藤原広嗣の乱を簡単にわかりやすく解説!【聖武天皇VS藤原広嗣。政治の転換点となった反乱】

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もぐたろう
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今回は、740年に起きた藤原広嗣ふじわらのひろつぐの乱について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!

この記事を読んでわかること
  • 藤原広嗣の乱はなぜ起こったの?
  • 藤原広嗣の乱の経過は?
  • 藤原広嗣の乱は日本にどんな影響を与えたの?
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藤原広嗣の乱とは

藤原広嗣の乱は、740年(天平12年)に起こった反乱です。

藤原広嗣という役人が聖武天皇に反旗を翻して九州で挙兵し、朝廷と戦いを繰り広げました。

反乱そのものはすぐに鎮圧されましたが、『役人が地方で反乱を起こした』という事実は、聖武天皇に大きなインパクトを与えることなり、その後の聖武天皇の政策(遷都や国分寺建立など)に大きな影響を与えました。

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藤原広嗣って何者?

まずは今回の記事の主役、藤原広嗣がどんな人物なのか、少しだけ確認しておきましょう。

729年に長屋王が失脚した後、朝廷で権力を持ったのは藤原不比等の4人の息子たち(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)でした。

藤原広嗣は、4兄弟のうち宇合うまかいの子として生まれます

名門貴族の藤原氏として生まれ、順風満帆な人生を歩む・・・かと思いきや、藤原広嗣の場合、そうはなりませんでした。

天然痘の大流行

まず1つに、737年に広嗣の父である宇合を含む、4兄弟がみんな亡くなってしまいました。

原因は天然痘てんねんとうによるものだと言われています。

天然痘は、735年に唐から帰ってきた遣唐使けんとうしが日本に持ち込んだと考えられていて、朝廷では4兄弟だけではなく、多くの貴族たちが天然痘により命を落としていました。

こうして広嗣は、父の後ろ盾を失うこととなりました。

天然痘とは?

天然痘は、非常に感染力が強く、死亡率も高い伝染病で、世界中で人々を苦しめてきた病気です。

18世紀後半にワクチンが発明されると次第に感染が収まり、現在では天然痘ウイルスは根絶しています。(天然痘は、人類が唯一根絶に成功したウイルスです。)

藤原広嗣の左遷

話はこれだけではありません。

738年、広嗣の太宰府だざいふへの転勤が決まったのです。太宰府は九州を統括する部署で、今の福岡県太宰府市にありました。

広嗣が太宰府へ転勤になった理由は、諸説あります。ただ、藤原氏の広嗣が地方に転勤になるというのは、事実上、左遷させんに近いものだったのではないか?と言われています。

もぐたろう
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日頃の素行の悪さが、太宰府への左遷に影響したのかもしれませんね。

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広嗣の不満

天然痘による藤原四兄弟の死は、朝廷内の勢力図を大きく変えることになります。

貴族たちが天然痘により次々と倒れ、空席だらけになってしまった朝廷を立て直すため、藤原氏に代わって実権を握るようになったのが、橘諸兄たちばなのもろえという人物でした。

橘諸兄
橘諸兄

橘諸兄は、朝廷のポストがガラ空きになったこのタイミングを活かして、血筋や家柄に左右されない実力主義での人材登用を行います。

この人材登用によって、聖武天皇の側近に抜擢された有名人物に玄昉げんぼう吉備真備きびのまきびがいます。

玄昉は僧侶、吉備真備は学者の出身であり、いずれも天皇の側近としては異端の経歴の持ち主です。

当時の日本は、唐の政治・文化を取り入れながら発展していた時代で、そのために遣唐使が重要な役割を担っていました。

実は、玄昉・吉備真備も遣唐使経験者であり、二人とも唐に関する卓越した知見を見出されて、側近に抜擢されたのでした。

吉備真備
吉備真備

このような政局の変化に、広嗣は強い不満を抱いていました。

藤原広嗣
藤原広嗣

なぜ私ではなく、あんな新参者たちが・・・。
藤原氏の血を引く私こそが、朝廷の中心にいるべきなのに!

