

今回は、645年に起こった乙巳の変とその後の政治改革である大化の改新について、わかりやすく丁寧に解説していきます!
youtube解説もしています。読むのが面倒な人は動画がオススメ◎
乙巳の変とは
乙巳の変は、長年にわたって政治の実権を握っていた蘇我入鹿・蝦夷を、皇族の中大兄皇子が暗殺したクーデター事件のことを言います。飛鳥時代の645年に起こりました。
飛鳥時代の日本は、大国の隋(618年以降は唐)を参考にしながら天皇中心の国家を目指しているところでした。
そんな中起きた乙巳の変は、豪族の蘇我氏から政治の実権を奪い取り、日本が天皇中心の国へと変貌するきっかけとなった歴史的にも重要な事件でした。
では、乙巳の変の全容を見ていくことにしましょう!
乙巳の変が起きた時代背景 〜蘇我氏全盛の時代〜
乙巳の変が起こる前、飛鳥時代の日本で最も強大な力を持っていたのは蘇我氏でした。
特に蘇我馬子(551年〜626年)の時代から、蘇我氏の権力は絶大なものとなっていきます

蘇我氏はもともと、朝廷の財政を管理していた一族で、強い影響力を持っていました。
古墳時代の末期、蘇我氏と同じぐらい朝廷に影響力を持っていた一族に軍事を担当している物部氏がいました。
蘇我氏と物部氏は対立するようになり、587年、蘇我馬子と物部守屋が争って、蘇我馬子が勝利しました。(丁未の乱)
丁未の乱以降、朝廷では蘇我氏が絶大な権力を誇るようになったのです。
622年に摂政の厩戸皇子(聖徳太子)が、628年に推古天皇が亡くなると、蘇我氏を抑える存在がいなくなり、蘇我氏の力はさらに強大になっていきました。
蘇我馬子は626年に亡くなりますが、その後は息子の蘇我蝦夷が強大な権力を握り続けます。
630年代に入ると蘇我氏の勢いは日増しに強くなり、その権勢は、豪族たちが朝廷よりも蘇我家に出仕するようになるほどでした。

推古天皇の後、舒明天皇が即位しましたが、蘇我蝦夷の力を抑えることはできませんでした。
蘇我入鹿の時代

641年、舒明天皇が亡くなると、その皇后だった宝皇女が即位して皇極天皇となりました。
この時期になると、蘇我蝦夷の子・入鹿の権力が突出していきます。
入鹿は強大な権力を背景に、自分の邸宅を「宮門」と呼ばせ、さらには自分の子供を「王子」と呼ばせるなど、天皇家に迫る権勢を誇るようになっていきました。
643年には、蝦夷が病を理由に非公式に「紫冠」を入鹿に授け、大臣の座を譲ります。蘇我氏内部の権力継承とはいえ、朝廷の許可なく勝手に官職を授与するのは、明らかな越権行為でした。

紫冠というのは、朝廷内のヒエラルキーを冠の色で示した冠位十二階の中で、一番高い位だったのが紫冠だよ。
入鹿の独断専行は、ついには皇族の抹殺にまで及びます。643年11月、入鹿は軍勢を差し向けて、聖徳太子の子である山背大兄王の住む斑鳩宮を襲撃させたのです。
攻撃を受けた山背大兄王は、わずかな側近たちと必死の抵抗を試みますが、持ちこたえることができませんでした。この時、側近から東国へ逃げて再起を図ることを勧められましたが、山背大兄王は民に苦しみを与えることを避けたいとして、この進言を採用しなかったと言われています。
山背大兄王は息子たちと共に自害を遂げ、これにより、聖徳太子の血を引く上宮王家は滅亡することになりました。

山背大兄王の最期からは、民のことを第一に考える聖徳太子の精神が受け継がれていたことがわかるね。それだけに、入鹿による上宮王家の滅亡は多くの人々の心に深い憤りを残すことになったんだ。
蘇我入鹿暗殺計画
このような蘇我氏、特に入鹿の専横に危機感を抱いていたのが、神祇を職とする一族の中臣鎌足でした。鎌足は蘇我氏打倒の計画を密かに進めていきます。

鎌足が協力者を探していたある時、法興寺で蹴鞠をしていると、中大兄皇子の鞋が脱げ、鎌足がそれを拾って差し出したことがきっかけで、2人は親しい関係となりました。
中大兄皇子は舒明天皇の息子で、将来の天皇候補になりうると同時に、蘇我入鹿から命を狙われる危険に晒されていました。
入鹿が皇族の山背大兄王を殺したのは、山背大兄王が蘇我氏に対抗しうる力と人望を持っている・・・と考えたからです。中大兄皇子もまた、もし入鹿の気に入らないことをすれば、次のターゲットにされかねない危険な立場にあったのです。
そんな状況下、中大兄皇子は中臣鎌足と出会い、命をかけて立ち上がることにしたのです。

