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崇徳天皇の生涯不幸すぎ!簡単にわかりやすく紹介するよ【日本三大怨霊になったのも納得】

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もぐたろう
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今回は、日本3大怨霊の1人として有名な崇徳天皇すとくてんのうについて、わかりやすく丁寧に解説していくよ!

この記事を読んでわかること
  • 崇徳天皇の生涯はどんな生涯だったの?
  • 崇徳天皇はなぜ怨霊になったの?
  • 崇徳天皇が怨霊になった時の様子を知りたい!

日本には歴代何百人という天皇がいます。崇徳天皇はその歴代の天皇の中でも、おそらく5本の指に入るほど不幸な生涯を歩んだ天皇です。

今回は、そんな崇徳天皇の生涯に迫ります!

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崇徳天皇の複雑な生い立ち

崇徳天皇の不幸は、その生い立ちから始まります。

崇徳天皇は1119年、鳥羽天皇藤原璋子ふじわらのたまことの間に生まれた子供でしたが、母である藤原璋子が何かと評判の悪い女でした。

藤原璋子は、白河法皇の養子として育てられ、しかも、その美貌から白河法皇とは愛人関係にあったと言われていたんです。

白河法皇は、その藤原璋子をなんと自分の孫に当たる鳥羽天皇に嫁がせます。つまり、白河法皇は孫に自分の愛人を嫁がせた・・・ということです。

もぐたろう
もぐたろう

なんかもう、この時点ですでに嫌な予感しかしないんだけど・・・

そのため、鳥羽天皇と藤原璋子の間に生まれた崇徳天皇には、こんな噂が広がるようになります。

崇徳天皇は鳥羽天皇の子じゃなくて、実は藤原璋子と愛人関係にあった白河法皇の子供なんじゃね?

人間関係ドロドロすぎワロタwww

もちろん噂であってその真偽は不明です。

しかし、少なくとも鳥羽天皇は、息子である崇徳天皇のことを生涯み嫌っていました。

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崇徳天皇の即位

1123年、まだ幼い崇徳天皇が天皇即位します。

この天皇即位には、白河法皇の意向が強く働いていました。白河法皇は天皇家の長老として、崇徳天皇を後見する(院政を敷く)ことで、権力を振おうと考えたのです。

そして、これに納得いかないのが譲位したばかりの鳥羽上皇です。

鳥羽上皇は、天皇時代は院政を敷く白河法皇の言いなりで、上皇になってやっと次は自分が院政を敷けると思っていました。それなのに、上皇になった後も引き続き白河法皇が権力を握り続けたことで、鳥羽上皇は天皇・上皇を通じて自ら何もすることができず、己の無力さを痛感することになります。

そのため、鳥羽上皇は白河法皇のことを良く思っていませんでした。さらに厄介だったのが、先ほど紹介した噂話です。

鳥羽上皇
鳥羽上皇

白河法皇が崇徳天皇の後見にこだわるのは、権力が欲しいだけじゃなくて、実は白河法皇が崇徳天皇の父親だからなのでは?

私は白河法皇に他人の子を育てられさせ、しかも、天皇・上皇として何もすることができなかった。

なんたる屈辱・・・!全ての元凶は、忌まわしい崇徳天皇の存在だ・・・。

しかし、1129年に白河法皇が亡くなることで、状況が一変します。邪魔だった白河法皇が亡くなったことで、鳥羽上皇は院政を行えるようになったのです。

鳥羽上皇
鳥羽上皇

やっと白河法皇の悪夢から解放されたぞ!

しかし、今も藤原璋子や崇徳天皇を見ると、忌まわしい白河法皇の顔を思い出す。この悪夢を終わらせるため、私は白河法皇の影が残っているものを全て断ち切ろうと思う。

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「皇太弟」事件

1134年、鳥羽上皇はまわしき藤原璋子を退け、藤原得子ふじわらのなりこを寵愛するようになります。さらに、1139年には藤原得子との間に男子を授かります。体仁親王なりひとしんのう(後の近衛天皇このえてんのうです。

体仁親王が生まれると、鳥羽上皇は、白河法皇の影がちらつく崇徳天皇を譲位させて、体仁親王を即位させることを考えるようになります。

しかし、この案は崇徳天皇から見れば、到底受け入れられるものではありません。

崇徳天皇からすれば、自分の子を天皇即位させることで、自ら院生を敷いて権力を握りたいのです。つまり、異母弟の体仁親王が即位すると、崇徳天皇は院政を敷けないので、当然これには反対するわけです。

そこで鳥羽上皇は、一計を案じます。

生まれて間もない体仁親王を崇徳天皇の養子に入れてしまったのです。体仁親王を崇徳天皇の養子にしてしまえば、崇徳天皇も譲位する気になるはず・・・と考えたのでした。

確かに崇徳天皇は譲位してくれそうだけど、それじゃあ院政を敷けるのは崇徳天皇になっちゃうよね?

鳥羽上皇はそれでいいの?

