
奈良時代の記事を結構たくさん書いたので、今回は奈良時代をハイライトで簡単にわかりやすく整理しておきます。
飛鳥時代から奈良時代へ
710年、都を平城京に遷都してから794年に平安京へ遷都するまでの時代を奈良時代と呼びますが、710年以前の日本(飛鳥時代)はどんな時代だったのでしょうか?
飛鳥時代の日本は、中国(隋・唐)や朝鮮半島との緊張感の高まりから、豪族たちが割拠するバラバラな日本を、天皇を君主とした統制された国家へ変貌させようという大きな大きな動きがありました。
・・・ありましたというか、飛鳥時代は、日本が天皇主権の国造りに全力を捧げた時代と言っても過言ではありません。
具体的な動きとして、藤原京の造営や大宝律令の制定などがありました。藤原京も大宝律令も天皇主権の国造りと密接に関わっています。
そして710年、天皇が住む本格的な日本の首都として機能したのが平城京でした。
奈良時代と聖武天皇
奈良時代の前半は、聖武(しょうむ)天皇を中心に時代が進んでいきます。
聖武天皇は724年に即位しますが、707年に生まれた頃から既に聖武天皇の即位は計画されていて、聖武天皇が成人するまでの間は、他の皇族に皇位を奪われないように祖母の元明天皇とおばの元正天皇が繋ぎ役として即位していました。
奈良時代と長屋王
天皇主権を目的として造営された平城京。当初は、歴代天皇の血を引く皇族たちが政治において強い力を持っていましたが、次第に藤原不比等(ふじわらのふひと)という人物が政治に強い影響力を持つようになります。
藤原不比等の息子の世代になると、朝廷内は次第に皇族勢力と藤原氏勢力の2つの政治勢力が現れ、対立するようになります。
そして、皇族VS藤原氏の対立を象徴したのが長屋王(ながやおう)と藤原四兄弟の存在でした。
長屋王と藤原四兄弟の対立は、729年に長屋王を自害に追い込んだ藤原四兄弟の勝利に終わり、藤原氏が政治の実権を握るようになります。
藤原氏って平安時代の藤原道長とかが有名ですけど、奈良時代から強かったんですねー。
奈良時代と橘諸兄
政治の実権を握った藤原不比等の4人息子でしたが、737年、平城京で天然痘が大流行。4人息子も天然痘に冒され、なんと4人ともみんな亡くなってしまいます。
藤原氏以外も多くの有力貴族たちが天然痘によって亡くなり、朝廷は阿鼻叫喚と化しました。天然痘は、737年の少し前に戻ってきた遣唐使が大陸から運んできた・・・と言われています。
貴族から農民まで多くの命を奪った天然痘により、朝廷は深刻な人材難に陥ります。そこで朝廷の最高官位に抜擢されたの橘諸兄(たちばなのもろえ)という人物。
橘の家柄は、元を辿ると皇族の血を引いています。橘家には橘三千代(たちばなのみちよ)という超重要人物がいました。権力者だった藤原四兄弟の後妻であり、聖武天皇にとっては義理の母でした。そんな人脈もあって橘諸兄が選ばれたわけです。
長屋王→藤原四兄弟→橘諸兄・・・と藤原氏と皇族の間で熾烈な権力闘争が続いていたのが奈良時代の多くな特徴の1つとなります。
奈良時代と藤原広嗣
さて、こうして新たに橘諸兄による政権が始まるわけですが、740年代は実に多くの事件・出来事が起こりました。
その1つが九州で起こった大反乱。藤原広嗣という人物が首謀者で、藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の乱と呼ばれています。
藤原広嗣は、737年に全滅した藤原四兄弟のうち藤原宇合の息子。素行が悪く、太宰府に左遷させられていたのを不満に思い、740年に反乱を起こします。
当時の日本は唐の政治や文化を参考にしながら政治を行っていて、橘諸兄は身分は低いけれども唐について精通していた吉備真備や玄昉などを重用していました。左遷させられた藤原広嗣にはそれが気に食わなかったのです。
ちなみに、吉備真備はかなり凄いやつ。個人的にも好きな人物。
豆腐メンタル聖武天皇
740年に起こった藤原広嗣の乱は無事鎮圧されましたが、この頃から聖武天皇の様子がおかしくなります。
聖武天皇は、長屋王の変や天然痘の大流行、そのほかにも地震・飢饉を通じて次第に自らの政治に自信を失ってしまいます。
そしておそらくは藤原広嗣の乱を直接のきっかけに聖武天皇の心は折れてしまいます。元々豆腐メンタルだった聖武天皇にとって、これ以上の政治の乱れ耐えることはもはやできませんでした。
藤原広嗣の乱が起こっている最中、疫病や政治の乱れに嫌気がさした聖武天皇は突如として遷都を考え始めます。740年以降の日本の政治の迷走を始め、その様子はまさに聖武天皇の心の弱さに映しだす鏡のようでした。
奈良時代と怒涛の遷都ラッシュ!
