誰でもわかる聖武天皇!簡単にわかりやすく徹底解説【奈良の大仏と仏教に捧げたその生涯とは】

今回は、奈良の大仏を建立したことで有名な聖武天皇(しょうむてんのう)について紹介します。

この記事を読めば、聖武天皇がどんな人物だったかバッチリわかるはずです。

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聖武天皇が即位するまで

まずは、聖武天皇が即位するまでのお話。

当時の日本は、皇位継承問題が内紛にまで発展した壬申の乱が発生してから半世紀も経っていません。人々は再び壬申の乱のような内乱が起こることを恐れていました。なので、壬申の乱の後、乱の勝者である天武天皇の血統を中心に、皇位継承問題が起こらぬよう天皇即位には細心の注意が払われます。

そして、そんな壬申の乱後の神経質な皇位継承の過程がよーくわかるの聖武天皇の即位になります

事の発端は持統天皇が数ある天武天皇の息子たちの中から時期天皇に自分の息子である草壁皇子を選んだことでした。選んだというか・・・草壁皇子を即位させるために反乱分子になりそうな皇族(大津皇子)を消しました。(怖い)

ところが、本命の草壁皇子が不運にも若くしてなくなってしまいます。そこで持統天皇は草壁皇子の子(つまり持統天皇の孫)を即位させることにしました。この持統天皇の孫は文武天皇としてわずか14歳で即位。697年でした。

ところが、この文武天皇も707年、生まれつき病弱だったのもあって25歳という若さでなくなってしまいます。不幸中の幸いか、文武天皇はしっかりと子を残して亡くなっており、子の名前は首皇子(おびとのみこ)。後の聖武天皇です。

文武天皇が亡くなった当時、次期天皇になりうる皇族はたくさんいましたが、壬申の乱のトラウマがある朝廷幹部は、文武天皇の血統を重視し、他の皇族たちが皇位を狙う動きを押さえようとします。文武天皇の息子は幼き首皇子しかいなかったので、自然と首皇子が次期天皇候補として浮上します。

ちなみに、なぜここで文武天皇の血統が重視されたかというと、朝廷におけるパワーバランスに理由があります。詳細については不明な点が多いですが、藤原不比等という当時の超スーパーエリート官僚の存在が大きかったと言われています。

藤原不比等は、その能力の高さから持統天皇・文武天皇の信頼も厚く、娘の藤原宮子という人物を文武天皇に嫁がせていました。そして、文武天皇とその藤原宮子の間に生まれたのが聖武天皇なんです。そのために、文武天皇の血統が重要視された背景には藤原不比等の大きな影響力があったんじゃないか?といわれるわけです。

しかし、文武天皇が亡くなった当時、聖武天皇はわずか7才。天皇即位には若すぎました。そこで、聖武天皇が即位するまでの繋ぎ役として聖武天皇の母だった元明天皇が即位します。日本では、皇位継承の繋ぎ役は女帝というセオリーがあります。元明天皇もその例に漏れず女帝としての即位です。

聖武天皇の実の母は藤原宮子という人物でしたが、産後間もなく精神障害に陥り、聖武天皇は成人するまで宮子と会うことはなく元明天皇によって育てられたという少し複雑な経緯があります。

元明天皇は即位するとすぐ、「私は聖武天皇が成長するまでの繋ぎ役。正式な天皇の血統は聖武天皇だから!」と公に明言して、皇位を狙うライバルを牽制します。

ところが、元明天皇はこの繋ぎ役を最後まで全うすることができません。715年、元明天皇は「もう疲れました・・・」(超訳)というのを理由に譲位してしまいます。表向きな理由は「疲れた。もう無理」という私的な理由ですが裏では何かあったのかもしれないし、なかったのかもしれない。

ただ、少なくともその治世が大変だったのは事実だと思います。壬申の乱のあと、皇族の地位を高めた天武天皇以降、「天皇の父は皇族であることは当然だけど、母も皇族出身じゃないとダメだよね」って風習がありました。これは、天武天皇が皇族崇拝政策を採っていて、天皇家を狙って血縁関係を結ぼうとする輩を排除しようとする意図があります。