実は、この話には続きがあります。

崇徳天皇はこの鳥羽上皇の案を受け入れ、1142年、体仁親王への譲位を決めました。そして譲位の儀式が行われた当日、事件は起こります。

崇徳天皇は養子の体仁親王に譲位するはずだったのに、鳥羽上皇の謀略によって『崇徳天皇は弟の体仁親王に即位する』という形で儀式が行われてしまったのです。体仁親王が皇太子ではなく、皇太弟という扱いになっていたことから、この記事ではこれを皇太弟事件と呼ぶことにします。

院政とは、父や祖父という立場から天皇をフォローする仕組みです。弟が天皇になってしまうと、兄の崇徳天皇は院政を敷くことはできません。院政を敷けるのは、体仁親王の父である鳥羽上皇となります。

鳥羽上皇
鳥羽上皇

お前(崇徳天皇)に院政なんかさせるわけないだろ

簡単に騙されて助かったよ。譲位しちゃったからもう天皇でもないし、もう院政も不可能だから、残りの人生は隠居でもして細々を生活すればよいww

こうして、体仁親王が近衛天皇として即位し、鳥羽院政の時代がやってきます。一方で、策略にはまった崇徳上皇は、政治の実権を完全に失うことになりました。

現実世界に絶望した崇徳上皇は次第に和歌の世界へと現実逃避するようになります。

崇徳上皇
崇徳上皇

和歌は良い。私の荒んだ心を癒してくれる・・・

政治的には終わった崇徳天皇ですが、和歌の世界ではとても人気があったようで、崇徳上皇にとって和歌は、唯一の楽しみでした。

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【悲報】崇徳上皇、希望を絶たれる

1155年、近衛天皇が亡くなり、再び皇位継承問題が浮上します。

当時、崇徳上皇には重仁親王しげひとしんのうという息子がいたので、これは大チャンスでした。

崇徳上皇
崇徳上皇

もう騙されないぞ!

なんとしてでも、息子を天皇即位させてやる!!

・・・が、権力を持っていない崇徳上皇の言うことを誰も聞こうとはしません。結局、鳥羽上皇の意向によって、崇徳天皇にとっては弟の雅仁親王まさひとしんのうが、後白河天皇として即位しました。

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保元の乱

1156年崇徳上皇に再びチャンスがやってきます。崇徳上皇を陥れた本人である鳥羽上皇が亡くなったのです。

鳥羽上皇の後ろ盾を失った後白河天皇は、崇徳上皇が勢いを増すことを恐れます。そこで、後白河天皇の側近だった藤原通憲ふじわらのみちのりは、謀略によって崇徳上皇を今以上に追い詰めることを考えました。

ちょうど平安京では、こんな噂が流れていました。

崇徳上皇が、失脚した摂関家の藤原頼長ふじわらのよりながと組んで、何か企んでるらしいわよ。

藤原通憲は、この噂から藤原頼長が謀反人だと決めつけます。そして、藤原頼長の邸宅に軍を送り込み、その邸宅を奪ってしまいました。

藤原頼長
藤原頼長

藤原通憲め、謀ったな!

あんなデタラメな噂で私を謀反人扱いするなど、私を追い込みたいからに決まっている。

そこまでするというのなら、私も戦うしかない。崇徳上皇を担いで、後白河天皇の権力を奪えば、挽回はまだ可能だ。

一方の崇徳上皇も、この事件に激しく動揺します。

崇徳上皇
崇徳上皇

あの噂で藤原頼長が謀反の嫌疑をかけられたってことは、次は私に魔の手が忍び寄るのだろうな。

何もせずとも魔の手が迫るのであれば、こちらも藤原頼長と組んで、政権を後白河天皇から奪い、今こそ私の悲願を達成しようではないか・・・!

こうして藤原通憲の策略によって追い詰められた二人は、タッグを組んだ上で武士を動員し、後白河天皇に武力をもって対抗しようとしました。

・・・が、これこそが藤原通憲の計画。

藤原通憲
藤原通憲

俺の真の目的は、『後白河天皇にとっての危険分子である藤原頼長・崇徳上皇を消すための口実を作ること』だ。

この二人を追い詰めれば、最終的には後白河天皇の政権を終わらせようと武力によって迫ってくるはず。

そうすれば、こちらは天皇を守るという大義名分を得て崇徳上皇たちを堂々と消せるわけだ。君たちは、私の手のひらで転がされているのだよw

この藤原通憲の挑発に乗った崇徳上皇・藤原頼長は、武士を動員し、後白河天皇の邸宅(高松殿たかまつどの)を攻撃しようとするも、返り討ちにあい、あっけなく敗北してしまいます。(保元の乱

この敗北によって藤原頼長は命を落とし、崇徳上皇は讃岐国さぬきのくにへ流罪となりました。

天皇・上皇の流罪は淳仁天皇以来400年ぶりの大事件であり、崇徳上皇にとっては屈辱的な処分となりました。

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怨霊と化す崇徳上皇

怨霊となった崇徳上皇

讃岐に流された崇徳上皇の心の支えとなったのは、和歌と仏教でした。讃岐に流されて以後、崇徳上皇は深く仏教を信仰するようになります。

流刑地での仏教信仰によって自分の運命を受け入れた崇徳上皇は、純粋な信仰心から写経を行い、その写本を京のお寺に収めてもらうおうと、朝廷へ写本を送りました。

ところが、後白河天皇はこれを拒否します。

後白河天皇
後白河天皇

崇徳上皇は私の兄ではあるが、私のことを憎んでいる。

写本というのは偽りで、どうせ私を呪うための呪詛でも書かれているのであろう。そんな汚らわしいもの誰が受け取るか!