まず741年、聖武天皇は恭仁京(くにきょう)へ遷都を開始します。聖武天皇にとって厄介ごとばかり起こる平城京は呪われた都に映ったのでしょう。
恭仁京の今の京都府木津川市に位置しました。奈良県と京都府の境目ぐらいの場所です。なぜこの場所を選んだのかというと、橘諸兄の本拠地だったからでは・・・?と言われています。
741年には恭仁京遷都と同時に全国に国分寺・国分尼寺の造立を命じます。聖武天皇は、政治の全てを仏教に委ねることにします。金光明経というお経の中に「王が仏教を信仰し、布教に努めれば国を守れる!」という思想が載っており、聖武天皇はそれを信じたのです。現に国分寺は金光明経を安置するお寺として建立されたもので、闇雲に「とにかくお寺作るぜー!」とかそんな感じではないのです。
さらに743年、聖武天皇は大仏を造立することを宣言します。しかもこの頃の聖武天皇は離宮(副都)として紫香楽宮(しがらきのみや)の造営を予定していました。今でこそ奈良の大仏は東大寺に造立されていますが、当初は紫香楽宮に造立予定でした。
744年、聖武天皇は恭仁京を捨て突如として、難波宮(なにわのみや)への遷都を開始。さらに、745年、次は離宮である難波宮から紫香楽宮への遷都を開始します。聖武天皇の迷走っぷりが半端ないです。おそらく朝廷で働く官僚たちにはデスマーチが待っていたことでしょう・・・(涙。
結局、度重なる遷都や大仏造立などの大事業を全て同時並行で行えるわけがなく、745年、聖武天皇は遷都を諦め平城京へ戻ります。聖武天皇は749年に崩御しますが、それまでの間、仏教を深く信仰し大仏の造立事業は引き続き継続されました。
恭仁京→難波宮→紫香楽宮という度重なる遷都や大仏造立や国分寺・国分尼寺の建立により莫大な国富が使われ、民は疲弊しました。
そんな中で完成したのが奈良の大仏と東大寺です。
そして、大仏造立に大活躍した忘れてはならない人物が行基(ぎょうき)。当時の仏教の在り方を知る上でも行基はとても興味深い人物の1人です。
奈良時代と女帝
聖武天皇が崩御すると奈良時代も後半戦へと移ります。
聖武天皇は子に恵まれず、後継者に選ばれたのは聖武天皇の愛娘だった孝謙(こうけん)天皇でした。女帝です。
日本では、現代に到るまで皇室は男系の血統を重視します。そのため、女帝の即位は認めれていても、女帝の結婚は禁じられていました。子を産み女系天皇を直系とする天皇が生まれるのを防ぐためです。
つまり、孝謙天皇は子を産まないわけなので、即位早々「次期天皇を誰にするか?」という大きな問題が朝廷内で発生しました。
当時は天武天皇の血を引く者に皇位の正当性があると考えられていたので天武の血を引く多くの皇子たちが「我こそは次期天皇なり!」と虎視眈々と皇位の座を狙うようになり、政界は不安定化します。
奈良時代と藤原仲麻呂
そして不安定化した政界の中で、政界のトップに躍り出たのが藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)という人物でした。737年に天然痘で亡くなった藤原四兄弟の中でも一番影響力を持っていた長男の藤原武智麻呂の息子です。
藤原仲麻呂は、孝謙天皇の母である藤原光明子とは叔母と甥っ子の関係。仲麻呂はとても聡明な青年だったらしく、光明子は仲麻呂のことをたいそう気にいっていました。
孝謙天皇も母の光明子に露骨に逆らうこともできないし、そもそも仲麻呂とも良好な関係だったこともあって、藤原仲麻呂は裏で政治を牛耳るようになります。
そんな中、藤原仲麻呂の傀儡として孝謙天皇の次に即位したのが淳仁(じゅんにん)天皇。聖武天皇が崩御前に孝謙の次の天皇として指名していた道祖王を排除し、即位しました。
道祖王の排除、孝謙天皇の譲位、そして759年の淳仁天皇の即位。全てにおいて裏で暗躍していたのが藤原仲麻呂です。
前権力者である橘諸兄やその息子の橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)も排除し、藤原仲麻呂の独裁とも言える政治が始まります。
なお、淳仁天皇は歴代天皇屈指の悲劇的天皇として有名です。詳しいお話は以下の記事をどうぞ!
