藤原広嗣の乱を簡単にわかりやすく解説!【聖武天皇VS藤原広嗣。政治の転換点となった反乱】

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もぐたろう
もぐたろう

今回は藤原広嗣の乱ふじわらのひろつぐのらんについて、わかりやすく丁寧に解説していくよ!「いつ起きたのか」「なぜ起きたのか」「鎮圧したのは誰か」まで、まるごと押さえていこう。

📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版社『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応

この記事を読んでわかること
  • 藤原広嗣の乱がいつ起きたか(740年・天平12年)
  • なぜ広嗣が反乱を起こしたのか(吉備真備・玄昉との対立)
  • 大野東人が鎮圧した経緯と九州での戦い
  • 乱後の聖武天皇の遷都・大仏建立への影響
  • 藤原広嗣の怨霊と鏡神社の伝説

「藤原広嗣の乱」と聞いて、多くの人は「九州で起きて、すぐ鎮圧された失敗の反乱」と思い浮かべるのではないでしょうか。たしかに広嗣はあっという間に追い詰められ、処刑されました。

しかし実は——この「失敗した反乱」こそが、奈良の大仏建立・国分寺建立という奈良時代最大の一大事業を動き出させた、隠れた引き金だったのです。なぜ失敗した反乱が、その後の日本史を大きく動かすことになったのか。聖武天皇の心の動きとあわせて、その全貌を紐解いていきましょう。

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藤原広嗣の乱とは?3行でわかるポイント

3行でわかる藤原広嗣の乱
  • いつ:740年(天平12年)8月に勃発・同年11月までに鎮圧
  • なぜ:大宰府に左遷された藤原広嗣が、政権中枢の吉備真備きびのまきび玄昉げんぼうの追放を求めて挙兵したから
  • 結果:大野東人おおののあずまひとに鎮圧され広嗣は処刑。乱に動揺した聖武天皇は遷都を繰り返し、のちの大仏建立につながった

もぐたろう
もぐたろう

ザックリ言うと、「藤原氏のエリート青年が、政権からハブられた腹いせに九州で反乱を起こした事件」だよ。たった3か月で鎮圧された、奈良時代でも有数の短期決戦の反乱なんだ。

聖武天皇 肖像
聖武天皇(出典:Wikimedia Commons・パブリックドメイン)

あゆみ
あゆみ

740年って、奈良時代のどのへん?聖武天皇って大仏のイメージしかないんだけど、その時期に反乱なんてあったのね…。

もぐたろう
もぐたろう

奈良時代(710〜794年)のだいたい真ん中ぐらい。ちょうど聖武天皇の治世(724〜749年)の中盤だね。
当時は天然痘が流行したり、政権の中枢が次々と入れ替わったりで、世の中はめちゃくちゃ不安定だったんだ。広嗣の乱は、そんな揺れる奈良時代を象徴する事件なんだよ。

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藤原広嗣とはどんな人物?家系と経歴

反乱の主役・藤原広嗣は、奈良時代を代表する名門「藤原氏」の中でも、ど真ん中のエリート家系に生まれた人物です。父は藤原宇合ふじわらのうまかい。祖父は藤原不比等ふじわらのふひと——大宝律令の制定に関わり、藤原氏繁栄の礎を築いた、まさに藤原氏の象徴のような存在です。

つまり広嗣は、生まれながらにして「将来は朝廷の中枢に立つことが約束された貴公子」だったわけです。幼少期から漢籍や武芸に通じ、若くして式部少輔しきぶのしょう大養徳守やまとのかみといった要職を歴任。同世代の貴族からも一目置かれる存在でした。

藤原不比等 肖像
藤原広嗣の祖父・藤原不比等(出典:Wikimedia Commons・パブリックドメイン)

藤原広嗣 肖像
藤原広嗣(出典:Wikimedia Commons・パブリックドメイン)

藤原広嗣
藤原広嗣

我こそは藤原宇合の長男にして、藤原不比等の孫。藤原氏の正統な後継者である。朝廷の中枢に立つのは当然の道であろう。

ゆうき
ゆうき

「藤原式家」ってよく聞くけど、ほかの藤原氏と何が違うの?テストで聞かれそうで気になる…。

もぐたろう
もぐたろう

いい質問!藤原不比等には4人の息子がいて、それぞれが分家して「藤原四家」を作ったんだ。ザックリこんな感じ↓

📖 藤原四家(不比等の4人の息子の家系)
南家(武智麻呂の家系):四家の長兄系
北家(房前の家系):のちに摂関政治で大繁栄。藤原道長もこの家系
式家宇合の家系):藤原広嗣はこの家。式部省(人事担当)の長官を務めたことから「式家」
京家(麻呂の家系):四家の中でも比較的早く衰退

