今回は、663年に起きた白村江の戦いについて、わかりやすく丁寧に解説していくね!
白村江の戦いとは
白村江の戦いは、663年に朝鮮半島で起きた戦いです。
戦いの構図は、
日本・百済連合軍
VS
唐・新羅連合軍
というもので、戦いの舞台となった場所が白村江という場所だったので、白村江の戦いと呼ばれています。
朝鮮半島で起きた戦いなので、白村江の戦いが起きた理由を知るには、まず当時の朝鮮半島の国際情勢を知っておく必要があります。
白村江の戦い前夜の朝鮮半島
朝鮮半島では、長い間、高句麗・新羅・百済の3国が朝鮮半島の覇権をかけて争いを続けていました。
このうち高句麗は、大国の唐から侵略を受けていたため、朝鮮半島で大きな動きを起こすことができない状況にありました。
唐との戦いに専念するため、できれば背後の百済・新羅とは仲良くしときたいな・・・
百済と新羅はライバル関係にあったので、高句麗と百済は協力関係を結んで、新羅を攻撃することにしました。
日本も百済とは友好的な関係だったため、新羅は百済・高句麗・日本に挟まれる形で、国際的に孤立してしまいます。
ヤバい。このままでは、高句麗・百済には勝てない。
・・・そうだ!高句麗と戦争をしている唐なら、俺のことを助けてくれるはず!
いいねいいね!ぜひ協力しよう。
唐と新羅で高句麗を挟み撃ちにすれば、高句麗だってひとたまりもないだろう・・・!
・・・しかし、この唐の目論見はうまくいきません。
高句麗の守備が固かったのと、新羅が百済・高句麗に攻め込まれていて、防戦一方だったからです。
そこで唐は、高句麗と協力関係にある百済を先に滅ぼすことを考えました。
高句麗の守備は思っていた以上に堅牢だ。
高句麗を倒すには、まずは百済を滅ぼして、高句麗を完全に孤立させる必要があるな。
660年、唐は大軍を率いて、百済への侵攻を開始。これに呼応して新羅も百済へと攻め込みます。
百済は、唐と新羅の猛攻に耐えることができませんでした。百済の首都だった泗沘が陥落し、百済の王だった義慈王も捕虜として唐の長安へ送られてしまい、百済は滅亡することになります。
日本の決断
しかし、百済もやられっぱなしでは終わりません。百済の残党軍たちは、百済復興を目指して立ち上がり抵抗を続けていたのです。
百済残党軍のリーダー的存在だった鬼室福信は、百済再興のために新しい王を立てることとし、その有力候補として豊璋という人物に注目します。
豊璋は義慈王の息子の一人で、当時、人質として日本で生活を送っていました。
そこで百済残党軍は、日本に使節団を送って、日本に対して軍事支援&豊璋の返還を求めることにしました。
日本に事情を説明して、豊璋を帰国させ、新しく百済の王にしよう!
そして、友好国の日本にヘルプを求めよう!!
660年10月、百済の使者が来日。事情を知った日本は、大きなショックを受けます。
朝鮮半島で唯一の友好国であった百済が滅びただと!
これまで日本が発展できたのは、百済を通じて大陸の最新文明を取り入れてきたおかげだ。これからはどうやって朝鮮と交易を続ければいいんだ。
それに、百済が滅びたら、次に狙われるのは俺になるのでは・・・?