奈良時代と道鏡
聖武天皇崩御後、めまぐるしく動く政界でしたが、760年に藤原光明子が亡くなると日本の政治はさらに混迷を極めます。
藤原光明子は、藤原仲麻呂と孝謙上皇の関係を良好に保っていたパイプ役のような存在でした。その光明子が亡くなることで好き放題やっていた仲麻呂と仲麻呂に抑圧され続けていた孝謙上皇の関係は次第に悪化。
これに加え、この頃になると孝謙上皇は病の際に看病してくれた道鏡(どうきょう)という僧侶にべた惚れ。道鏡は孝謙上皇に寵愛され、僧でありながら政治に深く関与するようになります。すると孝謙・道鏡にとって邪魔になるのは時の権力者である藤原仲麻呂。
こうして孝謙・道鏡VS淳仁・仲麻呂の対立構図ができます。ただ、淳仁天皇は仲麻呂の傀儡と化しており、本人の意思がどこにあったは謎です。内心は仲麻呂を嫌っていたんじゃないかと思います。
764年、両者の対立は遂に武力闘争に発展し、藤原仲麻呂が乱を起こしますが敗北。淳仁天皇は廃帝となり流刑。そして翌年の765年には孝謙上皇が重祚し、称徳(しょうとく)天皇として再び即位します。
乱の途中、淳仁天皇はなぜか藤原仲麻呂と共に行動していません。理由はわかっていませんが、最後の最後で仲麻呂と決別し、自らの決断で行動をしたのかもしれません。淳仁天皇は、廃帝として天皇位を称徳天皇に奪われ流刑に。そして流刑地で謎の死を遂げました。おそらくは殺されたのでしょう・・・。
藤原仲麻呂が没すると、次は道鏡による独裁政治が始まります。藤原仲麻呂は傀儡の淳仁天皇を利用し独裁を行いましたが、道鏡は称徳天皇を恋の虜にさせることで政治の実権を握ります。
藤原仲麻呂と道鏡、同じ独裁政治でも勤勉で博識だった藤原仲麻呂には、ちゃんと政治理念みたいなものがありました。ところが、僧侶である道鏡に具体的な政治理念はなく、その政治はもはや私利私欲で動く腐敗したものでしかありませんでした。
能力の有無とは無関係に道鏡に気に入られた者は出世し、刑罰も公平性を失います。
そんな腐敗した政治が横行する中、769年に事件は起こります。道鏡が「宇佐八幡宮で俺が天皇になるべし!との神からのお告げ(神託)があったらしい」と騒ぎ始めます。宇佐八幡宮には道鏡の息のかかった神官がおり、神託を利用して皇位簒奪を目論んだわけです。
しかもこの目論見、当初は称徳天皇もノリノリでした。和気清麻呂という信頼できる部下を宇佐八幡宮に派遣してその真偽を確かめさせますが、帰ってきた和気清麻呂が
「ん?そんな神託なかったっすよ。嘘じゃないっすかあれww」
と報告するとブチギレて、別部穢麻呂(わけべの きたなまろ)と改名した上で左遷させたほどに称徳天皇はマジでした。
宇佐八幡宮の事件の後、称徳天皇は多くの人たちに強力に説得されたのでしょう。結果的に、称徳天皇は道鏡の天皇即位を認めることはありませんでした。
これは政治的判断でもあり、もしかするとこの事件によって道鏡と称徳天皇の男女関係にも暗い影が落ち始めていたのかもしれません。
ちなみこの道鏡の宇佐八幡宮の事件、日本屈指の皇位簒奪未遂事件だったりします。皇位簒奪ってクーデターとか大きな戦乱ってイメージがありますけど、このケースは称徳天皇と道鏡の色恋沙汰。ちょうど760年ごろ、中国では絶世の美女である楊貴妃(ようきひ)を巡って安史の乱という乱が起こっていました。日本では乱は起こらないまでも男女を逆にして似たようなことが起こっていたわけです。
奈良時代から平安時代へ
宇佐八幡宮の事件の後、道鏡は力を失い、翌年の670年には称徳天皇が崩御します。称徳天皇は次期天皇について遺言を残さなかったため、次期天皇を巡って朝廷で議論が交わされます。そこで即位したのが光仁(こうにん)天皇でした。
光仁天皇には井上内親王という妃がいました。井上内親王は聖武天皇の娘で天武天皇の血を引いています。
光仁天皇は皇位のつなぎ役で、井上内親王と光仁天皇の間に生まれた子で天武天皇の血を引く他戸(おさべ)親王を即位させようというのが光仁天皇即位の狙いでした。他戸親王を即位させることで、政争で断絶しかけていた天武天皇の血統を再び復活させようとしたのです。