つまり広嗣は、藤原氏の中でも「式部省(人事じんじを担当)の長官を出した式家」のエリート。本人にも「将来は俺が式家のトップになり、藤原氏全体を率いる」という自負があったと考えられています。この強烈なプライドこそが、のちに反乱へとつながっていく伏線になっていくのです。

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なぜ反乱を起こしたのか?広嗣の不満と原因

広嗣がなぜ反乱を起こしたのか——その答えは大きく分けて3つあります。①政治のライバル「吉備真備・玄昉」が突然台頭したこと、②藤原四兄弟の死で橘諸兄たちばなのもろえ政権が成立し、広嗣が大宰府へ左遷されたこと、③大宰府から朝廷に上表文を提出したものの無視され、挙兵に踏み切ったこと。順番に見ていきましょう。

■吉備真備・玄昉の台頭と広嗣の対立

事件の背景には、広嗣にとっての宿敵ともいえる2人の存在がありました。吉備真備きびのまきび玄昉げんぼう。彼らは717年に派遣された遣唐使で唐へ渡り、約18年もの長期留学を経て735年に帰国した、当代きっての国際派エリートでした。

吉備真備は儒教・天文・暦法・兵法などを唐から持ち帰り、玄昉は5,000巻以上の経典を持ち帰ったと伝えられます。聖武天皇は彼らの知識に強い感銘を受け、宮中で大きく重用しました。とくに玄昉は聖武天皇の母・藤原宮子ふじわらのみやこの精神的な不調を治療したことから、天皇からの信頼が厚かったとされています。

吉備真備
吉備真備(出典:Wikimedia Commons・パブリックドメイン)

吉備真備
吉備真備

家柄ではなく、唐で学んだ実力で登り詰めた。家柄頼みの貴公子に文句を言われる筋合いはない。

あゆみ
あゆみ

吉備真備さんって名前はよく聞くけど、実際どんな人?今でいうとどんな立場?

もぐたろう
もぐたろう

吉備真備は、地方の中堅豪族の出身ながら、唐への長期留学で身に着けた知識を武器に、天皇の信頼を一気につかんだ「実力派の学者官僚」だよ。今でいうと、海外の一流大学で博士号を取って、政府の参与に大抜擢された外交官みたいなイメージかな。広嗣みたいな名門出身者から見ると、「家柄もないやつが、実力で俺たちを追い越していく」って感じで、すごく癇に障る存在だったんだ。

■橘諸兄政権の成立と広嗣の大宰府左遷

そんな広嗣の不満を爆発寸前まで追い込んだのが、737年(天平9年)に襲った天然痘の大流行でした。当時は今のような医療がなく、天然痘は奈良時代最大の災厄ともいえる病。なんとこの流行で、藤原氏の政権を支えていた藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)が全員死亡してしまったのです。広嗣にとっては父・宇合をふくむ伯父たち全員を一気に失った大事件でした。

📖 737年の天然痘流行:『続日本紀』には、藤原四兄弟が4月から8月にかけて次々と亡くなった様子が記されている。当時の人口の25〜35%が死亡したとも推定される、奈良時代最大級の疫病災害。

四兄弟の死で空白になった政権の座を埋めたのが、皇族出身の橘諸兄でした。諸兄は天皇家とつながりの深い人物で、聖武天皇からも厚い信任を受けて右大臣・左大臣へと昇進。橘諸兄を中心に、吉備真備・玄昉が脇を固める「橘諸兄政権」が誕生したのです。

藤原氏側にとってはまさに屈辱の事態。藤原四兄弟の急死により、若い世代の広嗣たちはまだ政権を担えるだけの経験も官位もなく、政権の中枢からはずされてしまいます。それでも当初、広嗣は738年に大養徳守やまとのかみとして中央にいましたが、橘諸兄政権は彼を警戒。738年(天平10年)12月には大宰少弐だざいのしょうに(大宰府のナンバー2)として九州へと事実上の左遷をされてしまうのです。

藤原広嗣
藤原広嗣

俺を九州送りだと…?京から遠ざけられて、このままでは何者にもなれない。許せん…!

