

今回は日宋貿易について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!「日宋貿易=平清盛」のイメージが強いけど、実はもうちょっと深い話があるんだ。誰が始めて、何を交換して、日本にどんな影響をもたらしたのか。テストにも超頻出のテーマだから、しっかり押さえていこう!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史基礎 / 山川準拠 / 共通テスト対応
「日宋貿易といえば平清盛」と覚えている人が多いと思います。でも実は、日宋貿易を最初に本格化させたのは清盛ではなく、父の平忠盛でした。清盛はそれを引き継いで大規模に発展させた人物なのです。この記事では、よくある誤解をひっくり返しながら、日宋貿易の全体像をわかりやすく解説します。
日宋貿易とは?3行まとめ
① 誰が始めた?:平安末期に平忠盛が先駆け、息子の平清盛が拡大させた民間貿易。
② いつ?:10世紀末〜13世紀(元寇まで)。平家の最盛期(12世紀後半)がピーク。
③ 何を交換した?:砂金・硫黄・木材(日本→宋)⇔ 宋銭・陶磁器・香料(宋→日本)。
日宋貿易とは、平安時代の終わりごろから鎌倉時代にかけて、日本と中国の宋(北宋・南宋)との間で行われた貿易のことです。国家どうしの公式な貿易ではなく、商人や貴族・武士の家が主導した「私的な貿易」だった点が大きな特徴です。
のちに平清盛が大輪田泊(今の神戸港)を整備したことで、貿易は一気に拡大しました。輸入された宋銭は日本のお金として広まり、日本に貨幣経済を根付かせるきっかけにもなります。

日宋貿易って、平清盛が始めたんじゃないの?教科書にも清盛の名前ばっかり出てくる気がする…。

実はそこが大事なポイントなんだ!本格的に宋との貿易を仕掛けたのは、清盛のお父さんの平忠盛。清盛はそれを大爆発させた人。「忠盛が種をまいて、清盛が花を咲かせた」って覚えると、次の章がスッと入ってくるよ!
日宋貿易を始めたのは誰?平忠盛たいらのただもりから平清盛たいらのきよもりへ
日宋貿易の問題で必ず聞かれるのが「誰が始めたか」です。結論からいえば、本格的に始めたのは平忠盛、それを大きく発展させたのが息子の平清盛です。「親子2代でつくり上げた壮大な貿易プロジェクト」というのが正しいイメージになります。
■平忠盛が始めた日宋貿易(北宋・南宋初期)

平忠盛は院政期に活躍した武士で、白河上皇・鳥羽上皇の信任が厚く、地方の受領(国司)を歴任しました。とくに重要なのが、大宰大弐として九州を管轄した経験です。当時、博多には宋の商人がしばしば来航しており、忠盛はその貿易ルートに目をつけました。

忠盛は鳥羽上皇の支援を得て、宋船を私的に受け入れて貿易を行うようになります。本来、宋との貿易は朝廷が独占すべきものでしたが、忠盛は「上皇の院宣を得ている」として大宰府の介入を排除しながら貿易を進めたとされています(この「院宣」が正式なものかは諸説あり、忠盛が権威として利用した可能性も指摘されています)。これが平氏の財力の源泉となりました。

宋の商人と直接取引できれば、武士の家でも貴族に負けない富を持てる…。鳥羽上皇のお墨付きを盾に、博多の商人を取り込んでしまえばこっちのものだ。

忠盛のすごいところは「院宣(上皇の命令書)を盾に大宰府の介入をかわした」知恵だよ。当時、宋との貿易を取り仕切るのは大宰府の管轄だったけど、忠盛は「これは上皇様の命令でやってるんだ」と主張することで、利益を独占しちゃったんだ。今でいう「規制の抜け穴を見つけて先手を打つ」ビジネスセンスに近いね!
忠盛が動いた12世紀前半は、中国の歴史でいうと北宋末期にあたります。1127年には北宋が金(女真族)に滅ぼされ、南へ逃れて南宋が成立しました。日宋貿易はこの北宋から南宋への移行期に重なっています。
■平清盛が拡大させた日宋貿易(南宋期)

