今回は、「なんと(710年)きれいな平城京」という語呂合わせで有名な平城京について紹介します。
なぜ平城京へ遷都したのか?
当時、既に藤原京という巨大な都があったにも関わらず、なぜわざわざ平城京へ遷都したのでしょうか?
実は、はっきりとした理由はわかっていませんが、708年、元明天皇という天皇はこんなことを言っています。
「私自身、遷都をする余裕などなかった。しかし、皇族らは皆、地の相を占って京を定めることは重要だと言い、私もみなの意見を無視することはできない。平城の地は相も良くとても良い土地であり、この地に都を移すべきである」
ただ、なぜ元明天皇がこのようなことを言い始めたのかまではわかりません。色々と説はあって、
- 藤原京で疫病が蔓延し、縁起が悪いため
- 元明天皇の言うとおり、平城の地が占い等で優れた土地であったため
- 藤原京で実現できなかった唐の天子南面思想を実現するため
- 交通の便が藤原京よりも優れているため
などなど。
また、直接的な理由ではないにしても702年に派遣された遣唐使らによる報告も平城京遷都の決断に大きな影響を与えたと考えられています。702年の遣唐使らは、唐の都である長安を見て、藤原京との違いに愕然とした・・・と言われています。
長安と藤原京の致命的に違う点は、皇居の位置です。長安は、皇帝は北に位置し南を向くべし・・・と言う天子南面思想のため皇居は都の北に位置しました。ところが藤原京は皇居を都の中心に置いてしまったのです。唐を参考とした都造りを目指していた日本にとって君主である天皇の住まう場所が長安と違うのは致命的でした。
いずれにせよ、平城京へ遷都した理由はわかっておらず、表面的には元明天皇が言うように占いなどの呪術的な観点から平城京の土地が良いから・・・という理由で平城京の遷都が決定されました。
平城京建設までの道のり
平城京の建設は、先ほど紹介した708年の元明天皇による宣言によって始まり、710年に完成したと言われています。
が、実は710年に完成したのは皇居部分などの重要部分だけ。市街地部分はその後も引き続き建設が進められていました。
しかし、710年以降も続いた平城京の建設は非常に過酷なもので、人々に強制労働を強いるものでした。
正倉院に残っている史料などから、今でも平城京建設に伴う強制労働の詳細な様子を知ることができます。ちょっとだけ紹介してみますね。
平城京と強制労働
最初に朝廷から各地へ労働者を派遣するよう命令が届きます。命令を受け取ると地方では元気な男性を用意し、補欠まで準備します。補欠は、労働者が逃亡した時に代わりに平城京へ送られます。
地方から平城京へ向かう労働者には、その道中に必要な最低限の食料が与えられます。
平城京に向かうと強制労働が始まり、休みの日は基本なし。雨などで作業ができない場合にのみ休日が与えられます。強制労働の期間は数十日。ここでも必要最低限の食料などは支給されますが、雨の日などで働かない日は支給される食料は減らされます。
病気や怪我になっても、今のような保険制度があるわけもなく基本的になんの措置もされない。途中で逃げ出すと一日につき30回の鞭による刑罰が待っている。
なんとか平城京での労働を終えると地元に帰ることができるのですが、実はここからが苦難の道のりでした。労働を終えると労働者にはなけなしの通貨が与えられました。708年に和同開珎という通貨が発行され、和同開珎によってお給料が支払われていました。
行きの時は食料が支給されましたが、帰りはなんの支給もありません。お給料として和同開珎を支給したんだから、あとは自分でなんとかしな!っていうスタンスです。ところが、和同開珎は平城京や機内近辺でしか普及していません。すると、地方に行くと和同開珎は物との交換ができなくなるわけで、交換不可能な通貨など無価値に等しいです。
和同開珎をもらった労働者たちは、帰り道で食糧難に陥り、餓死する者が続出しました。これは社会問題になったようで、後に食料支給へと改められたようです。現代の福祉国家からすれば、ありえない世界です。
平城京の建設ってこんな風に相当ヤバイ感じで行われていました。カイジの地下収容所のリアルバージョンみたいな感じです本当に。「なんと(710年)きれいな平城京」とか言ってる場合じゃないですよね。
平城京建設と治安の悪化
民に過酷な負担を強いた平城京造営。710年前後は、畿内の治安もかなり悪かったという記録が残っています。
畿内の国々に対して税金の免除を命じたり、武器庫を固く閉じるよう命じている記録が残されているのです。前者は人々の不安を鎮めるため、後者は不満分子らが武器庫から武器を盗んでいたものと思われます。
畿内の治安悪化と同時に、東国の方でも反乱の兆しがあったと言われています。709年には、藤原四兄弟で有名な藤原房前が各地を巡回し、畿内各国や東国の反乱に備えて警備を強化していました。
うーん、平城京って闇が深い・・・。
平城京の終焉
平城京は794年の平安京遷都によってその役目を終えます。平安京が794年から明治時代まで日本の首都であり続けたことを考えると、平城京が都として機能した期間はなんとも短いものです。
これほどの苦難を民に強いた平城京遷都でしたが、なぜ平安京へ遷都することになったのでしょうか?
