奈良時代を簡単にわかりやすくまとめてみた【出来事・人物・特徴など】

奈良時代の記事を結構たくさん書いたので、今回は奈良時代をハイライトで簡単にわかりやすく整理してみることにします。

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飛鳥時代から奈良時代へ

710年、都を平城京に遷都してから794年に平安京へ遷都するまでの時代を奈良時代と呼びますが、710年以前の日本(飛鳥時代)はどんな時代だったのでしょうか?

 

 

飛鳥時代の日本は、中国(隋・唐)や朝鮮半島との緊張感の高まりから、豪族たちが割拠するバラバラな日本を、天皇を君主とした統制された国家へ変貌させようという大きな大きな動きがありました。

 

 

・・・ありましたというか、飛鳥時代は、日本が天皇主権の国造りに全力を捧げた時代と言っても過言ではありません。

飛鳥時代を簡単にわかりやすくまとめてみた【出来事・人物・特徴など】
飛鳥時代についてまとめてみました。政治史が中心で文化史は少なめなのでご了承ください。(後に追記したいとは考えてます) 多分、学生の方の参考にもなると思います。でも歴史にはいろんな考え方や説があります。そのため、学校の教科書とは違う箇所もあるかもしれないので参考程度に使ってください。 飛鳥時代の始まり 飛鳥時代は、概ね590年頃が始まりとされています...

 

 

具体的な動きとして、藤原京の造営や大宝律令の制定などがありました。藤原京も大宝律令も天皇主権の国造りと密接に関わっています。詳細は以下の記事をどうぞ。

誰でもわかる藤原京!遷都の理由・背景などをわかりやすく紹介!
(出典:wikipedia「藤原京」、Author:663highland) 今回は694年に建設された天皇主権国家として日本最古の首都となった藤原京(ふじわらきょう)について紹介したいと思います。 710年の平城京が有名で藤原京はなんとなく地味なんですが、実は歴史的には藤原京って結構凄いんです。 藤原京はなぜ造られたの...

 

誰でもわかる大宝律令!簡単にわかりやすく【内容や制定理由など】
今回は701年に制定された日本初の本格的な法律である大宝律令(たいほうりつりょう)について紹介しようと思います。 大宝律令はなぜ有名なのか 最初に疑問に思うのが大宝律令がなぜ教科書に載るほど有名なのか?という点。現代の我々は法治国家に住んでいるので、法律が新たに制定される凄さって実感しにくいですが、法律って人々を強制するルールの一種です。...

 

そして710年、天皇が住む本格的な日本の首都として機能したのが平城京でした。

誰でもわかる平城京!簡単にわかりやすく【遷都理由や平城京の闇について】
今回は、「なんと(710年)きれいな平城京」という語呂合わせで有名な平城京について紹介します。 なぜ平城京へ遷都したのか? 当時、既に藤原京という巨大な都があったにも関わらず、なぜわざわざ平城京へ遷都したのでしょうか? 実は、はっきりとした理由はわかっていませんが、708年、元明天皇という天皇はこんなことを言っています。 ...

 

奈良時代と聖武天皇

【歴代天皇の系図です。人間関係が気になった際に使ってください。】

奈良時代の前半は、聖武(しょうむ)天皇を中心に時代が進んでいきます。

聖武天皇とは!簡単にわかりやすく紹介!【奈良の大仏と政治の話】
今回は、奈良の大仏を建立したことで有名な聖武天皇(しょうむてんのう)について紹介します。 奈良の大仏=聖武天皇、みたいなイメージがありますが、聖武天皇は大仏を建立しただけの人物ではありません。 「奈良の大仏を建てた聖武天皇」だけではなくて「天皇・政治家としての聖武天皇」みたいな側面も交えて聖武天皇という人物...

