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栄西ってどんな人?生涯・エピソードをわかりやすく簡単に解説【天台宗を救うつもりが臨済宗を開いちゃった人】

この記事は約9分で読めます。

今回は日本の臨済宗りんざいしゅうの開祖、栄西えいさいについて紹介します。

この記事を読んでわかること
  • 栄西ってどんな人物なの?
  • なぜ栄西は臨済宗を開いたの?
  • そもそも臨済宗って何?
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栄西「日本の仏教(天台宗)はオワコン」

栄西は1141年、岡山市にある吉備津きびつ神社で働く職員の息子として生まれました。

父の方針かはわかりませんが、栄西は幼少の頃から仏教に強い関心を持っていたようで、1154年に比叡山に登って出家します。

そして、出家した栄西は天台宗を学んでいるうちにとある重大な事実に気付いてしまいます。

栄西
栄西

マジで天台宗はオワコン。

ほとんどの奴らは荘園経営で金のことしか考えてないし、金儲けのために政治にまで圧力をかけている。

しかも、荘園経営のために雇ったゴロツキの僧(僧兵)が乱暴狼藉をする始末。マジでクズすぎるだろ・・・

そして1168年、腐った天台宗に嫌気のさした栄西は、そうへ仏教を学びに留学することにしました。当時は、権力者の平清盛日宋貿易を推し進めている真っ最中。宋と日本の間で頻繁に船が行き交っており、栄西はその流れに上手く乗ったのです。

ちょうど同じ頃、栄西と同じく天台宗に限界を感じていた男がいます。

・・・、その男の名は法然ほうねん。後に浄土宗を開く人物です。

法然と栄西は「天台宗はオワコン」で意見は同じでも、歩んだ道はまるで正反対でした。

法然は、ひたすらに自分と向き合い続けました。「どうすれば人は救われるのか?」自問自答を繰り返して考え抜いた末に、天台宗とは決別して新しい宗派「浄土宗」を開きました。

一方の栄西は、天台宗との決別ではなく、天台宗の立て直しを目指しました。その方法も法然とは対照的で、海外の最新の仏教を積極的に取り入れることで、天台宗の再興を目指します。

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栄西と禅宗の出会い

1168年の宋への留学は半年程度で帰国。栄西はこの半年の留学で、宋で流行っていた禅宗ぜんしゅうに天台宗を再興させる可能性を感じたと言われています。

この帰国の船には、後に焼失した東大寺を復興させた重源ちょうげんという偉大な僧も一緒に乗っていました。重源と栄西には交流もあったと言われています。

しかし、栄西はわずか半年の留学で満足することはありません。

栄西
栄西

次は、仏教の本場のインドに行きたいぞ!!!

さすがに、インドにはすぐに行くことはできません。栄西はインドに行く機会を伺い続けます。そして1187年、栄西は再び宋へ渡るチャンスを手に入れ、宋からそのままインドへ渡ることにしました。

ところが、宋からインドへ渡る許可が下りません。インドへの旅は失敗に終わったのです。しかし、栄西は転んでもただでは起きませんでした。栄西は宋に残り、臨済宗の教えを学ぶことにしたのです。

栄西はよく臨済宗の開祖と言われますが、これは厳密にはちょっと違います。

厳密には、「日本で」臨済宗を開いたのが栄西であって、臨済宗自体は昔の中国で生まれたものです。

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禅と禅宗

さて、ここで簡単ではありますが、禅宗について説明しておきましょう。

個人的にとてもわかりにくいと思っているのが「禅」と「禅宗」の違い。それぞれの違いは、以下のような感じです。

禅とは?

「禅」は、ザックリと言うと「心を落ち着かせ仏のことにのみ心を集中させる行為」。座って心を集中する座禅が有名です。

禅は、悟りを開くために重要な行為の1つ考えられていて、あのブッダも亡くなる直前、禅の境地に入ったと言われています。

栄西が学んでいた天台宗でも、禅は重要なものと考えられていました。なので、宋で臨済宗を学んだ栄西ですが、日本にいる時から禅に関する基本的な知識は持っていたはずです。

禅宗とは

禅宗とは、上で説明した禅について「禅にだけ特化した方が俺ら悟り開けるんじゃね?」と考えて禅に特化した仏教の教えのことを言います。

つまり、禅と禅宗の違いは・・・

禅は、悟りを開くための行動の一種

禅宗

禅宗は、禅に特化した仏教の教えの1つ

そして栄西が宋で会得した臨済宗は、そんな禅に特化した禅宗の1つでした。

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弾圧される栄西

宋で臨済宗を会得した栄西は、1191年に帰国。その後、京には戻らず九州で臨済宗の布教活動を始めました。

栄西は今でこそ、日本における臨済宗の開祖と呼ばれていますが、当時の栄西にそのつもりがあったかは疑問です。

というのも、栄西はあくまで「腐敗した天台宗の再興」を目的として臨済宗を会得したわけで、新しく宗派を立ち上げようとする意図はなかったからです。

天台宗でも禅の教えは重要視されていましたので、栄西が学んだ臨済宗の知識を天台宗と融合させることも可能でした。

しかし、栄西の悲願である天台宗再興が叶うことはありません。なぜなら、その天台宗自身が栄西を弾圧し始めたからです。

天台宗は、朝廷に圧力をかけて既得権益を脅かす新興宗教(特に法然の開いた浄土宗)を徹底的に弾圧します。この弾圧の対象に、なんと栄西が布教する臨済宗の教えも含まれていたのです。

天台宗を再興させたいと思っていた矢先、その天台宗から弾圧を受けることになるのですから、なんとも皮肉な話です・・・。

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興禅護国論

1198年、栄西は興禅護国論こうぜんごこくろんという本を書きます。

栄西が本を書いた目的は、自分が天台宗などの旧仏教を否定するつもりがないことを弁明するためでした。天台宗の弾圧の矛先を逸らすのが狙いです。

栄西
栄西

禅の教えは重要だけど、それが全てではないよね。

だから、私には禅以外の教えを否定する気なんて全くないんだ。

それにさ、天台宗の僧侶たちは少し考えてみて欲しい。そもそも、天台宗において禅は重要な教えなのだから、臨済宗を否定するってことは天台宗自身を否定することにもなりかねないんだよ。

だからさ、臨済宗を弾圧するなんて言わずに仲良くやっていきましょ。臨済宗は天台宗を復興させるためにも必ず役に立つはずだよ!

