

今回は藤原四兄弟(四子)について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!名前の覚え方から、長屋王の変・天然痘での急死、そして南家・北家・式家・京家のその後まで、まるごとまとめたよ!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応
藤原四兄弟というと、「まとめて天然痘で死んでしまった人たち」という印象があるかもしれません。
でも実は、4人はそれぞれまったく違う個性と専門性を持ち、長男と次男のあいだには「本当は仲が悪かったのでは?」という説まであるほど、複雑な人間関係を抱えていました。名前は覚えにくいけれど、知れば知るほど面白い——そんな4人の物語をこれから解説していきます。
藤原四兄弟(四子)とは?
- 藤原不比等の4人の息子(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)の総称。試験では「藤原四子」が正式な呼び方
- 729年に左大臣・長屋王を追い落として政権を握った(長屋王の変)
- 737年に天然痘の大流行で4人全員が急死し、政権は橘諸兄へ移った
藤原四子とは、奈良時代の権力者・藤原不比等が残した4人の息子——武智麻呂・房前・宇合・麻呂の総称です。
祖父はあの中臣鎌足(藤原鎌足)。鎌足が始め、不比等が大きく育てた藤原氏の権力を、いよいよ次の世代として受け継いだのが、この4人だったのです。

ここで少しややこしいのが、「藤原四兄弟」と「藤原四子」という2つの呼び名です。意味はどちらも同じ4人を指しますが、教科書や試験で使われる正式な用語は「藤原四子」のほうになります。

「四子(しし)」って、つまり「4人の子ども」って意味なんだ。教科書では『藤原四子』、ふだんの会話では『藤原四兄弟』って呼ばれることが多いよ。テストでは「四子」で覚えておくと安心◎
4人はそろって朝廷の高い役職につき、729年から737年までの約8年間、奈良時代の政治を主導しました。この時期はのちに「藤原四子政権」と呼ばれます。藤原氏が天皇家のすぐ隣で権力をふるう——その仕組みのひな型が、ここで形づくられていきました。くわしい流れは、奈良時代の全体まとめとあわせて読むといっそうイメージしやすくなります。
では、その4人はどんな家族で、どうつながっていたのでしょうか。まずは家系図から見ていきましょう。
藤原四子の家系図|不比等から四家まで一気にわかる
まずは関係を一枚の図で整理しておきましょう。父・藤原不比等を頂点に、4人の息子がそれぞれ南家・北家・式家・京家という4つの家(藤原四家)の祖になります。

ポイントは、4人が全員「同じお母さん」というわけではなかったことです。長男・武智麻呂、次男・房前、三男・宇合の3人は同じ母から生まれた兄弟ですが、四男・麻呂だけは母が違う異母弟でした。
さらに不比等には娘もいました。聖武天皇の母となった宮子と、のちに聖武天皇の皇后となる光明子(光明皇后)です。つまり四子にとって、天皇の母も皇后も「自分たちの姉妹」だったわけです。

麻呂だけお母さんが違うって、どういうこと?当時の貴族の家族関係って、なんだか複雑なのね…。

当時の貴族は、一人の男性に複数の妻がいるのがふつうだったんだ。だから不比等にも何人かの妻がいて、母親が違う兄弟がいるのは、めずらしいことじゃなかったんだよ。
📌 家系図のポイント:武智麻呂・房前・宇合は同母の兄弟、麻呂だけが異母弟。不比等の娘・宮子は聖武天皇の母、光明子は聖武天皇の皇后。つまり四子は「天皇の外戚(母方の親戚)」という立場だった。
家系図で全体像がつかめたところで、次は4人それぞれがどんな人物だったのかを見ていきましょう。一見そっくりに見える4兄弟ですが、その個性は驚くほどバラバラでした。
4人それぞれの個性と活躍|武智麻呂・房前・宇合・麻呂
「四兄弟」とひとくくりにされがちですが、4人の役割や得意分野はまるで違いました。政治のまとめ役、天皇に近づく戦略家、武人、そして歌人——それぞれの個性を順番に見ていきます。
■武智麻呂(むちまろ)と南家
長男の武智麻呂は、四子のリーダー格でした。最終的には朝廷の最高位クラスである右大臣(734年)にまで昇りつめ、兄弟の中心として藤原氏をまとめあげます。住んでいた屋敷が都の南側にあったことから、その家系はのちに「南家」と呼ばれました。

