屋島の戦いを簡単にわかりやすく紹介【那須与一の扇の的当てと源義経の活躍】

今回は、源平合戦の戦いの1つである屋島(やしま)の戦いについて紹介しようと思います。

 

まずは、屋島の戦い当時の平家・源氏の状況を確認しておきましょう。屋島の戦いは1185年2月に起こりました。

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屋島の戦い当時の戦況

1184年2月、一ノ谷の戦いで大敗を喫した平家は、屋島へと避難します。

 

一方の源氏軍は源義経の活躍などで一ノ谷の戦いで大勝利したわけですが、その勢いで屋島に攻め入ることはできませんでした。屋島の位置は今の高松市、四国です。屋島に攻め入るには、船とそれを動かす水夫が必要でした。ところが、源氏軍はこれらを持ち合わせてはいません。

 

ボロボロになった平家軍が目と鼻の先にいるにも関わらず、平家軍の圧倒的な地勢的優位の前に源氏軍は手も足も出なかったのです。

 

源氏軍として派遣されていた源範頼・源義経は、一度撤退することにします。

 

源範頼は鎌倉へ戻り、源義経は不測の事態に対応できるよう平安京に残ります。源頼朝は総大将2人を引き上げさせる一方、現地(西国)には土肥実平・梶原景時を配置し、戦況は一旦こう着状態になりました。

平家軍の抵抗

しかし、両者のこう着状態は長くは続かず、戦況に大きな動きがありました。平家軍が再び息を吹き返そうとしていたのです。

 

1184年6月、屋島の平家軍が山陽道を攻め入るようになり、源氏軍は劣勢に立たされます。海での戦いにおいては、疲労困憊とはいえ、やはり平家軍の方が一枚上手でした。

 

さらに1184年7月、伊勢・伊賀国に潜んでいた平家軍が突如として反乱を起こします。

 

これを受け、源頼朝は西国に源範頼を、伊勢・伊賀には源義経を派遣し、平家軍追討を図ります。

屋島の戦いと源範頼

(出典:wikipedia「屋島の戦い」

 

源範頼に与えられた任務は、山陽道での平家軍追討と水軍の確保、そして平家軍の最後の逃亡ルートを塞ぐための九州平定でした。言葉で書くと簡単そうですが、これはかなり大変な任務です。

 

この極めて難易度の高い、そして重要な任務は難航します。まず、源氏側に寝返る水軍は少ないし、平家軍は瀬戸内海から神出鬼没で源氏軍を襲ってきます。

 

 

源範頼軍は、兵站不足と兵の士気低下に苦しみ、鎌倉の源頼朝に助けを求める手紙を送っていたと言われています。特に、武士たちの士気低下は相当だったようで有力武士の中にも勝手に関東へ戻ろうとする輩がいたほどでした。

 

そして、追い詰められていた源範頼の前に源範頼の九州攻めを阻止せんと平家軍が立ちはだかります。

藤戸の戦い

藤戸は現在の倉敷市に位置し、源範頼が山陽道から九州へ向かうためには、必ず通過しなければならない場所。

 

軍事的に重要な拠点ですから、当然平家軍も藤戸で源範頼の九州進軍を阻止しようとします。こうして、九州へ向かう源氏軍とそれを阻止したい平家軍の間で戦闘が起こります。これを藤戸の戦いと言います。

 

藤戸は島であり、そこを攻め入るには船が必要。上述したように、源氏軍は船を持っておらず藤戸攻略は難航します。

 

しかし、源氏軍の武将の1人、佐々木盛綱(もりつな)が活路を開きます。佐々木盛綱は、地元の漁師から馬に乗ったまま藤戸へ渡れる浅瀬を聞き出し、そこから平家軍に攻め入ります。

 

佐々木盛綱の活躍などで源氏軍は、藤戸の平家軍に勝利。しかし、藤戸の戦いに勝利しても源氏軍の状況は好転しません。藤戸の戦い以前から問題となっていた兵糧の確保や水軍の整備は相変わらず進まず、源範頼は苦しんでいました。

