面白いほどわかる桓武天皇!【長岡・平安京遷都から政治・生涯(年表付き)まで】

今回は、平城京から平安京へ遷都したことで有名な桓武天皇かんむてんのうの生涯に迫ります。

桓武天皇は平安京遷都ばかりが有名ですが、実は東北地方に住んでいた蝦夷えみしと熾烈な戦いを指導したことでも有名です。というわけで、この記事では桓武天皇について以下の点を中心にお話をしてきます。

  • 桓武天皇の複雑な即位までの流れ
  • 桓武天皇が平安京へ遷都した理由
  • 桓武天皇が東北の蝦夷と戦争をした理由
  • 桓武天皇の生涯まとめ(年表付き)
スポンサーリンク

血みどろの天皇即位

桓武天皇は781年に即位しますが、その即位は多くの皇族が血を流し、あるいは失脚していきました・・・。最初に、そんな桓武天皇が即位するまでの経過をお話ししておきます。

ドクロマークが犠牲となった人たち。
詳細は記事を読んでいただけるとわかりますよ!

当時の人々は、皇族を大きく天智天皇の子孫と天武天皇の子孫の2つに分類して見ていました。上の系図では、天武系を赤、天智系を青としています。(緑色はそれ以外!)

  • 天武天皇の子孫(天武系):赤色
  • 天智天皇の子孫(天智系):青色
  • どちらでもない:緑色

奈良時代、天皇は天武系の男性がなるべきと考えられていました。なぜかというと、飛鳥時代末期(672年)に起こった天武系と天智系の皇位継承争い「壬申の乱」で天武天皇が大勝利にしたからです。

ところが、上の系図の左下、49代目の光仁天皇こうにんてんのうを見てください。ここで天皇が天智系に変わっていることがわかります。

なぜこんなことになったかというと、前代(48代)の称徳天皇在位中、天武系の男性たちが熾烈な皇位継承争いをしているうちに、みんな失脚or命を落としてしまったからです。カオスだったんです当時の平城京は・・・。

光仁天皇の即位は、天武系の敗北を意味します(しかも自滅・・・!)。しかし、光仁天皇は天武系の井上内親王いのえないしんのうを皇后に持ち、その間に息子(他戸親王たとしんのう)がいました。だから、他戸親王が即位すれば天武系の血筋はかろうじて維持できるわけです。

天皇の血筋は、「父親が誰であるか・・・」(男系)が最も重要視されました。だから、他戸親王は母(井上内親王)から天武系の血を受け継いでいても、血統的には天智系となります。

なので、「母(井上内親王)から天武系の血筋を受け継がせるからセーフ!」と言うのも実はかなりの苦肉の策だったんです。

770年に光仁天皇が即位すると、771年にはその他戸親王が皇太子となります。

【皇太子】

次期天皇候補のこと。

・・・ところが772年、事件が起こります。光仁天皇の耳にこんな密告が入ってきたのです。

藤原百川
藤原百川

皇后の井上内親王が、何やら帝を呪詛してよからぬことを考えております・・・!

この密告の中心人物だと言われているのが藤原百川ふじわらのももかわという男。朝廷の高官であり、光仁天皇は百川を深く信用していたので、この密告を信じました。

これにより、井上内親王は皇后の身分を剥奪。そして道連れ的に息子の他戸親王の皇太子の身分も剥奪され、次の皇太子に山部親王やまべしんのうという人物が選ばれ増田。この山部親王こそが、後の桓武天皇です。

密告の理由はもちろん、山部親王を皇太子にするためです。山部親王(桓武天皇)は非常に優秀な人物であり藤原百川との血縁関係もあったので、百川は桓武天皇の即位を強く望みました。

百川は謀略を用いてこれを勝ち取った・・・というわけです。(密告の背景には藤原一族内の争いなど様々な要因が絡み合っていておそらく実際はもっと闇が深い)

ちなみに、他戸親王と井上内親王は幽閉され、幽閉先で謎の死を遂げることに・・・。

781年、光仁天皇が譲位して、山部親王が桓武天皇として即位。

これと同時に桓武天皇の弟だった早良親王さわらしんのうが光仁天皇の指名により皇太子となります。

桓武天皇は上の系図を見てわかるように天武系の血筋ではありません。これに不満を持ったのが氷上川継ひがみのかわつぐという人物。天武系の血筋ですが、失脚して皇族の身分を失い「氷上」と名乗っていました

氷上川継
氷上川継

次の天皇は血筋的にどう考えても天武系の俺だろ。

桓武天皇ぶっ潰す・・・!