父上が築いた藤原氏の地位、俺たち4人で守り抜いてみせる。長男の俺がしっかり全体をまとめるからな。
■房前(ふささき)と北家
次男の房前は、四子のなかでも特に天皇家との結びつきを重視した人物です。役職としては兄ほど目立ちませんでしたが、天皇に近い場所で信頼を得る立ち回りが得意でした。屋敷が都の北側にあったことから、その家系は「北家」と呼ばれます。
そしてこの北家こそ、のちの平安時代に摂関政治の頂点をきわめる一族へと成長していくのです。

北家って、平安時代の藤原道長とつながってるの?

そうなんだ!房前の子孫が北家として栄えて、その先に出てくるのが、あの藤原道長なんだよ。北家を覚えておくと、平安時代の勉強がぐっとラクになるよ!
■宇合(うまかい)と式家
三男の宇合は、四子のなかでもっとも「武人」のイメージが強い人物です。若いころには遣唐使の副使(遣唐副使)として唐へわたり、最先端の文化や制度を学んで帰国しました。
帰国後は東北地方の蝦夷対策などで軍を率い、いざというときに頼りにされる存在となります。式部省(役人の人事をあつかう役所)の長官をつとめたことから、その家系は「式家」と呼ばれました。

唐で学んだことも、東北の戦いも、すべて藤原氏のため。戦場なら俺の出番だ、まかせておけ。
📌 宇合の遣唐副使(717年):このときの遣唐使には、のちに活躍する吉備真備や阿倍仲麻呂・玄昉らも同行したとされる。宇合は唐で得た知識を、帰国後の政治や軍事に生かしていった。
■麻呂(まろ)と京家
四男の麻呂は、3人の兄とは母が違う異母弟でした。政治家でありながら歌人としても知られ、その歌は『万葉集』にも収められています。都の行政をつかさどる役所(京職)の長官・左京大夫をつとめたことから、その家系は「京家」と呼ばれました。

麻呂は4兄弟のなかで一番「文化人」タイプ。政治家でもあり歌人でもある、という二面性が面白いよね。「南=武智麻呂、北=房前、式=宇合、京=麻呂」のセットは、テストでも超よく出るから要チェックだよ!
個性ゆたかな4人がそろったところで、いよいよ彼らが歴史の表舞台へ躍り出る事件が起こります。それが「長屋王の変」でした。
長屋王の変(729年)と藤原四子政権の誕生

729年、左大臣・長屋王が「謀反を企てている」という密告をきっかけに追いつめられ、自害に追い込まれた政変。背景には、藤原四子が妹・光明子を皇后に立てようとする動きがあった。この事件のあと、四子が政権を握ることになる。
当時、朝廷でもっとも力を持っていたのは、皇族出身の左大臣・長屋王でした。四子にとっては、藤原氏が権力をのばすうえで最大のライバルです。
対立が決定的になったのが、いわゆる「光明子立后問題」でした。四子は妹の光明子を聖武天皇の皇后に立てようとします。しかし、それまで皇后は皇族の出身者がなるのが原則。皇族でない藤原氏から皇后を出すことに、長屋王は強く反対したと伝えられています。
「皇族でもない者の娘を皇后に立てるなど、前例がない」
— 光明子の立后に反対したとされる長屋王の立場
このままでは光明子を皇后にできない——そう考えた四子は、ついに長屋王の排除に動きます。729年、長屋王に「ひそかに国家をかたむけようとしている」という密告がなされ、邸宅は兵に囲まれました。追いつめられた長屋王は、妻子とともに自害。こうして最大のライバルは姿を消したのです。
長屋王が去ったあと、光明子は晴れて皇后となり、四子は朝廷の要職を独占していきます。ここに「藤原四子政権」が誕生しました。

長屋王の変って、年号(729年)まで覚えたほうがいいの?

