今回は、743年に制定された墾田永年私財法について、わかりやすく丁寧に解説していくね。
あと、墾田永年私財法に深く関係している百万町歩開墾計画・三世一身法についても併せて紹介していくので、3つセットで覚えてしまいましょう!
墾田永年私財法とは
墾田永年私財法とは、人々が開墾した田んぼを、その開墾した人たちの私有地として認める法律のことです。
墾田永年私財法が制定されるまで、日本の田地はすべて朝廷のものでした。(公地公民制)
朝廷は、田地を人々に分け与えて、人々はその田地から収穫された稲を食べて生計を立てていました。さらに朝廷は、その収穫された稲の3%を税(租)として納めさせることで税収を確保していました。
朝廷から人々に与えられた田畑は口分田と呼ばれ、さらに口分田に関するルールを決めるために班田収授法という法律が定められていました。
班田収授法の運用が本格スタートしたのは大宝律令が定められた701年頃と言われています。
・・・ところが、いざ班田収授法を運用してみると、いろいろと問題が生じてきます。
それを解決しようとしたのが、今回紹介する墾田永年私財法でした。
墾田永年私財法が制定された時代背景
班田収授法を運用していくなかで、特に大きい問題だったのが口分田不足でした。
奈良時代に入って人口が増えたせいで、人々に分け与える口分田が足りなくなってきたのです。
口分田が足りなくて、班田収授法に書いてあるとおり口分田を分け与えることができなくなってきた。どうしよ・・・。
口分田で収穫された稲は朝廷の税収源にもなっていたため、口分田不足はそのまま朝廷の財源不足に直結する死活問題でした
口分田不足の解決方法そのものは、とてもシンプルです。
口分田が足りないなら、荒れた土地を耕して田んぼにしちゃえばいいんだ!
しかし、荒れた土地を耕す(開墾する)ためには相当な労働力が必要です。・・・つまり、民衆たちにガッツリと働いてもらわないといけないわけです。
とはいえ、民衆たちだってタダで働いてくれるわけではありません。口分田不足を解消する上で大きな問題になったのは、「どうすれば民衆たちが荒地を耕してくれるか?」という問題でした。
どんな制度を作れば、民衆たちは開墾してくれるかな・・・。
結局、743年に墾田永年私財法が制定されて、この問題は解決するわけですが、墾田永年私財法が制定されるまでにも、紆余曲折がありました。
その紆余曲折の過程で登場するのが、百万町歩開墾計画と三世一身法です。
百万町歩開墾計画
722年、朝廷は未開拓の地が多かった奥羽地方での、大規模な開墾計画を発表しました。
この計画のことを百万町歩開墾計画と言います。
奥羽地方に住んでいる人たちの税の一部(庸・調)を免除しよう。
その代わり、民衆たちには開墾のため10日間の労役を課して、逆らった場合には懲罰を与える。
さらに、特に大規模な開墾をおこなった有力者には特別な褒美も用意してあるぞ!
・・・結論から先に言うと、百万町歩開墾計画は失敗に終わりました。
いざ計画を実行してみると、民衆への負担があまりにも大きくて、人が集まらず、おまけに計画に参加した人も逃げ出す者が後を絶たず、計画はすぐに破綻してしまったのです。
三世一身法
百万町歩開墾計画の失敗を受けた朝廷は、723年、その反省も踏まえながら、三世一身法という法律をつくりました。
百万町歩開墾計画は、民衆を無理やり働かせようとしたから失敗したんだ。
次は、もっと民衆たちが自分から開墾したくなるような制度を考えるぞ!
三世一身法は、開墾した土地を三世代(子・孫・曾孫)に限って私有することを認める法律でした。
開墾した土地が自分のものになるなら、きっとみんな積極的に開墾をするはず。
・・・でも、ずーっと土地の私有を認めちゃったら、口分田が増えなくて根本的な解決にならないから、私有は三世代に限定させてもらうね!
・・・しかし、この三世一身法も失敗に終わりました。
三世代までしか自分のものにならないなら、最後の世代は土地を耕作する意味もねーし、荒地のまま放置でいいな
と考えた人が多く、国のものになるときには土地が荒廃しており、思っているように開墾は進みませんでした。
墾田永年私財法
三世一身法の後は、大きな制度改正がないまま月日が流れます。
そして、三世一身法の制定から20年後の743年、ついに墾田永年私財法が制定されました。
三世一身法はみんなに不評だったから、開墾した土地のガチ私有を認めることにしたよ!
