

今回は天武天皇について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!「天皇」という呼び方や国号「日本」を作り上げた、まさに日本の設計者とも言える人物なんだ。
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応
「天武天皇」と聞いても、あまりピンとこない人が多いかもしれません。
でも実は、現代わたしたちが使っている「天皇」という称号も、「日本」という国号も、天武天皇が作り上げたものなのです。
飛鳥時代に生きた人物でありながら、日本という国の土台そのものを設計した——それが天武天皇です。この記事では、壬申の乱から日本という国の形を作り上げた天武天皇の生涯と功績をわかりやすく解説していきます。
天武天皇ってどんな人?

① 672年の壬申の乱で甥の大友皇子を破り即位した第40代天皇
② 「天皇」という称号と「日本」という国号を制定した日本の設計者
③ 飛鳥浄御原令・八色の姓・日本書紀編纂など律令国家の基盤を築いた
天武天皇は、飛鳥時代後期に活躍した第40代の天皇です。即位前の名前は大海人皇子といい、兄である天智天皇(中大兄皇子)の弟にあたります。
生年については史料に記録がなく不明ですが、631年頃(舒明天皇3年)とする説が有力です(諸説あり、確定していません)。686年に崩御しました。672年の壬申の乱で勝利して即位し、約14年間にわたって日本の政治を主導した人物です。

「天武天皇」っていう名前は、実は本人が生きてた時には使われてなかったんだよ。崩御した後の奈良時代になってから贈られた呼び名なんだ。本人の生前の名前は「大海人皇子」だから、壬申の乱の時の話では「大海人皇子」って呼ばれることが多いよ。

「天武天皇」って結局なにをしたすごい人なの?一言でいうと?

一言でいうと「日本という国の形を作った人」だね!「天皇」「日本」っていう、今も使ってる言葉そのものが天武天皇の時代に生まれたんだ。「日本のスタートアップ社長」ってイメージに近いかな。
壬申の乱 — 吉野脱出から天下統一まで
天武天皇の人生最大の出来事といえば、なんと言っても壬申の乱です。672年に起きたこの内乱は、古代日本史最大の戦いと言われ、その結果が天武天皇の即位、ひいては日本という国のあり方そのものを決定づけました。
戦いの構図は、天智天皇の弟・大海人皇子(後の天武天皇)と、天智天皇の息子・大友皇子(弘文天皇)の叔父と甥の戦いでした。

■吉野への脱出と東国挙兵
671年、兄の天智天皇が病に倒れます。天智は弟の大海人皇子を呼び寄せ、後継者にしようとしました。しかし大海人は、すでに天智が息子の大友皇子を後継に据えようとしていることを察していました。
ここで「自分が後継者になります」と答えれば、近江朝廷から命を狙われかねない——そう判断した大海人皇子は、その場で出家を申し出て、吉野へ退きます。
しかし、それは決して「政争から身を引いた」という単純な話ではありませんでした。『日本書紀』は、このとき大海人皇子を逃がすことを「虎に翼をつけて野に放つようなものだ」と評した人物がいた、と伝えています。つまり大海人皇子は、近江朝廷にとって、それほど危険視される存在だったのです。
翌672年、天智天皇の崩御後、大海人皇子は吉野を脱出して東国(美濃・尾張)へ向かいます。東国は当時、大和朝廷の直轄ではない独立性の高い地域で、古くから大海人とつながりのある豪族が多く住んでいました。ここで一気に兵を集めることに成功するのです。
■壬申の乱の決戦と大海人皇子の勝利
大海人皇子側は、美濃の不破関を押さえて東国からの兵力を集結。一方の近江朝廷は天智天皇の急死で動揺しており、初動が遅れました。
戦いは大和(奈良)と近江(滋賀)の二方面で展開されます。大海人軍は、大和方面では吉野を拠点に近江軍を迎え撃ち、近江方面では琵琶湖南岸の瀬田の戦いで決定的な勝利を収めました。
戦いはわずか約1ヶ月で決着。大友皇子は敗れて自害し、大海人皇子の勝利が確定しました。翌673年、大海人皇子は飛鳥浄御原宮で即位して天武天皇となります。
なお、大友皇子が自害した場所は山城国(現在の京都府)の山前。享年25歳でした。長らく「正式な天皇」とは認められませんでしたが、明治時代(1870年)になってから弘文天皇という諡号が贈られ、第39代天皇として正式に認定されることになります。壬申の乱の「敗者」が、約1200年の時を経てようやく歴史の舞台に正式に刻まれたのです。

壬申の乱って、テストによく出るけどなんで重要なの?

