しました。まさに恐怖政治という言葉がふさわしいのが藤原仲麻呂の治世でした。

 

ところが、760年に藤原光明子が亡くなると、譲位していた孝謙上皇と藤原仲麻呂の関係が微妙なものになっていきます。そして、淳仁天皇は蚊帳の外・・・。

 

うるさい母親が消えた開放感からか、761年、孝謙上皇は病の時に自分を看病してくれた道鏡(どうきょう)という僧侶に惚れ込んでしまいます。

 

道鏡と孝謙太上天皇の仲は、周囲から見ても明らかに「患者と医者」の関係を逸脱しており、藤原仲麻呂は淳仁天皇を通じてこれに文句を言います。

 

仲麻呂の心中はわかりませんが、常軌を逸脱した寵愛を受ける道鏡の存在を危険視したのだと思います。道鏡自身も権力欲の強い男だったので、孝謙上皇の寵愛を利用して政治に深く介入してくる可能性があったわけです。

 

ところが、道鏡にメロメロな孝謙太上天皇はこれに激昂も激昂の大激怒。

 

「淳仁天皇は私のいうこと聞かないし全然ダメ。淳仁天皇はもうショボい仕事しかしなくていいから。私が上皇として国家の大事に当たることにする。」(超訳)

 

これは孝謙太上天皇の淳仁天皇とそれを裏から操っている藤原仲麻呂への宣戦布告でした。

 

淳仁天皇・藤原仲麻呂と孝謙太上天皇は一触触発状態。水面下では軍隊もひそかに動き始め、平安京は緊張感に包まれます。

 

ここまで読んだ方はお分かりかもしれませんが、いかんせん淳仁天皇が主役になる場面がありません!!これは、藤原仲麻呂の思惑通り、淳仁天皇が所詮傀儡でしかなかったことを明確に示していることになります

 

頑張って淳仁天皇たくさん登場させたいんだけど、全然登場シーンがない・・・(´・ω・`)

淳仁天皇と藤原仲麻呂の乱

764年、もはや道鏡に盲目な孝謙上皇を政治の場から排除するしか自分の権力を守る方法はないと考えた藤原仲麻呂は先手を打ち、クーデター計画を立てます。

 

 

ところが、藤原仲麻呂のクーデター計画は、孝謙上皇に筒抜けになっていました。孝謙上皇は藤原仲麻呂が行動に移す前にさらに先手を打ちます。

 

関所を封鎖し逃亡ルートを塞ぎ、鈴印という天皇が文書に押す印鑑を奪ったのです。鈴印がないと藤原仲麻呂は天皇の名前で命令を出せなくなるので、実質的に権限を失います。

 

こうして、先手を打たれた藤原仲麻呂は最後まで抵抗するも敗北し、戦死します。

誰でもわかる面白い藤原仲麻呂の乱【孝謙上皇と淳仁天皇】
前回は、道鏡を寵愛する孝謙上皇とそれを諫めた藤原仲麻呂and淳仁天皇とが対立を深めていったお話でした。 そして、その対立は遂に乱に発展します。 今回は、藤原仲麻呂の乱のお話です。 水面下での戦い -人事をめぐる争い- 道鏡を諫められブチ切れした孝謙上皇は、攻勢に出ます。 道鏡に「小僧都」という公式な僧侶の...

 

藤原仲麻呂は孝謙上皇との戦いの際、なぜか傀儡の淳仁天皇とは共に行動をしていません。塩焼王という新たな皇族を担ぎ出し、次期天皇にしようとしていました。

 

藤原仲麻呂がなぜ淳仁天皇と共に行動せず、わざわざ新たに天皇を即位させようとしたのか?実ははっきりとわかっていません。

 

藤原仲麻呂の操り人形だった淳仁天皇も、孝謙太上天皇を排除するというこの事件には流石に反対したのかもしれません。

 

wikipediaではこんな説も紹介されています。

乱に加わらなかった理由については、既に上皇側に拘束されていたからだとも、仲麻呂を見限って上皇側との和解を探っていたからだとも言われている(仲麻呂は天皇を連れ出せなかった為、やむなく塩焼王を新天皇に擁立することを企てた)。