 

聖武天皇は724年に即位しますが、707年に生まれた頃から既に聖武天皇の即位は計画されていて、聖武天皇が成人するまでの間は、他の皇族に皇位を奪われないように祖母の元明天皇とおばの元正天皇が繋ぎ役として即位していました。

 

奈良時代と長屋王

天皇主権を目的として造営された平城京。当初は、歴代天皇の血を引く皇族たちが政治において強い力を持っていましたが、次第に藤原不比等(ふじわらのふひと)という人物が政治に強い影響力を持つようになります。

藤原不比等とは?系図などをわかりやすく【藤原宮子と光明子】
今回は、藤原不比等(ふじわらのふひと)という人物について紹介しようと思います。藤原不比等は、700年前後(飛鳥時代末期〜奈良時代初期)に官僚として活躍した人物で、平安時代に朝廷を支配した藤原氏の祖として藤原氏の地位を高めた日本古代史の重要人物です。 藤原不比等と父の鎌足 藤原不比等の父は、乙巳の変(大化の改新)で中大兄皇子と共に政治を牛耳る蘇...

 

 

藤原不比等の息子の世代になると、朝廷内は次第に皇族勢力と藤原氏勢力の2つの政治勢力が現れ、対立するようになります。

 

 

そして、皇族VS藤原氏の対立を象徴したのが長屋王(ながやおう)藤原四兄弟の存在でした。

長屋王と長屋王の変とは?わかりやすく紹介!【藤原氏の陰謀】
今回は、藤原氏の策略によって滅ぼされたことで有名な長屋王(ながやおう)という皇族出身の人物について紹介します。 長屋王ってどんな人? 長屋王は680年ごろに生まれ、729年に政変により自害しましたが、まずは、長屋王の青年期に当たる、700年頃のお話からしたいと思います。 時代は、持統天皇の時代。持統天皇は、数...

 

誰でもわかる藤原四兄弟!簡単にわかりやすく紹介!【長屋王の変や天然痘流行】
今回は、奈良時代初期に活躍した藤原四兄弟について紹介しようと思います。 藤原四兄弟とは次の4人の藤原氏兄弟の総称。 藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)680年生まれ 藤原房前(ふじわらのふささき)681年生まれ 藤原宇合(ふじわらのうまかい)694年生まれ 藤原麻呂(ふじわらのまろ)695年生まれ 藤原...

 

長屋王と藤原四兄弟の対立は、729年に長屋王を自害に追い込んだ藤原四兄弟の勝利に終わり、藤原氏が政治の実権を握るようになります。

 

藤原氏って平安時代の藤原道長とかが有名ですけど、奈良時代から強かったんですねー。

奈良時代と橘諸兄

政治の実権を握った藤原不比等の4人息子でしたが、737年、平城京で天然痘が大流行。4人息子も天然痘に冒され、なんと4人ともみんな亡くなってしまいます。

 

 

藤原氏以外も多くの有力貴族たちが天然痘によって亡くなり、朝廷は阿鼻叫喚と化しました。天然痘は、737年の少し前に戻ってきた遣唐使が大陸から運んできた・・・と言われています。

 

 

貴族から農民まで多くの命を奪った天然痘により、朝廷は深刻な人材難に陥ります。そこで朝廷の最高官位に抜擢されたの橘諸兄(たちばなのもろえ)という人物。

橘諸兄とは?わかりやすく紹介!【玄昉・吉備真備の活躍と藤原仲麻呂との対立】
【橘諸兄】 今回は、橘諸兄(たちばなのもろえ)という人物について紹介します。橘諸兄は奈良時代中期、左大臣として朝廷トップで活躍した人物です。 奈良時代の朝廷は、皇族と藤原氏が権力の座を巡り争っていた時代です。この両者の争いは、超絶金持ちエリートだった長屋王という皇族が729年に藤原氏の策略で自殺に追い込まれて以後、藤原氏の圧倒的勝...

 

橘の家柄は、元を辿ると皇族の血を引いています。橘家には橘三千代(たちばなのみちよ)という超重要人物がいました。権力者だった藤原不比等の後妻であり、聖武天皇にとっては義理の母でした。そんな人脈もあって橘諸兄が選ばれたわけです。

 

 

長屋王→藤原四兄弟→橘諸兄・・・と藤原氏と皇族の間で熾烈な権力闘争が続いていたのが奈良時代の多くな特徴の1つとなります。

奈良時代と藤原広嗣

さて、こうして新たに橘諸兄による政権が始まるわけですが、740年代は実に多くの事件・出来事が起こりました。

 