大宰府は当時、遣唐使けんとうしの発着点であり、九州全体の政務を統括する重要な拠点。位の低い役職ではありませんでしたが、政権中枢の平城京から見れば「都落ち」と言ってよい人事でした。広嗣のプライドは引き裂かれ、その怒りはやがて吉備真備・玄昉の二人へと向かっていきます。

■乱の直接のきっかけ:上表文と挙兵の決意

738年末、大宰少弐として九州へ赴任した広嗣は、都から完全に切り離されました。頼れる藤原一族の重鎮はすでにおらず、朝廷では玄昉・吉備真備が聖武天皇の信頼を独占している——そんな孤立した状況が約2年続いた740年、広嗣はついに行動に出ます。

ゆうき
ゆうき

広嗣って、いきなり武力に訴えたの?ちゃんと正式な手続きで訴えたりしなかったの?

もぐたろう
もぐたろう

広嗣はいきなり武力に訴えたわけじゃないんだ。まず正式ルートで「上表文(天皇への意見書)」を提出している。「玄昉と吉備真備を排除してください」という内容でね。
ところが朝廷はこれを完全無視。「もう話し合いじゃダメだ」——この無視こそが、広嗣の挙兵を後押しした最後の一押しになったんだよ。

740年(天平12年)8月29日、広嗣は朝廷へ上表文じょうひょうぶん(天皇への意見書)を提出します。その内容は「天地の災いの原因は、玄昉と吉備真備が政治を乱しているからだ。彼らを排除せよ」というもの。これが事実上の挙兵宣言となり、広嗣の乱は始まることになります。

もぐたろう
もぐたろう

上表文の内容、ちょっと詳しく補足するね。広嗣は「吉備真備は唐で学んだ知識を笠に着て朝廷を牛耳っている」「玄昉は聖武天皇の母・宮子様を霊力で操り、天皇の信頼を独占している」と訴えたんだ。
要するに「家柄もないよそ者2人が、我々藤原氏の地位を奪っている。彼らを除けば世の中は安泰になる」という主張。でも朝廷は「それは反乱だ」と判断し、鎮圧軍の派遣を決定したんだよ。

740年、九州で反乱勃発!広嗣の乱の経過

上表文が朝廷に届くより前から、広嗣はすでに九州で挙兵の準備を整えていました。ここからは「740年8月の挙兵」「聖武天皇の動揺」「九州での戦闘」の3場面に分けて、乱の経過を追っていきます。

■740年8月、広嗣が上表文を提出・挙兵

740年8月29日、広嗣は朝廷へ上表文を送ると同時に、九州で兵を集め始めます。動員したのは大宰府管内の九州9国の軍団。最終的には1万人を超える軍勢を集めたとされています。これは奈良時代の反乱としては最大級の規模でした。

大宰府(現・福岡県太宰府市)
広嗣が挙兵した大宰府の地(現・福岡県太宰府市)出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

大宰府政庁跡(都府楼跡)
大宰府政庁跡(都府楼跡)広嗣が挙兵の拠点とした大宰府の政庁址(出典:Wikimedia Commons・CC BY-SA 3.0)

藤原広嗣
藤原広嗣

これは天皇への謀反ではない。あくまで天皇のおそばにいる「君側の奸」、玄昉と吉備真備を取り除くための挙兵である。九州の同志よ、ともに立て!

広嗣は大隅・薩摩・筑前・豊後など九州各地の国府に書状を送り、軍を3隊に分けて編成しました。本人は本隊1万を率いて関門海峡(現在の北九州市)を目指して北上。残り2隊は東に向かい、瀬戸内海から畿内へ攻め上る計画でした。「君側の奸の排除」というロジックで、広嗣は自分の挙兵を正当化しようとしたのです。

■聖武天皇の大動揺と東国行幸

9月3日、広嗣の上表文と挙兵の知らせが平城京に届くと、朝廷は騒然となります。藤原氏の名門出身者が大軍を率いて反乱を起こした——これは奈良時代の朝廷にとって、想像を超える衝撃でした。とりわけ深く動揺したのが、聖武天皇その人です。

聖武天皇
聖武天皇

藤原の御曹司までが朕に弓を引くのか…。もう、この平城京には居られぬ。

10月29日、聖武天皇は鎮圧軍を派遣する一方で、突如として東国への行幸を決断します。平城京を出発し、伊勢国・美濃国を経て、最終的には恭仁京(現・京都府木津川市)まで移動するという、約1か月半にわたる長旅でした。これは事実上、平城京からの「逃避行」と評価されています。

あゆみ
あゆみ

えっ、天皇が逃げちゃうなんてアリ?何のために東に行幸したの?