729年は超頻出!「光明子を皇后に → 反対した長屋王を排除 → 四子政権スタート」っていう”流れ”でセットで覚えると、記述問題にも強くなるよ。
権力を手にした四子は、ただ威張っていただけではありません。次の章では、彼らが政権の8年間にどんな政治を行ったのかを見ていきましょう。
藤原四子政権の業績|律令財政の確立
729年から737年までの約8年間、藤原四子は朝廷の要職をおさえて政治を主導しました。この時期の大きなテーマが、国の財政(お金や税のしくみ)をどう安定させるか、という問題です。
奈良時代は、戸籍にもとづいて農民に土地をあたえ、税を納めさせる律令のしくみが土台でした。しかし、実際の運営では税収が安定しないなどの課題もありました。四子政権は、こうした財政まわりの制度を整えることに力を注いだとされています。
📌 藤原四子政権の主な動き:①長屋王の変(729年)で政権を掌握 ②光明子の立后(729年)で天皇家との結びつきを強化 ③官稲混合(734年)・公田地子の京進(736年)など、律令財政を整える制度を実施。

長屋王を追い落として権力を取ったあとは、ちゃんと政治もしていたのね。ただのライバル潰しで終わらなかったんだ。

そうなんだ。四子政権の8年間は、奈良時代の律令体制を実際に動かして整えた、けっこう大事な時期なんだよ。…ところが、そんな順調な政権が、ある”災い”であっけなく終わってしまうんだ。
権力の頂点に立ったかに見えた藤原四子。しかし737年、思いもよらない悲劇が彼らを襲います。次の章では、4人をまとめて飲み込んだ天然痘の大流行を見ていきましょう。
737年・天然痘の流行と四兄弟の急死

順調に見えた藤原四子政権に、突然の終わりが訪れます。737年、都を天然痘(痘瘡)の大流行が襲ったのです。
この疫病は、前年に九州の大宰府あたりで広がり始め、737年には平城京まで達したとされています。当時は治療法もワクチンもありません。身分の高い貴族でも、感染すればなすすべがありませんでした。
そして、この流行が藤原四子をまとめて飲み込みます。4月に房前が倒れたのを皮切りに、夏にかけて麻呂・武智麻呂、そして宇合と、わずか数か月のうちに4人全員が相次いで世を去ったとされます。父・不比等が築き、四子が受け継いだ藤原氏の権勢は、一度に屋台骨を失ってしまったのです。
📌 四子が亡くなった順(737年):房前(4月17日)→ 麻呂(7月13日)→ 武智麻呂(7月25日)→ 宇合(8月5日)と、わずか数か月のうちに相次いで世を去りました(『続日本紀』による)。

4人が同じ年にバタバタ亡くなったなんて、当時の人はびっくりよね。もしかして「長屋王の祟り」だって信じられていたの?