ところが、聖武天皇の実母は藤原氏です。しかも、壬申の乱では母が皇族でない大友皇子という人物と、母が皇族の大海人皇子(天武天皇)が皇位を争いました。

皇族の母を持たない聖武天皇が即位することは壬申の乱のデジャブに感じる人もいたはず。聖武天皇の即位に反対するものも少なくなかったのです。だからこそ、元明天皇は即位と同時に聖武天皇の皇位継承の正当性をアピールしました。

そんな敵も多い中、聖武天皇の立場を守ることはとても神経をすり減らす仕事だったのだろうと思います。

次に即位したのも女帝で元正天皇と言います。血筋的には文武天皇の姉。聖武天皇は甥っ子に当たりました。元正天皇が選ばれた理由は独身の女性だったから。独身なら夫の血縁者が皇位を狙ってくるってこともないですからね。

元正天皇は聖武天皇が成長するまでの繋ぎ役を無事こなし、724年、遂に聖武天皇が即位します。

文武天皇の崩御後、元明天皇と元正天皇という繋ぎ役の2人の女帝に守られ、ようやく即位したのが聖武天皇だったのです。

聖武天皇即位の背景から、藤原不比等の影響力の大きさと当時の人々が壬申の乱をトラウマに感じて皇位継承問題にシビアになっていたことがわかります。

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皇族VS藤原氏!長屋王の変

聖武天皇が即位した当時、朝廷内の最高幹部は長屋王(ながやおう)という皇族でした。前の最高幹部だった藤原不比等は既に他界しています。

長屋王は血筋的には皇位に関して聖武天皇と対立する立場でしたが、当時は聖武天皇の信頼も厚くエリート官僚として活躍していました。

長屋王は当時生粋の大富豪だったことでも知られていて、「皇位を諦めてくれたら金やるよw」的な交渉があったんじゃないか?なんて言われています。

ところが、この長屋王の活躍を良く思わない人物がいました。それが前権力者だった藤原不比等の息子たち。四人の息子がいて、まとめて藤原四兄弟とか藤原四子とか言われています。

藤原四兄弟「俺らってさ、偉大な藤原不比等の息子なのに長屋王に朝廷最高幹部の座を奪われてるのおかしくね?なんか納得できないんだけど」

藤原四兄弟は、長屋王を貶めるため、一計を案じます。長屋王が皇位簒奪を狙い聖武天皇を呪詛しているとの嘘の密告を行い、長屋王を自害に追い込みます。この長屋王の一連の事件を長屋王の変と言います。長屋王自身には謀反の意図はなく、藤原四兄弟の謀略だと言われていますが、一応長屋王の変という名前がついています。

ここでは長屋王の詳しい話は省略しますが、詳細は以下の記事をどうぞ。

母が藤原氏である聖武天皇の即位、そして長屋王の死とそれに伴う藤原四兄弟の躍進。

天武天皇が目指した皇族中心の政治は聖武天皇の時代なると少しずつ崩壊することになります。そして、その崩壊を加速させるさらなる出来事が朝廷では起こります。

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聖武天皇の妻(藤原光明子)が皇族じゃない問題

長屋王が消えるとすぐ、聖武天皇の嫁さんだった藤原光明子(ふじわらのこうみょうし)が皇后(天皇の正妻)となります。

当時は皇后は、皇族出身の女性がなることが普通だったのでこれは異例の事態です。多くの批判があっただろうことは用意に想像できます。真相は闇のなかですが、「長屋王が自害に追い込まれたのも、藤原光明子が皇后になることを長屋王が反対したからでは?」なんて言われることもあります。

今も昔も、政治の世界は陰謀術数が跋扈して、ほんと血生臭いぐらいドロドロしてますね。

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天然痘、襲来

長屋王を消して、姉妹の藤原光明子を皇后にした藤原四兄弟が俺たちの時代がやっときたぜ!とウキウキしていたとき、平城京に天然痘が流行。

多く人が亡くなり、朝廷の貴族たちもその例外ではありませんでした。この天然痘で、なんと藤原四兄弟はみんな亡き者に。

藤原不比等時代の再興の夢は露と消え、朝廷では天然痘の生き残りである橘諸兄(たちばなのもろえ)と長屋王の息子だった鈴鹿王と言う人物が官僚トップとして力を持つようになりました。