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反乱の序章

740年8月29日、我慢しきれなくなった広嗣は、聖武天皇にこんな感じの意見書を送ります。

朝廷の政治は悪かったり、厄災が起こるのは、玄昉や吉備真備など変な奴らを採用したからです。この2人を一刻も早くクビにしてください!

さらに広嗣は、九州で兵を集め、なんと自ら挙兵までしてしまいました・・・。

藤原広嗣
藤原広嗣

もはや言葉で訴えても無駄だ。
武力で私の意思を示すしかない!

広嗣は、大宰少弐だざいのしょうにという太宰府の現場リーダー的なポジションにいました。

九州の人々にとっては、遠く離れた朝廷よりも太宰府の方が権力がある存在に映ったため、広嗣の一声で兵を集めることが可能だったのです。

9月3日、朝廷に「広嗣、挙兵!」との知らせがあると、すぐに討伐軍の準備が進められます。

総大将には武勇に定評があった大野東人おおの の あずまびとが抜擢され、総勢約1万7000の軍が九州へと派遣されました。

聖武天皇
聖武天皇

広嗣め・・・、太宰府でもやはり問題児だったか!

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藤原広嗣の乱

9月21日、陸路を西へ進んでいた大野東人は、鳴門海峡に到着。海峡を渡り、九州へと上陸します。

そして翌日22日、ついに各方面で広嗣軍と朝廷軍の戦いが始まります。

29日、聖武天皇は広嗣軍に投降を促すため、こんな命令文を九州各地にばら撒きました。

九州諸国の役人や庶民たちに告げる。

広嗣は以前より凶悪な性格で、その悪事と詐欺的な行為は長年にわたり増すばかりであった。その父である宇合は彼と離縁しようとしたが、朕はそれを許可せず、今日まで彼を庇っていた。都にいた時も、親族を陥れようと混乱を引き起こしたため、広嗣を遠方へ左遷させ、改心することを期待していた。

しかしながら、今聞くところによると、勝手に反乱を起こし、民を混乱させているという。これは不孝であり不忠である。天地の道理に背くこのような行為は、神々からも見放され、まもなく滅びるであろう。

以前にも勅符を送り、その地の国々に知らせたが、さらに聞くところでは、反逆者が使者を捕まえて危害を加え、勅符を広く見られないようにしているとのことである。

そのため、再び数千枚の勅符を諸国に配布することにしたから、これ以上の妨害は無駄である。

百姓たちは、この命令を見たならば、ただちに朝廷に帰順せよ。たとえ最初は広嗣と共謀していた者であっても、今、改心して過ちを悔い、広嗣を斬り殺して民を安んじる者があれば、平民には五位以上の位を与え、役人にはその位に応じて位を加える。もし命を落とした場合は、その子孫に位を与える。忠臣や義に篤い者たちよ、速やかに実行せよ。

大軍もまもなく派遣する予定である。以上のことをよく理解しておくように。

 

10月9日、板櫃いたびつ川を挟んで、広嗣軍約10,000と朝廷軍約6,000が対峙します。

広嗣は、朝廷軍6,000を率いていた佐伯常人さえきのつねひとに向かってこう言いました。

藤原広嗣
藤原広嗣

朝廷の使者が来ていると聞く。使者はどこにいるか。

佐伯常人
佐伯常人

我々がその使者である。

すると広嗣は馬から降り、二度礼をしてこう言います。

藤原広嗣
藤原広嗣

私は朝廷に逆らう気はない!ただ朝廷を乱す者二人を求めているだけです。

もし私が朝廷に逆らうようなことをすれば、天神地祇の罰を受けることでしょう。

佐伯常人
佐伯常人

ならばなぜ、軍を率いて朝廷に向かおうとする。

藤原広嗣
藤原広嗣

ぐぬぬ・・・。

広嗣は、佐伯常人の問いかけに答えることができず、馬に乗りその場を引き返して行きました。

その時、3人の広嗣軍が、板櫃川を渡って朝廷軍に投降。投降兵は、広嗣の作戦を全て佐伯常人にバラしてしまいます。

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広嗣、逃亡するも捕えられる・・・

10月23日、広嗣が捕えられました。場所は五島列島の宇久島うくじま

広嗣は板櫃川での一件の後、戦っても勝ち目がないと判断して、弟と側近だけを引き連れて逃走していたのです。

11月1日、捕えられた広嗣は処刑され、藤原広嗣の乱は鎮圧されました。

もぐたろう
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広嗣は、済州島を目指して国外逃亡を図りましたが、風向きや天候に恵まれず、宇久島に流れ着いてしまったと言われています。