もぐたろう
もぐたろう

表向きは「神々への祈り」だけど、実態は伊勢神宮への戦勝祈願もかねた避難旅だね。当時、瀬戸内海側から畿内に攻め上るルートをふさがれたら、平城京は危ないという判断もあった。
とはいえ、天皇が4か月も都を留守にするなんて異常事態。「天皇が都を捨てた」と諸国に伝わって、朝廷の権威もガタ落ちだったんだよ。

ゆうき
ゆうき

でも「東国」って、九州とは逆方向じゃない?なんでそっちへ行ったの?

もぐたろう
もぐたろう

そこが歴史家の間でも「謎」とされてるポイントなんだ!
聖武天皇は広嗣の乱の知らせを受けると、九州へは向かわずに伊勢→伊賀→美濃→近江→山背(現・京都)というルートで東をぐるぐると約45日間移動し続けた。
「単に怖くて逃げた」という説もあれば、「東国豪族の支持をとりつけるための戦略的巡幸だった」という説もある。どちらが正しいかは今も決着がついていないんだよ。

藤原広嗣の乱を鎮圧した人物・大野東人とは?

反乱を鎮圧した人物の名前は——大野東人おおののあずまひと。聞き慣れない名前かもしれませんが、奈良時代の軍事を語るうえでは絶対に外せない名将です。聖武天皇は乱の報を受けると、大野東人を「大将軍」に任命し、1万7千人の追討軍を編成して九州へ派遣しました。

📖 大野東人(?〜742年)の経歴
・古代豪族・大野氏の出身。父は大野果安
・720年代から東北経営に従事し、724年には多賀城を造営。陸奥按察使・鎮守府将軍を歴任
・739年、参議に昇進し中央政府入り
・740年、藤原広嗣の乱で持節大将軍として鎮圧の総指揮を執る
・742年に死去。死後、従二位を贈られる

大野東人は、東北の蝦夷との戦いを長年にわたって指揮した「現場たたき上げ」の武人。724年には多賀城を造営し、奈良朝廷の東北経営の基礎を築いた人物としても知られています。当時の朝廷で、これだけの大軍を率いることのできる経験豊富な将軍は彼以外にいなかったのです。

ゆうき
ゆうき

「藤原広嗣の乱を鎮圧した人」ってテストに出るやつ!「大野東人」って覚えとけばいいんだね?

もぐたろう
もぐたろう

そう、「藤原広嗣の乱を鎮圧した人=大野東人」はテスト頻出ポイント!
ついでに「多賀城を造った人」としても覚えておくと、東北経営の問題でも使えるよ。一石二鳥のキーパーソンなんだ。

■関門海峡・板櫃川での攻防戦

大野東人率いる追討軍は、740年9月下旬に山陽道を西へ進軍。本州側の長門国(現・山口県)から関門海峡をはさんで広嗣軍と対峙しました。10月9日、ついに九州側の板櫃川いたびつがわ(現・北九州市)で両軍は激突。激戦となります。

緒戦こそ広嗣軍が地の利を生かして粘ったものの、追討軍は弓の名手・佐伯常人さえきのつねひとらを先頭に、川を渡って次々と広嗣軍を切り崩していきます。さらに「朝廷軍に加わらない者は死罪」という朝命が広まると、広嗣軍に集まっていた九州各国の兵士は次々と離反。広嗣軍はあっという間に総崩れとなりました。

■五島列島への逃亡と処刑(740年11月)

板櫃川の戦いに敗れた広嗣は、わずかな従者を連れて九州西方の海上へと逃亡。肥前国ひぜんのくに松浦郡を経て、値嘉島ちかのしま(現在の長崎県・五島列島の宇久島うくじま付近)まで落ち延びました。さらに大陸(新羅)へ渡ろうとしましたが、強い逆風に阻まれて舟が進まず、もう一度九州へ引き返さざるを得なくなったと『続日本紀』は伝えています。

740年10月23日、広嗣は値嘉島の長野村ながののむら付近で安倍黒麻呂に捕縛されます。そして11月1日、肥前国松浦郡で処刑されました。挙兵からわずか2か月——藤原広嗣の乱は、こうしてあっけない幕切れを迎えたのです。同日、弟の藤原綱手ふじわらのつなでも処刑されています。