橘諸兄も鈴鹿王も皇族の血を引く人物なので、藤原氏に押され気味だった皇族勢力が息を吹き替えすことになります。

この天然痘の流行は、当時の盛んに行われていた遣隋使が大陸から持ち込んだものと言われていますが、藤原四兄弟が全滅したことから当時は長屋王の怨霊の仕業と考えられていました。

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聖武天皇の生涯のトラウマ「藤原広嗣の乱」

陰謀術数による長屋王の自害。そして天然痘による人々の大量死。

聖武天皇は無力でした。この他にも大地震に見舞われるなど、とにかくネガティブなニュースが多いのが聖武天皇の治世。

これに追い打ちをかけるように、次は九州で大規模な反乱が起こります。素行が悪く太宰府に左遷させられていた藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)が、「最近、天災が多いのは朝廷の要職に吉備真備とか玄昉とかどこの馬の骨かもわからんやつに政治を任せるからだ!!この2人をクビにしろ!」と聖武天皇に文章で直訴。要するに「藤原氏をもっと優遇しろ!」と間接的に言っているわけです。

聖武天皇はこれを知り、朝廷の決定事項を覆そうとする藤原広嗣に謀反の意志ありと判断。兵を九州に派遣し、藤原広嗣を捕らえようとします。

謀反人にされてしまった藤原広嗣。このまま何もしなければ殺されてしまうかもしれません。そこで、聖武天皇が派遣した兵に対抗するため、藤原広嗣も挙兵。藤原広嗣は、長年朝廷の支配に不満を持っていた九州地方の隼人(はやと)という人々を中心に兵を集め、反乱を起こしたのです。

おそらく、藤原広嗣に謀反の意図はなかったのだろうと思います。ですが、聖武天皇が兵を送ってきた以上、それに対抗せざるを得なくなり、それが結果的に反乱になってしまったのです。聖武天皇が直訴を「謀反」と捉えてしまったことは広嗣に採って最大の誤算だったことでしょう。

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聖武天皇と遷都

皇族と藤原氏の政争、天然痘や地震などの天災、挙げ句の果てに部下が大規模な反乱まで起こしてしまい、聖武天皇はその責任に苛まれ、遂にメンタルが崩壊。

九州で藤原広嗣軍と朝廷軍が戦っている頃、聖武天皇は突如として旅行に行ってしまいます。(天皇が都の外へ外出することを「行幸(ぎょうこう)」と言います)

それにしても、戦時中に突如として天皇が都を離れるとは異常です。おそらくは、不吉な出来事が次々と起こる平城京に嫌気がして、一刻も早く平城京を離れたかったのでしょう。

聖武天皇の行幸中、恭仁京(くにきょう)への遷都を決定します。この土地は当時の官僚トップだった橘諸兄の本拠地。奈良から若干北上したところに位置しています。聖武天皇は不吉な平城京を離れた時から既に遷都を考えていたんだと思います。

こうして民を集め、必死の恭仁京建設が始まりました。これが740年の話。

ここからドンドン聖武天皇の欲求がエスカレートしていきます。

742年、聖武天皇「恭仁京もいいけど、離宮として南の方に紫香楽宮(しがらきのみや)も建設したいなー。」

743年、聖武天皇「いいこと思いついた!紫香楽宮に大仏作ろう!みんな頑張ろう!」

744年「うーん、恭仁京もいいけどやっぱ難波がいいよね。恭仁京への遷都はやめて難波の宮つくろーっと」

遷都遷都って簡単に言いますけど、遷都にはとてつもない労働力と財力が必要になります。恭仁京や紫香楽宮あたりの建設はそれなりに進みましたが、紫香楽宮での大仏建立や難波への遷都については、流石に頓挫します。

