誰でもわかる藤原四兄弟!簡単にわかりやすく紹介!【長屋王の変や天然痘流行】

この記事は約9分で読めます。

今回は、奈良時代初期に活躍した藤原四兄弟について紹介しようと思います。

 

藤原四兄弟とは次の4人の藤原氏兄弟の総称。

  1. 藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)680年生まれ
  2. 藤原房前(ふじわらのふささき)681年生まれ
  3. 藤原宇合(ふじわらのうまかい)694年生まれ
  4. 藤原麻呂(ふじわらのまろ)695年生まれ

 

藤原四兄弟とまとめられ名前すら出てこないこともある武智麻呂ら四兄弟。

 

でも、それじゃあ可哀想ですよね?というわけで、この記事ではこの4人について詳しく見てみることにします。

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藤原四兄弟の偉大な父、藤原不比等

 

藤原四兄弟は、奈良時代初期に持統・文武・元明・元正の4代続いた天皇らから絶大な信頼を勝ち取り、官僚としても超有能なだった藤原不比等(ふじわらのふひと)の息子たちです。

 

 

藤原不比等は、血縁関係もガッチガチに固めて、盤石な状態で藤原氏の将来を4人の息子たちに託しました。

 

藤原不比等には4人の息子の他に娘もが何人かいて、藤原宮子を文徳天皇の妻に、藤原光明子を聖武天皇の妻として嫁がせます。

 

当時は「天皇の正妻(皇后)は、皇族のじゃないとダメだからな」という文化があったので、いずれも正妻ではありません。(藤原光明子は、後に皇后になる)

 

系図で整理するとこんな感じ。

当時、皇族官僚の最有力者だった長屋王にも娘を嫁がせています。

 

父藤原不比等の活躍や功績。そして、妹らを通じた天皇や有力者との結びつき。

 

これらを受け継いで、時代を担おうとしていたのが藤原四兄弟だったのです。

 

藤原不比等は控えめに言ってすごい。ちなみに藤原不比等は720年に亡くなっています。

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藤原武智麻呂と藤原房前

【藤原武智麻呂】

724年に聖武天皇が即位すると、藤原四兄弟らが次々と朝廷内で躍進していきます。

 

最初に中央政界に進出したのは、長男、次男の武智麻呂と房前。

 

2人とも親の七光りだけで出世したわけではなく、政治家としても有能でした。

 

 

724年時点で武智麻呂は中納言、房前は内臣という役職でした。

 

ちなみに、当時の朝廷の役職は左大臣、右大臣、大納言、中納言の順に偉い!

 

房前の内臣が書かれてないのは、内臣は常設の役職ではないのが理由です。大臣級な権限を持つので武智麻呂よりも高いの官位だったと言えます。

 

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藤原四兄弟は実は不仲だった説

 

藤原四兄弟、4人まとめて表現されるので「みんな仲良し!」みたいなイメージがあるかもしれませんが、「実は仲悪かったんじゃね?とくに武智麻呂と房前。」なんて説もあります。

 

というのも、当時の官位は兄弟であるなら、普通は年功序列なのになぜか藤原房前の方が官位が高いからです。

 

藤原房前自体はとても頭が良く、政治的な素質も持っていたので、単に房前の方が適任だった・・・というだけかもしれませんが、それでも房前と武智麻呂の間になんらかの軋轢があったのでは?と言われているのです。

 

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藤原宇合と藤原麻呂

【藤原宇合】

藤原宇合も藤原麻呂も、聖武天皇が即位した724年時点では、それほど高い官位ではありません。

 

724年、藤原宇合は東北他方の蝦夷の反乱を抑えるため、遠征軍のトップに選ばれ、蝦夷の反乱を鎮圧。

 

藤原宇合はその後も活躍を続け、次々と出世。藤原宇合は房前らのように腰を据えて事業を計画・立案するというよりも、蝦夷の反乱鎮圧や都の建設など、主要事業の実働部隊としての活躍が目立ちます。

 

藤原麻呂は四男ですが、四兄弟のうち藤原麻呂だけは母が違います。(武智麻呂と仲の悪かった可能性のある房前も母が違う説もある)

 

武智麻呂らとは異母兄弟だからなのか、それとも単に四男だからなのか麻呂の昇進は他3人よりも遅れます。724年時点では、京職と言って平城京の管理役のような仕事をしていました。

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藤原四兄弟と長屋王

 

聖武天皇が即位した頃は、武智麻呂・房前が朝廷の要職に就きましたが、当時の官僚トップは左大臣の長屋王でした。

 

偉大な父である藤原不比等を親に持つ藤原四兄弟は、時代にこれを不満に思うようになります。

 

「俺らの実力や父の功績、姉妹との天皇家との結びつきを考えれば、官僚トップは長屋王じゃなくて俺ら(特に長男の武智麻呂)だろ」

 

さらに、聖武天皇に嫁いだ藤原光明子も天皇の正妻(皇后)になりたいのに、「皇族以外の者が皇后になるとは前代未聞」という皇族の立場を守りたい長屋王のスタンスについて、

 

「長屋王が消えて、兄弟の藤原四兄弟が政権を牛耳れば私も皇后になれるのに!」

 

と不満だったとも言われています。

 

聖武天皇は、病弱でメンタルも弱めだったので藤原光明子がそれを影から支えていました。そのため、聖武天皇に物申せる藤原光明子の政界への影響力はとても強かったのです。

 

727年、聖武天皇と藤原光明子の間に基王(もといおう)が生まれました。聖武天皇がこの基王を生後わずか一ヶ月で皇太子としたことで、朝廷内には激震が走ります。

 

