伊治呰麻呂の乱を簡単にわかりやすく徹底解説!【蝦夷VS朝廷、38年戦争遂に始まる】

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今回は、780年に起こった伊治呰麻呂これはりのあざまろの乱についてわかりやすく丁寧に解説していきます。

最初に伊治呰麻呂の乱の概要を載せておきます。

伊治呰麻呂の乱とは

奈良時代、東北地方では多賀城や秋田城を拠点として、蝦夷が住んでいる地域への朝廷支配が進められていました。

しばらくは、比較的平和に東北の支配が進みましたが、780年、朝廷の東北支配に不満を持った伊治呰麻呂が反乱を起こし、朝廷の拠点だった多賀城を攻め落としてしまいます。

この伊治呰麻呂が乱がきっかけとなって、東北地方では朝廷VS蝦夷の30数年にも及ぶ戦争が始まることになります。

この記事を読んでわかること
  • 伊治呰麻呂が乱が起こった理由・原因は?
  • 伊治呰麻呂が乱の経過は?
  • 伊治呰麻呂が乱の後、東北地方はどうなったの?
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伊治呰麻呂の乱が起こった時代背景

最初に、伊治呰麻呂の乱が起こった当時の朝廷と蝦夷の関係についてお話します。

朝廷は710年頃から東北地方の支配を始め、少しずつ時間をかけて支配領域を拡大していきました。

朝廷の東北支配の戦略は、おおむね次のようなイメージでした。

  • 1 蝦夷同士の争いを利用して、蝦夷を懐柔
  • 2 懐柔後、状況が安定してきたら、拠点として城、城柵じょうさくの設置
  • 3 拠点が完成したら、関東地方などから移民を送り込む

要するに、時間をかけてもいいから穏便に支配を進める作戦です。

蝦夷は集落の間で争っていることが多かったので、朝廷はこれに介入します。

朝廷
朝廷

蝦夷Bさん、あなたは蝦夷Aと争っているのでしょう。

悪いようにはしません。私たちの支配下に入れば、支援できますよ。

逆に、蝦夷側から朝廷に接近することもありました。

蝦夷
蝦夷

朝廷と争うより、朝廷の支配下に入り込んで、その権威や権力を利用した方が、お得だな・・・!

もちろん、朝廷と蝦夷が衝突して戦いに発展することもありました。それでも、伊治呰麻呂の乱が起こる前までは、支配を進めているわりには、比較的平和な状況が続いていました。

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伊治呰麻呂は朝廷側の人間

780年に反乱を起こした伊治呰麻呂は、実は朝廷側の人間でした。上で述べたような朝廷の支配下に入り込むことで生き残りの道を探っていたタイプの人間だったのです。

しかも、伊治呰麻呂は朝廷の蝦夷支配に貢献していたらしく、それなりの地位まで獲得していました。

朝廷が蝦夷を懐柔するのに、伊治呰麻呂のような蝦夷出身の人物は重宝され、高い評価を受けたのでしょう。

一方で、伊治呰麻呂は蝦夷出身ということで朝廷内で差別を受けていたと言われています。

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伊治呰麻呂の乱はなぜ起こった?

伊治呰麻呂の乱が起こった理由は、実ははっきりとわかっていません。

わかっているのは、何らかの理由で、上司で東北(陸奥・奥羽)の支配を任されていた紀広純きのひろすみに強い不満を持ち、突如として反乱を起こしたことだけです。

蝦夷は差別を受けていたし、基本的に蝦夷は支配される側だったので、何か不満を持っていたとしても全く不思議ではありません。(それが不満の原因が具体的に何かまではわからないけど)

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伊治呰麻呂、完勝!

780年3月、伊治呰麻呂は紀広純と共に伊治城これはりじょうに居ました。

伊治城は今の宮城県栗原市にあり、おそらくこの一帯が伊治呰麻呂の勢力地だったのでしょう。

伊治呰麻呂は他の蝦夷たちとも内通し、伊治城にいる紀広純とその部下たちを一斉に襲撃しました。この襲撃により紀広純は命を落とします。

伊治呰麻呂は伊治城から南下し、朝廷の東北支配の本拠地である多賀城を攻撃。多賀城はこの攻撃に耐えることができず、灰塵に帰してしまいました。

伊治呰麻呂の完全勝利です。

赤マークが伊治城青マークが多賀城です。

伊治城から多賀城までは、岩手県と宮城県の県境から仙台向けて南下してくるイメージですね。距離は直線距離で約50km。

この距離を軍を率いて南下し、多賀城をボコボコにするのですから、伊治呰麻呂の軍はただの蝦夷の集まりではなくしっかりと統率され、非常に手強い相手だったのだったんじゃないか?と思います。

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蝦夷VS朝廷、長期戦へ・・・

伊治呰麻呂の行動は、長年の蝦夷支配政策を白紙にしかねない危険な行為であり、この裏切り行為を断固として許すことはできません。

・・・が、この後、日本側の記録に伊治呰麻呂の名が登場することはありません。おそらく、捕まえることができなかったのだと思われます。(もし捕まえていたら、朝廷の功績としてむしろ積極的に記録されそうですしね)

伊治呰麻呂の乱の後、朝廷側に味方していた蝦夷たちも一斉に離反したようで、蝦夷たちは一致団結して朝廷に徹底抗戦の構えを見せるようになります。

蝦夷に一致団結されると、朝廷と言えどもこれを簡単に撃破することはできず、蝦夷の反乱を平定するのに30数年もの歳月を要することになります。

伊治呰麻呂の乱が起こった当時の天皇は光仁天皇でしたが、蝦夷平定が完了するのは次の天皇である桓武天皇の時代になります。

最後に、伊治呰麻呂の乱から始まった蝦夷VS朝廷の戦いの流れをまとめておきます。

蝦夷討伐戦
  • 780年
    伊治呰麻呂が反乱を起こす←この記事はココ

    東北の拠点、多賀城が陥落。これを機に蝦夷と朝廷の全面戦争に突入。

  • 789年
    朝廷軍、蝦夷に敗れる

    朝廷軍の総大将は紀古佐美きのこさみという男。蝦夷の卓越したゲリラ戦術に歯が立たず敗走。

  • 792年
    健児こんでいの制度を導入

    戦争に駆り出された農民たちは田畑を耕せず生活に苦しみ、士気も低低いため、農民に対する兵役の義務を免除。

    その代わり、武勇に優れた人々(健児)だけを抜擢して軍隊を編成することに。

  • 794年
    再び大戦力を送るも、蝦夷を倒せず・・・

    この時の総大将は征夷大将軍せいいたいしょうぐんと呼ばれ、大伴弟麻呂おおとものこまろが選ばれた。大伴弟麻呂は初代征夷大将軍ということ。

    戦況は不明ながら蝦夷を倒すには至らず。しかし、副将だった坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろが大活躍した。

    同年、平安京に遷都。

  • 802年

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この記事を書いた人
もぐたろう

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