橘奈良麻呂の変を簡単にわかりやすく解説

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橘奈良麻呂の乱
もぐたろう
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今回は、奈良時代に起きた政変の一つ橘奈良麻呂たちばなのならまろの変について、わかりやすく丁寧に解説していきます!

この記事を読んでわかること
  • 橘奈良麻呂の変ってどんな政変?
  • 橘奈良麻呂の変はなぜ起きたの?
  • 橘奈良麻呂の変の経過は?
  • 橘奈良麻呂の変は日本の政治にどんな影響を与えたの?
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橘奈良麻呂の乱とは

橘奈良麻呂の変は、奈良時代に起きた政変の1つです。

757年、朝廷の実力者である藤原仲麻呂ふじわらのなかまろを滅ぼそうと橘奈良麻呂が企てたものでしたが、事前に計画がバレてしまい、政変は未遂に終わりました。

計画を企てた橘奈良麻呂は失脚し、逆に藤原仲麻呂は朝廷の権力を牛耳るようになっていきます。

橘奈良麻呂の変の後、藤原仲麻呂は朝廷で絶大な影響力を誇るようになり、764年に起きた政争(恵美押勝の乱)に敗北するまで、朝廷の支配する実力者として君臨することになります。

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藤原仲麻呂と橘奈良麻呂。

名前が似ててとても紛らわしいので、覚えるときは少し注意が必要だよ!

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橘奈良麻呂の変が起きた時代背景

話は744年、聖武天皇の存命する唯一の息子だった安積親王あさかしんのうが亡くなったところから始まります。

安積親王の死によって、聖武天皇は皇位を継承できる直系血族を失い、朝廷では『聖武天皇の後の天皇は誰なのか?』という重大な問題が浮上したのです。

次の天皇は、聖武天皇の親戚の中から選ぶことになりますが、候補がたくさんいたり、裏で政治的な駆け引きもあったりして、皇位継承者の選定は難航しました。

結局この問題はすぐに解決せず、749年、ひとまず聖武天皇の娘が孝謙天皇こうけんてんのうとして即位し、時間を稼ぐことになりました。

古代の日本では、皇位継承者が決められないときに、問題が解決するまでの間、女帝を即位させて様子を見る・・・ということがよく行われていました。

もぐたろう
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飛鳥時代の女帝である推古天皇・皇極天皇も同じような理由で即位しているよ。

当時、朝廷の実力者は橘諸兄という人物でした。

737年に起きた天然痘の大流行で藤原氏の実力者(藤原4兄弟)が全滅すると、皇族の血を引く橘一族の橘諸兄たちばなのもろえが朝廷の実力者となっていたのです。

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橘諸兄は、この記事の主役となる橘奈良麻呂の父にあたります。

・・・しかし、孝謙天皇が即位すると、橘諸兄の対抗馬として藤原仲麻呂が台頭するようになります。

藤原仲麻呂と孝謙天皇は従兄弟の関係にあり、さらに藤原仲麻呂がおばの藤原光明子ふじわらのこうみょうし(聖武天皇の皇后)に寵愛されていたことから、朝廷内で大出世を遂げたのです。

藤原仲麻呂(恵美押勝) の系図
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聖武天皇の皇后だった藤原光明子は、藤原仲麻呂を寵愛することで、藤原四兄弟が天然痘で亡くなって以来くすぶっていた藤原氏を勢力を伸ばそうと考えたんだ。

橘諸兄と藤原仲麻呂の権力争いは、均衡が続きましたが756年以降、両者の争いは大きく動きます。

まず756年に、朝廷のパワーバランスを保っていた聖武上皇が崩御ほうぎょし、

757年1月には、高齢だった橘諸兄が亡くなってしまったのです。

※崩御:天皇・上皇・皇后などが亡くなること

息子の橘奈良麻呂が権力争いを引き継ぐと、争いの構図は橘奈良麻呂VS藤原仲麻呂へとシフト。

さらに、バランサーだった聖武太上天皇が崩御したことで、皇后(藤原光明子)から厚い信頼を得ていた藤原仲麻呂が朝廷でやりたい放題するようになってしまいます。

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橘奈良麻呂の変の計画

聖武太上天皇の崩御は、長年の大問題だった『孝謙天皇の次の天皇を誰にするか』問題にも大きな影響を与えます。

聖武太上天皇の遺言の中に『道祖王どうそおうを次の天皇にせよ!』と記されていたため、道祖王が皇太子となったのです。

もぐたろう
もぐたろう

先延ばしにされていた皇位継承問題にいよいよメスが入ったってことだね。

・・・しかし、藤原仲麻呂がこれに反対します。

朝廷で絶大な権力を誇るようになった藤原仲麻呂は、孝謙天皇を説得し、道祖王の皇太子を廃して、新たに大炊王おおいおうを皇太子にさせてしまいます。

藤原仲麻呂
藤原仲麻呂

朝廷を俺が支配するためには、次の天皇は俺の言いなりになってくれる人物が良い。

大炊王を即位させたら、裏で大炊王をあやつって、俺が朝廷の支配者となってやる!

