今回は、日本の古代史上最大の内乱と言われている壬申の乱について紹介したいと思います。
壬申の乱は、史料も少なく不明な点なども多いのですが、できる限りわかりやすく丁寧に紹介してみたいと思います。
いきなり壬申の乱の話には入らず、壬申の乱の遠因として重要なきっかけとなった663年の白村江の戦いの敗戦処理の様子から紹介してみたいと思います。
壬申の乱前夜
663年、日本は白村江の戦いにより唐・新羅連合軍に敗北。敗戦国となった日本は唐・新羅の侵略戦争に怯えることになります。
この脅威に備えるため、日本は様々な防衛対策を行います。ここではサクッと4つだけ説明します。おおむね663年~670年のお話になります。壬申の乱勃発前に日本の様子を見てみましょう。
防人(さきもり)の配置
唐が船で攻めてきた場合、一番船を着港しやすいのが今でいう博多湾でした。
日本としても博多湾の防衛に力を入れなければなりません。そこで、行ったのが防人の派遣です。
防衛には、現地(九州)の人だけでは足りないので、東国(今でいう東京や静岡)からも人を派遣させました。いつ帰れるかわからない単身赴任の始まりです。
急な決定に、多くのお父さんたちが悲しみました。万葉集には、妻子との別れを嘆く歌が数多く残されています。
庚午年籍(こうごねんじゃく)
外国に対抗するには、日本が一致団結しないといけません。そのためには、昔の蘇我氏のように豪族たちに勝手放題されては困るわけですね。状況は、明治維新の状況と似ています。
そこで、作られたのが戸籍!庚午年籍(こうごねんじゃく)といいます。日本初の戸籍です。人々の年齢構成・家族などを把握し、日本が動員できる兵力や租税を知るために庚午年籍が作られたのです。
敗戦国という逆境を生かして、聖徳太子時代から推し進めていた天皇をトップにした国づくりをさらに推進することに成功したのです。やはり天智天皇(中大兄皇子)は策士だと思います。
唐・新羅との関係修復
日本は、唐を直接攻撃したわけではなく、あくまで百済救済を目的に唐と戦いました。唐との戦争自体は目的ではないのです。
細かい話は省略しますが、唐は高句麗を滅ぼそうとしますが、高句麗が思いのほか強いので背後にある百済を先に潰してしまおうと考えていただけで、目的は百済滅亡ではなく高句麗にありました。
こんな両者の思惑が、唐と日本との関係修復を可能にし、直接対決を防ぐことができました。運がいいです日本!とはいっても、日本は唐を簡単に信用はせず、関係修復後も防人の配置などを進めていきます。
都を防衛上有利な場所へ!近江宮への遷都
防衛のため、都をより安全な場所へ遷都しました。上図で見てわかる通り、東には琵琶湖、西は山々が連なる(図では山がわかりにくいですが、この山々に比叡山延暦寺が建てられるです。)自然の要塞でした。
今までは、現代でいう大阪と奈良付近に都がつくられることが多かったのですが、近江宮はその前例を覆す大遷都でした。
これには反発の声も多く、天智天皇の政権は難しいかじ取りを強いられます。
これらの防衛対策は、いずれも民に負担を強いるものばかり。そもそも白村江の戦いによって民は疲弊しています。そこに追い討ちをかけるかのような数多くの政策。
天智天皇政治に不満を持つ者も多く、そんな天智天皇政権に対する人々の不満が、壬申の乱の遠因にある・・・と考えられています。後述しますが、大海人皇子が挙兵した際、大海人皇子はいとも簡単に多くの兵を味方に取り込んでいます。これは、現政権に対して不満を持つことが多かったことを意味しています。
敗戦処理のためにやむを得ない措置だと言えなくもないですが、白村江の戦いと壬申の乱は決して無関係ではないのです。
壬申の乱と皇位継承問題
白村江の敗戦処理という大きな時代背景が壬申の乱の遠因にある一方、壬申の乱の直接のきっかけは大海人皇子と大友皇子の皇位をめぐる争いでした。
668年、中大兄皇子が天智天皇として即位。天智天皇は自らの即位に合わせて弟の大海人皇子を要職に就け、次期天皇候補に定めました。
大海人皇子は668年以前から天智天皇の右腕として大活躍しており、大海人皇子が天智天皇の後継者となることはある意味既定路線とも言えます。
ところが、671年になると事情が大きく変わります。
671年、天智天皇は突如として大海人皇子を要職から外し、代わりに天智天皇の息子の大友皇子が要職に抜擢されます。
天智天皇の心変わり。その動機は今でもわかっていません。優秀だった愛息子に単に心変わりしただけなのか、天智天皇と大海人皇子の間でトラブルがあったのか、真相は闇の中です。
