今回は、奈良時代末期に活躍した道鏡(どうきょう)という人物について紹介します。
道鏡の評判はすこぶる悪いです。語弊があるのを覚悟で言えば
孤独な40代独身の女帝の心の弱みにつけ込み、その持ち前の巨根で女帝の気持ちを鷲掴み。メロメロになった女帝を利用して皇位簒奪を企んだ超悪いやつ!
っていうのが道鏡のイメージ。古代史屈指の下ネタ野郎です。
道鏡は奈良時代末期の日本の政治が腐敗しきっていたことの象徴的な存在で、奈良時代の日本政治を語るには避けては通らない人物
・・・なんですが、やっぱみんなゴシップネタの方が好きみたいで「道鏡の大きすぎワロタw」とか「奈良時代に逸物の力で国を動かしたやついるらしいでw」とか、そっち系の話が有名になっています。
今回は、そんな道鏡の実際のところをわかりやすく紹介したいと思います。
道鏡の生い立ち、最初は普通の僧侶だった
道鏡は弓削(ゆげ)氏という一族の1人。その名前の通り弓を作っていた一族で、昔々を辿ると古墳時代末期に軍隊として活躍した豪族、物部氏との関わりもあったようです。ですが、道鏡の属する弓削一族は、それほど高貴な家柄ではありませんでした。
生まれた年は不明。700年代前半なのは確か。若い頃は仏教の教えを学びます。
740年代後半には、東大寺建立に貢献し、初代別当にも選ばれた良弁(ろうべん)の元で働いていたとも言われています。740年代後半と言えば、聖武天皇が東大寺建立に励んでいた時期。道鏡も東大寺建立に尽力したのかもしれません。
その後、詳細な経緯は不明ですが、朝廷の宮内を出入りできるようになります。僧としての道鏡の能力が世間から認められていたということでしょう。
当時の仏教には、病気を治癒する一種に呪術的な力があると信じられており、僧は今でいう医者の側面も持っていました。
当時は科学技術も医学も発展してませんので、病気とは原因不明の未知なるもの。そして、そんな未知なるものに対抗するならやはり呪術のような謎めいた力を使おう!という発想に至るわけです。
当時の優秀な医者は、スピリチュアルなオーラを出している僧侶。山林修行や禅の修行を積み、精神的に成熟し、オーラを纏った僧侶こそが優秀な医者だったのです。
孝謙上皇「私、もう道鏡以外のこと考えられない」
道鏡と女帝の出会いは761年、病に倒れた孝謙上皇を道鏡が看病したのがきっかけでした。
孝謙上皇は自分を看病してくれた道鏡にもうメロメロ。孝謙上皇は周囲の人から見ても常軌を逸しているほどに道鏡を愛しました。
日本の天皇制は男系が絶対。そのため、女帝は天皇即位自体は許されてるけど生涯独身である必要がありました。
孝謙上皇は悪く言えば、孤独な40代独身の女性です。そんな孤独に苛まれる女帝が、二人っきりで看病とは言えお互いに体を触れ合うのですからそりゃ道鏡がちょっといい男なら惚れてしまうでしょうねぇ・・・。おまけに道鏡はスピリチュアルオーラむんむんの魅力的な男性だったでしょうからね。
孝謙上皇は、政治的にも孤立していました。母の藤原光明子が依然として強い影響力を持っていて色々言ってくるし、おまけに時の権力者、藤原仲麻呂もうるさい。
独身で子が生まれないため、将来、深刻な皇位継承問題が起こるであろうことにも心を悩ませていました。皇位継承を巡って、周囲が争い合っている様子を見ることは孝謙天皇にとってポジティブには働かなかったはずです。
身も心も荒んでいた孝謙天皇の前に、ふと現れた一筋の光こそが道鏡だったのです。ここまでは完璧ラブストーリーの展開。
藤原仲麻呂の乱
この孝謙上皇の道鏡の寵愛っぷりはちょっと異常で、藤原仲麻呂はこれを注意します。直接上皇に物申すのは恐れ多いので、藤原仲麻呂の傀儡の淳仁天皇を通じて孝謙上皇に「ちょっと道鏡との関係が行き過ぎやしませんかねーー!」と言ってもらいます。