紫香楽宮では、人為的とも思える不自然な山火事が多発。難波への遷都には反対意見が多数。聖武天皇も批判的な空気を感じ取ったのか、ついに遷都を断念。

745年5月、聖武天皇は再び平城京に戻ってきます。聖武天皇が平城京を離れたのは740年10月のことなので、約5年の間、迷走する遷都騒ぎが続いたのでした。

この不毛な遷都騒ぎによって、負担を強いられた多くの民が苦しむことになります。

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聖武天皇「平和のために大仏造るわ!!!」

色々と頓挫した遷都騒ぎでしたが、743年に紫香楽宮で建てる予定だった大仏建立だけは平城京に場所を移して、計画が実行されることになりました。

これが今でも有名な奈良の大仏となります。大仏自体は立派だし、建立することも素晴らしいと思います。しかし、大仏を建立するに至った経過はなんとも微妙で、聖武天皇の負のオーラが見え隠れします。

大仏造立の詔

大仏造立の命令は、743年に紫香楽宮にて聖武天皇によってなされましたが、この時の聖武天皇の所信表明を見てみましょう。ちなみにこれは教科書的に言えば「大仏造立の詔」と呼ばれるもの。

「仏教によってみんなを救いたいから廬舎那大仏の金銅像一体を造ることにする。国中の銅を尽くして像を鋳造し,大山から木を伐り出して仏殿を建てることで、仏教を信仰する多くの人と共に救いを得たいと思う。天下の富と権威をあわせ持つ者は私である。この富と権威とをもってすれば大仏造立は容易いが,それだけではダメだ。人々が強制的な労働によって働かされるのではなく、みなが仏教を信じ自発的に大仏造立に協力してもらわないといけない。もし,一枝の草や一握りの土でも持ちよって大仏造立に協力を願い出る者があれば,許し受け入れよ。国郡の役人は,この造立事業にことよせて人民の生活を乱し無理な税を取り立ててはならない。」

聖武天皇の心意気がよーくわかります。というか、遷都騒ぎで迷走していた聖武天皇とはもはや別人!言ってること超カッコいい。

聖武天皇は奈良の大仏を造立すれば、仏法の力で民たちや自分自身が救われる!と本気で思っていました。しかし、このような夢物語の前に、実に現実的な問題が立ちはだかります。

まず、圧倒的に人手が足りない。冷静に考えれば貧しい民に、自発的に大仏造立を手伝える余裕なんてありません。

そこで困った聖武天皇が頼ったのが、民に超人気だった行基(ぎょうき)という僧侶でした。行基は国から正式な僧として認められていない私度僧(しどそう)でしたが、大仏造立に協力することを条件に正式な僧として認められます。

この行基という僧侶は、とにかく民衆たちからの人気がもの凄い。行基が町にやってくると、みんなが行基の元に集まるので町の中がすっからかんになってしまう・・・と言われたほど。

そんな行基が「奈良の大仏作るわ〜」なんて言えば、行基を慕う民たちもこぞって大仏造立に参加してくれます。こんな感じで、行基が中心となり大仏造立は進みました。

七百五十二年に大仏は完成しましたが、最大の功労者だった行基はすでに亡くなっていました。地味だけど何気にすごい人物なので、気になる方は以下の記事も読んでみて欲しいです!

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聖武天皇の信仰心

大仏造立の所信表明演説からもわかるように聖武天皇は仏教を深く信仰していました。

聖武天皇の仏教にまつわる話はいくつかあって、741年に国分寺と国分尼寺を日本各地に建立すること決めます。聖武天皇、ガチで公共事業しすぎw労役を強いられた民にとって聖武天皇はどう映ったのでしょうかね・・・。

国分寺・国分尼寺には写経が安置されました。というよりも、写経を安置する建物としてお寺を建立しました。

国分寺には「金光明経」、国分尼寺には「法華経」が納められていました。金光明経の中に「このお経を供養すれば、四天王の力で国を災いから守ってくれるよ」的なことが書いてあり、これが国分寺・国分尼寺建立の大きな動機となりました。