壬申の乱は「天皇権力が一気に強くなった転換点」だからだよ。それまで天皇は豪族たちと話し合いで決めてた感じだったんだけど、戦いに勝った天武天皇は反対派の豪族を一掃しちゃった。だから誰にも文句を言わせない強い天皇になれたんだ。これがその後の律令国家の基礎になるんだよ!
壬申の乱の詳しい経緯や戦況については、別記事で詳しく解説しています。
もし壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)側が勝利していたら、「天皇」という称号も「日本」という国号も生まれなかったかもしれません。天智系の路線では、大化の改新で導入された唐風の律令制をそのまま輸入する形になっていた可能性が高いと言われています。
つまり今わたしたちが「日本」と呼んでいる国は、そもそも違う名前・違う制度で続いていた——壬申の乱は、それほど大きな分岐点だったのです。
天智天皇と天武天皇の関係
「天智天皇と天武天皇の関係」は、多くの読者が気になるポイントです。結論から言うと、2人は同じ母(皇極天皇=斉明天皇)から生まれた兄弟でした。兄が天智天皇(中大兄皇子)、弟が天武天皇(大海人皇子)です。
当初は協力して大化の改新を進めるなど良好な関係でしたが、最終的には壬申の乱で叔父(大海人)と甥(大友皇子)が争うという形になりました。
■兄弟の協力から対立へ
兄の中大兄皇子(後の天智天皇)と弟の大海人皇子(後の天武天皇)は、645年の乙巳の変から始まる大化の改新を共に推進した同志でした。蘇我氏を倒し、唐の制度を取り入れた中央集権国家を作る——その大きな方針では2人の利害は一致していたのです。
しかし、天智天皇が即位して晩年に近づくと、雲行きが変わってきます。問題は後継者を誰にするかでした。

天智天皇と天武天皇って、仲良し兄弟じゃなかったの?

最初は仲良しだったんだよ!大化の改新も2人で協力して進めたんだ。でも兄の天智が「自分の息子(大友皇子)に跡を継がせたい」って言い出して、それまで「次は弟だよね」って空気だったのが急にひっくり返っちゃった。「今でいう同族会社の社長交代をめぐる兄弟ゲンカ」って感じかな。
■後継者争いと壬申の乱の火種
古代日本では、本来「兄弟継承」が一般的でした。天皇の年齢が高くなる頃には弟も成人していて統治能力があるため、息子(まだ若い)よりも弟に継がせるのが安定的だったからです。
ところが天智天皇は、息子の大友皇子を太政大臣に任命(当時の朝廷における最高位の官職——今でいう政府トップにあたる)して後継者として育てる路線を取りました。これは大海人皇子から見れば、当然受け継ぐはずだった皇位を奪われる動きに他なりません。
こうして天智の死をきっかけに、後継者をめぐる対立が爆発する——その火種が壬申の乱だったのです。
📝 覚え方のコツ:「天智=大化の改新を進めた賢い兄」「天武=壬申の武力で勝った弟」と覚えると、漢字のイメージで区別しやすくなります。
天武天皇の政治と功績

673年に即位した天武天皇は、約14年間の治世で日本という国の基本フォーマットを作り上げました。皇権の強化・律令制度の整備・歴史書の編纂——どれも現代まで続く「日本」の原型を形作る重要な事業ばかりです。
■「天皇」という称号と国号「日本」の制定
それまで日本の君主は「大王」と呼ばれていました。これを「天皇」という呼び方に変えたのが天武天皇の時代です。同時に、国の名前も「倭」から「日本」へと改められたとされています。
「天皇」という言葉は、中国の道教思想にあった「天皇大帝」(北極星の神)に由来すると言われています。中国の「皇帝」とは違う、独自の権威を打ち出すための新しい称号だったのです。
「天皇」称号の使用開始は天武朝(673〜686年)が有力とされ、現存最古の用例は飛鳥池遺跡出土の木簡(677年頃)です。「日本」国号の初使用も天武朝からとされ、701年の大宝律令で正式に定着しました。つまり、わたしたちが今も使う「日本国」「天皇」は、約1300年前の天武朝にスタートしたのです。
■官制改革・八色の姓・考選法
天武天皇は、皇族中心の強い政治体制を作るため、立て続けに制度改革を行いました。代表的なのが684年に定められた八色の姓です。
八色の姓は、豪族たちを真人・朝臣・宿禰・忌寸・道師・臣・連・稲置という8つのランクに格付けし直す制度。最上位の「真人」は皇族のみに与えられ、これによって皇族 > その他の豪族という序列がはっきりしたのです。
また、官人の昇進を勤務評価で決める考選法を導入し、家柄だけでなく能力で出世できる仕組みも整えました。律令国家の飛鳥浄御原令の編纂も命じています(施行は持統天皇の時代の689年)。

