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面白ほどわかる!聖武天皇を簡単に徹底紹介するよ!【仏教を信じ大仏と遷都に捧げたその生涯】

この記事は約14分で読めます。
第45代天皇、聖武天皇

今回は、奈良の大仏を建立したことで有名な聖武天皇しょうむてんのうについてわかりやすく丁寧に紹介していきます。

特に以下の点を中心に聖武天皇について迫ってみようと思います。

  • 聖武天皇が即位するまでの流れ
  • 聖武天皇の政治と人物像
  • なぜ大仏を建てたのか?
  • 聖武天皇の生涯まとめ(年表付き)

この記事を最後まで読めば、聖武天皇がどんな人だったのかバッチリわかるはず!

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聖武天皇即位の背景

最初に、聖武天皇が即位するまでの流れを確認しておきます。

先に結論だけを簡単にまとめておくと、聖武天皇が即位したのは「天武天皇の皇統を守るため」でした。

しかし、皇統を維持するのは容易ではなく、聖武天皇が即位するまでの間、壮大な皇位継承ラリーが行われます。

聖武天皇即位までの流れ

・・・登場人物が多すぎますよね(汗。というわけで、天皇を中心に関係人物を系図にまとめておきました。記事を読み進める際の参考にしてください!

青:天智天皇の血統
赤:天武天皇の血統

緑:   それ以外

壬申の乱の勝者である天武天皇が即位した後、当初の予定では上の系図の天武天皇から繋がる赤い線、

天武天皇→草壁皇子→文武天皇→聖武天皇

が、皇位継承の順番となるはずでした。

・・・が、草壁皇子と文武天皇が若くして亡くなったことでこの計画は狂います。そして、その狂いを正すため、後継者が成長するまでのつなぎ役として女帝が次々と即位します。

  • 草壁皇子の早世
    草壁の母の持統天皇が即位して、皇位を死守!
  • 文武天皇の早世
    文武天皇の母(元明天皇)と姉(元正天皇)が即位して皇位を死守!

と3人の女帝に守られながら、ようやく即位したのが聖武天皇(24歳)でした。壮年の天皇が即位するのは天武天皇以来であり、聖武天皇の即位によって数十年ぶりに皇位継承が安定することになります。

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皇族と藤原氏の政争

多くの人の苦難の末に即位した聖武天皇ですが、聖武天皇自身にもまた、多くの試練が待ち受けていました・・・。

最初に聖武天皇が直面したのが、皇族VS藤原氏の政争(権力争い)です。

争いの構図はこんな感じ

藤原氏側
  • 藤原武智麻呂ふじわらのむちまろ大納言だいなごん
  • 藤原房前ふじわらのふささき内臣ないしん
  • 藤原宇合ふじわらのうまかい式部省しきぶしょうのトップ】
  • 藤原麻呂ふじわらのまろ左右京職さうきょうしきのトップ】

聖武天皇はその母と妻に藤原不比等の娘を持っています。不比等の4人の息子たちはは縁戚(コネ)を使って著しい出世を遂げますが、それを長屋王が嫌い対立が始まりました。

上の4人については以下の記事でまとめています。気になる方は参考にしてみてください。

728年、聖武天皇が溺愛していた皇太子(次期天皇)の基王もといおうが乳飲み子のまま亡くなります。そして、藤原氏はこの聖武天皇の傷んだ心を政争にうまく利用しました・・・。

翌年(729年)、朝廷にこんな密告があったのです。

密告者
密告者

長屋王が(皇位簒奪を狙って)聖武天皇の命を奪うために呪詛をしています。昨年、基王が亡くなったのもこの仕業に違いありません。

この密告を受け、藤原宇合らが長屋王の邸宅を包囲。追い詰められた長屋王はその場で自害することになります。

長屋王は藤原氏を母に持つ基王を良く思っていなかったと言われています。

古来から現在まで天皇の血統は「天皇の父が天皇家かどうか」(男系)に重きが置かれていますが、当時は母にも天皇家の血が求められていました。

しかし、基王の母は藤原光明子。藤原氏です。長屋王は前例を無視する基王の即位を良く思っていなかったと言われています。

さらに言えば、聖武天皇の母も藤原氏です。当時、これは前代未聞の出来事であり、聖武天皇の即位の際にも反対意見が多くあったと言われています。(だからこそ、幼い聖武が成長するまでの間、女帝によって皇位を守る必要があった。)

