なぜ大仏造立の詔は出された?簡単にわかりやすく徹底解説!【聖武天皇の仏教信仰の物語】

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今回は、743年に聖武天皇が出した大仏造立だいぶつぞうりゅうの詔についてわかりやすく丁寧に解説していきます。

この記事を読んでわかること
  • なぜ大仏造立の詔が出されたの?
  • 大仏造立の詔の内容は?
  • 国分寺建立の詔との関係は?
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大仏造立の詔が出された理由

大仏造立の詔は、簡単に言ってしまうと「大仏造ろうぜ!」って話なのですが、なぜ聖武天皇は大仏を造立しようと思ったのでしょうか?

その答えは「政治が全く上手くいかなくなり、仏教に頼るしかなくなってしまったから」でした。

というわけで、聖武天皇の挫折の歴史と仏教にハマる過程を時系列で整理しておきます。

聖武天皇の挫折から仏教にハマるまで
  • 724年
    聖武天皇(24歳)、即位
  • 729年
    信頼できる部下(長屋王)の死

    政争に巻き込まれ、冤罪によって命を失いました。

  • 734年
    大地震が起こる
  • 735年〜737年
    天然痘が大流行
  • 740年
    藤原広嗣、九州で反乱を起こす

    聖武天皇は平城京を抜け出して、12月には恭仁京に遷都してしまう。

  • 741年
    国分寺建立の詔
  • 742年
    離宮として紫香楽宮の造営を開始
  • 743年
    大仏造立の詔←この記事はココ!

    造営途中の紫香楽宮で発表されました

約10年の間で、エリート部下の死・大地震・疫病・部下の反乱と国は大きく乱れました。聖武天皇は、これを「私には徳が足りないせいだ」と自分を責め、自らの無力さを悟りました。

740年に藤原広嗣の乱が起こった頃、聖武天皇はわざわいが多過ぎる平城京からの遷都を決意します。(この頃から、聖武天皇は何かに吹っ切れたかのように大胆な行動をするようになります)

それと同時に、自らの無力さを悟ると「仏教によって国を守る」という仏教の教えを深く信じるようになりました。(もともと聖武天皇は仏教の教えを大切にしていました)

鎮護国家という考え方

聖武天皇が考えた「仏教の力で国を守る」という思想のことを鎮護国家ちんごこっかと言います。

鎮護国家の思想は、聖武天皇が愛読していた「金光明経こんこうみょうきょう」と呼ばれる経典に載っていて、「この経典を供養して、教えを広めてくれれば国は守られるよ」というようなことが書かれています。

余談にはなりますが、聖武天皇が741年に国分寺建立の詔を出したのは、この教えに従って各地に寺院を建立して金光明経をそこに納める(供養する)ためだったりもします。

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大仏造立の詔の内容

自分の力に失望していた聖武天皇ですが、それとは裏腹に大仏造立の詔は自信に満ち溢れた輝かしい内容となっています。

仏教を深く信仰することで自信を取り戻したのでしょうかね・・・。

大仏造立の詔はこんな内容でした。

大仏造立の詔

私は天皇になり、人民をいつくしんできたが、仏様の徳はまだ天下に広く行き渡っていない。

私は、三宝(仏、法、僧)によって天下が平和になり、動物・植物など命あるものすべてが栄えることを望む。

そこで苦しむ全ての人々を救うため、盧舎那仏るしゃなぶつの金銅像一体を造ろうと思う。

国中の銅を尽くして仏を造り、大山を削って仏堂を建て、広く天下に知らしめ、私は民の心を一つとし、仏様の徳を受けることで民と共に悟りの境地に達したい。

天下の富や権勢をもつ者は私である。その力をもってこの像を造ることはたやすいが、それでは私の願いを叶えることができない。

だが、懸念している点もある。私は皆で協力してこの大仏を完成させたい。人々を無理やりに働かせて、民たちが仏様の心を理解できぬまま仏様に対して誹謗中傷を行い、罪におちることだ。