その後、中大兄皇子と鎌足は南淵請安の私塾で周孔の教えを学びます。その往復の道中で、2人は蘇我氏打倒について密談を重ねていきました。

南淵請安は、遣隋使の経験者で隋の政治・文化に精通していた人物だったんだ。
さらに鎌足は、蘇我一族の長老である蘇我倉山田石川麻呂を同志として引き入れることに成功します。蘇我一族も一枚岩ではなく、一族内には入鹿の独裁に不満を持つ者もいたのです。
石川麻呂は協力の証として、自分の娘を中大兄皇子の妃とし、中大兄皇子との結びつきを強めました。
乙巳の変
645年、新羅・百済・高句麗からの使者が来日し、それぞれの国からの国書を読み上げる儀式(三国の調)が朝廷で行われることになりました。
儀式には大臣の入鹿も必ず出席する必要があり、中大兄皇子と鎌足は、これを入鹿暗殺の絶好の機会と捉えました。
6月12日、三国の調の儀式が行われます。普段は自邸にいることが多い蘇我入鹿もこの日ばかりは朝廷に入ります。普段は用心深く剣を手放さない入鹿でしたが、この日は宮内の人々の強い説得によって剣を外していました。

入鹿の横暴に不満を持つ人たちは朝廷の中にもいて、中臣鎌足らの協力者がいたんだよ。
中大兄皇子は警備兵に命じて宮門を閉じさせます。入鹿を逃さないようにするためです。
暗殺の実行役として選ばれたのは、佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田。三国からの国書を読み上げるのは蘇我倉山田石川麻呂。そして国書を読み上げるのを合図に入鹿暗殺を決行する・・・という計画でした。
三国の調が始まると、中大兄皇子は長槍を持って殿側に隠れ、鎌足も弓矢を取って潜みました。
儀式は滞りなく進み、いよいよ石川麻呂が文書を読み上げます。
・・・ところが、いくら待っても実行役の2人は動きません。いざ本番になると、恐怖のあまり動けなくなってしまったのです。
国書を読み上げる石川麻呂の体が震えているのを不審に思った蘇我入鹿が「なぜ震えるのか」と問うと、石川麻呂は「天皇のお近くが畏れ多く、汗が出るのです」と答えて、その場はなんとか取り繕いました。

こうなったら、私と鎌足で入鹿を討つしかあるまい!

このチャンスを逃せば、もう入鹿を倒すことはできないしょう。
中大兄皇子が痺れを切らせて入鹿へと飛びかかると、2人の刺客も意を決して入鹿に斬りかかりました。入鹿は驚いて立ち上がりましたが、刺客によって頭と肩、脚を斬られ倒れます。
入鹿は「私に何の罪があるのでしょうか」と天皇に助けを求めましたが、中大兄皇子が「入鹿は皇族を滅ぼして皇位を奪おうとしました」と告発すると、皇極天皇は無言のまま殿中へ退きました。天皇もまた、入鹿を見捨てたのです。

こうして入鹿は斬り殺され、その遺体は雨に濡れた庭に投げ出されました。
計画はこれで終わりではありません。なぜなら、蘇我氏にはまだ入鹿の父である蘇我蝦夷が存命で、自邸に籠っていたからです。
入鹿の死後、中大兄皇子は直ちに法興寺に入って戦備を固めました。諸皇子や諸豪族はみなこれに従い、多くの人たちが中大兄皇子側につきました。
そして翌6月13日、入鹿の父である蝦夷は勝ち目なしと見るや館に火を放ち、自害します。

こうして長年にわたり強大な権力を誇った蘇我本家は滅亡を迎えることになりました。(あくまで本家が滅亡しただけで、蘇我氏自体はその後も存続しました。)
翌6月14日、皇極天皇は軽皇子へ譲位し、新たに孝徳天皇が即位します。
中大兄皇子は皇太子となり、さらには、阿倍内麻呂を左大臣、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣、中臣鎌足を内臣に任じ後に「大化の改新」と呼ばれる大規模な改革を開始していくことになります。
乙巳の変の後、皇極天皇は、中大兄皇子を次の天皇に指名しました。
・・・が、中大兄皇子はこれを断り、軽皇子に皇位に譲りました。
中大兄皇子は蘇我氏を打ち倒した最大の功労者であり、しかも皇極天皇・舒明天皇の息子です。天皇になっても全然おかしくありませんでしたが、中大兄皇子は天皇になることを望まなかったのです。
なぜ天皇即位を断ったのかは諸説があり、はっきりしたことはわかっていません。

天皇即位して「政敵から強引に権力を奪い取った強欲な男」とのレッテルを貼られるよりは、孝徳天皇のサポートする黒子に徹した方が都合が良かった・・・という政治的な思慮があったのだと思われます。
大化の改新
翌年646年、改新の詔と呼ばれる朝廷の改革方針が示されました。
改新の詔の内容は、簡単に言えば「公地公民制を目指す!」というものでした。
公地公民制というのは、「日本の土地・民は天皇のもの」という制度のことです。
公地公民制により天皇に強大な権力を与え、豪族たちの協力による成立していた国家体制を終わらせよう・・・と考えたのでした。
この一連の改革のことを歴史用語で大化の改新と言います。
蘇我氏の台頭により停滞していた「唐を参考にした天皇中心の国造り」は、乙巳の変により大きく前進することとなりました。
大化の改新を経て、飛鳥時代末期の天武天皇の時代(673年〜686年)になると、ついに日本は天皇中心の国へと変貌を遂げることになります。
コメント
おもしろかったです。