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藤原広嗣の乱が日本に与えた影響

藤原広嗣の乱は短期間で終結しましたが、この反乱はその後の聖武天皇の動向に大きな影響を残すことになります。

遷都ラッシュ

10月26日、聖武天皇は突如こんなことを言います。

聖武天皇
聖武天皇

私は少しだけ都を離れて、東の方へ行こうと思う。将軍たちは私がいないことを知っても驚かないように。

3日前の23日に広嗣は捕えられていますが、聖武天皇はまだその報告を受けていません。・・・つまり、戦乱の途中に聖武天皇は都を離れてしまったのです。

そして740年12月、聖武天皇は恭仁京くにきょうへの遷都を決定し、平城京へ戻ることはありませんでした。

その後も聖武天皇は、難波宮(なにわのみや744年)、紫香楽宮しがらきのみや(745年)と遷都を繰り返す・・・という謎の行動に出るようになります。

なぜ聖武天皇は、突然遷都なんて考えたのかしら?

もぐたろう
もぐたろう

はっきりとしたことはわかっていないけど、藤原広嗣の乱のせいだと言われているよ。

日本では734年に大地震があって、さらに数年後には天然痘が大流行して、多くの人たちが亡くなっていました。そして追い打ちをかけるかのように、次に起きたのが藤原広嗣による謀反でした。

天災・疫病・反乱・・・、立て続けに起こる厄災に心が折れてしまった聖武天皇は、心機一転、遷都を考えたというわけです。

鎮護国家の実現へ

当時、日本では「仏法の力で国を護る!」という鎮護国家ちんごこっかの思想がありました。

信仰の厚かった聖武天皇は、遷都と同時並行で、これを実現しようと動きます。

741年には、国分寺建立の詔を出して、各国に国分寺・国分尼寺を建立することに。さらに743年には大仏造立の詔が出され、大仏の造立が開始。この大仏は752年に完成し、今も東大寺に行けば(再建されたものですが)見ることができます。

東大寺の奈良の大仏
もぐたろう
もぐたろう

藤原広嗣の乱がきっかけとなり、聖武天皇の政治が大きく変わったわけだね。もし乱が起こらなかったら、もしかすると奈良の大仏も造られなかったかもしれません。

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藤原広嗣の乱まとめ【年表】

タイムラインのタイトル
  • 737年
    天然痘の大流行で父の宇合が亡くなる
  • 738年
    広嗣、太宰府へ転勤(事実上の左遷?)
  • 740年10月
    藤原広嗣の乱
  • 740年12月
    聖武天皇、恭仁京へ遷都
  • 741年
    国分寺建立の詔が出される
  • 743年
    大仏造立の詔が出される
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この記事を書いた人
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コメント

  1. さな より:

    めっっちゃおもしろいです!!
    ありがとうございます!!
    もっと読みたいです!!!

    • もぐたろう mogutaro より:

      さな様

      当サイトをご覧いただき誠にありがとうございます。そう言っていただけるととても嬉しいです!
      多くの人に日本史の面白さを知っていただけるよう今後もサイト運営を続けて参ります。

  2. おいしいおコメ より:

    日本史を独学で勉強中です!
    流れが複雑なところをわかりやすく、そして面白く解説してくださっているのでとても楽しんで学習することができます。
    本当にありがとうございます!
    (記事の途中の広嗣と天皇のセリフが面白かったです笑 広嗣からしてみれば「え!?嘘やん嘘やん!」という感じで事が進んだでしょうね……笑 昔は少しでも謀反を企てたり、もしくはそういう噂が流れると討伐されてしまうところが結構恐いですね:(;゙゚’ω゚’):)