今回は、794年に実施された平安京への遷都についてわかりやすく丁寧に解説していきます。
最初に概要を載せておきます↓
桓武天皇が遷都を決断した理由
桓武天皇が遷都を決めた理由は、大きく3つあります。
この2点をサラッと解説していきます。
平城京の仏教腐敗
当時、平城京の仏教勢力(南都六宗と言います)は腐敗しきっていました。政治に口を出すようなって、権力や金を欲するようになったからです。
その典型例が、僧侶の道鏡という男。女帝称徳天皇の心の隙間に入り込み、皇位を奪う一歩寸前のトンデモない大事件を起こしています。
一度腐ったものを戻すのは容易でありません。そこで桓武天皇はこう考えました。
もう、平城京の仏教勢力は見限ったわ。
遷都した後に、新しい仏教のあり方を探すことにしよう・・・!
天武系から天智系
桓武天皇のお父さん光仁天皇の頃から、天皇の血統にとても大きな変化が見られました。
下の系図を見てください。
当時、天皇家の血統は、天武天皇の血統と天智天皇の血統に大きく分かれていました。
上図では、天武系は赤、天智系は青としています。
奈良時代は実は天武系(上の系図でいう赤)の時代でした。ところが、光仁天皇から急に天智系へ(赤から青へ)変わっていることがわかると思います。
そこで桓武天皇は、天武系の血筋と決別するため遷都することを決めました。
平城京にいたら、天武系の人が文句言ってくるかもしれないし、心機一転遷都して、俺の威厳を見せつけてやろう。
天武系と天智系の2つの血筋は、672年に起こった壬申の乱で争った関係です。桓武天皇からすれば、天武系が築いた平城京に住むのは、細かい話を抜きにしても良い気持ちはしなかったはずです。
水に恵まれなかった平城京
これは、実際に地図を見てみるとわかります。
以下は、平城京・長岡京・平安京を示すgoogleマップです。
青:平城京、緑:平安京、赤:長岡京
拡大して見てみると、平城京の周辺にだけ大きな川がないことがわかると思います。
710年に平城京へ遷都以降、実際に生活してみると大きな川がことが非常に不便であることがわかってきました。
まず、重たかったり大きいものを船で運べません。そして、衛生面でも「平城京は水不足で、排泄物などもしっかり処理できていなかったのではないか?」とも言われています。
平安京遷都を決めた藤原種継暗殺事件
桓武天皇が即位してから3年後の784年、桓武天皇は長岡京への遷都を決定します。
・・・が、その1年後の785年、長岡京建設の責任者だった藤原種継という男が何者かに暗殺される事件が起こります。
遷都に反対する勢力の犯行です。遷都に反対する勢力とは、言い換えると「遷都をされたら困る人たち」つまり、平城京の仏教勢力(南都六宗)や天武系に近い貴族たちなどでした。
多くの関係者が捕らえられる中、関係者の1人に大伴家持という男の名が挙がります。大伴家持は、皇太子(次期天皇)の世話をする組織の最高責任者「東宮大夫」でした。
そこから、桓武天皇はこんなことを思います。
東宮大夫が関係者なら、皇太子も事件の関係者なんじゃね?
こうして、皇太子にまで嫌疑がかかります。当時皇太子だったのは、桓武天皇の弟だった早良親王という人物でした。
実際に早良親王が事件に関与したかどうかは不明です。しかし、結果的に「東宮大夫が関係者なら早良親王も黒!」という曖昧な理由で早良親王は流罪に。そして流刑地に向かう最中、餓死によって謎の死を遂げることになります。
皇太子の早良親王が亡くなったことで、桓武天皇の息子が新しい皇太子に選ばれることになりました。
早良親王「桓武天皇のこと祟ってやんよ」
当時、多くの人たちは早良親王は無実の罪で命を奪われた・・・と考えていたようです。
早良親王は、桓武天皇の陰謀で殺されたんだ。
桓武天皇は息子を次の天皇にしたいがために、皇太子だった弟を消したんだ!そうに違いない!
しかも、早良親王が命を落とした直後から、桓武天皇の身の回りに不幸が多発するようになります。
790年の不幸ラッシュを受けて、さすがの桓武天皇もビビります。
ヤベェよ・・・。これ絶対に早良親王の祟りだよ。
次は俺自身の命が狙われるんじゃ・・・
精神的に追い詰められた桓武天皇は息子(安殿親王)の病気をきっかけに、これらの不幸を早良親王の怨霊の仕業だと公式に認定。
そして、これらが早良親王の祟りだとわかったことで、事件の発端となった長岡京の存続にも暗雲が立ち込めてきます。
長岡京から平安京へ
早良親王の祟りが猛威を振るっている頃、長岡京は度重なる洪水に襲われます。
ウゥ・・・、これも早良親王の祟りに違いない。きっと長岡京を潰そうとしているんだ。
桓武天皇はきっとこんなことを思ったに違いありません。
しかし、長岡京の洪水は起こるべくして起こったもので、決して祟りなんかではありませんでした。
川に囲まれた地勢的に、洪水が起こって当然の場所だったからです。特に長岡京の近くを流れる小畑川は、近代に入るまで頻繁に大洪水を起こしていたとても厄介な川でした。
743年、桓武天皇の腹心で長岡京の治水工事担当でもあった和気清麻呂はこう言います。
実際に治水工事をしてわかりました。生半可な治水工事では長岡京の洪水を止めることはできません。
これもやはり、早良親王の祟りなのでしょうか・・・。
このまま治水工事を続けるよりも、いっそのこと遷都の場所を見直した方が良いかもしれません。
桓武天皇はこの和気清麻呂の意見を受け入れます。
では、次の遷都先はどこか?・・・そうです。その遷都先こそが平安京です。
平安京は、明治時代に首都が東京に移るまでの約1,000年もの間、日本の首都として機能し続けることができました。
そう考えると、和気清麻呂のアドバイスは的確だったし、桓武天皇の決断は大正解だったのかもしれません。(結果的に、早良親王の祟りもグッジョブだったのかも?)
平安京遷都まとめ(年表付き)
以上、平城京→長岡京→平安京までの遷都の流れをまとめてみました。
最後に、年表で平安京遷都までの流れをまとめておきます。
- 784年長岡京へ遷都
仏教腐敗・旧政治勢力の排除・水不足を理由に平城京から遷都を断行!
- 785年藤原種継の暗殺事件
長岡京建設の責任者だった藤原種継が長岡京反対派に暗殺される。
事件の関係者に皇太子だった早良親王の名が挙がり、早良親王は謎の死を遂げる。
- 787年~790年早良親王の祟り!
桓武天皇の身の回りで不幸が多発。長岡京も洪水の被害を受け、桓武天皇は早良親王の祟りを恐れるようになる。
- 793年桓武天皇、平安京遷都を決断
和気清麻呂の助言を受けて、長岡京を諦め、平安京へ再遷都することを決定。
- 794年平安京遷都
「鳴くよ(794年)ウグイス平安京」で有名な平安京へ遷都
ちなみに、平安京へ遷都した後も桓武天皇は早良親王を恐れ続けたといわれています。
800年には、早良親王に崇道天皇と言う名をあたえ、天皇になれず無念の死を遂げた早良親王の怒りを鎮めようとしました。
さらに桓武天皇は、鎮魂の儀式も頻繁に行い、立派な墓まで造っています。こうして、桓武天皇は生涯、早良親王の祟りに苦しむことになるのです。
早良親王(崇道天皇)のお墓は、今でも奈良市八島町に立派な姿のまま残っています。
コメント