だから、この事業に加わろうとする者は、強制ではなく誠心誠意の自発的な気持ちで参加してほしい。

たとえ1本の草、ひとにぎりの土でも協力したいという者がいれば、無条件でそれを許せ。役人はこのことのために人民から無理やり取り立てたりしてはならない。

とても強気な内容です。自信のない人が「天下の富や権勢をもつ者は私である」なんて言えませんよね。

ただ、実際の大仏の造立作業は聖武天皇が言うほどスムーズには進まず、作業は難航することになります・・・

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大仏造立の救世主、行基

大仏造立で大きな問題になったのは、人手不足です。

聖武天皇
聖武天皇

大仏は皆の自発的な気持ちによって造りたいから、役人は強制的に働かせてはならぬ・・・!

と豪語したものの、庶民たちは日々の生活だけでもいっぱいいっぱい。大仏造立どころではなかったのです・・・。

自発的に手伝ってほしいなら、まずは、重たすぎる税金をなんとかしてくれませんかねぇ・・・。

この時、大仏造立の救世主として登場したのが行基と呼ばれる僧侶でした。

行基ぎょうきは、各地を渡り歩き布教活動やボランティア活動を続けていた僧侶。その人望は凄まじく、「行基が村に来たら、みんなが行基のところへ集まるせいで村に誰も人がいなくなってしまった・・・!」なんて逸話が残っているほど。

聖武天皇が行基に大仏造立に参加するよう懇願すると、行基はこれに応じました。

行基「聖武天皇の仏教に対する熱い想い。私は大変心を打たれました。ぜひ協力させてください」

行基が大仏造立に参加するということは、行基を慕う多くの民衆たちもこれに参加すると言うこと。

うぉぉぉぉぉ!!!

行基様のためなら、手伝ってやるぜぇぇぇぇぇ!!!

行基には人望に加えて、各地のボランティア活動で橋や小屋などを建設したノウハウもあり、人手不足で滞っていた大仏造立は超スピードで進むことになります。(まさに大仏の救世主・・・!!)

大仏は752年にひとまず完成して、大仏開眼供養会と呼ばれる儀式が行われました。

・・・が、最大の功労者であった行基は既に亡くなっており、その完成を見ることはありませんでした。

聖武天皇
聖武天皇

行基よ、本当にありがとう。

もしそなたが生きていれば、大仏開眼供養会の主役はあなたであったのに・・・。

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紛らわしい国分寺建立の詔と大仏造立の詔

最後に少しだけおまけ話を。

743年の大仏造立の詔と似た出来事に、741年の国分寺建立こくぶんじこんりゅうの詔があります。

国分寺建立の詔は、すでに紹介していますが「各地に金光明経を納める寺院を建てようぜ!」という宣言です。

そして、各地に建立する国分寺の総本山だったのが今も奈良市にある東大寺でした。

その国分寺の総本山(東大寺)に「総本山にふさわしい超でっかい仏像作ろうぜ!」って宣言したのが大仏造立の詔です。(最初は紫香楽宮に大仏を造立予定でしたが、後に東大寺に改められました。)

まとめると大仏造立の詔と国分寺建立の詔の関係はこんな感じです。

国分寺建立の詔(741年)によって建てられた国分寺の総本山に、総本山にふさわしい巨大な大仏を造立したのが大仏造立の詔(743年)

合わせて聖武天皇の生涯について書いた以下の記事も合わせて読んでみると、面白いと思います。

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この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
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コメント

  1. […] (参照元:大人になってから学びたい日本の歴史:大仏建立の裏話が興味深いです) […]

  2. Rilly より:

    大変興味深い内容でした。冬休みの宿題の参考にさせていただきます。
    あと、最後の行の内容ですが「聖武天皇の障害」ではなく「聖武天皇の生涯」だと思います。