いずれの説でも、淳仁天皇が当時の政局に影響力も持っていない影の薄い存在だったことはわかります。藤原仲麻呂にしても、自分の言いなりになってくれる天皇なら淳仁天皇じゃなく、塩焼王が即位してくれても全く問題ないわけですし。

 

淳仁天皇、無力すぎて書いてて悲しくなるレベル・・・(´・ω・`)

淳仁天皇、廃帝へ

藤原仲麻呂の乱が鎮圧された後、わずか一ヶ月足らずで淳仁天皇は廃帝となります。クーデターには不参加だったものの、藤原仲麻呂と親密だったことを咎められての皇位の廃止でした。

 

淳仁天皇は大炊親王と名を変え、淡路へ流されます。いわゆる流罪ですね。天皇が流罪とは前代未聞です。後に流罪となる天皇は、平安時代後期の崇徳天皇まで待たねばなりません。

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そして流罪地の淡路で淳仁天皇は謎の死を遂げることになります。765年10月、淳仁天皇は幽閉先からの脱走を試みるも失敗。公式では脱走を試みた翌日に病死したとあります。しかしながら、脱走失敗の翌日に病死とはなんとも不自然なことなどから、実際には復権の動きを恐れた孝謙上皇によって殺されたという説が主流です。

 

孝謙上皇は淳仁天皇をよほど嫌っていたのでしょう。淳仁天皇を正当な天皇として断じて認めず、淳仁天皇の存在を公式記録から消し去ってしまいます。

 

公式記録から抹消されたため、長い間、淳仁天皇は「天皇」とは呼ばれず、淡路廃帝なんていう呼び名で呼ばれていました。明治時代になってようやく「淳仁天皇のこと、ちゃんと天皇って呼んであげてもいいんじゃね?」という風潮になり今に至っています。

淳仁天皇まとめ

以上、淳仁天皇の生涯を紹介しました。淳仁天皇って政治的には影が薄すぎて記事を書くのが結構大変でした。笑

 

ただ、それゆえに淳仁天皇が本当に藤原仲麻呂の操り人形だったのだなぁと改めて実感。

 

 

藤原仲麻呂の操り人形として君臨した淳仁天皇。基本的に影が薄いんですが、そんな淳仁天皇の一番目立つシーンが、最後の最後、廃帝となり淡路に流され謎の死を遂げるところだけっていうのも哀愁漂う感じで切ないですね・・・。

 

淳仁天皇のお墓は淡路島に残っています。もし行くことがあるのなら、ぜひ「お疲れ様でした」と一言労ってあげましょう。

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コメント

  1. あわわ より:

    いつも楽しく読ませていただいています

    ずいぶん前の記事にすみません
    藤原仲麻呂が皇族以外で初めて太政大臣になったとの記述がありますが、人臣初の太政大臣は藤原良房であり仲麻呂は太政大臣にはなっていなかった気がします

    • mogutaro より:

      当ブログをお読みいただきありがとうございます。
      もしかすると、藤原仲麻呂は「太政大臣相当の役職に就いていた」という方が正確なのかもしれません。
      藤原仲麻呂は唐の文化を非常に好いており、権力を握るようになると官僚の役職名を全て唐風に変えてしまいました。
      そこで、それまで太政大臣だった役職は「太師」という役職に変えられ、藤原仲麻呂は太師となったのです。
      なので正確には「太政大臣相当の役職である太師になった」というべきなのかもしれません。(ちなみに、道鏡も太政大臣禅師という太政大臣じゃないけど太政大臣相当の役職に就いています)
      回りくどい言い方ですが、「太政大臣」という役職名で初めて人臣の身分で太政大臣になったのは藤原良房で正しいと思います。
      本記事ではその辺の事情をわかりやすく説明しようと省略してしまっているのため、誤解を招いてしまいました。
      外見で判断するならあわわ様の認識が正しいし、中身で判断しようとすると仲麻呂か良房かは熟考の余地がありそうに感じます。