八色の姓っていうのは、「今でいう人事評価制度を天皇が独占した」って感じだよ。それまで豪族たちに与えられていた「臣(おみ)」「連(むらじ)」みたいな称号を、全部天皇が決め直すことにしたんだ。これで「誰が偉いかは天皇が決める」っていうルールが確立したんだよ。
■古事記・日本書紀の編纂命令
天武天皇のもう一つの大きな功績が、日本最古の歴史書である日本書紀と古事記の編纂を命じたことです。
681年、天武は皇族と臣下に命じて「帝紀」と「旧辞」を整理させ、これが後の日本書紀につながります。同時に、稗田阿礼に「帝紀・旧辞を暗誦させる」という命令も出しました。これがのちに太安万侶によってまとめられて古事記(712年完成)となります。
天武がここまで歴史書編纂に力を入れた理由は、「天皇家こそが日本を治める正統な存在だ」という物語を作って、新生・日本の権威を打ち出すためでした。日本書紀は対外的(中国向け)に、古事記は国内向けに——という使い分けで、ダブルで国の物語を整備したのです。

この国を「日本」と呼ぼう。皇は「天皇」と称する。歴史も、制度も、すべて新しく整えていく——それがわが治世の使命だ。
天武天皇は他にも、肉食禁止令や動物保護令を出すなど、当時としては珍しい仏教・道教の思想を反映した政策も実行しています。次の章では妻・子供たちについて詳しく見ていきましょう。
■伊勢神宮と式年遷宮の制度化
天武天皇は、伊勢神宮とも深い関わりを持っています。吉野を脱出した大海人皇子は、東国へ向かう途中、伊勢の方角に向かって天照大神に祈願を捧げたと伝えられています。
即位後、天武天皇は神祇制度を大規模に整備し、天皇家の祖先神を祀る伊勢神宮(皇大神宮・内宮)を全国の神社の頂点に位置づけました。「天皇の権威は天照大神から授かったもの」という論理を制度的に確立し、皇権の正統性を神話レベルで裏づけたのです。
また天武天皇は、式年遷宮の制度を定めたとされています。式年遷宮とは20年に一度、社殿を建て替えてご神体を移す儀式のこと。持統天皇の時代の690年に第1回が実施され、以降1,300年以上にわたって続いています(2013年が第62回)。
「20年ごとに建て替えるなんてもったいない」って思うかもしれないけど、式年遷宮には深い意味があるんだよ。「常に新しい状態で神に仕える」という清潔観と、大工技術を次世代に伝承する機能の両方を持ってるんだ。天武天皇はこの制度で、伊勢神宮を「永遠に続く聖地」にしたんだね。
天武天皇の妻と子供たち
天武天皇には10人の妻(皇后1人・妃3人・夫人3人・嬪3人)がいて、合計17〜18人の皇子・皇女が確認されています。中でも重要なのが、皇后の鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ=後の持統天皇)と、その子・草壁皇子、そして悲劇の皇子として有名な大津皇子です。
興味深いのは、皇后の鵜野讃良皇女が兄・天智天皇の娘だったこと。つまり天武から見ると姪にあたります。古代日本では近親婚が一般的で、皇族の血筋を守るために叔父と姪・兄弟姉妹間の婚姻もよく行われていたのです。

■草壁皇子と持統天皇
鵜野讃良皇女は、後に持統天皇として即位する女性で、夫・天武の壬申の乱にも同行した行動派の皇后でした。2人の間に生まれたのが草壁皇子です。
天武天皇は草壁皇子を皇太子に立て、後継者として大切に育てました。母の鵜野讃良も、わが子・草壁を必ず天皇にしたいという強い思いを抱いていました。
ところが686年に天武が崩御した直後、もう1人の優秀な皇子・大津皇子の存在が、草壁の即位の前に立ちはだかります。
■大津皇子の悲劇
大津皇子は、天武天皇と大田皇女(鵜野讃良の姉で、すでに早世)の間に生まれた皇子でした。日本書紀には「容姿魁偉、才学博く、武芸に優れる」と絶賛され、誰もが認める優秀な皇子だったと伝えられています。
しかし天武崩御からわずか1ヶ月後の686年10月、大津皇子は謀反の疑いをかけられて自害に追い込まれます。享年24歳——あまりに若い悲劇でした。

大津皇子って、なんで処刑されちゃったの?本当に謀反を企てていたの?