 

 

源義経と屋島の戦い

(出典:wikipedia「屋島の戦い」

兵糧不足と士気低下に苦しむ源範頼でしたが、それでも九州の反平家勢力と上手く協力し、1185年2月1日、九州を抑えることに成功します。平家にとって九州は唯一の逃亡ルート。背後の九州を抑えられた平家軍は背水の陣に立たされたことになります。

 

源平合戦といえば源義経ばかりが目立ちますが、源範頼の九州制圧は源平合戦の戦局に大きな影響を与えました。九州さえ抑えてしまえばあとは屋島の平家軍を叩くだけです。逃げ場を失った平家が滅びるのは必定。

 

しかし、九州を抑えた源範頼は屋島に攻め入ることはできませんでした。下関では平家軍が控えているし、そもそも屋島を攻めるには水軍の数が足りなかったからです。

 

そこで立ち上がったのが平安京に残っていた源義経でした。

暗躍する後白河法皇

ところで源範頼が西国で頑張っている間、源義経は平安京で何をしていたのでしょうか?

 

・・・実は、権謀術数の天才だった後白河法皇の餌食になっていました(汗

 

当時は戦乱の真っ最中ですが、戦乱が終わってしまえば後白河法皇と戦乱の勝利者との間で権限をめぐる争いが起こることは必須。後白河法皇は、平清盛とやりあったような政争が再発しかねないと考えていました。(後白河法皇は、強大な権力を持った武家の平清盛とやりあった経験を持っています。)

例えば、下の鹿ケ谷の陰謀事件などがそうです。

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さらに、当時の戦局的に勝利者は源頼朝になることが濃厚。後白河法皇は、将来起こりうるであろう源頼朝との政争に備え、源義経を懐柔しようとしたのです。

 

後白河法皇は平安京に残る源義経に役職を与え、緊密な関係を結ぼうとしていました。政治に疎い源義経は、後白河法皇から役職を与えられて喜んだと言われています。

 

しかし、武家による新政権樹立を目論んでいた源頼朝はこれに大激怒。せっかく自らが頂点に立ち、鎌倉で新たな政治機構を樹立しようとしているのに、部下・・・それも武家政権トップの弟が武家政権に反対するであろう後白河法皇から役職を与えられて喜んでいるようでは話になりません。というか、源氏の棟梁である頼朝の弟が後白河法皇に味方するようなことがあれば再び大戦乱になりかねません。

 

源頼朝と源義経の関係が微妙になりつつある中、1185年2月、源義経は屋島を攻めるため、平安京を発ちます。

 

源義経の出陣の動機は、わかっていません。源義経が後白河法皇に「平安京の警備も大事ですが、源氏軍は屋島に攻め込めず苦戦しています。どうか私を屋島攻めに行かせてください!」と懇願したという説と、源範頼から苦戦しているとの情報を得た源頼朝が源義経に命じた説の2つの説があります。

 

相反する2説が存在するのも、この頃から源頼朝が弟の義経のことを懐疑的な目で見るようになったことの証拠の1つでしょう。

屋島の戦いと逆櫓論争

源義経は、屋島を攻めるため船で四国へと渡ります。実はこの義経の出航時にも、一悶着ありました。逆櫓(さかろ。船を後方に進めるための船のパーツ)を船に付けるかどうかで源頼朝の側近である梶原景時と源義経の間で揉めたのです。

 

梶原景時は、源頼朝の挙兵当時、石橋山の戦いで源頼朝を窮地から救った命の恩人です。

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梶原景時「念のため、船に逆櫓をつけましょう。

 

源義経「は?そんなものつけてどーするの?戦いでは退くまいと思っていても退いてしまうこともある。それなのに、最初から退くのことのできる逆櫓なんかつけたら士気下がっちゃうじゃん。付けたいのなら景時の船だけ付ければ!

 

梶原景時「いやいや(笑)。義経は大将なんだから、状況次第では退くべき時もあるかもしれないじゃん。前進あるのみなんて、それじゃあ猪武者じゃんww

 

源義経「初めから逃げることを前提に戦いなどできるか!猪武者で上等!!