これで正真正銘の私有を認めたことになるし、きっとみんなドンドン土地を開墾してくれるはず!
※墾田永年私財法の名前は、開墾した田地を永年、私有財産にしていいよ!ってことで、名付けられました。
墾田永年私財法は、これまでの政策とは違ってかなりの成果を収めました。
開墾した土地を自分のものにできるため、人々は競って開墾をするようになり、なかには広大な土地を手に入れて大地主になる者も現れました。
「稲」=「税金」だった奈良時代では、広大な土地を所有することはそのまま大富豪であることを意味していたから、墾田永年私財法で財を築いた人もたくさんいたんだ。
墾田永年私財法が日本に与えた影響
墾田永年私財法は、その後の日本の税制・土地制度に大きな影響を与えることになります。
浮浪・逃亡の増加
墾田永年私財法によって大きな富を築いた者がいる・・・という話をしましたが、実はそのほとんどがもともとある程度裕福だったり、権力を持っている者(貴族や寺院勢力)でした。
広い土地を開墾するには、多くの人を動員する必要があるので、墾田永年私財法で巨万の富を得られたのは、多くの人を動かせる金持ちや権力者に限られたのです。
・・・その結果、奈良時代後半から、民衆たちの貧富の差が拡大し、富むものはますます富み、貧する者はますます貧するようになりました。
当時、朝廷が課していた税(租・調・庸)は、多くの庶民にとっては日々の生活ですらギリギリなほど過酷なもので、中には朝廷から与えられた口分田を放置して、浮浪・逃亡する者が後を絶ちませんでした。
浮浪・逃亡で逃げ出した者の中には、有力貴族や寺社の私有地に匿われた者も多くいました。
土地を開墾するには、多くの人手が必要だ。
私の命令に従って開墾の手伝いをしてくれるのなら、浮浪・逃亡した者もウェルカムで受け入れよう!
有力者の下でこき使われるのは嫌だけど、朝廷の重税に比べればまだマシだ。
急いで有力者のところへ逃げ込んで匿ってもらおう・・・。
こうして墾田永年私財法によって有力貴族・寺院が手に入れた広大な私有地は、浮浪・逃亡する者の受け皿となって、浮浪・逃亡がますます増加する悪循環を招きました。
浮浪・逃亡によって口分田が放置されることは、朝廷の税収が減ってしまう深刻な問題でした。
平安時代に入ると税制を揺るがす大きな問題に発展して、最終的に班田収授の仕組みは廃止されることになるよ。
初期荘園の形成
有力貴族・寺院が持つ私有地のことを荘園と呼び、特に墾田永年私財法によって初めて登場した荘園のことを初期荘園と言います。
有力貴族・寺院は広大な荘園を手に入れるため、開墾をめぐる競争が激化。
度を過ぎて加熱した開墾競争を危惧した朝廷は、765年、寺社などを除き開墾の一時禁止を発表します。
765年は、ちょうど僧侶の道鏡が政治を牛耳っていた時代だったので、寺院が開墾禁止の対象から除外されたと言われています。
つまり、見方を変えれば、この開墾禁止は寺社を優遇する政策だったとも言えるね。
・・・しかし、道鏡が失脚した後の772年、開墾が再び再開されました。
開墾が再開した背景には、開墾を禁止されていた有力貴族・豪族たちから「早く俺たちにも開墾させろ!」との圧力があったと考えられているよ!
※ちなみに、さっきから「言われています」とか「考えられている」とか微妙な表現を使っているのは、はっきりしたことがわかっていないからです!
ここまでの話をまとめると、墾田永年私財法が歴史に与えた影響は次のようになります。
税制面への影響
・墾田永年私財法の影響で貧富の差が拡大して、貧しい人の浮浪・逃亡が増加した。
・墾田永年私財法で広大な私有地を得た貴族・寺院は、人手を確保するため浮浪・逃亡する者の受け皿となり、浮浪・逃亡を助長した。
・浮浪・逃亡が増えた結果、朝廷の税収が減少して、平安時代になると班田収授に基づく税制は崩壊していった。
土地制度への影響
・広大な私有地(荘園)を持つ者の影響力が増して、政治や社会に対して大きな発言力を持つようになった。
・初期荘園は、中世まで続く荘園制度の始まりとなった。
確認問題
答:②→③→①→④
答:②
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