父・忠盛から平氏を継いだ平清盛は、保元の乱・平治の乱を勝ち抜いて朝廷の中枢に進出し、ついには太政大臣にまで上りつめます。その清盛が本気で取り組んだ事業の一つが、父から受け継いだ日宋貿易でした。
清盛は博多に来ていた宋船を、自分の本拠地に近い大輪田泊(現在の神戸港)まで直接呼び寄せようと考えました。そのために大輪田泊の大改修・経ヶ島の築造という大工事を進めたのが清盛なのです。詳しい工事内容はこのあとの章で解説していきます。

父上が切り開いた宋との道を、ここで終わらせるわけにはいかぬ。博多任せにせず、宋船をこの大輪田泊まで直に呼び込む。貿易の旨味を、丸ごと平家のものにしてみせよう。

テストで「日宋貿易を始めた人は?」って聞かれたら、忠盛と清盛のどっちを書けばいいの?

中学・高校どちらでも、ふつう答えは「平清盛」で◎!ただ、選択肢に「平忠盛」が入っているような少し細かい問題では「忠盛が始め、清盛が拡大した」と答えると満点だよ。「親子で行った貿易」と覚えるのが一番安心!
📌 北宋と南宋:忠盛が動いた12世紀前半は北宋〜南宋への移行期、清盛が活躍した12世紀後半は南宋の時代にあたります。日宋貿易はおもに南宋との貿易と理解しておくと、世界史と日本史がつながります。
日宋貿易の背景:遣唐使けんとうし廃止から始まる
「日宋貿易は急に始まったのではなく、ゆっくり準備されていた」という視点を持っておくと、流れがすっきり頭に入ります。スタート地点は、奈良〜平安初期に華やかだった遣唐使の終わりです。
894年、菅原道真の建議によって遣唐使が中止されました。直後の907年には唐が滅亡し、中国は五代十国と呼ばれる分裂の時代に入ります。日本側もこのタイミングで「国を挙げて中国に使者を送る」スタイルをやめ、国家としての公式な対中交流はいったん途絶えました。
ところが、民間レベルの交流は完全には止まらなかったのがポイントです。中国側で960年に宋(北宋)が建国されると、宋の商人が積極的に博多や敦賀などへ来航するようになりました。日本側も博多の大宰府がこれを管理し、宋の商人を泊めるための施設「鴻臚館」も活用されました。

遣唐使をやめたあと、宋との交流って完全になかったのかと思ってた…。民間レベルだと続いていたのね?

そう、ここがおもしろいところ!遣唐使廃止後は「国どうしの外交」がなくなっただけで、宋の商人が博多に来て民間取引するのは続いていたんだ。今でいう「国交はないけど、民間ベースで貿易はある」状態に近いよ。
とはいえ、平安時代の朝廷は「中国の品物(唐物)」を重宝しつつも、宋との関係を公式には認めない方針を取り続けました。この曖昧な状況が、のちに院政期の権門勢力(上皇や有力武士)にとって絶好のビジネスチャンスになっていきます。
とくに白河上皇・鳥羽上皇が政治の実権を握った院政期になると、上皇個人の経済力を強める手段として「私的な対宋貿易」が注目されました。その流れを最大限に利用したのが平忠盛、そして平清盛だったというわけです。次の章では、清盛が整備した大輪田泊を詳しく見ていきましょう。
大輪田泊おおわだのとまりの整備:平清盛たいらのきよもりが整備した港
テストで「平清盛が整備した港は?」と聞かれたら、答えは大輪田泊です。場所は現在の兵庫県神戸市兵庫区あたり、いまの神戸港の前身ともいわれる港です。平清盛はこの大輪田泊を日宋貿易の拠点として大改修し、ここを通じて巨万の富を平家にもたらしました。
■なぜ大輪田泊を選んだのか
これまでの宋商人の窓口は、九州・博多が中心でした。それを清盛は、わざわざ瀬戸内海の奥にある大輪田泊まで宋船を呼び寄せようとします。理由はおもに3つあります。
理由①:京の都に近い
瀬戸内海の最奥部にあり、平安京(京都)まで陸路でわずかな距離。輸入品をすぐ朝廷や貴族に届けられる。
理由②:平家の本拠地・福原に近い
清盛は大輪田泊のすぐ隣に福原(現・神戸市兵庫区)に別邸を構え、のちには一時的な遷都(1180年・福原京)まで行った。
理由③:貿易利益を平家が独占できる
博多は大宰府が管理しており、利益が朝廷に流れがち。大輪田泊なら清盛の地盤で、平家が直接コントロールできる。


