栄西ってどんな人?生涯・エピソードをわかりやすく紹介【天台宗を救うつもりが臨済宗を開いちゃった人】

今回は日本の臨済宗の開祖、栄西(えいさい)について紹介します。

 

 

栄西は鎌倉時代に臨済宗を開いたって話は多くの人が知ってると思うんですが、ここではもうちょっと突っ込んで

栄西ってどんな人だったの?
なぜ栄西はわざわざ臨済宗を開いたの?
そもそも臨済宗ってどんな宗派なの?

 

この三点を中心に栄西について紹介していきます!

 

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栄西「日本の仏教(天台宗)はオワコン」

栄西は1141年、岡山市にある吉備津神社で働く職員の息子として生まれました。

 

 

父の方針かはわかりませんが、栄西は幼少の頃から仏教に強い関心を持っていたようで、1154年に比叡山に登り、出家。

 

 

そして、出家した栄西は天台宗を学んでいるうちにとある重大な事実に気付いてしまいます。

 

 

栄西「マジで天台宗はオワコン。ほとんどの奴らは荘園経営で金のことしか考えてないし、金儲けのために政治にまで圧力をかけている。しかも、荘園経営のために雇ったゴロツキの僧(僧兵)が乱暴狼藉をする始末。クズすぎワロタwww」

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そして1168年、腐った天台宗に嫌気のさした栄西は、宋へ仏教を学びに留学することにします。当時は、権力者の平清盛が日宋貿易を推し進めている真っ最中。栄西はその流れに上手く乗っかったわけです。

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さて、腐敗した天台宗に対しての向き合い方には大きく2つの選択肢があります。

 

①天台宗はオワコン。俺は別の道で仏教を極めてやるぜ!!

 

っていうのと、

 

②日本の腐敗した天台宗を俺が立て直したい!だから宋で最新の仏教を学ぶのだ!

 

の2つのパターン。要は天台宗を見限るか、立て直すかっていう話。

 

 

さらに、人には大きく内向的人間と外交的人間の2種類の人間が存在します。おそらく内向的人間は①番を、外交的人間は②番を選ぶはずです。

 

 

栄西は、どっちのタイプだと思いますか?

 

 

 

・・・・

 

 

 

・・・答えはわかりませんが、私は②番だと思っています。栄西って新宗派の開祖にしては仏教一筋ってわけでもなく、結構いろんなことをしているんです。

 

 

 

当時、栄西と共に新しい仏教の道を切り開いた人物に法然(ほうねん)がいます。法然は完璧に①の内向的人間で、「どうすれば人は救われるのか?」とひたすらに自問自答を繰り返すことで、浄土宗を開きました。

 

 

法然と栄西は、同じ鎌倉仏教の開祖として一括りに説明されることも多いですが、この2人は極めて対照的な性格の持ち主でした。

 

 

性格のみならず、栄西の生涯と法然の生涯もとても対照的であり、宗教家のあり方として非常に興味深いです。新宗派の開祖と一言に言ってもいろんなタイプの人間がいるようです。

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栄西と禅宗の出会い

1168年の宋への留学は半年程度で帰国。栄西はこの半年の留学で、宋で流行っていた禅宗に天台宗を再興させる可能性を感じたと言われています。

 

 

また、この帰国の船には、後に焼失した東大寺を復興させた重源(ちょうげん)という偉大な僧も一緒に乗っていました。重源と栄西には交流もあったと言われています。

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日本に戻った栄西は次は「仏教の本場であるインドに行きたい!」と考えるようになります。凄い向上心!!

 

 

その後栄西は九州に滞在し、インドへ向かうタイミングを伺います。そして1187年、栄西は再び宋へ渡るチャンスをゲット!!宋からインドへ向かおうとします。

 

 

ところが、宋からインドへ渡る許可が下りません。インドへの旅は失敗に終わったのです。しかし、栄西は転んでもただでは起きませんでした。栄西は宋に残り、臨済宗の教えを学ぶことにしたのです。

 

 

栄西はよく臨済宗の開祖と言われますが、これは厳密にはちょっと違います。厳密には、「日本で」臨済宗を開いたのが栄西であって、臨済宗自体は昔の中国で生まれたものです。

禅と禅宗

さて、ここで簡単ではありますが、禅宗について説明しておきましょう。

 

 

個人的にとてもわかりにくいと思っているのが「禅」と「禅宗」の違い。それぞれの違いは、以下のような感じです。

 

禅とは?