まぁ、愛する道鏡のことを悪く言われたら孝謙上皇も怒りますよね。それはわかるんですけど、孝謙上皇の怒り方も異常でした。
孝謙上皇「淳仁天皇は、全くダメな天皇だわ。なんか私のことを色々言うみたいだけど、別に私何もしてないから!そんなに疑うなら私、出家する。あ、それと淳仁天皇は使い物にならんから、ショボい仕事だけやってればいいから。主要な仕事は全部私がやるからそこんとこよろしく」
こうして、淳仁天皇の権限を剥奪してしまいます。当時の淳仁天皇は、藤原仲麻呂の傀儡でしたから、実質的には藤原仲麻呂の影響力を削いだことになります。
この当時の道鏡がどのようなことを考えていたのかはわかりません。しかし、孝謙上皇のプライベートな男女問題に臣下の藤原仲麻呂が物申すとは考えられません。道鏡は、孝謙上皇と親密になるにつれ、僧侶としての身分を忘れ権力欲に溺れていったのではないかと思います。
道鏡「孝謙ちゃん。俺に高い官位くれたら孝謙ちゃんのこともっともっと気持ちいいことしてあげる(意味深)」みたいなねw
だからこそ、当時の最大権力者であった藤原仲麻呂がその道鏡を恐れた・・・と。別に「男女問題がけしからん!」ってことを言いたかったわけではないと思う。
こうして朝廷内では藤原仲麻呂と孝謙上皇の熾烈な争いが始まります。人事や軍事力の確保のため両者は政治的に争いますが、764年、藤原仲麻呂は遂に武力行使を行います。
・・・が、藤原仲麻呂の軍事作戦は事前に孝謙上皇に露呈し、藤原仲麻呂の反乱は孝謙上皇によって潰されます。これを藤原仲麻呂の乱と言います。詳細は以下の記事を。
これと同じ頃、唐では絶世の美女、楊貴妃(ようきひ)を巡って安禄山の乱と言う内乱が起こっていました。これとはちょっと違うんですけど、一方の日本では道鏡という一人の男によって藤原仲麻呂の乱が起こります。道鏡はもはやただの僧侶ではなく、一国を争いに導くほどの男になっていたのです。
道鏡の時代始まる
藤原仲麻呂の乱が鎮圧された後、孝謙上皇は仲麻呂と仲が良かった淳仁天皇を淡路に追放。そして自ら称徳天皇として再び即位します。2度目の即位のことを重祚(ちょうそ)と言います。
こうして称徳天皇と道鏡による新しい政治が始まりました。
藤原仲麻呂は、淳仁天皇を傀儡に政治を私物化し思うがままに政治を行いましたが、道鏡も同じでした。違うのは称徳天皇を自分にゾッコンにさせているところだけ。
764年、道鏡は僧侶として前代未聞の太政大臣禅師という官僚の最高官位に就任。色々とスッ飛ばして突如として官僚トップの座を手に入れます。そして道鏡と縁のある者も次々と朝廷に進出し、高い官位の多くを独占します。もはや、官位を得るのに能力やキャリアは不要であり、権力者に近しい者であれば誰でも官位を得られるそんな時代になってしまいました。
これまで高い役職に就いていてた藤原氏や皇族らはこれに大きな不満を持つことになります。
さらに765年、道鏡は法王となり、日本仏教界の頂点に立つ男になります。これはかなり衝撃的な出来事です。天皇らは深く仏教を信仰していたわけですが、宗教上においては天皇よりも法王の方が身分が高くなってしまうのです。
当時は政治と仏教が深く結びついていた時代ですから、仏教界において天皇を凌駕する法王が登場したことは、法王が天皇にとって代われる可能性があることを示唆しています。おまけに称徳天皇は出家していたのでなおさら。
とそして遂に、天皇の存在を大きく揺るがす大事件まで起きてしまいました・・・。
道鏡「俺は天皇になるんや!」宇佐八幡宮神託事件
769年、今の大分県にある宇佐八幡宮でとある神託があったという情報が称徳天皇の元に入ります。
「道鏡を天皇にすれば、天下は泰平になるであろう」
うーん・・・、なんか唐突すぎて胡散臭いと思いませんか?
