屋島の戦いを簡単にわかりやすく紹介【那須与一の扇の的当てと源義経の活躍】

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屋島の戦い

もぐたろう
もぐたろう

今回は屋島の戦いについて、わかりやすく丁寧に解説していくよ!那須与一の「扇の的」や義経の「弓流し」など、有名なエピソードも全部まとめているから、ぜひ最後まで読んでみてね!

📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史 / 山川準拠 / 共通テスト対応

この記事を読んでわかること
  • 屋島の戦いとは何か(いつ・どこで・誰と誰が戦ったのか)
  • 義経の奇襲作戦の全貌(源範頼との挟み撃ち・逆櫓論争)
  • 那須与一の扇の的(どんな場面でどう活躍したか)
  • 弓流しのエピソード(義経がなぜ弓を拾いに行ったのか)
  • テストに出るポイント(年号・人物・キーワードの暗記法)

屋島やしまの戦い」といえば那須与一の「扇の的」——そのシーンばかりが有名ですが、実はこの戦いは源義経の個人技ではなく、源範頼との壮大な挟み撃ち作戦として計画されていたものでした。

九州・四国の制海権を奪うために範頼のりよりが西国へ進軍し、その隙に義経が嵐の中をわずか150騎で屋島に急襲——この兄弟の連携があって初めて、平家は四国の本拠地を失うことになったのです。

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屋島の戦いとは?わかりやすく解説

屋島の戦い 3行まとめ

1185年(元暦2年)2月19日源義経みなもとのよしつねが平家の本拠地・讃岐屋島やしまを急襲した戦い。
② 嵐の中を150騎で強行上陸した義経の奇襲で平家は撤退し、那須与一の「扇の的」もこの戦いで生まれました。
③ この敗退が引き金となり、平家は約1ヶ月後の壇ノ浦の戦い(1185年3月)で滅亡することになります。

屋島の戦いを描いた狩野派の屏風絵
屋島の戦いを描いた狩野派の屏風絵(出典:Wikimedia Commons・パブリックドメイン)

屋島の戦いは、1185年(元暦2年)2月、讃岐国(現在の香川県高松市)の屋島で起きた治承・寿永の乱(源平合戦)の主要な合戦の一つです。源氏方は源義経が指揮し、150騎ほどのわずかな兵で平家の本拠地・屋島に奇襲を仕掛けて勝利しました。

当時の屋島は陸地と細い砂州でつながった半島状の地形で、海から囲まれた天然の要塞でした。平家は前年の一ノ谷の戦い(1184年)で大敗した後、ここを「四国の拠点」として再建を進めていたのです。陸路では攻めにくいため平家は安心していましたが、義経はその「常識」を逆手に取り、嵐の海を渡って陸側から突入しました。

ゆうき
ゆうき

「屋島」って今でいうとどこにあるの?香川県ってこと?

もぐたろう
もぐたろう

そう!屋島は今の香川県高松市にある半島だよ。当時はその名の通り「島」だったんだけど、江戸時代に塩田を作るために埋め立てられて、今では陸続きになってるんだ。平家がここを「四国の本拠地」にしてたから、義経はそこを叩きに行ったってわけだね。

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屋島の戦いが起こるまでの背景と経緯

■源平合戦の流れ(一ノ谷の戦いから屋島へ)

屋島の戦いを理解するには、まず源平合戦の大きな流れを押さえておく必要があります。1180年の以仁王の挙兵から始まった治承・寿永の乱は、序盤こそ平家有利でしたが、1183年の倶利伽羅峠の戦いで平家が大敗。同年7月、平家は安徳天皇と三種の神器を連れて都を捨て、西国へ逃れます(平家都落ち)。

その後1184年2月、義経が摂津の一ノ谷の戦い鵯越ひよどりごえの逆落としを敢行し、平家を大敗させました。一ノ谷で大将級の武将を多数失った平家は、四国の屋島へ撤退して再建を図ります。ここで源氏としては、いよいよ平家の息の根を止めるべく、屋島を攻める作戦が立てられたのです。

■源範頼の九州遠征「もう一つの挟み撃ち作戦」

源範頼
源範頼の肖像(出典:Wikimedia Commons・パブリックドメイン)

義経の屋島奇襲ばかりが有名ですが、実は同時に進められていたのが、源範頼による九州遠征でした。範頼は義経の兄(同じ父・源義朝の子)で、源氏軍の総大将として九州に渡り、平家の補給線と退路を断つ役割を担っていたのです。

1184年9月、範頼は兵を率いて京を出発。山陽道を西へ進みましたが兵糧不足などで苦戦し、1185年1〜2月にかけてようやく豊後(大分県)への上陸を果たします。これによって平家は「九州(範頼)」と「四国(義経)」の両方から挟み撃ちにされる形となり、ついに本拠地・屋島を失う運命となりました。

あゆみ
あゆみ

範頼って義経のお兄さんなのね。大河ドラマだとどうしても義経の影に隠れちゃうけど、実は重要な役回りだったんだ?