国際港と首都を合体させたイメージ!清盛の政治センスが光る一手だね!
■どんな工事をしたのか
大輪田泊そのものは奈良時代以前から存在した古い港で、行基が修築したという伝承もあります。しかし、清盛の時代の港は、瀬戸内海の波風が直接当たって大型の宋船を安全に停泊させるのが難しい状態でした。
そこで清盛は1173年(承安3年)ごろから大輪田泊の拡張工事を本格化させ、経ヶ島の築造にも乗り出します。経ヶ島は翌1174年(承安4年)に竣工し、港の沖合に石・土砂を積み上げて造った人工島(防波堤)で、これによって港内の波を抑え、大型船でも安全に停泊できるようにしたといわれています。
平清盛が大輪田泊の沖に造らせたとされる人工の防波島です。築造時に経文を書いた石を投じたという伝承があり、その名がついたといわれます。当時の日本では珍しい大規模な海上土木工事で、清盛の財力と技術への自信を象徴する事業でした。
※経ヶ島の造成については史料が限られ、伝承を含む部分もあります。

大輪田泊を整備することは、わしの宿願よ。ここに宋船が直接入れるようになれば、唐物も宋銭も平家の手元で扱える。日本の海の玄関口を、平家がつくり変えてみせる。
大輪田泊の修築事業は、清盛の死後も続けられました。「大輪田泊=平清盛が整備した港」というキーワードは、テストでも頻出なので必ず押さえておきましょう。
日宋貿易で何を交換した?輸出品・輸入品一覧
日宋貿易のもう一つの頻出テーマが、「何を輸出して、何を輸入したか」です。日本側は当時の日本でしか手に入りにくい資源を輸出し、宋側からは中国の高度な工業製品や貨幣が運ばれてきました。

日本からの輸出品(日本→宋):砂金・水銀・硫黄・木材・刀剣・漆器・扇・真珠 など
宋からの輸入品(宋→日本):宋銭・陶磁器・香料・薬品・書籍・絹織物 など
輸出品で重要なのが砂金・水銀・硫黄・木材・刀剣です。とくに硫黄は火薬や薬の原料として宋が大量に必要としており、九州の鬼界ヶ島など火山地帯から運ばれました。日本の刀剣も、その鋭利さから宋でブランド品として珍重されたといわれます。
一方、輸入品のなかで圧倒的に重要なのが宋銭です。宋銭とは宋で発行された銅銭のこと。日本では平安時代に国産銅銭の発行が事実上止まっていたため、宋銭が「日本国内のお金」として広く使われるようになりました。陶磁器(青磁・白磁)や香料、医薬品、宋版本(書籍)も、貴族や寺院にとってのステータスアイテムでした。

宋銭って、今でいうと何に相当するのかしら?外国のお金をそのまま使うって、ちょっと不思議ね。

イメージ的には「外国の通貨をそのまま日本円みたいに使っちゃう」感じだよ。今の日本だと考えにくいけど、東南アジアの一部の国では、米ドルが現地通貨と一緒に流通しているのに近いかな。それぐらい、宋銭は当時の日本経済にとって大事な存在だったんだ!
📌 覚え方のコツ:「日本は原材料(砂金・硫黄・木材)を輸出、宋からは製品とお金(宋銭・陶磁器)を輸入」と整理すると一気に覚えやすくなります。とくに宋銭=貨幣経済の出発点は、後の章でも繰り返し出てくる超重要キーワードです。
日宋貿易が日本に与えた影響
日宋貿易は、単に「平家がお金持ちになった」だけの話ではありません。日本社会の経済の仕組みと文化のかたちを、根っこから変えてしまった出来事でした。ここではその影響を「経済」と「文化」の2つの面から見ていきます。
■宋銭と貨幣経済の発展
日宋貿易の最大の経済的インパクトは、なんといっても宋銭の大量流入です。それまでの日本では、稲・絹・布などの「現物」で取引する物々交換が中心でした。給料も土地の年貢も、お米や布で支払うのが当たり前だったんですね。
ところが、日宋貿易を通じて大量の宋銭が日本に持ち込まれるようになると、状況は一変します。宋銭は形・重さがそろっていて持ち運びやすく、何より「お金」として全国で通用する。これによって、日本は本格的な貨幣経済へと一気に踏み出すことになりました。

宋銭って、そんなに大事だったの?お米でやり取りするのと、そんなに違うのかしら?