その1つが九州で起こった大反乱。藤原広嗣という人物が首謀者で、藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の乱と呼ばれています。

日本で最初の怨霊!?藤原広嗣の乱をわかりやすく解説!-聖武天皇はなぜ東大寺の仏像を造ったのか-3/4
今回の主役は、藤原広嗣(ひろつぐ)という人物。上の人物です。めちゃ強そう・・・。 藤原広嗣は、朝廷の人材登用に不満を抱き、乱を起こします。藤原広嗣は、乱そのものよりも日本で最初の怨霊として有名です。 藤原氏の儚い栄華 -天然痘の流行- 藤原不比等の息子らは、729年、長屋王の変により長屋王を討った後、父の不比等の頃のような藤...

 

藤原広嗣は、737年に全滅した藤原四兄弟のうち藤原宇合の息子。素行が悪く、太宰府に左遷させられていたのを不満に思い、740年に反乱を起こします。

 

 

当時の日本は唐の政治や文化を参考にしながら政治を行っていて、橘諸兄は身分は低いけれども唐に精通していた吉備真備や玄昉などを重用していました。それが左遷させられた藤原広嗣には気に食わなかったのです。

 

 

ちなみに、吉備真備はかなり凄いやつ。個人的にも好きな人物。

吉備真備ってどんな人?功績や玄昉・橘諸兄との関係は?わかりやすく紹介
今回は、遣唐使として唐で学び、低い身分でありながらも朝廷の中枢で大活躍した吉備真備(きびのまきび)という人物について紹介します。 天才、吉備真備 吉備真備は旧姓、下道真備(しもつみちのまきび)と言い、決して身分の高い生まれではありません。695年生まれでした。当時の朝廷はたとえ低い官位であっても、官位を得るには家柄が重要になってくる時代でしたから...

 

豆腐メンタル聖武天皇

740年に起こった藤原広嗣の乱は無事鎮圧されましたが、この頃から聖武天皇の様子がおかしくなります。

 

聖武天皇は、長屋王の変や天然痘の大流行、そのほかにも地震・飢饉を通じて次第に自らの政治に自信を失ってしまいます。

 

そしておそらくは藤原広嗣が乱を直接のきっかけに聖武天皇の心は折れてしまいます。元々豆腐メンタルだった聖武天皇にとって、これ以上の政治の乱れ耐えることはもはやできませんでした。

 

藤原広嗣の乱が起こっている最中、疫病や政治の乱れに嫌気がさした聖武天皇は突如として遷都を考え始めます。740年以降の日本の政治の迷走を始め、その様子はまさに聖武天皇の心の弱さに映しだす鏡のようでした。

奈良時代と怒涛の遷都ラッシュ!

まず741年、聖武天皇は恭仁京(くにきょう)へ遷都を開始します。聖武天皇にとって厄介ごとばかり起こる平城京は呪われた都に映ったのでしょう。

 

 

恭仁京の今の京都府木津川市に位置しました。奈良県と京都府の境目ぐらいの場所です。なぜこの場所を選んだのかというと、橘諸兄の本拠地だったからでは・・・?と言われています。

 

 

741年は恭仁京遷都と同時に全国に国分寺・国分尼寺の造立を命じます。豆腐メンタルな聖武天皇は、政治の全てを仏教に委ねたわけです。金光明経というお経の中に「王が仏教を信仰し、布教に努めれば国を守れる!」という思想が載っており、聖武天皇はそれを信じたのです。現に国分寺は金光明経を安置するお寺として建立されたもので、闇雲に「とにかくお寺作るぜー!」とかそんな感じではないのです。

 

 

さらに743年、聖武天皇は大仏を造立することを宣言します。しかもこの頃の聖武天皇は離宮(副都)として紫香楽宮(しがらきのみや)の造営を予定していました。今でこそ奈良の大仏は東大寺に造立されていますが、当初は紫香楽宮に造立予定でした。

 

 

744年、聖武天皇は恭仁京を捨て突如として、難波宮(なにわのみや)への遷都を開始。さらに、745年、次は離宮である難波宮から紫香楽宮への遷都を開始します。聖武天皇の迷走っぷりが半端ないです。おそらく朝廷で働く官僚たちにはデスマーチが待っていたことでしょう・・・(涙。