『続日本紀』によれば、捕縛の瞬間、広嗣は大陸へ逃れようと何度も船を出しましたが、強い逆風に阻まれて断念したと記されています。島に上陸した広嗣に対し、部下の一人が追討軍に通報したとも伝わっており、最後まで運と人の縁に見放された末の最期でした。享年、推定で33歳前後。藤原氏の名門に生まれ、京で輝かしい将来を約束されながら、辺境の島で果てるという数奇な運命でした。

藤原広嗣
藤原広嗣

……海も風も、空までもが我に味方せぬか。藤原氏の正統な後継者たる俺が、こんな辺境の島で果てるとは——。されど、この恨みは消えぬぞ。

乱後の影響:遷都・大仏建立・国分寺へとつながった

反乱はわずか2か月で終結しましたが、その影響は奈良時代の歴史を根底から変えるほど大きなものでした。聖武天皇は乱への動揺から立ち直れず、5年にわたる遷都の連続劇に突入。さらに「仏の力で国を守りたい」という強い思いから、国分寺・大仏建立という奈良時代最大のプロジェクトを動かし始めるのです。

■相次ぐ遷都(恭仁京・難波宮・紫香楽宮)

東国行幸から戻った聖武天皇は、平城京に帰ろうとせず、そのまま恭仁京くにきょう(現・京都府木津川市)に新都を置くことを決定。その後の動きは目まぐるしく、たった5年の間に都を3度も移すという異例の事態となりました。

📖 聖武天皇の遷都の流れ
・740年12月:恭仁京(京都府木津川市)へ遷都
・744年閏1月:難波宮(大阪府)へ遷都(2月26日に正式詔)
・745年1月:紫香楽宮(滋賀県甲賀市)へ遷都
・745年5月:再び平城京へ還都

聖武天皇
聖武天皇

都を変えても、災いはやまぬ。仏の加護をもって、ようやく民を救えるのではないか…。

これだけ短期間で都を移すのは、奈良時代でも前代未聞。「広嗣の乱で平城京は穢れた」「災いから逃れたい」という、天皇の強い精神的な動揺が背景にあったとされます。実際、平城京の留守を預かっていた橘諸兄や貴族たちも振り回され、政治・経済の混乱は乱そのものよりも深刻だったほどです。

■国分寺建立の詔・大仏建立の詔へ

そして遷都と並行して動き出したのが、仏教による鎮護国家政策です。聖武天皇は「乱や疫病・飢饉といった災いは、仏への信仰が足りないから起きるのだ」と考え、ついに大事業を決断します。

  • 741年(天平13年):恭仁京で国分寺建立の詔こくぶんじこんりゅうのみことのりを発布。全国に国分寺・国分尼寺を建てることを命じる
  • 743年(天平15年):紫香楽宮で大仏建立の詔だいぶつこんりゅうのみことのりを発布。のちの東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏)造立につながる

あゆみ
あゆみ

えっ、奈良の大仏って広嗣の乱と関係あったの?大仏は単に仏教が好きだった天皇の趣味だと思ってた…。

もぐたろう
もぐたろう

実はつながってるんだよ!「広嗣の乱→東国行幸→恭仁京遷都→国分寺の詔→紫香楽宮で大仏の詔」って一直線につながる流れなんだ。
つまり奈良の大仏は「広嗣の乱から始まった天皇の心の旅」の到達点とも言える。失敗した反乱が、結果的に日本史上最大の仏教プロジェクトを動かしたんだ。

■藤原式家の衰退と藤原氏内部への影響

もう一つ忘れてはいけないのが、藤原氏内部のパワーバランスへの影響です。広嗣の乱によって、彼を出した藤原式家は一気に没落しました。広嗣だけでなく、弟の藤原綱手も処刑され、式家は政界から事実上退場せざるを得なくなったのです。

その後、藤原氏の中で台頭していくのは、北家・南家でした。とくに北家からは藤原房前の系統が伸び、のちに藤原道長を生む摂関政治の主流につながっていきます。式家は一度はその後の桓武天皇の時代に藤原百川ふじわらのももかわ(広嗣の弟)を中心に復活しますが、北家ほどの権勢を取り戻すことはできませんでした。広嗣の乱は、藤原氏内部の主役交代を加速させた事件でもあったのです。

もぐたろう
もぐたろう

つまり広嗣の乱は、「失敗した反乱」と切り捨てるには大きすぎる事件なんだ。
①聖武天皇の遷都連続劇、②国分寺・大仏建立、③藤原氏の主流交代——奈良時代後半の歴史の流れは、ぜんぶこの乱から始まったとも言えるよ。次の章では、もう一つの「乱の影響」——人々を恐れさせた広嗣の怨霊伝説と、それを鎮めた鏡神社の物語を見ていこう!