 

こうして両者ギクシャクしたまま、逆櫓を付けずに出航しました。源義経は源平合戦が終わった後、義経の自分勝手な行動に怒った頼朝に討たれることになりますが、源頼朝に源義経の自分勝手な行動を告げ口したのが梶原景時と言われています。

 

後白河法皇と義経の接近、そして梶原景時との口論などちょうどこの頃から、源義経は少しずつ源頼朝にとって危険視すべき人物へと変わってゆきます。

 

ただし、逆櫓論争は源頼朝が弟の義経を討ったことを正当化するための後世のでっち上げ説もあり、梶原景時とのやりとりが本当にあったかは謎です。

 

 

何はともあれ、1185年2月18日の暴風雨の午前2時ごろ、義経はわずか150騎で四国へと向かいます。船頭や多くの武将たちは暴風雨のため出航延期を望みましたが、源義経は周囲の反対を押し切って強引に出航します。そのやり方も過激で、出航をためらう船頭を脅しての出航だったと言われています。色々とヤンチャすぎますね義経は(汗

 

屋島の戦いと源義経の奇襲

1185年2月19日、源義経は屋島の対岸まで到着します。

 

一ノ谷の戦いの逆落としと同じく、突然の奇襲に平家軍は大パニックでした。当時、屋島の平家軍の多くが伊予国(今の愛媛県)に出兵しており、屋島防衛が手薄になっていました。(源義経は情報を掴んでいて、そのタイミングを狙って奇襲していた!!)

 

さらにさらに、源氏軍は源範頼を大将として山陽道を進んでいたため、平家軍は「源氏が攻めて来るなら山陽道から海路で攻めて来るだろう!」と思い込んでいました。

 

ところが、源義経は平家軍の予想とは真逆の行動に出ます。一度四国に上陸しその後陸路から屋島を攻略しようとしたわけです。屋島の平家にとって、源義経の攻撃は2つの意味で奇襲だったのです。

 

忠臣、佐藤継信の死

しかし、いかに奇襲とはいえ源義経は150騎しか兵を率いていません。当然、源義経も敵に舐められないよう寡兵(兵が少ないこと)を悟られない工夫をしていましたが、いざ平家軍と対峙してしまうと、寡兵を隠し切ることはできませんでした。

 

奇襲にビビった平家軍も義経軍と戦っているうちに「あれ?実は義経軍の兵力って大したことなくね?」と考え出し、両者互角の戦いが繰り広げられました。

 

平家軍は義経を屋島に侵入させまいと、矢を射まくって防衛線を維持します。そんな時、一本の矢が義経めがけて飛んできます。しかも、義経は矢をかわすことができません。

 

万事休すかと思われたその時、源義経の前に忠臣の佐藤継信(つぐのぶ)という人物が立ちはだかり、自ら盾となり義経を守ります。

 

矢を射抜かれた佐藤継信はそのまま討ち死してしまいます。この佐藤継信は、源義経が奥州の平泉から出発した源平合戦初期からずーっと義経と供に行動してきた盟友であり、その死に源義経は悲嘆にくれることになります・・・。

 

忠臣を失った義経ですが、戦いは相変わらずこう着状態が続き、一旦両者休戦となりました。

 

休戦中の1185年2月19日の夕刻、突如として平家軍の一隻の船が前に進み、源義経にトンデモナイことを言い始めます。

弓スキル最強の那須与一(なすのよいち)

 

休戦中の2月19日の夕刻、平家軍の一隻の船から着物を着た美しき女性が現れ、こんなことを言い始めます。

 

船の先端の竿に付いている旗を射抜いてみよ」

 

要は「名門の源氏の武士なら、当然これぐらい射ぬけるよね?女にここまで言われたらやるしかないよね?wwww」という一種の挑発です。

 

これを聞いた源義経は、「ここで断っては源氏の名に傷が付く・・・」と考え、この挑発に応じることにします。義経は、部下たちの中で最も弓に長けた人物を探します。

 