 

 

結局、度重なる遷都や大仏造立などの大事業を全て同時並行で行えるわけがなく、745年、聖武天皇は遷都を諦め平城京へ戻ります。聖武天皇は749年に崩御しますが、それまでの間、仏教を深く信仰し大仏の造立事業は引き続き継続されました。

 

恭仁京→難波宮→紫香楽宮という度重なる遷都や大仏造立や国分寺・国分尼寺の建立により莫大な国富が使われ、民は疲弊しました。

 

そんな中で完成したのが奈良の大仏と東大寺です。

東大寺の歴史を簡単にわかりやすく解説!【観光前に抑えておきたい豆知識】
今回は東大寺の歴史についてわかりやすく、かつ、丁寧に紹介してみたいと思います。 東大寺と言えば奈良の大仏を見て「すげー!」って言うのが定番ですが、東大寺の歴史を知れば、それ以外にも色々な知見から東大寺観光を楽しむことができますので、ぜひこの記事をご一読いただけたらなと思います。 東大寺建立前の歴史 東大寺が建立されたのは75...

 

そして、大仏造立に大活躍した忘れてはならない人物が行基(ぎょうき)。当時の仏教の在り方を知る上でも行基はとても興味深い人物の1人です。

学校では教えてくれない行基の話-東大寺大仏造立へ-【聖武天皇】4/4
前回は、日本初の怨霊となった藤原広嗣の話をしました。 聖武天皇は、長屋王の変、天然痘の流行、そして藤原広嗣の乱と続く世の乱れに辟易してしまい、まるで逃げるかのように仏教の世界にのめり込んでいきます。 そして遂に743年、聖武天皇は大仏造立を決意します。 今回の主役は、行基(ぎょうき)という僧侶さん。行...

奈良時代と女帝

聖武天皇が崩御すると奈良時代も後半戦へと移ります。

 

聖武天皇は子に恵まれず、聖武天皇の後継者に選ばれたのは聖武天皇の愛娘だった孝謙(こうけん)天皇でした。女帝です。

 

 

日本では、現代に到るまで皇室は男系の血統を重視します。そのため、女帝の即位は認めれていても、女帝の結婚は禁じられていました。子を産み女系天皇を直系とする天皇が生まれるのを防ぐためです。

 

 

つまり、孝謙天皇は子を産まないわけで「次期天皇を誰にするか?」という大きな問題が朝廷内で発生しました。当時は天武天皇の血を引く者に皇位の正当性があると考えられていたので天武の血を引く多くの皇子たちが「我こそは次期天皇なり!」と虎視眈々と皇位の座を狙うようになり、政界は不安定化します。

女帝の孝謙(称徳)天皇を簡単にわかりやすく紹介!【道鏡との禁断の恋とか】
今回は奈良時代末期の女帝、孝謙(こうけん)天皇・称徳(しょうとく)天皇について紹介します。2回天皇になっているので孝謙天皇と称徳天皇の2つの名前がありますが同一人物。 これはすごーく個人的な意見が入ってますけど、孝謙・称徳天皇の時代は奈良時代で最も狂気に満ちた時代。政治の腐敗化が進んでヤバイ感じです。 問題山積の孝謙天皇即位 749...

 

奈良時代と藤原仲麻呂

そして不安定化した政界の中で、政界のトップに躍り出たのが藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)という人物でした。737年に天然痘で亡くなった藤原四兄弟の中でも一番影響力を持っていた長男の藤原武智麻呂の息子です。

 

 

藤原仲麻呂は、孝謙天皇の母である藤原光明子とは叔母と甥っ子の関係。仲麻呂はとても聡明な青年だったらしく、光明子は仲麻呂のことをたいそう気にいっていました。

 

 

孝謙天皇も母の光明子に露骨に逆らうこともできないし、そもそも仲麻呂とも良好な関係だったこともあって、藤原仲麻呂は裏で政治を牛耳るようになります。

 

 

そんな中、藤原仲麻呂の傀儡として孝謙天皇の次に即位したのが淳仁(じゅんにん)天皇。聖武天皇が崩御前に孝謙の次の天皇として指名していた道祖王を排除し、即位しました。