もぐたろう
もぐたろう

その通り!範頼がいなかったら、義経の奇襲だけじゃ平家を倒しきれなかったんだ。範頼は地味だけど堅実な武将で、九州での兵站の確保や東国武士のとりまとめをしっかりやっていたんだよ。「派手な義経・地味だけど不可欠な範頼」って覚えておくと、源平合戦の全体像が見えやすくなるよ!

■三種の神器と後白河法皇の思惑

源氏が屋島を急いで攻めたもう一つの理由が、三種の神器の奪還でした。平家は都落ちの際、安徳天皇とともに剣・鏡・勾玉三種の神器を持ち出していたのです。神器は天皇の正統性を示す宝物——これを取り戻さない限り、京都に残された後鳥羽天皇の即位は「正式なもの」とは認められませんでした。

三種の神器ってなに?

歴代天皇が代々受け継いできた3つの宝物のことで、八咫鏡やたのかがみ草薙剣くさなぎのつるぎ八尺瓊勾玉やさかにのまがたまの3点を指します。これを持つ者が「正統な天皇」とされたため、平家がこれを持ち出してしまうと「京都にいる天皇」と「平家とともにいる安徳天皇」の二人の天皇が並び立つ異常事態に。後白河法皇は何としても神器を取り戻したかったため、源氏に圧力をかけて屋島攻撃を急がせました。

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義経の奇襲作戦、屋島へ進撃!

源義経の肖像
屋島の戦いを指揮した源義経(出典:Wikimedia Commons・パブリックドメイン)

■暴風雨の中、たった150騎で出撃!

1185年2月、義経は摂津の渡辺津わたなべのつ(現在の大阪市付近)から出航しようとします。しかし当日は暴風雨。普通なら船を出す状況ではありませんでした。家臣たちは「明日まで待ちましょう」と止めますが、義経の判断はまったく逆——「嵐だからこそ敵の油断を突ける」というものでした。

源義経
源義経

嵐だからこそ攻めるんだ! 平家は「こんな天気なら絶対に船は出ないだろう」と油断してるはず。明日になったら奇襲の意味がなくなる——今夜こそ屋島を取る!

義経は強引に船を出し、嵐の中を四国・阿波(現在の徳島県)まで渡海します。普段なら3日かかる航路をわずか約4時間で突破したとも伝えられています。上陸後、義経は阿波から讃岐の屋島へ向け、陸路を昼夜兼行で強行軍。約60キロを一気に走り抜けました。

2月19日朝、屋島の対岸(陸側)に到着した義経軍はわずか150騎。しかし義経は屋島の民家に火を放ち、煙を立てて「源氏の大軍が来た」と平家に思い込ませる戦法をとりました。平家は陸地からの攻撃をまったく想定していなかったため、大混乱に陥り、慌てて船で海上へ逃げ出してしまったのです。

📌 「150騎」のすごさ:平家方は1,000人以上の兵力があったとされ、源氏は10倍以上の敵を前に勝利したことになります。「兵の多寡ではなく速さと心理戦」という義経の戦術が光った戦いでした。

■逆櫓論争(義経 vs 梶原景時)

梶原景時の肖像
梶原景時の肖像(出典:Wikimedia Commons・パブリックドメイン)

実は出撃前、義経と梶原景時かじわらかげときのあいだで有名な口論がありました。これが逆櫓論争さかろろんそうです。梶原景時かじわらかげときは源頼朝に信頼された武将で、軍監(軍の監視役)として義経の遠征に同行していました。景時が「船の前後に櫓(船を漕ぐ道具)を付けて、いつでも退却できるようにしましょう」と提案したところ、義経は猛反対したのです。

梶原景時
梶原景時

大将たるもの、退路も確保しておくべきです。船に逆櫓を付ければ、不利になったときに前後どちらにも動けますから——。

源義経
源義経

逃げる準備をしながら戦う武将に勝利などあるものか! 猪武者で上等! 退くことを最初から考えるような者は、最初から戦に行くべきではない!