これに藤原氏が警戒感を抱き、長屋王を謀反の疑いで亡き者にしたわけです。しかし、これは当時から「藤原氏の策略であり、長屋王は冤罪だった・・・!」と考えられており、今もなおその説が有力となっています。

当時の聖武天皇の心境は不明ですが、いずれにせよ長屋王が冤罪によって葬られたことは聖武天皇の心に深く刻まれることになります。

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仏教大好き聖武天皇

長屋王が亡くなると、上で紹介した4人の藤原氏(藤原四兄弟)が天下を握るようになります。

・・・が735年〜739年にかけて、天然痘てんねんとうが大流行。平城京でバタバタと人が倒れ、藤原四兄弟も含めた朝廷の重鎮たちも次々と死亡します。

これは「無実の罪で長屋王を葬った祟りだ」と噂されるようになり、人々を恐怖に陥れます。(おまけに、当時は不作が続いて民衆も苦しんでいた)

しかし、聖武天皇はこれに屈しません。仏教の力を頼りに平穏を取り戻そうとしました。

聖武天皇
聖武天皇

私は平城京の邪気を払うため、宮中に700人の僧侶を集めてお経を読ませたのだ。

この時読んだお経の1つが「金光明最勝王経こんこうみょうさいしょうおうきょう」というお経。

このお経には『金光明最勝王経を世に広め読経すれば、国は富み、四天王をはじめとする守護神によって守られるだろう』と書かれていて、私は国を守る効力を深く信じていたのだ。

ちなみに、仏教の力で国を守る・・・という考え方は鎮護国家ちんごこっかと呼ばれているぞ。

739年、天然痘による恐怖に追い討ちをかけるように九州地方で反乱が起こります。反乱を起こしたのは藤原広嗣ふじわらのひろつぐという男。上で登場した藤原宇合の長男です。

九州で反乱を起こした藤原広嗣

藤原広嗣は、素行の悪さと朝廷での政争により太宰府へ左遷させられ、これに強い不満を持ち、740年、藤原広嗣は聖武天皇に対して文書で訴えます。

藤原広嗣
藤原広嗣

最近起こった飢饉や大地震、天然痘という天変地異は、全て今の政治が良くないから起こったものです。

特に吉備真備玄昉げんぼうといった身分の低い出自のよくわからぬ者を重用するのがよくありません。一刻も早くこの2人をクビにするのです。

要するに「出自のよくわからん奴が出世してるのに、藤原氏の俺が左遷させられているのはおかしい!」と言っているのです。

【吉備真備と玄昉】

唐の制度・文化を参考に国を運営していた朝廷は、唐について博識なであれば身分によらず重用する方針を取っていました。その中でも特に徴用されていたのが吉備真備と玄昉でした。

奈良時代、目まぐるしい活躍をした吉備真備

藤原広嗣は文書で訴えると同時に、不測の事態に備えて九州で挙兵の準備まで進めていました。当時、右大臣で朝廷の実質TOPだった橘諸兄(たちばなのもろえ)はこれを宣戦布告と判断。

橘諸兄
橘諸兄

広嗣よ、それは脅しか?

・・・わかった。天皇への謀反とみなし、こちらも兵力を持ってこれに対抗しよう。

740年9月、朝廷VS藤原広嗣による内乱が勃発します。これが藤原広嗣の乱と呼ばれるものです。

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怒涛の遷都ラッシュ!

広嗣の乱が続いていた740年10月、聖武天皇は突如として平城京を離れ、12月には恭仁京くにきょうへの遷都を宣言します。

聖武天皇
聖武天皇

・・・もう平城京にはいたくない。

理由?そんな野暮なこと聞かないでくれよ。もう辛いんだ。疲れんだよ・・・。

730年代は飢饉に疫病、大地震に反乱と、まさに不幸の連続でした。当時、自然災害の原因は「政治の行いが悪いから」と考えられており、聖武天皇はこれに深く心を悩ませていたと言われています。

おまけに自然の脅威に仏教の力により対抗するも効果はなし。聖武天皇が

聖武天皇
聖武天皇

仏法も効かないとか、もう平城京は呪われてるから遷都した方がよくね?(長屋王の祟りか・・・?)