本当に謀反を企てたかは諸説あって、はっきりしないんだ。でも有力な説は「持統天皇(鵜野讃良)が、わが子・草壁皇子のライバルになる大津皇子を消すために仕組んだ」というもの。大津のほうが優秀すぎて、このままだと草壁の皇位が危ない——その不安が、姉の子を殺してでも息子を守るという決断に至らせたと言われているよ。
そして、この事件にはもう一つ、後世まで語り継がれる場面があります。大津皇子の処刑を知った妻・山辺皇女(天武天皇の娘)は、髪を振り乱し、はだしで駆けつけ、夫のあとを追って自害したと『日本書紀』は記しています——「見る者みな涙を流しき」。千数百年前の記述が、今もリアルに心を揺さぶる場面です。
皮肉なことに、その後草壁皇子も病気のために689年に27歳で早逝。鵜野讃良は息子の死を受けて自ら即位し、持統天皇となります。大津を排除してまで守ろうとした皇位は、結局息子には継がせられなかったのです。
では、天武の血筋はその後どうなっていったのでしょうか。次の章では、天武系がたどった意外な運命について見ていきましょう。
天武天皇の子孫はどうなった?天武系断絶の真相
持統天皇の即位以降、天武天皇の血を引く天皇が連続して即位します。文武→元明→元正→聖武→孝謙(称徳)と続き、奈良時代の天皇はほぼ全員が天武系でした。ところがこの天武系の血筋は、奈良時代の終わりに突然途絶えてしまうのです。
きっかけは、天武の曾孫にあたる称徳天皇(孝謙天皇が重祚したもの)でした。称徳は生涯独身で子供がおらず、770年に崩御します。これによって天武天皇から続いてきた直系の血筋が完全に途絶えてしまったのです。
後継者として選ばれたのが、天智天皇の孫にあたる光仁天皇でした。つまり、壬申の乱で敗れた天智系が、約100年後に皇位に返り咲くという歴史的逆転劇が起きたのです。

■奈良時代の天武系天皇の系譜
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673〜686年① 天武天皇(第40代)壬申の乱で勝利・即位
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690〜697年② 持統天皇(第41代)天武の皇后・草壁皇子の母/女性天皇①
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697〜707年③ 文武天皇(第42代)草壁の子・天武の孫
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707〜715年④ 元明天皇(第43代)天智の娘・草壁の妻/女性天皇②
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715〜724年⑤ 元正天皇(第44代)草壁の娘/女性天皇③
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724〜749年⑥ 聖武天皇(第45代)文武の子・大仏建立で有名
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749〜770年⑦ 孝謙→称徳天皇(第46・48代)聖武の娘・二度即位(749〜758、764〜770)/女性天皇④ ここで天武系断絶
こうして見ると、天武の血筋を守るために女性天皇が4人も即位している(持統・元明・元正・孝謙=称徳)ことに気づきます。これは「次に立てる男子皇族が幼すぎる」「皇位を狙う有力者から血筋を守る」という政治的事情のためでした。

じゃあ今の天皇陛下は、天武天皇の子孫じゃないってこと?

そう!直系では繋がってないんだ。今の天皇家は光仁天皇→桓武天皇と続く「天智系」の系譜なんだよ。だから天武天皇は「日本」「天皇」という言葉を作った偉大な人だけど、皇室の血筋自体は奈良時代で一度途絶えてるってことになるね。
📝 桓武天皇の登場:光仁天皇の子・桓武天皇は、平安京を建設して新時代を切り開きます。天智系への王朝交代と平安遷都はセットで起きた歴史の大転換でした。
テストに出るポイント
天武天皇は中学・高校どちらでも頻出の人物です。特にテストで問われやすい3つのポイントを整理しておきましょう。
ポイント①:壬申の乱(672年)
672年に起きた古代日本最大の内乱。大海人皇子(後の天武天皇)vs 大友皇子(弘文天皇)の後継者争いで、勝った大海人皇子が天武天皇として即位します。これによって有力豪族の力が弱まり、天皇中心の中央集権体制が確立されました。共通テスト・私大入試で頻出。
ポイント②:「天皇」称号・国号「日本」の制定
それまで「大王(おおきみ)」と呼ばれていた君主が、天武朝(673〜686年)から「天皇」と称されるようになりました。同時に国号も「倭」から「日本」へ。「いつから天皇?」「いつから日本?」という問いの答えはどちらも天武朝です。記述問題でも頻出。
ポイント③:飛鳥浄御原令・八色の姓・古事記編纂命令
天武の3大事業として覚えておきましょう。飛鳥浄御原令(律令の編纂を命じる/施行は持統朝の689年)、八色の姓(684年に豪族を8ランクに格付け)、古事記・日本書紀の編纂命令(681年)。「天武といえばこの3つ」と即答できるようにしておくとテスト対策はバッチリです。

天武天皇と天智天皇、どっちがどっちかわからなくなる…。覚え方ある?