そこで抜擢されたのが那須与一(なすのよいち)という人物。

 

那須与一は、「ミスれば源氏の名に傷を付けてしまう」という重役を担わされることになりますが、「ここで失敗すれば私の武運はここまで。腹を切って自害しようぞ」と死を覚悟して船の前で弓を構えます。

 

那須与一の死を覚悟した一矢は、見事に日輪を描いた扇に命中。扇は、夕日をバックにヒラヒラと水面へと落ちていきます。これを見た平家軍は、「これは凄い!めでたきことや!」と言わんばかりに突然船上で舞を始めてしまいました。

 

平家軍にとってこれは戦いではなく、あくまで休戦中の戯れの1つだったのです。

 

しかし、那須与一の決死の覚悟からもわかるように源氏軍はそうは思いません。源義経は、那須与一が扇を射抜き、兵のテンションが上がったこのタイミングでそのまま平家軍に攻めかかろうと考えます。

 

源義経「あの舞い踊って油断し切った平家軍に矢を放て!!」

 

那須与一は再び弓を構え、次は船上の兵を矢で射抜きます。これに平家軍はひるんでしまいます。平家側は、「おいおい、今は休戦中で舞を途中なのになんてことをするんだ。」と言わんばかりでした。

 

その後、両者は再び交戦状態に入りますが、結果は源氏軍の勝利。平家軍は長年本拠地としていた屋島を追い出され、遂に窮地へと追い込まれます。

貴族化する平家と扇の的当て

さて、那須与一の扇の的のエピソードはとても有名なのですが、実は一ノ谷の戦いの義経の逆落とし同様、そのエピソードが真実かどうかはわかっていません。

 

しかしながら、那須与一のこのエピソードは平家軍に関して重要な点を示唆しています。それは、「もはや平家は武門ではなく、貴族になってしまった!」という点です。

 

本拠地を守るためのガチンコの戦いなのに、着物を着た女性がいきなり登場したり、敵が弓を持っているのにそれを無視して船上で踊り続けたりと平家軍の行動はちょっと常軌を逸しています。

 

もちろん、この辺りの話も平家軍を貶めるための作り話かもしれませんが、作り話だったとしてもエピソードが作られること自体、平家軍の軟弱化を暗示しているように思います。

 

ちなみに、屋島の戦いの主役でもある那須与一は源平合戦の後、屋島にて大役を果たした褒美として領地を与えられたと言われています。

屋島の戦いの後

源義経の屋島攻めは、まさに源義経の計画通りの展開に終わります。

 

屋島を攻略された平家軍は、それでもなお抵抗を続けていましたが、それも長くは続きません。海上から義経軍の第2派である梶原景時が攻め入ってきたのです。平家軍は、陸の源義経と海の梶原景時の挟み撃ちに合い、もはや抵抗することすらできません。

 

一ノ谷の戦い以降、源義経・源範頼軍は徹底した挟み撃ち戦法を用いています。有効な戦法を用いるのは当然といえば当然なのですが、それでもその徹底ぶりは凄い。(特に常に先陣を切って背後を攻める義経は鬼神のごとき活躍をしている!!)

 

屋島の戦いは義経と梶原景時の挟み撃ち戦法で勝利するわけですが、もっと大局的に見れば源範頼が背後の九州を抑え、義経が屋島を攻めたこと自体が壮大な挟み撃ちだったわけです。

 

源平合戦の最終戦!壇ノ浦の戦いへ

平家軍は、四国の「屋島」、そして下関の先っちょにある「彦島」の2つを拠点としています。

 

その1つの屋島を攻め落とされた以上、もはや平家軍が頼るのは彦島だけ。彦島に逃走する平家軍。それを追い進軍する源義経。さらに彦島と目の鼻の先にある九州地方を抑える源範頼。

 

源義経と源範頼に追い詰められた平家軍に、勝ち目はすでにありません。

 

こうして平家軍の最後の抵抗であり、かつ、源平合戦の最後の戦いでもあるとても有名な壇ノ浦の戦いが遂に始まるのです。

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