そうなんだ。「8年前に追い落とした長屋王のたたりだ…」って、当時はかなり本気で恐れられていたんだよ。疫病の原因がわからない時代だから、不幸が続くと「だれかの怨霊のしわざ」って考えがちだったんだね。
四子という後ろ盾を失った朝廷では、皇族出身の橘諸兄が政権を担うことになります。さらに、唐から帰国した玄昉らが重く用いられ、藤原氏はいったん政治の中心から外れていきました。
そして、たび重なる疫病や政情不安に心を痛めた聖武天皇は、仏教の力で国を安らかにしようと願います。のちの大仏造立や国分寺建立といった天平文化の大事業は、こうした天然痘の記憶とも深くつながっていました。四子の死は、その後の奈良時代の流れを大きく変える分岐点になったのです。では、生き残った彼らの子孫たちは、どんな運命をたどったのでしょうか。
藤原四家(南家・北家・式家・京家)のその後と子孫
四子は早くに亡くなりましたが、それぞれの家系はその後も続いていきます。武智麻呂・房前・宇合・麻呂の4人が祖となった4つの家系を、まとめて藤原四家と呼びます。南家・北家・式家・京家の4つです。
面白いのは、4家のたどった運命がまったく違ったことです。平安時代に天下を取る家もあれば、早々に歴史の表舞台から消える家もありました。ここからは、四家それぞれのその後を見ていきましょう。
■南家(武智麻呂の子孫)
長男・武智麻呂を祖とする南家は、奈良時代の後半に大きく飛躍します。その立役者が、武智麻呂の子・藤原仲麻呂でした。
仲麻呂は孝謙(称徳)天皇とその母・光明皇太后の信任を背景に権力を独占し、恵美押勝という名まで賜るほどの絶頂を迎えました。しかし、僧・道鏡が台頭すると対立し、764年に挙兵して敗死します(恵美押勝の乱)。これをきっかけに、南家は勢いを失っていきました。
■北家(房前の子孫)
次男・房前を祖とする北家こそ、のちに藤原氏の本流として最も栄えた家系です。平安時代に入ると、北家の藤原冬嗣・良房らが天皇家との結びつきを強め、ついには摂政・関白の地位を独占するようになります。
そして11世紀、北家の藤原道長が「この世をば我が世とぞ思ふ」と詠んだとされる摂関政治の全盛期を迎えます。教科書でおなじみの藤原氏の栄華は、もとをたどれば四兄弟の次男・房前から始まっていたのです。

北家だけ平安時代まで生き残ったの?どうして他の3家は衰えちゃったんだろう。

北家は、娘を天皇のきさきにして外戚(天皇の母方の親戚)になる…っていう”婚姻戦略”がとにかく上手だったんだ。南家や式家が反乱や政争で力を落とすなか、北家だけはコツコツ天皇家に食い込んで、最後に一人勝ちしたんだよ。
■式家(宇合の子孫)
三男・宇合を祖とする式家は、浮き沈みの激しい家系でした。宇合の子・藤原広嗣は、740年に九州で大規模な反乱を起こします。これが藤原広嗣の乱で、鎮圧された結果、式家は一時的に大きく信用を失いました。
しかし式家はここで終わりません。宇合の子・百川が、光仁天皇の即位を実現させる立役者となり、家を見事に復権させます。さらに次の桓武天皇のもとでも式家は重く用いられました。
📌 藤原広嗣(ひろつぐ):宇合の子で、式家の人物。740年に九州で反乱を起こして敗れ、式家は一時失脚しました。のちに同じ式家の百川が光仁天皇の擁立に貢献して家を立て直します。「式家=広嗣・百川の家」とセットで覚えると整理しやすいです。
■京家(麻呂の子孫)
四男・麻呂を祖とする京家は、四家のなかで最も早く目立たなくなった家系です。麻呂のあとに、政治の中心で活躍するような有名な子孫はほとんど現れませんでした。
こうして見ると、同じ四兄弟の子孫でも「天下を取った北家」「絶頂から転落した南家」「浮き沈みした式家」「静かに退いた京家」と、その後の運命はくっきり分かれました。試験では4家の名前と祖、代表人物の組み合わせがよく問われます。次の章で、覚え方もふくめてしっかり整理しておきましょう。
テストに出るポイント
ここからは、定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 語呂合わせ・覚え方:四家と祖の対応は「南無(なむ)武智麻呂、房前は北、宇合は式(しき)る、麻呂は京(みやこ)」と整理できます。とくに「仕切る(式る)のが上手い宇合=式家」と「歌人の麻呂は都(京)暮らし=京家」はイメージで覚えやすい定番のコツです。古くからの定番語呂「無難(武・南)に前(房前)へ来た(北)…」も知られています。

4人の名前と4家の組み合わせが、いつも頭の中でごちゃごちゃになるんだよね…。いい覚え方はある?