ところが、後白河天皇はこれを拒絶します。崇徳上皇のことだから写経と偽って呪詛の文言でも書かれているのだろう・・・と考えたのです。

純粋な仏教信仰を弟に踏みにじられると、温厚な崇徳上皇も流石に大激怒。

すると崇徳上皇は、自ら舌を噛み切り、その血をもって写本に「私は日本の魔王となって、皇族を民の座に引きずり下ろし、民を新たな王とさせる」「この写本は、魔道のために用いる」と書き込み、完全にブチギレました。

崇徳上皇は、その後爪や髪を伸ばし続け、生きながら天狗になり、亡くなった後も棺桶から血がれ出した・・・と言われています。

1164年、崇徳上皇は流刑地の讃岐で崩御。その不遇の生涯に幕を下ろしました。

これに激しく怒った崇徳院は、舌を噛み切って写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と血で書き込み、爪や髪を伸ばし続け夜叉のような姿になり、後に生きながら天狗になったとされている。崩御するまで爪や髪は伸ばしたままであった。また崩御後、崇徳の棺から蓋を閉めてるのにも関わらず血が溢れてきたと言う。

(出典:wikipedia「崇徳天皇」

1170年代に入って、平清盛が天皇・上皇を超越するかのような権力を手に入れるようになると、社会情勢が不安定になりと、人々の間で「社会が乱れているのは怨霊となった崇徳上皇の祟りのせいでは?」という噂が広まります。こうして、崇徳上皇は日本3大怨霊として現代まで語り継がれることになりました。


【崇徳天皇が怨霊になる瞬間を描いた作品】
日本三大怨霊とは?

人々を震え上がらせた菅原道真平将門・崇徳上皇の怨霊のこと。

この3人は、「民衆に人気があったり人柄も良かったのに、最期は朝廷に騙されたり、謀反人扱いされて命を落としてしまった」という点で共通しています。

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まとめ【崇徳天皇の年表付】

生まれた時からあらぬ噂で父親(鳥羽天皇)に嫌われ、父が亡くなると次は弟と争い、天皇・上好としては400年ぶりの流罪となり、天皇・上皇としてなんら力を振るうこともできず、崇徳上皇は流刑地にてその一生を終えました。

その悲惨な運命を知れば、人々が「崇徳上皇は怨霊になって現世を祟っているんだ!」と思ったのも、ある意味で当然かもしれません。

もぐたろう
もぐたろう

「皇太弟」事件で鳥羽上皇のことを信じてしまったり、流刑地へ流されても兄(後白河天皇)へ写本を送ったり、和歌を通じて人々から慕われているエピソードから、崇徳上皇は、本質的には正直で優しい人間であったのだろうと思います。

ただ、その優しさゆえに、朝廷における血みどろの権力争いには不向きな性格だったのかもしれません・・・。

最後に崇徳天皇の生涯を年表で簡単にまとめておきます。

崇徳天皇の生涯まとめ
  • 1119年
    鳥羽天皇と藤原璋子との間に生まれる

    「実は白河天皇の子なのでは?」との噂が絶えず、父の鳥羽天皇は崇徳天皇を嫌いました。

  • 1123年
    幼くして天皇即位する

    院政を敷く白河法皇の意向を受けて天皇即位

  • 1129年
    白河法皇が亡くなる

    鳥羽上皇が新しい権力者になる。崇徳天皇は後ろ盾を失う。

  • 1139年
    体仁親王(後の近衛天皇)が生まれる

    鳥羽上皇は、嫌っている崇徳天皇の皇統を廃止して体仁親王に跡を託そうと考える

  • 1142年
    皇太弟事件が起こる。崇徳天皇は上皇となり、近衛天皇が即位する。

    崇徳天皇は、鳥羽上皇に騙されて上皇になっても院政を行うことができなくなってしまった。

  • 1155年
    近衛天皇が亡くなり、崇徳上皇は再起のチャンスを狙う

    近衛天皇が亡くなると、崇徳天皇は我が子を天皇にして院政を行うチャンスを狙うが、弟の後白河天皇が即位したことで、チャンスは途絶える

  • 1156年
    保元の乱で崇徳上皇は讃岐国へ島流し・・・

    後白河天皇を脅かす危険分子とみなされた崇徳上皇は、後白河天皇の側近である藤原通憲の策略によって流罪となる。

  • 1162年
    崇徳上皇、流刑地の讃岐国にて亡くなる

    死後、崇徳上皇は怨霊として恐れられ、現在では日本三大怨霊の一人として歴史に名を残すことに。

この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
WEBメディアを通じて教育の世界に一石を投じていきます。

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