結局、義経は景時の提案をはねつけ、自分の作戦を強行しました。結果として屋島の戦いは大成功——しかし、この口論で公然と恥をかかされた景時は義経を恨むようになります。そして戦後、景時は頼朝に「義経は勝手すぎる」と讒言ざんげんし、これが頼朝と義経の決裂の遠因となったとされています。

📌 逆櫓論争はどこに記録されている?:『平家物語』巻11に描かれた逸話ですが、軍記物語(文学作品)のため脚色の可能性があります。『吾妻鏡』や『玉葉』の記述からは「このとき景時は範頼軍と行動を共にしていた」とする見解も有力で、この逸話は虚構の可能性が高いとも指摘されています。ただし、義経と景時の不和が後の関係悪化につながったこと自体は史実とされています。

屋島の戦いの有名なエピソード——扇の的と弓流し

屋島の戦いには、教科書や国語の授業でも取り上げられる2つの有名なエピソードがあります。それが「扇の的」と「弓流し」です。どちらも『平家物語』に描かれた名場面で、源平合戦のクライマックスを彩る逸話として今も語り継がれています。

■那須与一の扇の的——一矢に込めた覚悟

那須与一が扇の的を射る場面
那須与一が扇の的を射る場面(伝土佐光信『安徳天皇縁起絵』・出典:Wikimedia Commons・パブリックドメイン)

戦いの最中、平家方は海上の船の上から、ある「挑発」を仕掛けてきます。一艘の小舟に美しい女性が乗り、舳先へさきに金色の扇を立てて、源氏に向かって「これを射てみよ」と手招きしたのです。日が傾きかけた夕暮れどき、波に揺れる船の上に立てられた小さな扇を射抜くことは至難の業——失敗すれば源氏全体が嘲笑されるリスクがありました。

義経はこの挑発に応えるため、弓の名手として知られていた那須与一なすのよいちを指名します。与一はこのときまだ10代の若武者(生年は諸説あるが、10代後半〜20歳前後とされる)で、しかも一族の中では十一男という末っ子。重圧は計り知れません。しかも当時の武士にとって、大衆の面前での失敗は死をもって詫びることを意味しました。

えっ、外したら腹を切らなきゃいけないの? プレッシャーやばすぎる……。

もぐたろう
もぐたろう

そうなんだよ。武士は名誉が命だから、外したら笑い者になって生きていけない。「失敗するなら死ぬ」のが武士の作法だったんだ。だから与一は本気で覚悟を決めて、神様に祈ってから矢を放ったんだよ。

那須与一
那須与一

……南無八幡大菩薩、わが故郷・那須の温泉大明神、どうか弓矢を導きたまえ。もし外せば、もう生きてはいられぬ覚悟……!

『平家物語』によれば、与一は「南無八幡大菩薩、別しては我が国の神明、日光権現、宇都宮、那須の湯泉大明神」と神々に祈り、馬上から矢を放ちます。矢は波風を切り裂き、扇のかなめ(軸の部分)から一寸(約3センチ)上の場所をズバッと射抜きました。扇は空高く舞い上がり、夕日に映えながら海に落ちていった——『平家物語』屈指の名場面です。

この瞬間、源平両軍からどっと歓声が上がりました。敵味方を超えて与一の腕前を称え、平家も思わず船を叩いて感嘆したと伝えられています。

「扇の的」は史実か?それとも伝説?

「扇の的」のエピソードは『平家物語』巻11に詳しく描かれていますが、平家物語は軍記物語(歴史を題材にしたフィクション要素のある文学)です。鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』には扇の的のエピソードは登場しません。そのため学術的には「与一の活躍を物語的に脚色した可能性が高い」とされています。ただし那須与一が実在し、屋島の戦いに参加したこと自体は史実として認められています。

■弓流し——義経が命がけで弓を拾った理由

もう一つの名場面が「弓流し」のエピソードです。扇の的の後、戦闘が再開すると義経は海中に弓を落としてしまいます。普通なら諦めるところですが、義経は敵兵の真っ只中で、命がけで弓を拾いに行くという驚きの行動に出ました。

家臣たちは「弓くらい捨ててください!」と必死で止めますが、義経は聞き入れません。命の危険を冒してまで取りに行った理由を、義経は後でこう語りました——。

源義経
源義経

もし自分が叔父・為朝ためとものような剛弓の使い手なら、敵に拾われても惜しくはない。だがこの弱弓を敵に拾われて「源氏の大将の弓はこんなものか」と笑われるのは、武門の恥辱だ。命に代えても惜しくはない!