さらには聖武天皇直筆の書が正倉院に残されているのですが、その内容からも聖武天皇が仏教を深く信仰していたことを知ることができるそうです。それが下の画像。

「できるそうです」なんて書いたのは私自身、読めないから。笑
ここで気になるのは聖武天皇の書く文字です。とても綺麗で繊細な字です。繊細だからと言ってナヨナヨした字というわけでもなく、一文字一文字しっかりと書かれています。聖武天皇の人柄がその字に現れているようです。

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晩年

740年の藤原広嗣の乱以降、政治への関心を失いつつあった聖武天皇。749年に娘の阿倍内親王に譲位し、その後は仏教に人生の全てを捧げました。

752年には悲願の東大寺毘盧遮那仏が完成。

754年には、唐からやってきた鑑真と会い、授戒(じゅかい。えらい僧侶さんに正式に僧と認めてもらうこと)。

そして756年、聖武上皇は道祖王という人物を孝謙天皇の次の天皇に指名する遺言を残し崩御しました。

仏教に救いを求め続けた聖武天皇。しかし、最後に崩御するまで心の安寧は得られなかったのだろうと思います。なぜなら、将来100%揉めるであろう皇位継承問題のことを憂いていたから。

娘の孝謙天皇は女帝。日本は今も昔も男系の血筋を重んじます。なので、女帝の結婚は許されませんでした。許してしまうと女系の血筋を堪能が誕生してしまうからです。(それでも孝謙天皇が即位したのは、聖武天皇が男子に恵まれないことによる苦肉の策だった)

つまり、孝謙天皇は即位した時点で、生涯独身が確定しており、子も産まれないため、次期天皇の選定は困難を極め、最悪の場合、争いが起こるであろうことは容易に想像できました。

だからこそ、聖武天皇は最期に道祖王を皇太子とする遺言を残していったのです。

聖武天皇は度重なる遷都や大仏造立など、救いを求め苦悩しますが、生涯その苦しみから解放されることはなかったのだろうと私は察します。

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 聖武天皇の人物像

以上、聖武天皇の生涯を見てみました。最後に聖武天皇の人物像について考えてみたいと思います。聖武天皇の人柄に迫れる史料というのは少ないようですが、

  1. 正倉院に残されている聖武天皇直筆の繊細で洗練された文字
  2. 大仏造立の詔における力強い聖武天皇の声明

この2点から、「几帳面で真面目な性格で、信念は曲げない人」ってイメージが湧いていきます。しかし、聖武天皇の性格は少々真面目すぎたようです。

  1. 長屋王の変
  2. 天然痘大流行
  3. 大地震発生
  4. 藤原広嗣の乱

などなど、自分の治世に起きた世の乱れは全て自分自身に責任があると苦悩します。長い治世の間に、天災や政争に対して自分の無力さを痛感した聖武天皇は、次第に仏教に依存するようになります。

「どうせ俺は何もできない・・・。もう仏教を深く信仰し仏法の力で国を守るしかない。」

しかし、皮肉にも聖武天皇が仏教に頼れば頼るほど、公共事業に駆り出される民は疲弊し、国富が浪費されるだけ。

聖武天皇にとっては、仏教信仰こそが政治そのものだったのかもしれません。しかし、周囲の人から見れば政治への関心を失い、現実逃避しているようにしか見えません。聖武天皇は人一倍責任感があり、事態を良くしたいと一生懸命なのに全てが空回りします。その政治史は本当に悲しいものがあります。

それだけじゃなく、聖武天皇が藤原氏と縁が深い天皇だったことも不幸でした。藤原氏と皇族が権力争いを繰り広げる中、藤原氏の母と皇后を持ち、かつ、皇族の頂点でもあった聖武天皇は非常に舵取りの難しいポジションに立たされていたのだろうと思います。

長屋王の変なんかは、「聖武天皇は長屋王を信頼していたけど、藤原氏の勢力拡大のため長屋王を邪魔に思った藤原光明子の意見に勝てず、聖武天皇は長屋王を見殺しにせざるをえなかった」なんて言われることもあるほどです。

聖武天皇の生涯は苦悩の連続でした。そして、その苦悩から解放される唯一方法が仏教であり、それを体現化したのが今もなお現存する奈良の大仏なのだろうと思います。



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薄給サラリーマン。まなれきドットコムを運営しています。
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