と考えたとしても不思議ではありません。

しかも、話はこれだけでは終わりません・・・!

【742年】

聖武天皇
聖武天皇

離宮として紫香楽宮しがらきのみやを造るぞ〜

【744年】

聖武天皇
聖武天皇

う〜ん、恭仁京はなんか違い。私に合わない。

ひとまず紫香楽宮に滞在して、次は難波宮なにわのみやに遷都するかぁー!

・・・と、住む場所を転々とし、その度に官僚や農民たちは新しい都の建設のため負担を強いられます。

財政難から745年になっても難波宮の建設は進まず、聖武天皇のいた紫香楽宮では不自然なほど山火事が多発(人々の遷都反対運動っぽい)。官僚の反対もあり、結局平城京に戻ることになりました。

  • 青:平城京
  • 赤:恭仁京
  • 緑:紫香楽宮
  • 黒:難波宮

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聖武天皇「仏教の力で国を救うのだ・・・!」

聖武天皇は遷都ラッシュを続ける一方で、仏教への信仰をますます深めていきます。

【741年】

聖武天皇
聖武天皇

最近、災いばかり起こるのは仏教への信仰が浅いからに違いない。だから、全国に寺院を建てることにする・・・!

そして、それぞれの寺院には四天王による御加護が得られる金光明最勝王経を安置する。これで完璧!

こうして出された詔(天皇からの命令)が国分寺こくぶんじ国分尼寺こくぶんにじ建立のみことのりでした。

【743年】

聖武天皇
聖武天皇

もちろん、平城京に建てる国分寺は壮大なお寺にしなければいけない。

まずはこの世の全て(宇宙)を象徴する仏様、毘盧遮那仏の仏像を造立する。

ただし、平凡な仏像ではダメだ。宇宙を象徴するにふさわしい超ビックな仏像でなければならない・・・!!

こうして743年、紫香楽宮で大仏造立の詔が出されます。

当初、大仏は紫香楽宮に造立する予定でしたが、745年に聖武天皇が平城京に戻ったのに合わせて、平城京に造立されることになります。

遷都の話が白紙になると、聖武天皇はその情熱の全てをこの大仏造立に捧げるようになります。専用の部署が設けられて、多くの人と財が大仏造立のために投入されました。

745年には、天皇自ら現地に赴き民衆と共に土を運んだとも言われています。(しかし、その後病に倒れる・・・!)

大仏が完成したのは大仏造立の詔から数えて9年後の752年。この大仏こそが、有名な奈良の大仏(正式名称:毘盧遮那仏びるしゃなぶつ)となります。

今も残る東大寺の大仏(再建されたもの)

上の写真が奈良の大仏。とにかく巨大で、当時の技術でこれを完成させるには想像を絶する困難があったであろうことが容易に想像できます。

話が終わらなくなるのでこの記事では触れませんが、興味のある方は以下の記事も読んでみてください。大仏造立に大貢献した行基(ぎょうき)という偉大な僧侶のお話です。

おまけで東大寺の歴史も紹介しています↓

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聖武天皇、崩御

745年、大仏に命を賭けていた聖武天皇が病に倒れ、危篤状態に陥ります。この時は幸いにも死は免れますが、聖武天皇が体調を崩したことで次期天皇の話が浮上するようになります。

系図(再掲)

748年、聖武天皇は娘の孝謙天皇に譲位。自らは太上天皇となりますが、この女帝即位は後に大問題となります。

聖武天皇の娘、孝謙天皇

752年、奈良の大仏が完成。壮大な儀式が開かれます。この儀式は、多くの人々が集まる前で大仏の目を描くというセレモニーだったので開眼供養かいげんくようの儀と呼ばれます。インドや中国の僧も参加し、1万人以上の僧が集まった・・・と言われています。