 

 

道祖王の排除、孝謙天皇の譲位、そして759年の淳仁天皇の即位。全てにおいて裏で暗躍していたのが藤原仲麻呂です。

 

 

前権力者である橘諸兄やその息子の橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)も排除し、藤原仲麻呂の独裁とも言える政治が始まります。

藤原仲麻呂って何をした人?【孝謙天皇と橘奈良麻呂の乱】
さて、前回(学校では教えてくれない日本の聖人、行基の話-聖武天皇、東大寺の大仏造立へ-)は聖武天皇の大仏造立のお話をしました。 大仏造立後の日本は、聖武天皇の願いも空しく、陰謀渦巻く陰湿な政治闘争の時代へと突入していきます。そして、時代は少しずつ、平安京の時代へとシフトし始めるのです。 実はこのあたりの話、結構マニアックで...

 

なお、淳仁天皇は歴代天皇屈指の悲劇的天皇として有名です。詳しいお話は以下の記事をどうぞ!

淳仁天皇の生涯を簡単にわかりやすく紹介!【淡路廃帝の悲しき一生】
今回は奈良時代末期、天皇位を廃止され、淡路に流され謎の死を遂げた淳仁天皇(じゅんにんてんのう)について紹介します。 淳仁天皇は通史的には地味な存在ながら、安徳天皇や崇峻天皇と並ぶと悲劇的な生涯を終えた天皇の一人。なかなか波乱万丈な人生を歩みました。 複雑な淳仁天皇即位の背景 まずは淳仁天皇が即位した当時の政治情勢を。 ...

 

奈良時代と道鏡

聖武天皇崩御後、めまぐるしく動く政界でしたが、760年に藤原光明子が亡くなると日本の政治はさらに混迷を極めます。

 

 

藤原光明子は、藤原仲麻呂と孝謙上皇の関係を良好に保っていたパイプ役のような存在でした。その光明子が亡くなることで好き放題やっていた仲麻呂と仲麻呂に抑圧され続けていた孝謙上皇の関係は次第に悪化

 

 

これに加え、この頃になると孝謙上皇は病の際に看病してくれた道鏡(どうきょう)という僧侶にべた惚れ。道鏡は孝謙上皇に寵愛され、僧でありながら政治に深く関与するようになります。すると孝謙・道鏡にとって邪魔になるのは時の権力者である藤原仲麻呂。

 

 

こうして孝謙・道鏡VS淳仁・仲麻呂の対立構図ができます。ただ、淳仁天皇は仲麻呂の傀儡と化しており、本人の意思がどこにあったは謎です。内心は仲麻呂を嫌っていたんじゃないかと思います。

 

 

764年、両者の対立は遂に武力闘争に発展し、藤原仲麻呂が乱を起こしますが敗北。淳仁天皇は廃帝となり流刑。そして翌年の765年には孝謙上皇が重祚し、称徳(しょうとく)天皇として再び即位します。

誰でもわかる面白い藤原仲麻呂の乱【孝謙上皇と淳仁天皇】
前回は、道鏡を寵愛する孝謙上皇とそれを諫めた藤原仲麻呂and淳仁天皇とが対立を深めていったお話でした。 そして、その対立は遂に乱に発展します。 今回は、藤原仲麻呂の乱のお話です。 水面下での戦い -人事をめぐる争い- 道鏡を諫められブチ切れした孝謙上皇は、攻勢に出ます。 道鏡に「小僧都」という公式な僧侶の...

 

乱の途中、淳仁天皇はなぜか藤原仲麻呂と共に行動していません。理由はわかっていませんが、最後の最後で仲麻呂と決別し、自らの決断で行動をしたのかもしれません。淳仁天皇は、廃帝として天皇位を称徳天皇に奪われ流刑に。そして流刑地で謎の死を遂げました。おそらくは殺されたのでしょう・・・。

 

 

藤原仲麻呂が没すると、次は道鏡による独裁政治が始まります。藤原仲麻呂は傀儡の淳仁天皇を利用し独裁を行いましたが、道鏡は称徳天皇をメロメロにさせることで政治の実権を握ります。

 

 