「式る(仕切る)のが上手い宇合=式家」だけでも先に覚えちゃうと、残りがグッと整理しやすくなるよ。あとは「北家=道長まで続く勝ち組」っていう一番大事なところを押さえれば、もう試験はばっちりだね!
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よくある質問
藤原四子とは、藤原不比等の4人の子(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)の総称です。試験では「藤原四子」が正式な呼び方で、「藤原四兄弟」は通称にあたります。729年に長屋王を追い落として政権を握り、737年に天然痘で全員が急死しました。
729年に起きた政変です。左大臣・長屋王が「謀反を企てている」と密告され、自害に追い込まれました。背景には、四子が妹の光明子を皇后に立てようとし、これに長屋王が反対していたことがあります。この事件のあと、藤原四子が政権を握りました。
737年に天然痘(痘瘡)の大流行があり、4人が相次いで亡くなったためです。当時は有効な治療法がなく、貴族も例外ではありませんでした。人々はこの不幸を「長屋王の祟り」と恐れたとも言われています。
四子それぞれが祖となった4つの家系です。南家=武智麻呂の子孫(仲麻呂)、北家=房前の子孫(道長まで続く本流)、式家=宇合の子孫(広嗣・百川)、京家=麻呂の子孫(最も早く衰退)と整理できます。平安時代に最も栄えたのは北家です。
あります。道長は北家の子孫で、四兄弟の次男・房前の家系にあたります。北家は平安時代に最も栄えた家系で、道長は摂関政治の全盛期を築きました。藤原氏の栄華は、もとをたどれば四兄弟の房前から始まっていたのです。
長男・武智麻呂と次男・房前のあいだに不仲説があると言われます。政策をめぐる立場の違いが指摘されることもあり、「4人が完全に一枚岩だった」とは言い切れない面があります。ただし、これは諸説ありの話で、確定した事実ではありません。
まとめ|藤原四兄弟(四子)の生涯と遺産
藤原四兄弟(四子)は、父・不比等の築いた藤原氏の権力を受け継ぎ、長屋王の変で頂点に立ちました。しかし737年の天然痘によって、その栄華はあっけなく崩れます。それでも4人が遺した「四家」は、その後の日本の政治を大きく動かしていくことになりました。
- 717年宇合、遣唐副使として唐へ(阿倍仲麻呂・吉備真備と同行)
- 724年聖武天皇 即位。長屋王が左大臣として実権を握る
- 729年長屋王の変。光明子が皇后に立てられ藤原四子政権が成立
- 734年官稲混合(諸種の官稲を正税に一本化し律令財政を整備)。武智麻呂が右大臣に
- 736年公田地子の京進(公田から得た地子を都へ納入させる)
- 737年天然痘大流行。武智麻呂・房前・宇合・麻呂が相次いで急死
- 737年〜橘諸兄政権へ移行。藤原四家それぞれの歩みが始まる
- 740年藤原広嗣の乱(式家・宇合の子が反乱→鎮圧)

以上、藤原四兄弟(四子)のまとめでした!名前は覚えにくいけど、「4人の個性 → 長屋王の変 → 天然痘 → 四家のその後」という流れでつかめば、グッと身近に感じられるはずだよ。奈良時代の権力争いや、北家から続く藤原氏の栄華に興味を持った人は、下の記事もあわせて読んでみてね!
📅 最終確認:2026年6月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「藤原四兄弟」「長屋王」「藤原不比等」「官稲混合」(2026年6月確認)
コトバンク「藤原武智麻呂」「藤原房前」「藤原宇合」「藤原麻呂」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』
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