長屋王と長屋王の変とは?わかりやすく紹介!【藤原氏の陰謀】

bsPAK85_usurawaraiwo20150109091103

 

今回は、藤原氏の策略によって滅ぼされたことで有名な長屋王(ながやおう)という皇族出身の人物について紹介します。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

長屋王ってどんな人?

 

長屋王は680年ごろに生まれ、729年に政変により自害しましたが、まずは、長屋王の青年期に当たる、700年頃のお話からしたいと思います。

 

時代は、持統天皇の時代。持統天皇は、数いる天武天皇の息子たちの中から誰を次期天皇にすべきなのか、悩みを抱えていました。

 

候補は「大津」「草壁」「高市」の3人。大津皇子は謀反の嫌疑で命を落とし、高市皇子は血筋の関係から草壁より劣ると考えられ候補から外れます。こうして最終的に草壁皇子が皇太子に選ばれました。

 

長屋王は、このうちの高市皇子の息子でした。父の代で、皇位継承の話から一度疎遠になったことになります。

 

 

草壁皇子は天皇即位の前に亡くなってしまったため、697年、草壁皇子の息子である文武天皇が即位します。天皇即位とは疎遠になった長屋王は、非常に優秀な人物であり、その後も朝廷内の中枢を担う官僚の1人として活躍します。

 

 

優秀で血筋も高貴だった長屋王は非常に裕福だったらしく、広大な館を構え優雅な生活をしていたらしいです。天皇即位はできなかったものの、皇位継承問題に巻き込まれることもなく、朝廷内で権力を誇っていた藤原不比等との関係も良好であり、順調な官僚生活を送ります。

藤原不比等とは?系図などをわかりやすく【藤原宮子と光明子】
今回は、藤原不比等(ふじわらのふひと)という人物について紹介しようと思います。藤原不比等は、700年前後(飛鳥時代末期〜奈良時代初期)に官僚として活躍した人物で、平安時代に朝廷を支配した藤原氏の祖として藤原氏の地位を高めた日本古代史の重要人物です。 藤原不比等と父の鎌足 藤原不比等の父は、乙巳の変(大化の改新)で中大兄皇子と共に政治を牛耳る蘇...

 

ところが720年に藤原不比等が亡くなり、その子供達が活躍する時代になると有能で血筋も高貴な長屋王は一変して藤原氏にとって警戒すべき人物へと変わってしまいます。

吉備内親王と長屋王

長屋王は、元明天皇の娘である吉備内親王(きびないしんのう)と言う人物を正妻とし、2人の間には男子もいました。

 

 

当時は、草壁皇子→文武天皇→聖武天皇というのが天皇家の直系と考えられ、元明天皇・元正天皇の女帝らは聖武天皇が成長するまでのつなぎ役と考えられていました。しかし、不測の事態により草壁皇子から続く血筋が絶えた場合にどうすべきかを考えておく必要があります。

 

そこで、天皇の最有力候補として浮上するのが長屋王の息子でした。長屋王は政治にも優れた人格者で血筋も天武天皇の血を引き申し分なし。妻の吉備内親王も元明天皇の娘ですから夫婦ともに血統的には完璧だと当時の人々は考えていました。

 

 

ところが、これをよく思わない人々もいました。それが藤原氏です。

長屋王と藤原氏

645年に乙巳の変により有力豪族の蘇我氏が滅んで以来、日本では一貫して天皇や皇族を中心とした政治が行われていました。

乙巳の変(大化の改新)の目的・理由とは?簡単にわかりやすく!
今回は、645年起こった蘇我氏排斥事件、有名な乙巳の変(大化の改新)について紹介したいと思います。 乙巳(いっし)の変と大化の改新は何が違うの? 645年の蘇我氏排斥事件は乙巳の変とも大化の改新とも呼ばれることがあります。どちらの表現が正しいのでしょうか? 実は正しいのは乙巳の変です。一般的に乙巳の変は蘇我氏排斥事件を意味し...

 

ところが、藤原不比等が登場するあたり(西暦700年前後)から新興勢力の藤原氏が朝廷の要職に登場し始めます。

藤原不比等とは?系図などをわかりやすく【藤原宮子と光明子】
今回は、藤原不比等(ふじわらのふひと)という人物について紹介しようと思います。藤原不比等は、700年前後(飛鳥時代末期〜奈良時代初期)に官僚として活躍した人物で、平安時代に朝廷を支配した藤原氏の祖として藤原氏の地位を高めた日本古代史の重要人物です。 藤原不比等と父の鎌足 藤原不比等の父は、乙巳の変(大化の改新)で中大兄皇子と共に政治を牛耳る蘇...