782年、氷上川継は平城宮へいじょうきゅうを襲撃する軍事クーデターを計画しますが、ギリギリのところで朝廷にバレて失敗。命までは奪われなかったものの、氷上川継とその母の不破内親王ふわないしんのうは僻地へ飛ばされてしまいます。

【平城宮】

平城京にある朝廷のある場所。天皇もそこに住んでいた。

こうして、他戸親王、氷上川継と桓武天皇のライバルは次々と消えていきました。(もう少し経つと早良親王も消されます)

スポンサーリンク

桓武天皇「平城京は問題多すぎだから遷都する」

784年、桓武天皇は長岡京ながおかきょうへの遷都を宣言します。遷都の明確な理由はわかっていませんが、考えられる理由はいろいろあります。

考えられる遷都の理由
  • 平城京の腐敗した仏教勢力が政治に介入してくる(道鏡事件が有名)
  • 天武系天皇が建設した平城京と決別して人心を一新したい
  • 水陸ともに交通の便が便利な場所を首都にしたい

などなどです。

首都には全国から税(租・調)が集められます。その運輸には開けた陸路と水運にはどうしても便利な大きな川が必要でした。(平城京には大きな川がなかった・・・!

こうして遷都先に決められたのが長岡京でした。参考までに平城京・長岡京、そして平安京の地図を載せておきます。地理を見てみると桓武天皇の意図がよく分かります。拡大して見ると平城京にだけ大きな川が近くにないことがわかると思います。

青が平城京、赤が長岡京、緑が平安京です。

スポンサーリンク

長岡京の挫折

当然ながら、長岡京の遷都には大きな反対がありました。平城京で恩恵を受けている貴族や南都六宗なんとろくしゅうの僧侶たちです。

785年、事件は起こりました。桓武天皇から長岡京建設を任されていた藤原種継ふじわらのたねつぐが何者かに暗殺されたのです。もちろん、種継を殺したのは遷都に反対する貴族や僧侶たち。

しかしこの事件で大問題になったのは、首謀者と思われる人物の中に皇太子の早良親王がいたことです。

早良親王は淡路島へ島流しにされますが、淡路に向かう途中に自ら命を断ってしまいます。そして、早良親王の代わりに桓武天皇の息子だった安殿親王あてしんのうが皇太子となります。

皇太子だった早良親王は、桓武天皇にとって邪魔な存在でした。なぜなら桓武天皇に息子が生まれても、早良親王がいるせいでその息子を天皇にできないからです。

しかし、早良親王を皇太子に指名した光仁天皇は782年に崩御しています。なので、藤原種継暗殺事件をきっかけに早良親王を消すこともできるわけです。つまり、桓武天皇はこんなことを考えたかもしれない・・・ってことです。

桓武天皇
桓武天皇

藤原種継暗殺事件を利用して、早良親王を犯人にでっち上げてその存在を消してしまおう。

実際、早良親王が無実の罪で桓武天皇にハメられた・・・という説が有力なようです。ただ、はっきりしたことはわかっておらず真実は闇の中です。

終わってみれば、桓武天皇のライバルになりうる氷上川継・他戸親王・早良親王は全て政界から排除され、早良親王の死によって桓武天皇の地位は盤石なものになります。

うーん、闇が深い・・・。

スポンサーリンク

桓武天皇「長岡京は呪われてヤバイ。平安京へ遷都な」

早良親王の排除自体は桓武天皇にとってプラスの出来事ですが、早良親王の死をきっかけに桓武天皇の周りでは不吉な出来事が多発するようになります・・・。

不吉な出来事一覧(多すぎ・・・!)
  • 787年:桓武天皇の妻だった藤原旅子ふじわらのたびこ亡くなる
  • 790年:桓武天皇の正妻(皇后)の藤原乙牟漏ふじわらのおとむろ亡くなる
  • 790年:桓武天皇の母、高野新笠たかののにいがさ亡くなる
  • 790年:長岡京で天然痘てんねんとうが大流行
  • 790年:盗賊が伊勢神宮を焼く
  • 790年:皇太子の安殿親王が病に倒れる(命は大丈夫だった)

見てわかるように特に790年は桓武天皇にとって地獄のような一年でした。桓武天皇は思います。

桓武天皇
桓武天皇

ヤベェよ・・・これ絶対に早良親王の祟りだよ・・・。

早良親王は、長岡京の建設に反対して命を落とした。ってことは、長岡京はすでに早良親王の怨霊によって呪われてるんじゃね?