しかし、この栄西の考え方が天台宗に受け入れられることはありません。既得権益を守りたい天台宗にとって、新しい宗教思想の全てが敵。この頃の天台宗は、時代の変化に対応する力を完全に失っていました・・・。

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栄西の処世術

栄西
栄西

天台宗は本当にオワコンなんだな。もう天台宗なんて見限って、自分で新しい宗派を開くわ。

京だと天台宗が邪魔してくるから、鎌倉の武士たちに布教活動することにしようかな!

この、栄西の方針転換は大成功でした。というのも、鎌倉の武士たちの間で臨済宗ブームが起こったからです。

栄西は、北条政子源頼家と言った権力者とも近づくようになり、弾圧されていた臨済宗にも希望の光が見えてきました。

臨済宗が武士に人気だった理由ははっきりしませんが、その理由はおそらく「難しい教えを勉強する必要がない!」という点なんじゃないかと思います。

禅宗は心を仏に集中し悟りの境地に至ろうとするもの。そこに言葉は不要であり、特に臨済宗はその傾向が強くて、以心伝心で教えが弟子たちに伝えられてきました。

自己と向き合い、師弟関係を大事にする禅の考え方は、実質剛健しつじつごうけんな武士たちの考え方によく馴染んだのでしょうね。

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京都で初めての禅宗のお寺!建仁寺

栄西は鎌倉幕府の2代目将軍の源頼家みなもとのよりいえにも信用されるようになると、1202年、源頼家のフォローを受けて京都に建仁寺けんにんじというお寺を建立します。

建仁寺は、今も残っているお寺で、風神雷神が書かれた屏風絵が有名です。

比叡山の近い京では天台宗が強い力を持っていましたが、栄西は幕府の力を借りて、その京に禅宗のお寺である建仁寺を立てることができましたのです。

栄西はとても思慮深い男で、建仁寺をただの禅宗のお寺にはしませんでした。

禅の教えに加えて天台宗・真言宗の教えも大事にする複合的なお寺にしてしまったのです。こうすることで、天台宗からの弾圧を避けようと考えたのです。

宗派の開祖といえば、ずーっと内面に向き合っているような神秘的なイメージがありますが、栄西は少し違います。

権力者に近づいたり、他宗派との力関係にも配慮するなど、栄西は政治家的な一面を持っていました。

臨済宗は鎌倉幕府との深い結びつきの中で広がっていったため、武士の中でも特に身分の高い人たちの間で、長く信仰される宗派として成長していくことになります。

この点は、鎌倉時代に広がったもう1つの禅宗の宗派「曹洞宗そうとうしゅう」との大きな違いでもあるので、しっかり確認しておきましょう。

「鎌倉幕府の偉い人が信仰している宗派」=「ほぼ臨済宗」です。

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栄西の人物像・性格

栄西は、とても名誉欲の強い人間だったと言われています。

栄西は1213年、権僧正ごんのそうじょうという官職を手に入れます。日本では仏教を国策として用いてきた歴史から、僧侶は今でいう公務員の一種でした。(全ての僧が公務員というわけではありませんが・・・)

権僧正というのは、そんな公務員としての僧侶の役職を指しています。権僧正はお役人なので、朝廷の偉い人たちに認められればなることができるのですが、栄西はこの時に多額の賄賂を貴族に渡したと言われています。

この欲にまみれた行動は、慈円じえん藤原定家ふじわらのさだいえの日記にもしっかり書き残されており、この2人は栄西のことを強く非難すらしています。

しかも権僧正は、僧の官位で言えば上から4番目ぐらいの役職です。有力者に賄賂を渡したにも関わらずトップの官位になれていないところを見ると、栄西の評判はやはり微妙だったのでしょう。

ここでも栄西の行動は政治家的です。

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栄西まとめ【年表付】

最後に、栄西の生涯を年表でまとめておきます。

栄西のまとめ年表
  • 1141年
    栄西、生まれる
  • 1154年
    栄西、出家して比叡山に入る
  • 1168年
    栄西、腐敗した天台宗を復興するため宗へ留学

    半年程度で帰国

  • 1187年
    再び宗に渡る

    宗を経由して仏教の聖地インドへ向かおうとするが失敗。宗に残って臨済宗を学ぶ。

  • 1191年
    帰国

    宗で学んだことを活かして天台宗の復興を目指すが、異端扱いされ、天台宗から弾圧を受ける。

  • 1198年
    栄西、興禅護国論を書く

    興禅護国論は、天台宗からの弾圧の矛先をかわすために書かれるが、弾圧が収まることはありませんでした。

    天台宗を見限った栄西は、新天地の鎌倉で臨済宗の布教活動を始まる。

  • 1202年
    京で一番最初の禅寺「建仁寺」を建てる

    臨済宗が鎌倉幕府で大ブームになると、2代目将軍の源頼家の支援を受けて寺院を建立する。

  • 1213年
    賄賂で公務員になる
  • 1215年
    享年75歳で亡くなる



仏教入門
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この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
WEBメディアを通じて教育の世界に一石を投じていきます。

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