大海人皇子は、天智天皇の原因不明の心変わりによって皇位の座を奪われたばかりか、「大友皇子の皇位継承を阻む敵」として命を狙われる存在にまでなってしまいます。大海人皇子の親中を御察しの通りです。
その翌年の672年、天智天皇が逝去します。乙巳の変、大化の改新、白村江の戦い・その敗戦処理と波乱万丈な人生がその幕を閉じます。しかし最後の最後に壬申の乱の火種を残してなくなってしまいました。
壬申の乱と天智天皇
天智天皇は死ぬ間際、大海人皇子に一計を案じます。
大海人皇子を寝床に呼び、こう話します。「お前に譲位し、今後のことを託したい」
大海人皇子からすれば、「おいおい、息子の大友皇子ラブだったのにこのタイミングいきなり俺に託すだと?明らかに怪しすぎだろ・・・。」って感じです。
大海人皇子はこう考えました。「どうせここで『わかりました』とでも言えば、後で『大海人皇子が皇位簒奪を企んでいる!』とかなんとかでっち上げて、俺のこと血祭りにあげるつもりなんだろ?俺はそんな見え透いた罠に引っかからないぜ兄よ」。
天智天皇は似た手法で有間皇子を処刑していますので、大海人皇子が警戒するのは当然です。

大海人皇子は譲位を拒否し、こう答えます。「自分は天皇になれる器ではない。ひとまず皇后(妻)を天皇にし、大友皇子を皇太子として次期天皇候補にするのが良かろう。私は、吉野へ出家しようと思います。」
これに安堵したのか天智天皇は、吉野への出家を了承します。それを見たある人物は、「虎に翼を付けて野に放つようなものだ」と大海人皇子を監視の外に置くことの危険性を述べています。逆に天智天皇が大海人皇子に利用されてしまったのかもしれません。
天智天皇や大友皇子の監視の目から抜け出した大海人皇子は、吉野で近江宮の情勢を見守ることにします。
こうして近江宮の大友皇子と吉野の大海人皇子は一触触発状態。ついに672年、壬申の乱が始まります。
壬申の乱の始まり
672年に逝去した後、大友皇子が弘文天皇として即位。近江宮では、新たな宮の建設に向けて、各地に使者を派遣し資材や人を集めていました。大友皇子は即位していないという説もありますが、いずれにしても政治の中心に大友皇子がいたのは確かです。
この頃は、天皇が代わりたびに都を造り直していました。詳しくは以下の記事を。

そんな中「美濃・尾張では資材や人を集めるふりをして、人々に武器を持たせ、吉野にいる大海人皇子討伐が企てられている。」という噂が大海人皇子の耳に入ります。
この話を聞き、遂に大海人皇子は武力行使を決意。売られた喧嘩は買ってやろうぜ!というわけです。この話は天武天皇が自分の行為を正当化するための作り話であって、実際は大海人皇子が自ら積極的に出兵したという説もあります。
こうして天武天皇は吉野から挙兵。いよいよ壬申の乱が始まります。
壬申の乱における大海人皇子の行軍経路
行動を決めた後の大海人皇子の行動は非常に迅速でした。上図の吉野から不破までのルートをわずか4日で制覇します。
【672年6月22日】
美濃に使者を派遣し、不破で兵を集め、道を封鎖せよと命じます。上図のとおり、山々が連なる地域において、不破は東国と都を結ぶ超重要ルートだったのです。これは、上手く成功したようです。
壬申の乱の勝敗は不破をどっちが先に抑えるか?がとても重要で、大海人皇子の着眼点は素晴しいです。不破は関ヶ原の合戦の戦場でもありますが、これも偶然じゃなく不破付近は関東と関西を繋ぐ地勢的に重要な場所だったんです。
【672年6月24日】
大海人皇子は、馬を借りようと駅家(うまや。官馬を借りる場所)へ行きますが拒否されます。大海人皇子の想像している以上に、弘文天皇の監視は厳しいものでした。
これに危機感を感じた大海人皇子は、馬も借りずに、妻子を連れて吉野を飛び出します。護衛もほとんどなく10名程度での出発だったようです。敵に襲われたらまず勝てません。そんな命がけの状態で大海人皇子は吉野を発つのです。
おそらく、壬申の乱において大海人皇子が最も危険に陥ったのがこの時です。
【672年6月27日】
無時に不破に到着します。出発してからたった4日です。しかも出発のときに10名程度だった大海人皇子一同ですが、到着したときには数百の軍勢を引き連れていました。4日の間に各地で兵を集めることに成功したのです。
このように兵を集めることができたのは、
- 最初に述べた天智天皇による国土防衛施策に多くの民が批判的な態度だったこと
- 大友皇子よりも大海人皇子の方が血統的に優れていた(母の生まれが高いか低いか)こと
が原因とあると考えられています。