 

藤原不比等はその活躍から、持統天皇や文武天皇などと親密な関係となり、次第に天皇家との血縁関係を強めていきます。そして遂に724年、不比等の娘である藤原宮子から生まれた聖武(しょうむ)天皇が即位します。

 

当時は、父母ともに皇族の血を引く者が天皇になるのが通例と考えられていたので、藤原氏を母とする聖武天皇の登場は、とてもショッキングな出来事でした。

 

 

母方が皇族ではない聖武天皇の即位を快く思わない人もたくさんいたようで、聖武天皇即位前後の朝廷は不穏な空気が漂っていました。こうした中で、聖武天皇即位に不満を持つ勢力の求心力となったのが、皇位継承の有力候補を息子に持つ長屋王だったと言われています。

 

一方の藤原氏は聖武天皇と血縁関係で結ばれ、勢力の拡大を目論んでいますから、反対勢力は邪魔臭い。

 

こうして、聖武天皇の正当性を巡る対立に長屋王は巻き込まれてゆきます。そして藤原氏と長屋王の微妙な関係を象徴するような事件も起こります。それが辛巳(しんし)事件という事件でした。

長屋王の辛巳(しんし)事件

707年に文武天皇が亡くなり、その後元明天皇と元正天皇というダブル女帝を中継ぎとして724年に即位したのが聖武天皇。聖武天皇の即位に合わせ、長屋王は右大臣から左大臣へと昇進します。左大臣は当時の最高官位であり、長屋王は朝廷において強力な力を持つ存在でした。

 

藤原氏と長屋王が微妙な関係にある中でも、聖武天皇は長屋王をとても信頼していたようです。

 

同じく724年、聖武天皇の母である藤原宮子の尊称をめぐり一悶着起こります。辛巳(しんし)事件と呼ばれる事件です。

長屋王「宮子の尊称は大夫人じゃないからな」

聖武天皇が即位すると早速、その母である藤原宮子の権威を高めようと宮子に「大夫人」という尊称を与えるという勅(ちょく。天皇の命令)を出しました。権威を高めようとする背景には、皇族出身でない母を持つ聖武天皇に不満を持つ者が多くいたという事実があります。

 

 

そしてこの企てには、当然、藤原氏が裏で暗躍をしていました。

 

 

しかし、この勅に異論を述べた男がいます。それが長屋王です。長屋王は次のように述べて、「大夫人」の尊称を撤回させます。

 

「大夫人という呼び名は法令的に良くない。法令に照らし合わせれば、文書上では『皇太夫人』、口頭では『大御祖(オホミオヤ)』と呼ぶのが正しい。よって勅は撤回すべきである」

 

こうして勅は撤回され、長屋王の言うとおりに修正されました。勅は天皇からの命令であり、それが事後に修正されることはまずありません。(事前に周到な用意がなされる)

 

 

そのため、この長屋王の勅の撤回騒動は朝廷内でもかなりインパクトの大きい事件だったはずです。そして、勅を考えた藤原氏のメンツも潰されることになりました。

 

 

長屋王の発言の真意は不明ですが、一般的に「例え天皇を通じてであっても、藤原氏が自由勝手に政治を支配することはできないぞ!」という長屋王からの暗黙のメッセージだったというのが通説のようです。(ただし、この事件の真相は不明な点も多く、長屋王の本心ははっきりとはわかりません。)

 

ちなみに、この頃に活躍していた藤原氏は藤原不比等の息子たちで、「藤原四兄弟」と言われる人物たちになります。729年に長屋王を自害に追い込んだのも、この藤原四兄弟。

 

藤原四兄弟については、以下の記事でも紹介していますので気になる方は合わせてどうぞ。

誰でもわかる藤原四兄弟!簡単にわかりやすく紹介!【長屋王の変や天然痘流行】
今回は、奈良時代初期に活躍した藤原四兄弟について紹介しようと思います。 藤原四兄弟とは次の4人の藤原氏兄弟の総称。 藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)680年生まれ 藤原房前(ふじわらのふささき)681年生まれ 藤原宇合(ふじわらのうまかい)694年生まれ 藤原麻呂(ふじわらのまろ)695年生まれ 藤原...