藤原仲麻呂と道鏡、同じ独裁政治でも勤勉で博識だった藤原仲麻呂には、ちゃんと政治理念みたいなものがありました。ところが、僧侶である道鏡に具体的な政治理念はなく、その政治はもはや私利私欲で動く腐敗したものでしかありませんでした。

 

 

能力の有無とは無関係に道鏡に気に入られた者は出世し、刑罰も公平性を失います。

 

 

そんな腐敗した政治が横行する中、769年に事件は起こります。道鏡が「宇佐八幡宮で俺が天皇になるべし!との神からのお告げ(神託)があったらしい」と騒ぎ始めます。宇佐八幡宮には道鏡の息のかかった神官がおり、神託を利用して皇位簒奪を目論んだわけです。

 

 

しかもこの目論見、当初は称徳天皇もノリノリでした。和気清麻呂という信頼できる部下を宇佐八幡宮に派遣してその真偽を確かめさせますが、帰ってきた和気清麻呂が「ん?そんな神託なかったっすよ。嘘じゃないっすかあれww」と報告するとブチギレて、別部穢麻呂(わけべの きたなまろ)と改名した上で左遷させたほどに称徳天皇はマジでした。

 

 

宇佐八幡宮の事件の後、称徳天皇は多くの人たちに説得されたことでしょう。結果的に、称徳天皇は道鏡の天皇即位を認めることはありませんでした。これは政治的判断でもあり、もしかするとこの事件によって道鏡と称徳天皇の男女関係にも何かがあったのかもしれません。

 

 

ちなみこの道鏡の宇佐八幡宮の事件、日本屈指の皇位簒奪未遂事件だったりします。皇位簒奪ってクーデターとか大きな戦乱ってイメージがありますけど、このケースは称徳天皇と道鏡の色恋沙汰。ちょうど760年ごろ、中国では絶世の美女である楊貴妃(ようきひ)を巡って安史の乱という乱が起こっていました。日本では乱は起こらないまでも男女を逆にして似たようなことが起こっていたわけです。

誰でもわかる道鏡!簡単にわかりやすく紹介【その生涯や宇佐八幡宮神託事件など】
今回は、奈良時代末期に活躍した道鏡(どうきょう)という人物について紹介します。 道鏡の評判はすこぶる悪いです。語弊があるのを覚悟で言えば 孤独な40代独身の女帝の心の弱みにつけ込み、その持ち前の巨根で女帝の気持ちを鷲掴み。道鏡にメロメロになった女帝を利用して皇位簒奪を企んだ超悪いやつ! っていうのが道鏡のイメージです...

 

奈良時代から平安時代へ

宇佐八幡宮の事件の後、道鏡は力を失い、翌年の670年には称徳天皇が崩御します。称徳天皇は次期天皇について遺言を残さなかったため、次期天皇を巡って朝廷で議論が交わされます。そこで即位したのが光仁(こうにん)天皇でした。

 

 

光仁天皇には井上内親王という妃がいました。井上内親王は聖武天皇の娘で天武天皇の血を引いています。光仁天皇は皇位のつなぎ役で、井上内親王と光仁天皇の間に生まれた子で天武天皇の血を引く他戸(おさべ)親王を即位させようというのが光仁天皇即位の狙い。他戸親王を即位させ、政争で断絶しかけていた天武天皇の血統を再び復活させようとしたのです。

 

 

ところが、この狙いは実現しません。何者かの謀略により井上内親王と他戸親王が謎の死を遂げてしまうのです。これにより天武天皇の血を引く者は完全に途絶え、次に天皇即位を狙ったのが他戸親王の異母兄だった桓武天皇でした。

 

 

桓武天皇は天武天皇の血を全く引いておらず、当時の常識に照らし合わせれば天皇になどなれませんが、天武天皇の血を引く者が全滅したことで事情が変わります。

日本人なら知っておけ!桓武天皇の偉業【なぜ平安京へ遷都したのか】
前回の記事は、道鏡が前代未聞の臣下からの天皇即位を試みたが失敗に終わったお話でした。 道鏡の天皇即位は失敗に終わりましたが、結局、誰が次期天皇となるかは決まらず、根本的な問題の解決には至りませんでした。 そんな中、称徳天皇が逝去します。770年、道鏡による宇佐八幡宮神託事件の翌年でした。 称徳天皇の逝...