この日ほど、聖武天皇の心が晴れた日は他になかったことでしょう。しかし、大仏の完成も虚しく、聖武天皇は病に蝕まれ756年に崩御してしまいます・・・。

そして後を託された孝謙天皇の時代は、皮肉にも聖武天皇の愛した仏教によって政治が腐敗し、女帝ゆえに皇位継承争いが複雑化しカオスの時代を迎えることになります。

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聖武天皇の性格を考えてみる

聖武天皇は、実に複雑な家庭環境の中、幼少期を過ごします。

まず、聖武天皇は実の母(藤原宮子ふじわらのみやこ)と30年間会っていません。真相は謎ですが、藤原宮子がメンタルを病んで、実家(父の藤原不比等の家)に閉じこもっていたからだと言われています。

当時は、「天皇の母は皇族の血筋でなければならない」と言うルールがありましたが、藤原宮子はそれを破りました。もちろん、宮子の意思ではなくその父である藤原不比等の意思で・・・です。

そして、周囲からの批判と父の意向に挟まれる中でメンタルが崩壊してしまったのだろう・・・と思います。ただ、この話は闇が深いので、別な真実があるかもしれません。

そして、父の文徳天皇も早く亡くしており、乳母や祖母によって育てられました。そんな複雑な事情のせいなのかわかりませんが、聖武天皇はめちゃくちゃ几帳面な性格だったんじゃないか・・・と言われています。

その根拠となるのが、聖武天皇の書いた文字です。

聖武天皇直筆を思われる文字

細く繊細な線が目立ち、1つ1つの文字が綺麗に並んでいます。嫁さん(皇后)の藤原光明子ふじわらのこうみょうしの文字と比べると、光明子の方が線が太くて豪快さがあります。

藤原光明子の直筆

そして、その几帳面さや藤原氏を母に持つ出自ゆえに、青年だった聖武天皇はこんなことも考えたかもしれません。

聖武天皇
聖武天皇

周りからは私と母への批判の声ばかりが聞こえる。おばさん(元正天皇)は隠しているけど、知っているんだ。

私のせいで母は精神を追い詰められた。そこまでして私は、生まれてくる必要があったのだろうか。

・・・答えはわからない。だから、せめて天皇として民たちのために死力を尽くそうと思う。その中できっと答えが見えてくると思うんだ。

そして、天皇として困難を極める治世を経験し、見つけ出した答えが仏教だったのかもしれません・・・。

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聖武天皇の生涯年表まとめ

本当に簡単にですが、最後に聖武天皇の生涯を簡単にまとめておきます。

聖武天皇の生涯(ハイライト)
  • 701年
    聖武天皇、生まれる

    同じ年、祖父の藤原不比等が中心となり大宝律令が完成

  • 707年
    父の文武天皇、亡くなる
  • 724年
    聖武天皇即位

    皇位を他の皇族に奪われないよう元明天皇(祖母)と元正天皇(おば)による皇位バトンリレーを経て即位

  • 727年
    皇后(藤原光明子)との間に息子(基王)が生まれる

    ・・・が、わずか1歳になる前に没する。

  • 729年
    長屋王、藤原氏に嵌められて死亡
  • 737年
    権力を持っていた藤原四兄弟が天然痘で亡くなる

    藤原氏に代わって皇族の血を引く橘諸兄が権力者になる。

  • 739年
    藤原広嗣、九州で大反乱を起こす

    低い身分のくせに橘諸兄に重用された吉備真備、玄昉にブチギレ。

    災いの連続に聖武天皇、遷都を決意。(恭仁京へ)

  • 741年
    国分寺・国分尼寺建立を命令

    この頃から、仏教の力で国を守ろうとする動きが大きくなる。

  • 743年
    大仏造立を命令

    平城京に巨大ない大仏を造ることを宣言。これが東大寺の大仏になる。

    同じ時期、墾田永年私財法が制定。

  • 745年
    遷都ラッシュ終了

    重い負担に反対する官僚らの声により恭仁京から始まった度重なる遷都(恭仁京・紫香楽宮・難波宮)を断念。

  • 749年
    聖武天皇譲位。娘の孝謙天皇即位
  • 752年
    悲願だった大仏遂に完成!開眼供養の儀が行われる
  • 756年
    聖武天皇、病に倒れ崩御

    仏教腐敗、政争だらけのドロドロの奈良時代末期へ突入・・・。



奈良時代
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この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
WEBメディアを通じて教育の世界に一石を投じていきます。

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