 

長屋王の変

辛巳事件の5年後の729年、長屋王の変という事件が起こります。この事件により長屋王は自害。朝廷の最高官位であった皇族出身の長屋王の死により、藤原氏はより一層の繁栄を極めることになります。

 

長屋王の変の経緯を簡単に紹介しましょう。

聖武天皇の息子、基皇子

727年、聖武天皇とその妃の藤原光明子は念願の男子を出生します。この男子は生まれるとわずか一ヶ月で皇太子となります。当時は、幼児のような政務能力のない人物が皇太子となることは異例中の異例であり、これも裏で天皇と藤原氏との結びつきを強めたい藤原氏によって計画された出来事でした。ところが、この男子は728年9月に夭折してしまいます。

 

 

乳飲み子を皇太子にするという暴挙は、藤原氏をよく思わない人に強い不快感を与え、長屋王と藤原氏の関係には、いよいよ緊迫した空気が漂い始めました。

 

 

729年2月、遂に事件が起こります。

 

 長屋王、謀反を起こす!?

729年2月、聖武天皇の元に次のような密告がありました。「長屋王が国を傾けようと企んでいる」と。具体的には、その1年前に亡くなった聖武天皇の男子を呪詛して呪い殺した・・・という内容だと考えられています。

 

聖武天皇はこの密告を受け、直ちに兵を派遣します。兵を派遣したのは藤原宇合(うまかい)という人物です。

 

兵に自宅を包囲され死を悟った長屋王は、抵抗することもなく妻子共々みな自害します。こうして長屋王は滅び、邪魔者を消し去った藤原氏は大いに栄えることになります。

長屋王は冤罪だった!?

長屋王の変の事件に関しては、長屋王は冤罪であり、邪魔者を排除したい藤原氏の謀略だったというのが通説です。この通説は異論は少ないようで、概ね事実であるように思います。

 

 

聖武天皇は、「罪人だからと言って卑しい葬儀をするな。丁重に葬儀の準備をせよ。長屋王の妻子には何の罪もないのだから通常どおり葬儀を行え。」となぜか謀反を起こしたはずの人物について丁重に扱うよう指示しています。

 

 

さらに729年8月、藤原光明子が皇后(聖武天皇の正妻)となりました。皇后は皇族出身の女が選ばれることが通例でしたので、藤原光明子はこの時新たな先例を作り出したことになります。邪魔者が消えた朝廷内で、藤原氏は強引に自ら力を強めていったのです。

 

 

聖武天皇の対応と言い、藤原光明子が皇后となるタイミングと言い、どうも長屋王の変は胡散臭いにいおいがプンプンしてきます。

まとめ

長屋王が生きた時代は、皇族勢力と新興勢力の藤原氏とが水面下で対立していた時代でした。藤原氏の謀略で長屋王が没したことで、両者の対立は藤原氏側の大勝利に終わります。長屋王死後、朝廷内に本格的に藤原氏が進出し、次第に政治の実権を支配するようになっていきます。

 

長屋王について、特に複雑な心境だったのは、聖武天皇です。一度は左大臣にまで任命し信頼もあった長屋王を無実の罪で自害に追いやってしまったことは、聖武天皇の心に大きな傷を残したことでしょう。

 

長屋王の変は、聖武天皇の妃である藤原光明子ら藤原氏主導で行われ、若き聖武天皇はなすすべもなく藤原氏のいいなりになってしまったと考えられています。このようにして、不本意なままに重臣を殺めてしまった聖武天皇の心境は穏やかなものではなかったことでしょう。

 

スポンサーリンク



奈良時代
mogutaroをフォローする
大人になってから学びたい日本の歴史

コメント

  1. 藤永泰雄 より:

    楽しく読まさせていただきました。次のことを教えていただけませんでしょうか。
    1.天皇が兄弟を飛ばして子供にしたのは天武からだと聞きましたがどのような勅または
      令を出したのですか?
    2.草壁皇子が死んだあと高市皇子でなくなぜ持統天皇になったのですか?
    3.草壁皇子は天皇になっていないのになぜ文武天皇・聖武天皇を直系と考えたのか?
    4.文武天皇の即位はなぜ高市皇子の死を待たなければならなかったのか?
    5.藤原不比等が死んで四家だけでなぜ皇族より優位に立てたのか?

    • 源義家ファン より:

      恐らくですが高市皇子は幼く持統天皇が繋ぎ役として即位したのだと思われます