 

 

桓武天皇は、天武系天皇によって造営・運営されてきた平城京と決別し、天智系天皇による新たな都の造営を計画。当初は長岡京を建設しますが、色々と事件があり頓挫。その後794年に平安京が完成することで時代は奈良時代から平安時代へと移りかわっていくのです。

奈良時代の仏教

最後に奈良時代の文化面の話をいくつか。

 

まずは仏教ですが、飛鳥時代初期(古墳時代後期)に伝来した仏教は奈良時代になると国策として信仰されるようになっていきます。仏教伝来までの簡単な流れについては以下の記事を参考にしてみてください。

簡単にわかりやすく!仏教が日本に伝来するまでの歴史【仏教の始まりから仏教伝来まで】
【大乗仏教を大成した龍樹(真ん中の人)】 今回は、日本に仏教が伝来するまでの仏教の歴史(平安時代前期ぐらいまで)について紹介します。 仏教の歴史を知ると、仏教の様々な教えを体系的に整理できるので、興味のある方はぜひ仏教の歴史を確認してみてはいかがでしょうか。 仏教の歴史は、経典の歴史と一緒に見て行くととてもわ...

 

奈良時代になると南都六宗と言って大きく分けて6つの仏教グループが誕生します。仏教の多様な思想を受け入れる下地が出来上がったわけです。

 

南都六宗の6宗とは・・・

  • 三論宗(さんろんしゅう)
  • 成実宗(じょうじつしゅう)
  • 法相宗(ほっそうしゅう)
  • 倶舎宗(くしゃしゅう)
  • 華厳宗(けごんしゅう)
  • 律宗(りっしゅう)

を言います。

 

それが良いか悪いかは別の議論として、特に国に重宝されたのは法相宗と華厳宗でした。法相宗は多くの優秀な人物を輩出した一派。橘諸兄に重用された玄昉は法相宗の僧侶ですし、東大寺造立で大活躍した行基の師匠は法相宗の僧侶だったとも言われています。平安時代に天台宗の最澄と激論を交わした徳一も法相宗の僧。有名人多めです。

 

 

華厳宗は、その名のとおり華厳経の教えに重きをおいた一派。聖武天皇が華厳経を好んだことで国から重用されるようになります。奈良の大仏はこの華厳経に説かれている毘盧遮那仏という仏様になります。そして東大寺建立に多大なる貢献をし、初代別当にもなった良弁という僧侶も華厳宗の僧侶として有名です。

最澄「法相宗は雑魚」徳一「天台宗(笑)」【最澄と空海をわかりやすく】3/4
唐から日本に戻った最澄の天台宗にすべてを捧げた激動の生涯を見ていきます。 最澄はまず天台宗の僧が公式な僧侶になれるよう制度改正を目指します。当時の僧侶の出世コースは、得度(とくど)→受戒の流れ。 得度は、僧になるための試験のようなもの。受戒は、試験後の面接のようなもの。 最澄「天台宗の得度者を定員を増やしてくれ」...

 

律宗は戒律を重んじた一派。日本にやってきた鑑真が広めました。

誰でもわかる鑑真!わかりやすく丁寧に紹介【なぜ日本に戒律を伝えたのか】
ちょうど、聖武天皇や行基が奈良の大仏を造立している頃、日本の仏教史を大きく塗り替えた1人の僧侶が唐から日本へやってきました。鑑真(がんじん)です。(上の写真) 鑑真は、唐の皇帝から「鑑真、あなたは唐にとってなくてはならない方だ。日本へ行ってはなりません。」と言われるほど、才能豊かで博識な人物でした。 鑑真は日本に計...