当時は、政務能力のない者に天皇即位の資格はないと考えられていたので、これはかなりヤバイ出来事です。

 

というか、皇后になりたい藤原光明子と皇后になった光明子を後ろ盾に権力を掌握したい藤原四兄弟が暗躍していることはほぼ確定でしょう。

 

基王が即位し、藤原四兄弟が権力を握れば、まるで645年の乙巳の変で滅びた蘇我氏の再来です。基王の誕生によって、権力を掌握しようとする藤原派とそれを阻止しようとする皇族派の間に微妙な空気が流れます。

 

ところがこの基王、わずか一歳で夭折(ようせつ。若くして亡くなること)。すると、次は長屋王の息子が皇太子候補として浮上します。こうなると次は藤原氏が良く思いません。

 

 

皇族VS藤原氏、拮抗したパワーバランスで政界は維持されていましたが、729年、長屋王が讒言により自害する事件が起こります。これが長屋王の変と呼ばれる非常に闇の深い事件。詳しくは以下の記事を。

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軍務経験もある藤原宇合が兵を派遣し、長屋王邸を包囲。その後、藤原武智麻呂が長屋王ら関係者を糾問。そして最後に長屋王が自害することで事件は終焉に向かいます。

長屋王の変と藤原四兄弟

一般的に、長屋王の変は藤原光明子や藤原四兄弟が邪魔者の長屋王を謀略で自殺に追い込んだ事件として語られます。

ところが、藤原四兄弟の中でも藤原房前に関しては長屋王の変に関与していないんじゃないか?という説もあったりします。

 

上で説明したように、藤原房前は皇族との協力しながら政治を行いたいと考えていました。それに色々と不自然な点もあります。

 

  • 藤原宇合が長屋王邸に派遣した兵が、房前の部下だった。(意図的に房前を長屋王邸包囲作戦から外した可能性)
  • 長屋王の変の後、房前だけが昇進しなかった。

 

これも今となっては何が真実なのかわかりませんが、藤原四兄弟と一言に言っても内実は色々複雑なわけです。

 

長屋王の変の首謀者の1人だった藤原武智麻呂は、その後房前を抜いて昇進。それまでは房前が四兄弟の第一人者でしたが、その座も藤原武智麻呂のものになります。

 

うーん、やっぱり藤原房前と他3人には何かありそうです。

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藤原四兄弟と天然痘

長屋王の変の後、藤原四兄弟は著しい出世を遂げます。

 

朝廷には「参議」と呼ばれる9人の選ばれし者がいて、朝廷の最高合議機関のメンバーでした。武智麻呂と房前は既にこのメンバーに入っていましたが、長屋王の変をきっかけに宇合や麻呂も参議に。9人中4人が兄弟というトンデモナイことになってしまいます。

 

 

参議の話し合いになると当然4人の影響力が強いわけで、この時代の政治は藤原四子政権なんて呼ばれています。

 

ところが737年、朝廷で天然痘が大流行。ばったばったと人々が亡くなっていきます。

 

まず最初に亡くなったのが、藤原房前。737年4月に亡くなります。

 

次に亡くなったのは藤原麻呂。東北遠征に戻った後間も無く亡くなりました。737年7月。

 

その後も同じく737年7月、武智麻呂・宇合も次々と死亡。

 

偉大な父を持ち、藤原光明子という強力なバックアップもあり、自らも能力が高く非の打ちどころのなさそうだった藤原四兄弟ですが、天然痘の前にあっさりと命を落としてしまいます。

 

藤原四兄弟の他にも、多くの貴族が亡くなり朝廷は大パニック。事態を収拾するため、左大臣に橘諸兄という皇族出身の人物が就任することで、藤原氏の世は一度終わりを迎えることになります。(少し経つと藤原仲麻呂という人物が大暴れします)

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皇族サイドの視点に立てば、藤原氏無双になりそうだったところを天然痘になんとか助けてもらった形です。この天然痘の流行は、長屋王の祟りと呼ばれ多くの人々が恐れたと言います。そして、おそらく冤罪と知っていながら長屋王を自害に追い込んだ聖武天皇は良心の呵責に苛まれ苦しみ、長屋王の怨霊を生んだ張本人としての強い自覚も持っていたものと思います。

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藤原四兄弟の子孫たち

最後に藤原四兄弟の子孫たちを簡単に紹介しましょう。

 

藤原武智麻呂(藤原南家)

武智麻呂の家が藤原南家と呼ばれますが、その子孫で一番有名なのが藤原仲麻呂(別名:恵美押勝)でしょう。後に調停を牛耳る男です。詳しくは以下の記事を。

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さらにもう一人、藤原豊成(ふじわらのとよなり)という息子もいます。仲麻呂とは仲が悪く、虐げられていましたが、藤原仲麻呂が乱を起こして亡くなると道鏡政権下で活躍しました。

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藤原房前(藤原北家)

藤原北家は、平安時代中期の藤原道長をも輩出した名門中の名門。

 

平安時代初期には房前の孫にあたり、藤原冬嗣という人物が重用されたのは有名な話。

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その後も摂関政治の基礎を築いた藤原良房・藤原基経と大権力者が次々と生まれます。

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藤原宇合(藤原式家)

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もう1人、藤原百川(ふじわらのももかわ)という人物も有名です。藤原百川は桓武天皇即位に尽力した人物で、桓武天皇から重用されることになります。

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この記事を書いた人
もぐたろう

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