源為朝みなもとのためとも:義経の叔父。平安末期の武将で、「日本一の剛弓」の使い手として伝説的な名声を持ちます。保元ほうげんの乱(1156年)で活躍しましたが、敗北後に伊豆大島へ流されました。

もぐたろう
もぐたろう

義経は体が小さくて、弓も人より弱いものを使っていたんだ。「弱い弓を敵に拾われて、源氏の大将は弱虫だと笑われたら、その恥は子孫まで残る」——そう考えて命がけで拾いに行ったんだね。すごくプライドが高くて美意識のある人物だったってことがよくわかるエピソードだよ!

この弓流しのエピソードは、義経の人物像を象徴する逸話としてあまりにも有名です。「合理的な判断より、武士としての名誉を優先する」——現代の感覚では理解しにくいかもしれませんが、当時の武士の価値観をよく表しています。

那須与一とは?屋島の戦いの英雄の生涯

那須与一の肖像画
那須与一(出典:Wikimedia Commons・パブリックドメイン)

那須与一なすのよいち(本名:那須宗高なすのむねたか)は、下野国(現在の栃木県)那須郡を本拠とした那須氏の武将です。父は那須資隆なすのすけたかといい、与一は十一男(諸説あり)にあたります。「与一」という名前は「十あまり一」、つまり11番目の男子という意味で、当時の武家でよく使われた呼び名でした。

■屋島での活躍と戦後の褒賞

屋島の戦いで「扇の的」を射抜いた与一は、戦後、源頼朝から大きな褒賞を受けます。具体的には丹後・信濃・若狭・武蔵・備中の5ヶ国に荘園を与えられ、那須氏の所領も大きく拡大しました。一介の地方武士の末っ子が、一矢の活躍で日本中に名を轟かせた——典型的な「武功立身」の物語です。

あゆみ
あゆみ

たった一矢で5ヶ国も荘園もらえちゃうの!? すごい出世物語ね……。その後はどうなったのかしら?

もぐたろう
もぐたろう

その後はあまり目立たないんだけど、与一は壇ノ浦の戦いにも参加して、源平合戦の終わりまで戦い続けたと伝わってるよ。晩年は出家して、京都の即成院で亡くなったとも、那須に戻って隠居したとも言われてて、最期にはいくつか説があるんだ。即成院には今でも与一の墓と伝わるお墓があって、弓道の人が参拝に来るんだよ。

■那須与一にゆかりのある場所

那須与一にゆかりの深い場所はいくつかあります。栃木県大田原市の那須神社には与一が屋島の戦いの後に納めたとされる宝物が伝わっており、現在も「与一の里」として観光地になっています。また香川県高松市の屋島には「祈り岩」「駒立岩」など、与一が扇を射る前に立ち止まったとされる場所が史跡として残っています。京都の泉涌寺塔頭・即成院そくじょういんには与一の墓と伝わるものがあり、弓道関係者の参拝が絶えません。

テストに出るポイント

ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。

テストに出やすいポイント
  • 屋島の戦い(1185年2月):源義経 vs 平家・讃岐屋島での戦い
  • 那須与一(なすのよいち・本名 那須宗高):扇の的を射抜いた源氏方の武将
  • 扇の的:平家が船上に立てた扇を那須与一が射た逸話(『平家物語』巻11が出典)
  • 弓流し:義経が海に落とした弓を危険を冒して拾いに行った逸話
  • 源平合戦の流れ:一ノ谷(1184年)→ 屋島(1185年2月)→ 壇ノ浦(1185年3月)
  • 源範頼の九州遠征:義経の屋島奇襲と連動した挟み撃ち作戦

📌 暗記のコツ:「一ノ谷 → 屋島 → 壇ノ浦」の順番は「い・や・だ(嫌だ)」で覚えるのが定番。屋島は1185年2月、壇ノ浦は同年3月(同年内の連戦!)と必ずセットで覚えること。1185年は鎌倉幕府の守護・地頭設置(「いいハコ(1185)作ろう」)と同じ年なので、まとめて押さえるのが効率的です。

ゆうき
ゆうき

テストで「屋島の戦いで活躍した人物を答えよ」って出たら、何て書けばいい?

もぐたろう
もぐたろう

那須与一」が正解!「扇の的を射た人物」として出題されることが多いよ。「指揮官は源義経」もセットで覚えておこう。記述問題では「奇襲で平家を破った」「平家物語の名場面が舞台」などの要素を入れると満点がもらえるよ!