ここで日本は究極の2択に迫られることになります。
1つ目の選択肢は、百済からの援軍要請を断って、事態を静観することです。
日本は戦争に巻き込まれずに済みますが、その代償として朝鮮半島の交易ルートを失うことが確定します。さらに百済が滅亡すれば、その同盟国だった日本が次のターゲットにされる可能性も残ります。
2つ目の選択肢は、百済に援軍を送って、百済再興を目指すことです。
もし百済を再興できれば、日本は朝鮮半島との交易を続けることができるし、おまけに百済が存在する限り日本が唐・新羅から攻め込まれる心配もなくなります。
しかし、百済を支援することには大きな問題がありました。
・・・それは、敵対する相手が超大国の唐だったことです。
援軍を送っても百済を助けられるかは未知数だし、もし失敗すれば日本が報復攻撃を受けて侵略される可能性がグッと高まってしまいます。
・・・激しい議論の末、日本が決めた最終決断は「百済を助けるために援軍を送る」、言い換えるなら「超大国の唐に喧嘩を売る」という、国の命運をかけた決断でした。
こうして日本は、朝鮮半島をめぐる戦争に巻き込まれていくことになったんだ。
出兵準備
出兵が決まると、斉明天皇は軍を指揮するため自ら九州へ赴きました。異国と戦うために天皇が都を離れるのは異例中の異例であり、事態の重大さを物語っています。
しかし661年、斉明天皇は遠征の途中、九州の地で崩御してしまいます。68歳という高齢での崩御でした。
斉明天皇が崩御した後、その意思を受け継いだのは息子の中大兄皇子でした。中大兄皇子は、自らは天皇にならず、天皇不在中の天皇代理(※)という形で、急務である朝鮮半島遠征の準備を進めます。
※この天皇代理になることを専門用語で「称制」と言います。
中大兄皇子がなぜ自ら天皇にならず、わざわざ称制なんて周りくどい方法を選んだのかは諸説があり、はっきりしたことは実は今もわかっていません。
一説には、皇位をめぐって国内で争いが起こり、戦争どころでなくなってしまうことを危惧し、天皇即位の話にあえて触れなかった・・・なんて言われています。
白村江の戦い
662年、援軍の第一軍が九州から派遣されました。
船の中には、人質として日本に滞在していた義慈王の息子、豊璋の姿もありました。
日本の援軍が到着すると、士気を高めた百済残党軍は反撃を開始。
残っていた唐・新羅連合軍を次々と蹴散らし、快進撃を続けた結果、周留城という城を築いて、百済再興の拠点としました。
周留城の場所は定かではありませんが、白江と呼ばれる川の下流の山岳地帯にあったのだろうと言われています。
さらに663年3月、援軍の第二軍、約27,000が朝鮮半島に到着。そして、これに対抗する形で唐・新羅連合軍も周留城攻略のため兵を集結させ始めました。
そんな緊張感が高まる中、百済軍の内部で大事件が起こります。
新しく百済王となった豊璋が、鬼室福信に対して「鬼室福信は王位簒奪を狙っている!」と謀反の疑いをかけるようになり、鬼室福信を殺してしまったのです。
鬼室福信は、軍の指揮を取り、戦略を練っていた百済軍のリーダー的存在でした。
その鬼室福信がいなくなったことで、日本・百済連合軍の指揮は乱れ、唐・新羅連合軍への対抗策を打ち立てることができなくなってしまいます。
とうぜん、唐・新羅連合軍は、このチャンスを見逃しません。
・・・今、周留城を攻めれば簡単に勝てるのでは?
鬼室福信の死を知った唐・新羅連合軍は、周留城に向けて進軍を開始。一方の豊璋は、日本の別働部隊約10,000が白村江に向かっているとの情報を得ると、この援軍と合流して決戦に臨むことにしました。
※白村江は、白江の河口(川と海の合流地点)のことを言います。
先手を打ったのは唐・新羅連合軍でした。663年8月17日、唐・新羅連合軍は周留城を包囲。陸路だけでなく水路も塞ぐため、白村江にも水軍を配置しました。
日本の援軍が白村江に到着したのは8月27日、唐・新羅連合軍が白村江に到着してから10日後でした。日本・百済連合軍は完全に後手に回ることになります。
白村江の戦いの経過
翌日(8月28日)、日本軍は白村江に陣取っている唐・新羅連合軍へ総攻撃を仕掛けました。
しかし、この総攻撃には何の戦略もありませんでした。
「俺たちが総攻撃を仕掛ければ、唐・新羅の奴らはビビって逃げ出すに違いない!」程度の杜撰なもので、闇雲に突っ込んでくる日本軍は、唐・新羅軍の格好の餌食となります。
唐・新羅軍は、無計画に突っ込んでくる日本軍の船を左右から包囲し、これを完膚なきまでに叩きのめしました。
「旧唐書」という歴史書には、戦いの様子についてこう記されています。