めちゃくちゃ大事!日本に初めての本格的な貨幣経済をもたらしたんだよ。お米だと重くて運べないし、腐っちゃう。でも宋銭なら少額から大金まで自由に組み合わせられて、保存もきく。今でいう「現金とキャッシュレス決済が初めて広まった瞬間」ぐらいのインパクトなんだ!
貨幣経済が広がると、商業もガラッと変わります。市(いち)が定期的に開かれるようになり、行商人や問丸(といまる・運送業者)が活発に動くようになりました。「働いてお金を稼ぐ」という発想そのものが、武士・農民・商人の間に少しずつ根付いていきます。
💡 宋銭は現代でも発見される!:日宋貿易から800年以上経った現代でも、関西や九州の遺跡から宋銭が大量に出土しています。とくに博多(福岡市)や兵庫(神戸市)の港跡周辺では、まとまった数の宋銭が発見されており、当時の貿易がいかに活発だったかを物語っています。歴史は教科書の中だけでなく、今でも地面の下に眠っているんですね。
とくに、武士の台頭と貨幣経済の発展は表裏一体でした。武士たちは土地の年貢だけでなく、貿易や商業からも収入を得ることで力を伸ばし、やがて貴族中心の社会を突き崩していきます。日宋貿易は、その意味で「武士の時代」の経済的な土台を築いたともいえる出来事でした。
■文化的影響(禅宗・茶の伝来)
もう一つの大きな影響が、文化面での変化です。日宋貿易は単にモノを運んだだけでなく、人と知識も運びました。宋に渡った日本の僧侶たちが持ち帰った新しい仏教や生活文化が、その後の日本を大きく変えていきます。

その代表が、のちに鎌倉新仏教となる禅宗です。日宋貿易によって往来が活発になったルートで、1191年に宋から帰国した栄西は、日本に臨済宗を伝えました。栄西はまた、宋から茶の種を持ち帰り、お茶を飲む文化を本格的に広めた人物としても知られます。
🍵 「茶道」のルーツも日宋貿易にあり:栄西が宋に渡れたのも、日宋貿易によって開かれた博多〜明州(寧波)の航路があったからです。貿易ルートがなければ、日本の茶文化は生まれなかったかもしれません。「お茶を一杯飲む」という行為のルーツが、平忠盛・平清盛の貿易にあると思うと、歴史のつながりを感じますね。
さらに、宋からは精巧な陶磁器(青磁・白磁)の技術や、水墨画の様式も入ってきました。これらは平家滅亡後の鎌倉文化に大きな影響を与え、武士好みの落ち着いた・力強い文化のかたちを生み出していきます。日宋貿易は、後の禅・茶・水墨画といった「日本らしい文化」のルーツでもあったのです。
📌 世界史とのつながり:日宋貿易が盛んだった11〜13世紀は、世界では十字軍遠征(1096年〜13世紀後半)が行われていた時代です。ヨーロッパもイスラム圏との交易で香辛料・絹・陶磁器を求めていました。東でも西でも、海と陸を通じて世界規模の交易ネットワークがじわじわ広がっていた時代なんですね。
💡 歴史のif:もし日宋貿易がなかったら?
宋銭が流入しないままだと、武士は土地の年貢(米・布)に頼る経済構造から抜け出せず、力を伸ばすペースは大きく遅れていたはずです。栄西が伝えた禅宗・茶の文化、宋風の水墨画もずっと後の時代になっていた可能性が高い。「武士の時代」も「わびさび文化」も、もしかすると別の形になっていたかもしれません。日宋貿易は、平家のもうけ話を超えて、その後の日本の骨格を作った出来事だったといえます。

「日宋貿易=平家が儲けただけ」と思いがちだけど、実は経済(貨幣)と文化(禅・茶)の両方を作り替えた、日本史の大きな転換点だったんだよ。次の章では、テストに出やすいポイントをまとめておくね!
テストに出るポイント
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 比較問題で出るポイント:高校日本史では「日宋貿易(平安末〜鎌倉)」と「勘合貿易(室町時代・足利義満)」の違いがよく問われます。中心人物・管理形態・主な輸入品の違いを下の表で比較しておきましょう。
| 項目 | 日宋貿易 | 勘合貿易(日明貿易) |
|---|---|---|
| 時期 | 11〜13世紀(平安末〜鎌倉) | 15〜16世紀(室町時代) |
| 中心人物 | 平忠盛・平清盛 | 足利義満 |
| 性格 | 私的な貿易(民間+平家主導) | 幕府が管理する公式貿易 |
| 勘合符 | なし | あり(倭寇と区別するため) |
| 主な輸入品 | 宋銭・陶磁器・香料 | 明銭(永楽通宝)・生糸・絹織物 |
| 拠点港 | 大輪田泊(現・神戸) | 堺・博多 など |

