飛鳥時代についてまとめてみました。政治史が中心で文化史は少なめなのでご了承ください。(後に追記したいとは考えてます)
多分、学生の方の参考にもなると思います。でも歴史にはいろんな考え方や説があります。そのため、学校の教科書とは違う箇所もあるかもしれないので参考程度に使ってください。
飛鳥時代の始まり
飛鳥時代は、概ね590年頃が始まりとされています。この頃、日本で何が起こっていたかというと、豪族同士の覇権争いが続いていました。
弥生時代末期〜古墳時代にかけて日本では熾烈な覇権争いが繰り広げられていました。これは稲作が普及したことに伴う土地・治水・資源(鉄・青銅など)などを巡る争いによるものです。
古墳時代ぐらいになるとヤマト朝廷という豪族たちの合議機関みたいなものが形成されて武力による争いは少なくなります。次の争いの舞台はヤマト朝廷という政治の舞台。豪族同士の争いは、土地や資源を巡る争いから「いかにヤマト朝廷内で優位に立てるか?」という政治的な争いへと発展していきます。(これに合わせるかのように古墳時代末期は大きい古墳が減っている)
飛鳥時代に入る前、残っていた超有力豪族は2つありました。軍事力を持つ物部氏と財力を持つ蘇我氏。
こうして飛鳥時代に入る直前に起こった物部氏と蘇我氏の戦いが、587年の丁未(ていび)の乱。

この戦いに勝った蘇我氏は、最後のライバルを倒したことでもはや敵はいなくなり、朝廷内で圧倒的権力を持つことになります。
蘇我氏の力は圧倒的で、天皇を暗殺するという前代未聞の大事件が起きるほど。

そして、崇峻天皇が暗殺された後ぐらいからが飛鳥時代と呼ばれる時代になります。色々とてんやわんやの状態で飛鳥時代は始まるのです。
飛鳥時代の初期(推古天皇の治世)
592年に天皇暗殺という大事件が起こった後、推古天皇が女帝として即位します。異常事態の後の即位であり、男性が即位すると皇位継承で国が乱れるだろう・・・との判断で適切な男性天皇が見つかるまでの繋ぎ役で推古天皇が即位したと言われています。

当時の日本は、朝鮮3国(百済・新羅・高句麗)や隋の勢力を恐れて、他国から攻められても大丈夫なように天皇を頂点に置いた中央集権的な国を目指していました。なので、天皇の権威・権力の強化は当時の喫緊の課題だったのですが、推古天皇の時代に日本の政治改革は大きく前進しました。
その代表的な国政改革の一例が17条の憲法と冠位12階位でしょう。


さらには、国政改革の参考とするため大国の隋へ遣隋使を派遣。中国との国交が100年以上ぶり再開されることになりました。

そしてこれらの国政改革の中枢にいたのが聖徳太子だと言われています。聖徳太子の本名は厩戸王(うまやとのおう)。推古天皇の次期天皇として期待されていましたが、若くして亡くなってしまいます。

推古天皇は非常に政治の上手い人だったようで、天皇が力を持つようになると相対的に権力が低下する蘇我馬子はそれを良く思わないわけですが、その蘇我馬子とも上手く関係を保っていたようです。(あまりに順調すぎるので、実は推古天皇と蘇我馬子に禁断の関係があったのでは・・・?なんて考えてしまうほど)
飛鳥時代中期(乙巳の変と大化の改新)
628年に推古天皇が亡くなると、再び蘇我氏勢力が息を吹き返します。
蘇我馬子は亡くなっており、その息子と孫にあたる蘇我蝦夷・入鹿が活躍します。

推古天皇の後、舒明天皇→皇極天皇と天皇が即位しますが、いずれも裏には蘇我氏が付いていました。推古天皇や聖徳太子のような強い信念を持つ者がいなくなり、国政改革は停滞。再び蘇我氏が勢いを増すようになります。
こうして起こった事件が聖徳太子の息子(山背大兄皇子)殺害事件。崇峻天皇殺害事件の再来です。

そして、このような蘇我氏の傲慢な振る舞いに人々は激怒。645年に、中臣鎌足と中大兄皇子らが協力して蘇我入鹿・蝦夷を殺害します。これがいわゆる乙巳の変というやつ。

その後、中大兄皇子らは国政改革を再び再開。蘇我氏が消えたのでより一層、天皇を中心とした国造りが推進されることになります。こうして行われた乙巳の変の後の一連の政治改革を大化の改新と言います。