唐・新羅連合軍は4度戦い、日本の船400隻を焼いた。煙と炎が天にみなぎり、海は真っ赤に染まった
日本書紀にも「日本軍はあっという間に敗北し、多くの者が溺死した。」と記録されており、日本軍は唐・新羅軍の前にあっけなく惨敗することになります。
白村江での日本の敗北は、百済の滅亡を決定付けました。
白村江での敗北により援軍が見込めなくなった周留城は、唐・新羅軍の猛攻に耐えきれず陥落。
百済王の豊璋も高句麗に亡命してしまい、百済再興の夢は潰えることとなりました。
国土防衛
白村江の戦いでの敗北は、日本を窮地に追い込みました。
唐・新羅連合軍に喧嘩を売った以上、次は日本が攻め込まれる可能性が高いからです。
大敗を喫した日本は休む暇もなく、国土防衛に迫られることとなります。
朝廷が行った国土防衛策は大きく4つありました。
国土防衛政策その1:九州北部に築城する
朝鮮から海を越えて敵が攻めてきた場合、九州北部は真っ先に襲われる場所です。なので、お城を建てて守備を固めることにしました。
今でも跡地が残っている有名なお城は水城と大野城の2つ。水城の跡地は福岡県太宰府市を中心に、大野城の跡地は福岡県大野城市を中心に残されています。
国土防衛政策その2:防人の登場
さらにヤマト朝廷は、屈強な東国の農民たちを九州北部へ送り込み、その警備に当たらせました。
この警備任務を受けた人々のことを防人と言います。
東国から九州までの旅費や食料、警備に必要な装備も全て自前で用意する必要があったため、東国の農民たちに重い負担を強いることとなりました。
東国と九州の間の旅路で命を落とす者も多く、万葉集には、防人の任のため単身赴任となった夫と、残された家族の心のうちを吐露した歌がいくつも収められています。
国土防衛政策その3:各地の有力豪族の懐柔
白村江の戦いでの敗北に乗じて、朝廷に対して謀反を起こす有力豪族が現れることを危惧した中大兄皇子は、有力豪族の懐柔策を打ち出しました。
有力豪族のトップ(族長)を朝廷が新しく氏上と認定し、その身分を保証することにしたのです。
こうしとけば、豪族の中で争いが起こっても、朝廷から公式に認められた族長が有利な立場になります。そして、身分を保証された族長自身が謀反を起こす可能性も減る・・・という仕組みです。
国土防衛政策その4:近江大津宮へ遷都
極めつけの対策は、都を飛鳥の地から琵琶湖に隣接する近江大津宮へと遷都したことでした。
遷都を断行した理由ははっきりとわかっていませんが、理由は大きく2つあったのではないか?と言われています。
1つは、山に囲まれ、背後に琵琶湖がある近江大津宮の方が、守備力が高かったこと。
2つ目は、中大兄皇子が国防政策に集中するため、政策に反対する者が多かった飛鳥の地を離れるためです。
しかし、急な遷都に飛鳥に住んでいた人々は猛反発し、この人々の不満は後の壬申の乱の遠因の1つとなったと言われています。
白村江の戦いの後
急ピッチで進められた国土防衛策ですが、結局、唐が攻めてくることはありませんでした。
668年には百済に続いて高句麗も唐・新羅連合軍によって滅ぼされ、新羅が朝鮮半島を統一することになりました。
そして、共通の敵を失った唐・新羅は連携を解消し、逆に対立するようになります。
新羅は、高句麗・百済を滅ぼすのに利用しただけで用済みだ。次は新羅を滅し、朝鮮半島全てを併合してやる。
唐の力を利用して、目標だった朝鮮半島統一を実現した。
もはや朝鮮半島を狙う唐は敵だ!
唐と新羅の対立が続くと、唐は余計な敵を増やしたくなかったため、日本と敵対することはありませんでした。こうして、日本と唐との戦争は危機一髪のところで回避されたわけです。
そして、白村江の戦いの敗戦処理に目処がついた668年、称制して天皇代理のままだった中大兄皇子は、ようやく天皇即位して天智天皇となりました。
コメント
時代の考察において日本と百済の連合軍と表現するのは違和感があります。
唐や新羅は国際感覚としてどの国と戦ったと認識していたのでしょう…
存続の危機に陥ったのは倭国であり次代を担ったのか日本国では?(政権交代)
正確な歴史認識と時代考証は大切に表現してはしいです。
白村江負けましたからね
でも正確な資料が沢山あればこうも曖昧にならないでしょうね
正確な資料を焚書で失ってしまうことは 近代(明治)にもあります。(高良大社の焚書)
とても残念な蛮行ですよね。私の思いは 倭国にしても日本国にしても国といぅ概念から
国際紛争に突入していった経過をきちんと歴史に記すことで防げることを考えてほしいとの
願いがあります。(倭国や日本国の国境の不思議も含めて)