 

奈良時代の文化(天平文化)

奈良時代は、飛鳥時代から引き続いて遣唐使を通じて唐の文化が大量に持ち込まれた時代。ざっくりと聖武天皇が活躍していた頃の文化を天平文化と言います。

 

天平文化で有名なのは、お寺だと東大寺や鑑真の建立した唐招提寺。仏像だと興福寺の阿修羅像なんかが有名です。

見どころ満載!唐招提寺を100倍楽しむ豆知識【鑑真ゆかりの寺】
(出典:wikipedia「唐招提寺」 原典・著作:663highland) 奈良と言えば、東大寺や法隆寺、奈良公園が有名ですよね。 しかし、奈良にはそれ以外にも隠された名所がたくさんあります。そんな隠れた奈良の観光名所の1つである唐招提寺(とうしょうだいじ)についての豆知識を紹介します。 唐招提寺は鑑真(がんじ...

 

興福寺の見所!国宝館の阿修羅像の豆知識をわかりやすく
(出典: ) 興福寺は、東大寺の隣にあるお寺です。(敷地が広いので、隣と言っても若干歩きますが・・・) 興福寺は、奈良時代からの長い歴史を持ち、古代日本において絶大な権力を誇った藤原氏のお寺でもあるかなり熱いお寺なんです。 東大寺に行くなら、多めに時間を作って興福寺にも行くことを強くお勧めします。 ...

 

そのほか、万葉集なんかも有名です。詩集ですね。万葉集の面白いところは評価された詩であれば詩を残した者の身分に関わらず詩集に採用された点。歴代天皇の詩もあれば、防人として太宰府に赴いた農民の詩もあったり守備範囲がめちゃ広いんです。

万葉集を読むならこの本!オススメの入門書3選【わかりやすく簡単に】
今回は、私がオススメする万葉集の入門書を紹介します。 実はこのブログでは、万葉集の恋の歌について以下のような記事を書いています。 もちろん記事を書く以上、私も万葉集を読みました。そこで私が思った感想は、「万葉集を読むのって意外とハードル高っ!」というもの。そして万葉集を味わうためには、具体的に2つのハードルが立ちは...

奈良時代まとめ

以上、奈良時代のハイライトでした。

 

奈良時代は、とにかく皇族たちの政争が絶えない時代でした。政争の結果、天武系の皇子が途絶え、桓武天皇が即位したのはなんとも皮肉です。

 

 

奈良時代は、皇族の争いと同時並行的に貴族らの権力争いも激しいものがありました。権力争いの構図は藤原氏VS皇族。奈良時代の歴代権力者を順番にしてみると・・・

  1. 藤原不比等(藤原)
  2. 長屋王(皇族)
  3. 藤原四兄弟(藤原)
  4. 橘諸兄(皇族)
  5. 藤原仲麻呂(藤原)
  6. 道鏡

こんな感じ。道鏡が失脚した後は再び藤原氏の影響力が強まるようになります。

 

奈良時代のこのような政争の過激さは日本の政治において大きな大きな課題となりました。この大問題を解決するための試行錯誤が平安時代初期に行われ、その答えとして考え出されたのが藤原氏による摂関政治でした。

摂関政治それ自体が良いか悪いかは様々な議論があると思いますが、少なくとも摂関政治によって奈良時代のような過激な政争は激減していきます。(水面下での謀略争いは続きますが!!)

 

また、税制度の面でも奈良時代は大きな課題を残しました。それは墾田永年私財法の施行による私有地の増加と貧富の差の拡大です。墾田永年私財法により短期的には耕地が増え税収増に成功したため、平安時代初期には問題は表面化しません。しかし、平安時代中期以降、私有地の増大と貧富の差の拡大は日本の税システムを大きく変貌させ、後に武士が登場する土台を築きました。

墾田永年私財法とは?簡単にわかりやすく解説【公地公民制の崩壊】
今回は、奈良時代の743年に施行された墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)について解説します。名前ぐらいは響きが良いので知っている人も多いのではないでしょうか 墾田永年私財法の前身、三世一身の法 722年、百万町歩開墾計画(ひゃくまんちょうふかいこんけいかく)っていう計画が出されます。 簡単に言うと「もっと金欲しいからみんな...

 

飛鳥時代は日本という国の原型が完成した時代。奈良時代は飛鳥時代に創り上げられた国家を実際に運営してみた時代。そして、平安時代は、奈良時代に浮き彫りなった日本の国家制度の問題点に否が応でも向き合っていく時代・・・と言えるかもしれません。

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奈良時代
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