漢字で覚えるのがオススメ!「天智=智恵で大化の改新を進めた賢い兄」、「天武=壬申の武力で勝った弟」って覚えるんだ。あと事業も対比で覚えられるよ。天智=近江令・庚午年籍(近江大津宮で活動)、天武=飛鳥浄御原令・八色の姓(飛鳥に戻って活動)。「近江か飛鳥か」で見分けるのもアリ!
よくある質問(FAQ)
天武天皇についてよく聞かれる質問をまとめました。
生年については史料によって諸説あり、はっきりわかっていません。一般には631年頃とする説が有力ですが、確定はしていません。出生地については記録に残っておらず不明とされています。本来の名前は「大海人皇子(おおあまのおうじ)」で、舒明天皇と皇極(斉明)天皇の間に生まれた皇子です。
「天武」は漢風諡号(かんふうしごう)といって、後世(奈良時代後期の8世紀後半)に贈られた中国風の名前です。本人が生きていた時代に「天武天皇」と呼ばれていたわけではありません。在世中は「大海人皇子」、即位後は「天皇」または和風諡号で呼ばれていました。「武」の字は壬申の乱を武力で制したことに由来するとされています。
天智天皇が「弟の大海人皇子(天武)」ではなく「自分の息子・大友皇子」を後継者にしようとしたことがきっかけです。古代では兄弟継承が一般的だったため、大海人皇子から見れば本来継ぐべき皇位を奪われる動きでした。天智の死後、両者の対立が爆発し、672年に大海人皇子が東国で挙兵。約1ヶ月の戦いの末、大友皇子側を破って勝利しました。
天武朝(673〜686年)からと考えられています。それ以前は「大王(おおきみ)」と呼ばれていました。現存する最古の用例は、奈良県飛鳥池遺跡から出土した木簡(677年頃)に「天皇」の文字が見られるものです。701年の大宝律令で正式な称号として法的に定着しました。
持統天皇(鵜野讃良皇女)は、天武天皇の皇后です。同時に、彼女は天智天皇の娘でもあるため、天武から見ると姪にあたる妻という関係になります。古代では近親婚が一般的でした。天武の崩御後、息子の草壁皇子を皇位につけようとしましたが草壁が早逝したため、自ら持統天皇として即位。天武が始めた事業(飛鳥浄御原令の施行・藤原京遷都など)を引き継いで完成させました。
奈良県高市郡明日香村にある「檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)」が天武天皇陵とされています。妻の持統天皇と合葬されている点が特徴で、八角形の墳丘を持つ「八角墳」という珍しい形をしています。八角墳は天皇のみに用いられた特別な墳形で、天武の権威の高さを示しています。
天武天皇をもっと深く知るための本
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まとめ:天武天皇とはどんな天皇だったか
天武天皇は、672年の壬申の乱で勝利して即位した飛鳥時代の天皇です。「天皇」という称号や「日本」という国号を制定し、八色の姓・飛鳥浄御原令の編纂命令・古事記と日本書紀の編纂命令を出すなど、現代まで続く日本の国家体制の原型を作り上げた人物でした。最後に、天武天皇の生涯を年表で振り返ってみましょう。
- 631年頃大海人皇子として誕生(生年は諸説あり)
- 645年大化の改新(兄・中大兄皇子と共に活動)
- 671年天智天皇崩御。吉野へ出家を装い脱出
- 672年壬申の乱 — 大友皇子を破り天下を制す
- 673年天武天皇として即位(飛鳥浄御原宮)
- 681年日本書紀の編纂と飛鳥浄御原令の編纂を命じる
- 681年稗田阿礼に帝紀・旧辞の暗誦を命じる(古事記の起点)
- 684年八色の姓を制定(豪族を8ランクに格付け)
- 686年天武天皇崩御。皇后・鵜野讃良皇女が政務を引き継ぐ
- 689年飛鳥浄御原令の施行(持統天皇のもとで)

以上、天武天皇のまとめでした!「天皇」と「日本」という今も使ってる言葉を作った人物として、ぜひ覚えておいてね。下の関連記事で壬申の乱や飛鳥時代の流れもあわせて読んでみてください!
📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「天武天皇」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「壬申の乱」(2026年5月確認)
コトバンク「天武天皇」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
コトバンク「八色の姓」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。
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