実は、平城京を首都にすることをやめた明確な理由はわかっていないのですが、おおむねの理由はわかっています。
平城京と桓武天皇
まず1つ目が桓武天皇が即位したため。平城京は天武天皇の血筋を正当な天皇家と考えて造営された都。ところが、奈良時代に長く続いた皇位継承争いによって多くの皇族が命を落とし、天武天皇の血統は称徳天皇で断絶してしまいました。
天武天皇の血統が途絶えた後、天智天皇の血筋から即位したのが桓武天皇。桓武天皇にとって自らの権力や権威を世に示すに当たって、平城京は非常に不都合でした。
繰り返しですが、平城京は天武天皇の血筋を引く天皇たちによって運営されてきた都です。天智天皇の血筋から即位した天皇も元明天皇・元正天皇といることはいるのですが、2人とも聖武天皇即位への繋ぎ役としか見なされず、正式な血統とは思われていませんでした。
そんな平城京に天武天皇の血を引かない桓武天皇が即位しても、
「どうせ元明・元正天皇みたいに繋ぎ役で、天智天皇の血筋じゃ正当性がないんだろ?」
と多くの人に舐められてしまいます。
桓武天皇「天武天皇の血筋によって造られたのが平城京なら、俺は天智天皇の血筋を正当な天皇家であることを世に示すために新しく都を作ってやろうじゃねーか」
これが理由の1つ目。
平城京と仏教
2つ目は、平城京の仏教勢力(僧侶たち)の影響力が強くなりすぎて、政治にまで介入してくるようになったことです。
詳しくは、道鏡という有名人のエピソードを知るとわかります。詳細は以下の記事を参考にどうぞ。
奈良時代末期、僧侶たちが政治に深く介入することで政治の腐敗化が進みました。桓武天皇は、そんな仏教勢力を政治から切り離すため、平城京からの遷都を決断した・・・と言われています。
平城京と衛生問題
もう1つ、衛生問題があったとも言われています。
具体的に言うと「大きな川がなかったから、排泄物を平城京の外へ流し出すことができなかった・・・」という上の2つの綺麗な理由とは違って、かなり生々しい理由があったのでは?と言われているのです。
慢性的な水不足と溜まった汚物から感染症などが広まった・・・と。
また、大きな川がないことは、交通の便においても致命的なデメリットとなりました。平安京への遷都は、そのような地理的条件、特に水路の改善を目的として行われたとも考えられています。
平安京へ遷都した理由に関する説は色々ありますが、おそらくはどれか1つ決定的な理由に基づいたというわけではなくて、いろんな理由を総合的に判断して平安京へ遷都したんじゃないかと私は思っています。
平城京まとめ
平城京って、なんと(710)綺麗な〜の語呂合わせのイメージが強くて、色々と綺麗なイメージが定着している気がするのですが、実際は民に尋常でない負担を強いて造営されたもので、非常に闇の部分が深いです。
しかも、苦労の末にやっと完成した平城京は、皇位継承争いや政治腐敗などによって100年も経たずに、京都の座を平安京に明け渡すことになってしまいます。
もちろん、平城京は立派な都だったはずです。奈良の平城宮跡地の広さや再現を見てみるとそれを実感できるはず。だけれども、その歴史的背景を知ると素直に凄いと言い切れないの平城京・・・のような気がしています。
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