一方、朝廷でやりたい放題するようになった藤原仲麻呂に不満の声も強まりました。

聖武太上天皇の遺言を無視してまで自分の都合の良い人物を皇太子にさせるとは・・・、さすがにやりすぎだ藤原仲麻呂!

橘奈良麻呂も、藤原仲麻呂に不満を持つ人物の1人でした。

しかし、橘奈良麻呂には、藤原光明子と深く結びついている藤原仲麻呂に対抗する手段がありません。

橘奈良麻呂
橘奈良麻呂

正攻法では藤原仲麻呂には敵わない。

こうなったら、クーデターを起こして藤原仲麻呂をぶっ◯してやる!!父(橘諸兄)の意志は俺が受け継ぐ!!

757年6月、橘奈良麻呂は同士を集めてクーデター計画を企てます。

・・・が、クーデター計画はあっさりと藤原仲麻呂の露見するところになります。

橘奈良麻呂の仲間の中に藤原仲麻呂サイドの内通者がいたのです・・・。

橘奈良麻呂ら計画首謀者は捕らえられ、橘奈良麻呂の変は失敗に終わることになりました。

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藤原仲麻呂「削除、削除、削除、削除ぉ!!」

藤原仲麻呂は、このクーデター未遂事件(橘奈良麻呂の変)を自らの権力を盤石なものにする絶好のチャンスと考えました。

藤原仲麻呂
藤原仲麻呂

なんかもう、俺に歯向かう奴ら全員事件の関係者ってことにして左遷しちまえば、俺って朝廷で最強の存在になれるんじゃね?

朝廷は、クーデターに関与したものを洗いざらい徹底的に調査し、少しでも関与の疑いがある者には断固とした処罰を下しました。

処分を受けた者は400人を上回り、その中には、大炊王のライバルになりうる道祖王や黄文王きぶみおうなどの皇族の名前もありました。

もぐたろう
もぐたろう

道祖王は、聖武太上天皇の遺言で一度皇太子になっていた人物だよ!

処罰の対象になった人々の中には、冤罪らしき者も多くいたと言われています。実際、道祖王などがどれだけ事件に関与していたか、はっきりとはわかっていません。

1つ言えるのは、藤原仲麻呂にとって邪魔な人物には容赦のない処罰が下された・・・ということです。

橘奈良麻呂や道祖王は、獄のなかで拷問を受け、拷問に耐えきれず獄死。

こうして、多くの処罰者を出して、橘奈良麻呂の変は終結することになります。

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藤原仲麻呂、朝廷の最高権力者になる

邪魔者を排除した藤原仲麻呂は、名実ともに朝廷の最高権力者となり、藤原仲麻呂の黄金時代が到来します。

758年、藤原仲麻呂は予定どおり大炊王を即位させます。こうして即位したのが淳仁天皇じゅんにんてんのうでした。

淳仁天皇は藤原仲麻呂の言いなりであり、事実上、藤原仲麻呂は天皇に等しい権力を手に入れることになりました。

藤原仲麻呂
藤原仲麻呂

世の中は全て俺の思うままに動かせる。もはや俺に敵はいない。

ようやく長年の悲願を達成したぜ!!

しかし、藤原仲麻呂の黄金時代は長くは続きません。

淳仁天皇即位から2年後の670年、藤原仲麻呂の後ろ盾となっていた藤原光明子が崩御。

藤原光明子が崩御すると、藤原仲麻呂と孝謙上皇の関係が次第に悪化していきます。

孝謙上皇は道鏡と組んで藤原仲麻呂に対抗するようになり、764年、藤原仲麻呂は争いに敗れて命を落とすことになります。(恵美押勝の乱

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確認問題

答:②藤原光明子

聖武天皇の皇后だった藤原光明子は、藤原仲麻呂を寵愛することで藤原氏を勢力を伸ばそうとしました。

答:①淳仁天皇

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この記事を書いた人
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教育系歴史ブロガー。
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コメント

  1. 小川 より:

    橘奈良麻呂の乱の所で、一部橘仲麻呂となってますよ。

    • もぐたろうmogutaro より:

      当サイトをご覧いただき、ありがとうございます。
      ご指摘ありがとうございます!修正いたしました。

  2. 森田 より:

    とても面白い内容ばかりで読んでいると止まらなくなります。
    是非、明治維新あたりまで完成させて頂きたいです。
    来年受験ですが、教科書の理解に非常に役立っています。