大海人皇子は、不破を拠点として東国からも挙兵を呼びかけます。防人の任務などに不満を持つ多くの兵が集まってきました。
一方の近江宮側でも「大海人皇子挙兵!不破に陣を構える!」との知らせが入り、兵を集めるため全国に使者を派遣します。
しかし、東国へ使者を派遣するには必ず不破を通らなければなりませんが、大海人皇子が陣を構えています。
九州は唐・新羅の再来に備え、防人を多数配置していますが、「国土防衛が最優先であり、兵を弘文天皇に渡すことはできない」と援軍を拒否されてしまいます。
結局、兵を集められたのは畿内だけとなり、戦う前から弘文天皇サイドは不利な状況に立たされていました。これはすべて大海人皇子の迅速な行動により不破を奪取されたせいです。6月24日~27日の大海人皇子の強行軍が壬申の乱の勝敗を決したと言っても過言でないと思います。
いよいよ、大海人皇子が弘文天皇のいる近江宮へと攻め込みます。壬申の乱のクライマックスです。
壬申の乱の戦況
次は、壬申の乱の具体的な戦況について紹介します。
【672年7月2日~】
準備を整えた大海人皇子は、不破と吉野の東と南の2方面から近江宮へ進行を開始します。壬申の乱は二方面攻撃だったのです。
南側では、最初は弘文天皇サイドが有利に戦を進めますが、大海人皇子が東国からの援軍を次々に送ったため、弘文天皇サイドは敗北し、大海人皇子は大和地方を制圧します。
一方の東側は順調でした。近江宮側でも軍を派遣しましたが、内紛が発生し思うように事が運びません。弘文天皇の集めた畿内の兵たちは、有力豪族が多く団結力が足りなかったようです。
弘文天皇サイドは次々と敗戦し、大海人皇子はあっという間に近江宮に迫ってきます。
【672年7月23日】
弘文天皇の敗北が誰の目から見ても明らかになると、人望を失った弘文天皇の周囲の者は皆逃げ出し、壬申の乱の最後には弘文天皇の側近はわずか数名にまでなってしまいます。
もはやこれまで・・・と覚悟を決めた弘文天皇は自害。こうして壬申の乱は大海人皇子の大勝利に終わります。
これは日本で最後の皇位簒奪の成功例となります。壬申の乱以後、日本で皇位簒奪に成功した者はいません。(試みた者はいますがみんな失敗してます)
そんな意味でも壬申の乱の歴史的意義は非常に大きいものだったと言えます。
壬申の乱のその後
壬申の乱の勝因は、大海人皇子の東国に着目し不破を抑えた的確な計画と護衛も連れずに不破へ向かった決断力、そして行く道々で現地の人を味方に付けていくカリスマ性にあります。
壬申の乱の後、大海人皇子は近江から飛鳥へ戻り天武天皇として即位します。そして、
- 「天皇」という言葉・「日本」という国名を定め
- 天皇権威を高めるため、古事記・日本書紀の編纂に取り掛かり
- 伊勢神宮を中心にした神道を形成し
- 八色の姓という皇族の地位を高める身分秩序制度を作り上げ
- 天皇主権のための新しい都、藤原京の建設準備を進める
などなど、その後の日本の大きな影響を与えた数々の政策を打ち出します。(1については諸説あり)

壬申の乱によって多くの血が流れましたが、そんな痛みを伴うことで日本は天皇主権の新しい国へと生まれ変わり、時代は奈良時代に向けて大きく動き始めます。
壬申の乱の歴史的意義を考えてみる
壬申の乱は、日本の国政を大きく変えたとても重要な転換期になりました。天皇主権は聖徳太子の頃からの日本の大きな目標で、天智天皇も天皇主権国家の樹立に向けて必死になっていました。
なぜ天皇主権の国家を目指したのか?と言えば、唐や朝鮮半島の外国からの脅威に備えるため中央集権的な国家を作り上げ、国力を増強しようと考えたからです。
しかし、既得権益層の豪族の力が強く事はスムーズに運びませんでした。ところが、壬申の乱で事態は一変します。
壬申の乱は、従前の既得権益層の集まりだった弘文天皇VSそれに不満を持つ人々の集まりだった大海人皇子という構図でもあります。
大海人皇子が壬申の乱の勝者になったことで、天皇主権を邪魔する既得権益層の豪族たちもこの時に力を失ってしまったのです。こうして邪魔者が消え去った状態で、天武天皇は実に強力に天皇主権国家の樹立を目指し様々な政策を打ち出すことに成功したわけです。
壬申の乱がなければ今の天皇を象徴とした日本はない!と言っても良いかもしれません。
そして、天智天皇のライバルであった大海人皇子が天智天皇の政治理念を受け継ぎ、天皇主権を強力に推し進めたことはなんとも皮肉なものです。
コメント
672年、天智天皇は逝去します。こうして、天智天皇に裏切られた形の大海人皇子は、天智死後の翌年(663年)、大友皇子を倒すことを決意します。