ところが、この狙いは実現しません。何者かの謀略により井上内親王と他戸親王が謎の死を遂げてしまうからです。これにより天武天皇の血を引く者は完全に途絶え、次に天皇即位を狙ったのが他戸親王の異母兄で天智天皇の血を引いている桓武天皇でした。
桓武天皇は天武天皇の血を全く引いておらず、当時の常識に照らし合わせれば天皇になどなれませんが、天武天皇の血を引く者が全滅したことで事情が変わります。
桓武天皇は、天武系の天皇によって造営・運営されてきた平城京と決別し、天智系天皇による新たな都の造営を計画。
当初は長岡京を建設しますが、色々と事件があり頓挫。その後794年に平安京が完成することで時代は奈良時代から平安時代へと移りかわっていくのです。
奈良時代の仏教
最後に奈良時代の文化面の話をいくつか。
まずは仏教ですが、飛鳥時代初期(古墳時代後期)に伝来した仏教は奈良時代になると国策として信仰されるようになっていきます。仏教伝来までの簡単な流れについては以下の記事を参考にしてみてください。
奈良時代になると南都六宗と言って大きく分けて6つの仏教グループが誕生します。仏教の多様な思想を受け入れる下地が出来上がったわけです。
それが良いか悪いかは別の議論として、特に国に重宝されたのは法相宗と華厳宗でした。
法相宗は多くの優秀な人物を輩出した一派。橘諸兄に重用された玄昉は法相宗の僧侶ですし、東大寺造立で大活躍した行基の師匠は法相宗の僧侶だったとも言われています。平安時代に天台宗の最澄と激論を交わした徳一も法相宗の僧。有名人多めです。
華厳宗は、その名のとおり華厳経の教えに重きをおいた一派。聖武天皇が華厳経を好んだことで国から重用されるようになります。奈良の大仏はこの華厳経に説かれている毘盧遮那仏という仏様になります。そして東大寺建立に多大なる貢献をし、初代別当にもなった良弁という僧侶も華厳宗の僧侶として有名です。
律宗は戒律を重んじた一派。日本にやってきた鑑真が広めました。
奈良時代の文化(天平文化)
奈良時代は、飛鳥時代から引き続いて遣唐使を通じて唐の文化が大量に持ち込まれた時代。ざっくりと聖武天皇が活躍していた頃の文化を天平文化(てんぴょうぶんか)と言います。
天平文化で有名なのは、お寺だと東大寺や鑑真の建立した唐招提寺。仏像だと興福寺の阿修羅像なんかが有名です。
そのほか、万葉集なんかも有名です。詩集ですね。万葉集の面白いところは評価された詩であれば詩を残した者の身分に関わらず詩集に採用された点。歴代天皇の詩もあれば、防人として太宰府に赴いた農民の詩もあったり守備範囲がめちゃ広いんです。
奈良時代まとめ
以上、奈良時代のハイライトでした。
奈良時代は、とにかく皇族たちの政争が絶えない時代でした。政争の結果、天武系の皇子が途絶え、天智天皇系の桓武天皇が即位したのはなんとも皮肉です。
奈良時代は、皇族の争いと同時並行的に貴族らの権力争いにも激しいものがありました。権力争いの構図は藤原氏VS皇族。奈良時代の歴代権力者を順番にしてみると・・・
こんな感じ。道鏡が失脚した後は再び藤原氏の影響力が強まるようになります。
奈良時代のこのような政争の過激さは日本の政治において大きな大きな課題となりました。この大問題を解決するための試行錯誤が平安時代初期に行われ、その答えとして考え出されたのが藤原氏による摂関政治でした。
摂関政治それ自体が良いか悪いかは様々な議論があると思いますが、少なくとも摂関政治によって奈良時代のような過激な政争は激減していきます。(水面下での謀略争いは続きますが!!)
また、税制度の面でも奈良時代は大きな課題を残しました。それは墾田永年私財法の施行による私有地の増加と貧富の差の拡大です。墾田永年私財法により短期的には耕地が増え税収増に成功したため、平安時代初期には問題は表面化しません。しかし、平安時代中期以降、私有地の増大と貧富の差の拡大は日本の税システムを大きく変貌させ、後に武士が登場する土台を築きました。
飛鳥時代は日本という国の原型が完成した時代。奈良時代は飛鳥時代に創り上げられた国家を実際に運営してみた時代。そして平安時代は、奈良時代に浮き彫りなった日本の国家制度の問題点に否が応でも向き合っていく時代・・・と言えるかもしれません。
コメント