実は本当に胡散臭いんです。
当時の太宰府の代表者は弓削清人(ゆげのきよひと)。道鏡の弟。そして、その下で、九州全体の神社の管理役になっていたのが習宜阿曾麻呂(すげのあすまろ)。みんな道鏡の息がかかった人物でした。繰り返し言いますが、宇佐八幡宮の神託は限りなく胡散臭いんです。
称徳天皇は、これを確認するため和気清麻呂(わけのきよまろ)という人物を宇佐八幡宮に派遣します。この任務は今後の皇位継承を問題を左右する超重要任務。和気清麻呂は、それに相応しい人物だと称徳天皇から評価されていたのです。
ところが、和気清麻呂が現地に行って聞いた神託は、まるで違うものでした。和気清麻呂によれば、宇佐八幡宮の神託は次のようだったと言うのです。
「我が国は開闢以来、君臣の身分は決まっています。臣下が君主になったことは未だありません。天皇には必ず皇族を即位させよ。これに背くものは排除せよ」(意訳)
これに道鏡は大激怒。和気清麻呂は神託を偽っておりそれこそ大罪だ!と。
称徳天皇の心境はわかりませんが、道鏡の心中を察し和気清麻呂の左遷を決定。称徳天皇には、強制的に変な名前に改名させて人に嫌がらせをする趣味があって、和気清麻呂は、別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させられ僻地へと飛ばされてしまいます。
和気清麻呂はとても真面目な性格な気がするので、おそらく嘘を付いているのではなく、宇佐八幡宮の神託をそのまま報告しただけなんじゃないかと思います。そして虚偽であるのは、「道鏡が即位すべきという」当初の噂の方だったのかなと。
ところが、ここまでしておきながら称徳天皇は迷います。「いくら道鏡を愛していると言っても、道鏡を天皇即位させるのはヤバいんじゃ・・・」
公の記録になっているかはわかりませんが、おそらくは、皇族や藤原氏など多くの臣下たちの必死の説得もあったのだろうと思います。この事件の後,称徳天皇はすぐにこんなことを言います。
「皇位の望んだとしても、選ばれた者でなければ、かえって自分の身を滅ぼすことになる。」
当時の称徳天皇の心の内を探るのは困難を極めますが、血筋も関係ない道鏡を即位させるというトンデモナイ事態には流石に躊躇したようです。
今でこそ、日本の皇室は世界最古の歴史を持っており、そのことから日本は世界最古の国とまで言われるのですが、もし称徳天皇が道鏡に皇位を譲っていたとしたら、そんな日本の世界記録は途絶えていたことでしょう。
宇佐八幡宮神託事件は、日本の歴史上で最も皇室の断絶が危ぶまれた事件とも言われるほどのかなり重大な事件だったんです。
この事件の後、道鏡は政界での力を失います。処刑までには至らなかったものの、下野(しもつけ)の薬師寺へ左遷。その後は細々と暮らして生涯を終えたようです。晩年の道鏡の様子はわかっていません・・・。
道鏡は巨根だった説
さて、道鏡が孝謙上皇(称徳天皇)を国が乱れるほどにメロメロにできたのは、道鏡の逸物が巨根だったからだ!という説が流布しています。
江戸時代には「道鏡は すわるとひざが 三つでき」という川柳が生まれるほど。
が、これは根も葉もない噂なので軽いゴシップネタ程度に捉えておきましょう。間違っても本気で信じないように!!笑
ただ、当時の僧侶は山修行などでマッチョな人も多く、道鏡もムキムキのイケメンだったのだろう・・・と言われています。何れにせよ、道鏡には独り身の寂しさを埋めてくれる魅力的な人物であったことは間違いないと思います。
道鏡まとめ
道鏡は、僧侶であるにも関わらず孝謙上皇の寵愛から現世の権力欲に溺れ、国を大きく乱してしまいます。
この道鏡の存在は後の日本の政治に大きな影響を与えました。
まず、「法王」という身分は基本的に天皇が出家した際になれる身分に変わりました。天皇以外の者が法王になると、宗教面で法王が天皇を超越した存在になってしまいますからね。
また、多くの権力者や貴族らに奈良の仏教が腐敗していること・政教分離が重要であることを強く痛感させました。
これは後の平安京への遷都の理由の1つとも言われています。奈良の腐敗した宗教とは決別したい・・・というわけ。さらに、平安時代初期の歴代天皇は、奈良の腐敗した宗教に代わって空海・最澄が唐で学んだ密教を重んじるようになります。
道鏡は、1人の女性を心を鷲掴みにすることで日本という国を大きく動かしたすごいやつ。そして、愛や宗教の力で国を動かすと悲惨なことになるよ・・・という事実を後世の我々に伝えてくれているように思います。
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