しかも、身内が多く亡くなった今、その災いは私自身に降りか買ってくるかもしれない・・・(恐怖)

早良親王の怨霊に恐怖した桓武天皇は、長岡京からの一刻も早い遷都を目指し、動き出します。新しい都の場所を今の京都と定め、793年に建設開始。794年には遷都を実行します。

こうして出来上がったのが平安京です。

結局、長岡京は10年で放棄されることになります。(しかも100%の完成を見ないまま)おまけに、短時間の2度にわたる遷都は民衆たちに大きな負担を強いることになりました。

スポンサーリンク

桓武天皇「東北地方の蝦夷と戦争するぞ」

民衆たちの負担は遷都だけではありません。桓武天皇は長岡京・平安京への遷都と同時並行で、朝廷に服従しない東北地方の蝦夷たちと戦争をしていました。

天皇自ら遷都と戦争という2大事業を指導したのは桓武天皇ぐらいなんじゃないかと思います。かなりアクティブな天皇です。

実は奈良時代というのは、朝廷の支配を拒む東北の蝦夷たちとの戦いの歴史でもあります。朝廷軍と蝦夷は交戦と休戦を繰り返し、数十年にわたり不穏な情勢が続いていました。

780年、蝦夷がそれまでにない大反乱を起こします。首謀者は伊治呰麻呂これはりのあざまろという男。

当時、朝廷は多賀城たがじょうを拠点として胆沢地方の攻略を進めていましたが、伊治呰麻呂が朝廷から寝返り多賀城を襲撃。多賀城は焼け落ち、朝廷は重要な東北の拠点を失いました。(すぐに再建されるけど・・・)

この対応に迫られたのは、桓武天皇の父である光仁天皇。しかし、老齢となっていた光仁天皇は781年にすぐに桓武天皇に譲位し、蝦夷討伐を桓武天皇に託します。

ところが、桓武天皇はすぐに本格的な軍事作戦を行うことができません。なぜなら、桓武天皇は即位してすぐに長岡京の建設に着手するからです。当時の国力では、戦争と遷都を同時に行うのは不可能でした。

784年に長岡京の遷都がひと段落すると、788年にようやく蝦夷討伐の準備が進められます。蝦夷討伐の歴史は以下の時系列でまとめておきます。

蝦夷討伐戦

伊治呰麻呂の乱から数えて約20年を経て、桓武天皇はようやく蝦夷を平定することができました。坂上田村麻呂は朝廷内で著しい出世を遂げ、桓武天皇から清水寺を譲り受けることになります。

スポンサーリンク

遷都と戦争の背後にあるもの

こうして、桓武天皇は遷都と蝦夷平定という2大事業を成し遂げました。どちらも決して平坦な道ではありません。遷都では長岡京に失敗を味わい、蝦夷との戦争では数度の敗北をすることになります。

そして、これらの事業を成功させるには何よりもまず財源(租・庸・調)が必要でした。

しかし、当時の朝廷は納税額の低下に頭を悩ませていました。原因は大きく2つありました。

  • 地方の役人(国司)が私腹を肥やして、納税をサボった。
  • 重税に苦しむ農民たちが農地を放棄して逃亡した。

桓武天皇は遷都と戦争という派手な事業の裏で、税収確保に向けた対応も忘れません。

まず、勘解由使かげゆしという国司の不正を監視する役職を創設します。任期を終えた国司は、その前に勘解由使による監査を受け、脱税がないかチェックを受けることになります。もちろん、脱税があった場合は、その分の支払いしなければなりません。

一方、農民に対しては色々と減税措置も実施します。専門用語が多くてわかりにくいかもしれませんが、一応箇条書きしておきます。

  • 負担を強いていた班田のサイクルを6年から12年へ延期。
  • 公出挙くすいこの利率を50%→30%に軽減
  • 雑用ぞうよう(肉体労働)の義務を60日間から30日間に半減

これらの政策に合わせて805年、平安京のこれ以上の建設と胆沢より北の蝦夷討伐を中止します。もちろん、民衆への負担を考慮してのことです。

このほか、平安京に遷都をすると南都六宗に代わる平安京に相応しい仏教を求めるようになります。(平城京で栄えた南都六宗は政治と結びつき腐敗していて、桓武天皇はそれを嫌った)

桓武天皇は最澄さいちょうという僧侶を重宝し、804年には最澄を唐に留学させて密教みっきょうと呼ばれる新しい仏教思想を持ち込みます。(この時、学生として空海くうかいも留学していた)

806年、桓武天皇の支援を受けた最澄は日本で天台宗てんだいしゅうを開き、同年桓武天皇は崩御してしまいます。

スポンサーリンク

桓武天皇の年表まとめ

桓武天皇の生涯まとめ



奈良時代
もぐたろうをフォローする
この記事を書いた人
もぐたろう

薄給サラリーマン。まなれきドットコムを運営しています。
趣味はブログ・プログラミング・投資。

もぐたろうをフォローする
まなれきドットコム

コメント