藤原広嗣の怨霊と鏡神社の伝説

処刑された広嗣の物語は、これで終わりではありません。当時の人々は、広嗣の死の直後から起こる不可解な事件を「広嗣のたたり」だと噂し合うようになります。とくに彼を陥れたとされる玄昉の不可解な死は、奈良時代を代表する怨霊伝説おんりょうでんせつとして『続日本紀』にも記録されているのです。

■玄昉の不審死と「広嗣の祟り」

広嗣の処刑から5年後の745年(天平17年)、玄昉は中央政界から外され、九州・筑紫つくし観世音寺かんぜおんじ建立を任じられて大宰府へ送られます。事実上の左遷でした。そして翌746年、玄昉は観世音寺の落慶供養の最中に突然倒れ、そのまま亡くなったと伝えられています。

これだけなら老衰の話で済みそうですが、後世の説話集『元亨釈書げんこうしゃくしょ』などには、「広嗣の怨霊が空から舞い降り、玄昉を頭上に掴み上げて引き裂いた」「玄昉の頭部だけが奈良の興福寺の境内に落ちてきた」という凄まじい伝承が残されています。広嗣を流刑・処刑へと追い込んだ張本人とみなされた玄昉が、不可解な死を遂げたことが、人々の中で「これは祟りだ」と確信に変わっていったのです。

📖 古代日本の怨霊信仰
・無実の罪で処刑された貴人や、政争に敗れて非業の死を遂げた人物は、強い怨念を残して災いをもたらすと信じられていた
・代表例:早良親王(崇道天皇)、菅原道真(天神信仰)、平将門など
藤原広嗣はこの「日本三大怨霊」よりさらに古い、最古級の怨霊として位置づけられる
・怨霊を鎮めるために神社を建てる「御霊信仰ごりょうしんこう」のはしりとも言われている

ゆうき
ゆうき

怨霊が玄昉を引き裂いたとか、ホントなの…?さすがにヤバすぎない?

もぐたろう
もぐたろう

もちろん歴史学的にはあくまで伝承で、史実そのものじゃないよ。でもね、こういう祟りの噂が広まること自体が「当時の人々がいかに広嗣の死を不当だと感じていたか」を物語ってるんだ。
怨霊信仰って、結局は「権力に殺された人への同情」が形になった文化。広嗣は、それが歴史記録に残る最古級の例なんだよ。

■広嗣を祀る「鏡神社かがみじんじゃ」の創建

祟りの噂を恐れた関係者が、広嗣の霊を鎮めるために神社を建てます。それが、現在も佐賀県唐津市に残る鏡神社かがみじんじゃ(二の宮)です。鏡神社の伝承によれば、広嗣処刑から約10年後の天平勝宝2年(750年)、肥前国司に左遷されていた吉備真備が、広嗣の怨霊を鎮めるために二ノ宮を創建したとされています。

鏡神社(二の宮)ってどんなところ?

・所在地:佐賀県唐津市鏡
・主祭神:藤原広嗣公(二の宮)/神功皇后(一の宮)
・創建:天平勝宝2年(750年・伝)
・由来:広嗣処刑後に大宰府へ左遷された吉備真備が、広嗣の怨霊鎮魂のために二ノ宮を創建したと伝わる
・境内:「松浦の鏡の宮」とも呼ばれ、境内には広嗣ゆかりの史跡が残る

鏡神社(一の宮・本殿)佐賀県唐津市
鏡神社・一の宮(佐賀県唐津市)広嗣の霊を祀る神社(出典:Wikimedia Commons・STA3816  CC BY-SA 4.0)

広嗣が処刑された松浦まつらの地に祀られたのは、彼の最期と関係があると考えられます。「処刑された場所のすぐ近くに、その霊を鎮める神社を建てる」——古代から中世にかけての怨霊鎮魂の典型パターンが、ここでも確認できるのです。