屋島の戦いに関するよくある質問(FAQ)

1185年(元暦2年)2月19日、讃岐国(現在の香川県高松市)の屋島で起きました。源義経率いる源氏軍と平家との間で戦われた合戦で、源平合戦の終盤戦の一つです。

休戦中に平家が船上に金色の扇(的)を立て、源氏に挑発した場面です。源義経に指名された那須与一が、馬上から見事に一発で扇を射抜き、源氏の士気を高めました。『平家物語』巻11の名場面として有名ですが、軍記物語のため史実かどうかについては諸説あります。

屋島の戦いで義経が海に弓を落とし、家臣の制止を振り切って危険を冒しながら拾いに行った逸話です。「弱い弓を敵に拾われて源氏の大将が笑われてはいけない」という強いプライドからの行動だとされ、『平家物語』に記されています。

源氏の勝利です。義経の奇襲に動揺した平家は屋島を捨て、船で海上へ逃げました。四国の本拠地を失った平家は西へと追い詰められ、約1ヶ月後の1185年3月に壇ノ浦の戦いで滅亡します。

屋島出陣前に起きた義経と梶原景時の口論です。景時が「退路確保のために船に逆向きの櫓(逆櫓)をつけるべき」と提案したのに対し、義経は「退路を考えながら戦う大将はいない」と一蹴しました。この対立が後の頼朝・義経の関係悪化の遠因のひとつとされています。

はい、『平家物語』巻11に詳しく記されています。「扇の的」「弓流し」などの名場面はすべて『平家物語』が出典です。ただし『平家物語』は軍記物語(歴史を素材にした文学作品)のため、史実と脚色が混在している部分もあります。

屋島の戦いのまとめ

まとめ:屋島の戦いのポイント
  • 1185年2月19日、源義経が讃岐屋島の平家を急襲した源平合戦の一戦
  • 源範頼の九州制圧と義経の四国急襲による挟み撃ち作戦が奏功
  • 那須与一の「扇の的」・義経の「弓流し」など名場面は『平家物語』が出典
  • 逆櫓論争で義経と梶原景時の不和が決定的に。後の頼朝・義経決裂の遠因に
  • 屋島陥落から約1ヶ月後、壇ノ浦の戦い(1185年3月)で平家が滅亡へ

もぐたろう
もぐたろう

以上、屋島の戦いのまとめでした!「扇の的」「弓流し」のエピソードは国語の授業でも出てくるから、ぜひ流れで覚えてみてね。下の記事で壇ノ浦の戦い源平合戦の全体像もあわせて読んでみてください!

屋島の戦いをめぐる源平合戦の流れ
  • 1183年5月
    倶利伽羅峠の戦い・平家が木曽義仲に大敗
  • 1183年7月
    平家都落ち(安徳天皇と三種の神器を連れて西国へ)
  • 1184年2月
    一ノ谷の戦い(義経・摂津で平家を破る・鵯越の逆落とし)
  • 1184年8月〜
    源範頼、九州へ進軍・平家の補給線と退路を断つ
  • 1185年2月19日
    屋島の戦い(義経が嵐の夜に150騎で急襲・那須与一の扇の的・弓流し)
  • 1185年3月24日
    壇ノ浦の戦い(平家滅亡・安徳天皇入水)

屋島の戦い後、平家は瀬戸内海を西へ逃れました。約1ヶ月後の1185年3月24日、壇ノ浦だんのうらの戦い(現・山口県下関市)で源氏と最後の決戦を迎えます。安徳天皇あんとくてんのうの入水と平家一門の滅亡によって、源平合戦はここに終結しました。

源平合戦・屋島の戦いについてもっと詳しく知りたい人へ

もぐたろう
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屋島の戦い・源平合戦についてもっと深く知りたい人におすすめの本を紹介するよ!

①テスト前に源平合戦の流れを速習したいなら|定説を覆す視点で一気に読める

②平家物語を現代語訳で楽しく読みたいなら|名場面がこれ1冊に

③源義経の実像を深掘りしたいなら|悲劇の英雄の真実に迫る

源義経

五味 文彦 著|岩波新書


📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版社『詳説日本史』

参考文献

Wikipedia日本語版「屋島の戦い」「那須与一」「源範頼」「逆櫓論争」(2026年5月確認)
コトバンク「屋島の戦い」「那須与一」「逆櫓論争」(デジタル大辞泉・日本大百科全書・国史大辞典)
『平家物語』巻11「那須与一」「弓流し」
山川出版社『詳説日本史』

記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。

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この記事を書いた人
もぐたろう

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