テストで混乱するのって、どこが多いの?平忠盛と平清盛の名前が似ててこんがらかっちゃう…。

平忠盛と平清盛の役割の違いが一番出やすいよ!「忠盛=先駆者(始めた人)」「清盛=拡大した人(大輪田泊を整備した人)」とセットで覚えるのがコツ。あと、勘合貿易との違いも論述で出やすいから、上の表を一度書き写しておくと安心◎!
よくある質問(FAQ)
日宋貿易について、検索でよく出てくる疑問をQ&A形式でまとめておきます。
A. 平忠盛(たいらのただもり)が父の代に貿易を始め、その子平清盛(たいらのきよもり)が大規模に拡大させました。テストで「日宋貿易を始めたのは?」と問われたら、通常は「平清盛」と答えれば正解になりますが、より厳密には「忠盛・清盛親子」と覚えておくのが安全です。
A. 現在の兵庫県神戸市兵庫区あたりにあった港で、瀬戸内海の重要な港でした。今の神戸港の前身ともいわれ、平安京(京都)に近く、平家の本拠地・福原のすぐ隣という地の利を持っていました。
A. 主な輸入品は宋銭・陶磁器・香料・薬品・書籍(宋版本)・絹織物などです。中でも宋銭は日本の貨幣経済の基盤となった最重要アイテム。陶磁器や香料は貴族・寺院のステータスアイテムとして珍重されました。
A. 1185年に平家が滅亡しても貿易ルート自体は残り、鎌倉時代まで継続しました。最終的には、13世紀後半に宋(南宋)がモンゴル(元)に滅ぼされたことで日宋貿易は終わりを迎えます。その後は元との貿易(日元貿易)へと移り変わっていきました。
A. 日宋貿易は私的な貿易で、民間商人と平家が中心となって行いました。一方、勘合貿易(室町時代)は幕府が管理した公式な貿易で、足利義満が明と国交を結び、勘合符を使って倭寇と区別して行われました。「私貿易(日宋)」vs「公式貿易(勘合)」と整理すると覚えやすいです。
A. 大きく2つあります。①経済面:宋銭の大量流入により貨幣経済が発展し、平家の財力や武士の台頭の基盤となりました。②文化面:栄西による禅宗の伝来、茶の文化、宋風の陶磁器・水墨画など、後の鎌倉文化の土台が築かれました。
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まとめ
最後に、日宋貿易の流れを年表でおさらいしましょう。「父・忠盛が始め、子・清盛が大きくした」という親子2代の物語として見ると、日本史の大きな流れがすっきり整理できます。
- 894年菅原道真の建議により遣唐使が廃止される
- 1130年代平忠盛、宋商人との交易を開始(1133年・神埼荘での宋船対応が史料上の初出)
- 1156年保元の乱(平清盛が中央政界で頭角を現す)
- 1159年平治の乱(平清盛が政権の中枢へ)
- 1167年平清盛、太政大臣に就任し日宋貿易を本格化
- 1173〜1175年大輪田泊の大規模改修・経ヶ島の築造(経が島竣工は1174年・承安4年)
- 1180年福原遷都(平清盛が大輪田泊隣接の福原を都に)
- 1181年平清盛、没
- 1185年壇ノ浦の戦い・平家滅亡(貿易ルート自体は鎌倉時代まで継続)
- 13世紀後半宋(南宋)の滅亡により日宋貿易が終了し、日元貿易へ

以上、日宋貿易のまとめでした!平忠盛・平清盛父子が作り上げた貿易ルートが、後の日本の貨幣経済と鎌倉文化の礎を作ったんだね。下の関連記事もあわせて読むと、平安末から鎌倉時代への流れがスッキリつながるよ!
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📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「日宋貿易」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「平清盛」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「大輪田泊」(2026年5月確認)
コトバンク「日宋貿易」「平清盛」「大輪田泊」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』(2022年版)
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。
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