のちに鏡神社は地元・松浦の鎮守ちんじゅとして広く信仰を集め、松浦党(中世の武士団)など海の民の崇敬も受けるようになります。広嗣本人にとっては不本意な死だったかもしれませんが、彼の名は今も1300年近く前から地元の神社に祀られ続けているのです。

あゆみ
あゆみ

失敗した反乱の主役なのに、神社まで建てられて1300年も祀られてるって…なんか胸にくるものがあるね。

もぐたろう
もぐたろう

そう、ここが日本史の面白いところ。勝者だけが英雄になるわけじゃない。むしろ無念のうちに散った敗者ほど、人々の記憶に強く残って、神様にまでなっちゃうんだ。
菅原道真の天満宮、平将門の神田明神——みんな同じ流れ。広嗣はその「敗者の神格化」のいちばん古い例なんだよ。

テストに出るポイント:藤原広嗣の乱をマスターしよう

ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。

テストに出やすいポイント
  • 740年(天平12年):藤原広嗣の乱が勃発した年。「奈良時代の主要な反乱」として超頻出
  • 反乱の場所=大宰府(九州):広嗣は大宰少弐として九州にいた。「九州での挙兵」という地理問題で問われる
  • 反乱の名目=吉備真備・玄昉の排除:上表文で「君側の奸を除く」と訴えた点を必ず押さえる
  • 鎮圧した人物=大野東人:「藤原広嗣の乱を鎮圧したのは誰?」は超頻出。多賀城を造った人としてもセットで覚える
  • 当時の天皇=聖武天皇/実権者=橘諸兄:政権の構図(聖武・諸兄・真備・玄昉 vs 広嗣)を正確に
  • 乱後の影響=相次ぐ遷都・国分寺建立の詔(741年)・大仏建立の詔(743年):論述で問われる超重要ポイント

📌 暗記のコツ
・「な(740)れ親しんだ大宰府で広嗣挙兵」と覚えると年号が一発で出る
・「広嗣→真備・玄昉の排除→大野東人が鎮圧→遷都連発→大仏」を一直線でつなげるとストーリー暗記しやすい
長屋王の変(729年)・橘奈良麻呂の変(757年)・恵美押勝の乱(764年)と並べて「奈良時代4大政変」として整理すると論述で使える

ゆうき
ゆうき

結局、いっこだけ覚えるとしたら、どこが一番テストに出るの?

もぐたろう
もぐたろう

ズバリ、「740年・大宰府・吉備真備と玄昉の排除を要求・大野東人が鎮圧」の4点セット!この4つがあれば穴埋め問題はほぼ取れるよ。
論述なら、ここに「乱の動揺が国分寺・大仏建立につながった」を加えれば満点。シンプルに、ストーリーで押さえよう!

藤原広嗣の乱についてもっと詳しく知りたい人へ

もぐたろう
もぐたろう

藤原広嗣の乱や奈良時代の政争についてもっと深く知りたい人に、おすすめの本を3冊紹介するよ!新書や学術文庫だから読みやすいよ!

①奈良時代の政争・権力闘争を一気に学ぶなら|わかりやすい中公新書の決定版

奈良時代 律令国家の黄金期と熾烈な権力闘争

木本好信 著|中央公論新社(中公新書)


②聖武天皇と大仏建立のつながりを深掘りするなら|京大教授による本格的な学術文庫

天皇の歴史2 聖武天皇と仏都平城京

吉川真司 著|講談社(講談社学術文庫)


③藤原広嗣の乱を「宮廷の女性」視点で読み直すなら|光明皇后を主軸にした一冊

光明皇后 平城京にかけた夢と祈り

瀧浪貞子 著|中央公論新社(中公新書)

藤原広嗣の乱:よくある質問

藤原広嗣の乱は、740年(天平12年)に大宰少弐・藤原広嗣が九州・大宰府で起こした反乱です。聖武天皇に重用されていた吉備真備と玄昉の排除を求めて挙兵しましたが、約2か月で大野東人率いる朝廷軍に鎮圧され、広嗣は処刑されました。奈良時代を代表する政変の一つです。

737年の天然痘流行で藤原四兄弟(広嗣の父・宇合を含む)が相次いで死去し、藤原氏の権勢が一気に衰えたことが背景にあります。その隙に橘諸兄が政権を握り、唐から帰国した吉備真備と玄昉を聖武天皇が重用したため、広嗣は彼らへの強い不満を抱きました。さらに広嗣自身も大宰少弐に左遷され、これが直接の引き金となって挙兵しました。