超ざっくり説明すると
- 民の管理
- 土地の管理
- 税金の管理
この3つの権限を全て国によこせ!ってことです。これらは全て豪族が管理しており、豪族はその一部をヤマト朝廷に差し出すことでギブアンドテイクな関係を築いていました。
これだと、豪族のさじ加減で国に逆らうこともできてしまうので、民・土地・税の仲介役として君臨する豪族をなんとかしようというわけです。
大化の改新による国政改革は、豪族らの利権が絡んだ非常に根の深い問題で全てが解決するのは後の天武天皇の登場を待たなければなりません。それでも、乙巳の変で国の方針が大きく変わったのは事実です。
白村江の戦い
660年、朝鮮半島で衝撃的な事件が起こりました。友好国だった百済が戦争で滅びたのです。日本に百済の使者がやってきて、日本に援軍要請を求めます。敵は当時の超大国唐と新羅の連合部隊。
当時の天皇は、斉明天皇という女帝。斉明天皇は考えます。
「朝鮮半島での百済を通じた権益を失いたくない。だが、唐は強すぎる。どうしたものか・・・」
斉明天皇は、唐・新羅に戦争を仕掛けることを決断。こうして日本・百済VS唐・新羅による戦乱が朝鮮半島で勃発。しかし663年に白村江での海戦で大敗を喫した日本軍は敗北します。日本は甚大な被害を受けると共に、唐・新羅の報復攻撃に怯えることになります。

その後、今の博多付近に防人(さきもり)という兵を置き、城壁を建設。都も移したりと必死の国土防衛策を展開します。中心となったのは、乙巳の変で活躍した中大兄皇子でした。
中大兄皇子は、白村江の戦いの敗戦処理がひと段落すると668年に天智天皇として即位。

対外戦争が落ち着いたのもつかの間、次は大内乱で国が大きく乱れることになります。
壬申の乱
天智天皇が672年に亡くなると、天智天皇の弟の大海人皇子と息子の大友皇子の間で皇位継承を巡る対立が起こります。
両者の対立が深刻化し、身の危険を感じた大海人皇子は「出家します・・・」と言って近江宮を脱出。吉野に身を潜めます。
その後、「大友皇子が、危険分子である大海人皇子を潰すために兵を用意しているかもしれない」という報告を受け、大海人皇子も挙兵。こうして672年、古代最大の内乱と呼ばれる壬申の乱が起こりました。

巧みな戦術とカリスマ性で大海人皇子が圧倒的勝利。その後天武天皇として即位することになります。
飛鳥時代後期(天武天皇の治世)
推古天皇の頃から推し進められていた天皇中心の国造りは天武天皇の時代に遂に一応の完成に達することになります。
乙巳の変で蘇我氏が滅び、壬申の乱で従前からの既得権益層が一掃され、天武天皇の前にもはや敵はいなくなりました。無双状態になった天武天皇は、天皇や皇族の権威・権利を高める政策を次々と実施。

694年には、天皇を中心とした新しい首都、藤原京が完成。694年の藤原京への遷都、または710年の平城京遷都を持って飛鳥時代は幕を閉じます。
飛鳥時代から奈良時代へ
飛鳥時代は、天皇の権威・権力が未熟であり、内政的には非常に不安定な時代でした。天皇や皇族、蘇我氏などの有力者が次々と殺され、権力が様々な人の手に渡っている様子から国が乱れていることはなんとなくわかると思います。今の日本が平和なのだと強く実感できますね。
しかし、結果的には紆余曲折を経て、天武天皇によって天皇権威・権力は最高にまで高められます。
でもここで1つの疑問が生まれます。「外交・国防の観点からも天皇中心の中央集権的な国造りを目指すというのはわかる。でも、実際のところ本当に天皇による中央集権国家になれば国は良くなるの?」と。
実は、その答え合わせが奈良時代になります。天皇による中央集権化が進んだら、それはそれで様々な問題が浮上し、奈良時代はそんな数々の問題に直面することになります。
さて、飛鳥時代の人々が追い求めた中央集権国家としての日本は、どんな国になっていくのでしょうか?奈良時代のことを学び、ぜひ自分の目で確かめてみてください!ちなみに、私は奈良時代の日本は闇が深いと思ってます(意味深)。
以上、飛鳥時代まとめでした!
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