740年(天平12年)8月に勃発し、同年11月に広嗣の処刑をもって終結しました。挙兵から鎮圧まで約2か月という短期間の反乱でしたが、その後の聖武天皇の遷都連続劇や大仏建立につながる、歴史的に重要な事件です。

大野東人(おおののあずまひと)です。聖武天皇から大将軍に任命され、1万7千人の追討軍を率いて九州へ進軍しました。板櫃川(現・北九州市)の戦いで広嗣軍を撃破し、鎮圧に成功しました。大野東人は東北に多賀城を造営したことでも知られる名将で、テストでも頻出の人物です。

反乱は鎮圧されましたが、聖武天皇は深く動揺し、平城京を離れて恭仁京・難波宮・紫香楽宮へと5年間で都を3度も移しました。さらに741年に国分寺建立の詔、743年に大仏建立の詔を発布し、仏教による鎮護国家政策を本格化させます。藤原氏内部でも広嗣を出した式家が没落し、北家・南家が台頭するきっかけとなりました。

な(740)れ親しんだ大宰府で広嗣挙兵」と語呂で年号を覚えるのがおすすめです。要素は「740年・大宰府・吉備真備と玄昉の排除を要求・大野東人が鎮圧」の4点セット。さらに「長屋王の変(729)→広嗣の乱(740)→橘奈良麻呂の変(757)→恵美押勝の乱(764)」を一連の奈良時代4大政変として並べて覚えると、論述問題でも応用できます。

まとめ:藤原広嗣の乱が日本史に残したもの

740年に九州で起きた藤原広嗣の乱は、わずか2か月で鎮圧された「失敗した反乱」でした。しかしその影響は、奈良時代後半の歴史を大きく動かす起点となりました。最後にポイントを整理しておきましょう。

藤原広嗣の乱のポイントまとめ
  • 740年(天平12年)8月、藤原広嗣が九州・大宰府で挙兵した反乱
  • 原因は吉備真備・玄昉の排除と、橘諸兄政権下での広嗣自身の冷遇
  • 鎮圧したのは大野東人(多賀城造営でも有名な名将)
  • 広嗣は値嘉島(五島列島)まで逃亡したが、740年11月に処刑された
  • 乱後、聖武天皇は恭仁京・難波宮・紫香楽宮へ遷都を繰り返し、国分寺の詔(741年)・大仏建立の詔(743年)を発布
  • 藤原式家は没落し、北家・南家が台頭。のちの摂関政治への伏線となった
  • 広嗣の霊は怨霊として恐れられ、佐賀県唐津市の鏡神社に祀られて現代に至る

藤原広嗣の乱 年表(724〜746年)
  • 724年頃
    藤原広嗣、誕生(推定)
  • 737年
    天然痘流行・藤原四兄弟が相次いで死去
  • 738年頃
    橘諸兄が政権を掌握。吉備真備・玄昉が重用される
  • 738年
    藤原広嗣、大宰少弐に左遷される
  • 740年8月
    広嗣が上表文を提出・九州で挙兵(広嗣の乱 勃発)
  • 740年10月
    大野東人が朝廷軍を率いて九州へ。板櫃川で広嗣軍を撃破
  • 740年11月
    広嗣、値嘉島(五島列島)で捕縛・処刑される
  • 741〜743年
    聖武天皇、国分寺建立の詔・大仏建立の詔を発布
  • 746年
    玄昉、観世音寺で不審死(広嗣の祟りと噂される)

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以上、藤原広嗣の乱のまとめでした!「失敗した反乱」と一言では片づけられない、奈良時代後半の歴史を動かした一大事件だったことが伝わったかな?
下のカードから、聖武天皇や奈良時代全体の流れもあわせて読んでみてね!

📅 最終確認:2026年5月
📖 本記事は山川出版『詳説日本史』(2022年版)に基づいています。中学歴史・高校日本史どちらにも対応しています。

参考文献

Wikipedia日本語版「藤原広嗣の乱」「藤原広嗣」「大野東人」「玄昉」「鏡神社(唐津市)」(2026年5月確認)
コトバンク「藤原広嗣」「藤原広嗣の乱」「大野東人」「玄昉」(デジタル大辞泉・日本大百科全書、2026年5月確認)
山川出版社『詳説日本史』
『続日本紀』

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この記事を書いた人
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