「禅」は、ザックリと言うと「心を落ち着かせ仏のことにのみ心を集中させる行為」。座って心を集中する座禅が有名です。

 

 

禅は、悟りを開くために重要な行為の1つ考えられていて、あのブッダも亡くなる直前、禅の状態に入ったと言われています。

 

 

 

栄西が学んでいた天台宗でも、禅は重要なものと考えられていました。宋で臨済宗を学んだ栄西ですが、日本にいる時から禅に関する基本的な知識はあったはずです。

禅宗とは

禅宗とは、上で説明した禅について「禅にだけ特化した方が俺ら悟り開けるんじゃね?」と考えて禅に特化した仏教の教えのことを言います。

 

 

つまり、禅と禅宗には、

 

禅は、悟りを開くための行動の一種。
禅宗は、禅に特化した仏教の教えの1つ

 

という違いがあるんです。

 

 

そして栄西が宋で会得した臨済宗は、そんな禅に特化した禅宗の1つでした。

弾圧される栄西

宋で臨済宗を会得した栄西は、1191年、日本に帰国。その後、京には戻らず再び九州で臨済宗を広めます。

 

 

栄西は今でこそ、日本における臨済宗の開祖と呼ばれていますが、当時の栄西にそのつもりがあったかは疑問です。

 

 

というのも、栄西はあくまで「腐敗した天台宗の再興」を目的として臨済宗を会得したわけで、新しく宗派を立ち上げようとする意図はなかったからです。

 

 

先ほども話したように、天台宗でも禅の教えは重要視されていたので、栄西が学んだ臨済宗の知識を天台宗と融合させることは十分可能だったはずです。

 

 

しかし、栄西が悲願だった天台宗を再興が実現することはありませんでした。なぜなら、その天台宗自身が栄西を弾圧し始めたからです。

 

 

天台宗は、朝廷に圧力をかけて既得権益を脅かす新興宗教を徹底的に弾圧します。これは臨済宗の栄西に止まらず、同じ時期に浄土宗を開宗していた法然にまで及んでいます。

 

 

天台宗を再興させたいと思っていた矢先、その天台宗から弾圧を受けることになるのですから、なんとも皮肉な話です。

興禅護国論(こうぜんごこくろん)

1198年、栄西は興禅護国論という著書を書きます。

 

 

この本は、栄西自身が天台宗などの旧仏教を否定する意思がないことを弁明するために書かれました。栄西の考え方は簡単に言うとこんな感じ。

 

 

栄西「禅の教えは重要だが、それが全てではない。だから、私は禅以外の教えを否定する気はない。そもそも、天台宗において禅は重要な教えなのだから、臨済宗を否定することは天台宗自身を否定することになってしまうよ。だから弾圧なんて言わずに仲良くしましょうよ〜」

 

 

 

しかし、この栄西の考え方が受け入れられることはありません。既得権益を守りたい天台宗には、もはや変化に対応する能力が失われていたのでした。

栄西の処世術

天台宗と分かり合えないことを悟った栄西は、自ら禅の教えを広めることを決意し、旧仏教の勢力が及ばない鎌倉へと拠点を移します。

 

 

そしてこれがなんと大成功!!

 

 

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臨済宗が武士に人気だった理由ははっきりしませんが、その理由はおそらく「難しい教えを勉強する必要がない!」という点なんじゃないかと思います。

 

 

禅宗は心を仏に集中し悟りの境地に至ろうとするもの。そこに言葉は不要であり、特に臨済宗はその傾向が強くて、以心伝心で教えが弟子たちに伝えられてきました。

 

 

自己と向き合い、師弟関係を大事にする禅の考え方は、実質剛健な武士たちの考え方にととてもよく馴染んだのでしょう。

京都で初めての禅宗のお寺!建仁寺

(出典:wikipedia「建仁寺」,author:663highland)

栄西は鎌倉幕府の2代目将軍の源頼家(みなもとのよりいえ)にも信用されるようになると、1202年、源頼家のフォローを受けて京都に建仁寺(けんにんじ)というお寺を建立します。

 

 

建仁寺は、今も残っているお寺で、風神雷神が書かれた屏風絵が有名です。きっと見たことのある人も多いはず!

 

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栄西はとても思慮深い男で、建仁寺をただの禅宗のお寺にするのではなく、禅の教えに加えて天台宗・真言宗の教えも大事にする複合的なお寺にしてしまいました。こうすることで、天台宗からの弾圧を避けようとしたわけです。

 

 

栄西のこの一連の行動は、宗教家というよりも政治家のそれに近いです。この辺が栄西が外向的人間だと思う理由です。

栄西の人物像・性格

宗教の開祖って、俗世から離れてひたすらに仏教に明け暮れているイメージがありますが、栄西はちょっと違っていて、とても名誉欲の強い人間だったと言われています。

 

 

栄西は1213年、権僧正(ごんのそうじょう)という官職を手に入れます。日本では仏教を国策として用いてきた歴史から、僧侶は今でいう公務員の一種でした。(全ての僧が公務員というわけではないけど・・・)

 

 

権僧正というのは、そんな公務員としての僧侶の役職を指しています。権僧正はお役人なので、朝廷の偉い人たちに認められればなることができるのですが、栄西はこの時に多額の賄賂を貴族に渡したと言われています。

 

 

この欲にまみれた行動は、慈円や藤原定家の日記にもしっかり書き残されており、この2人は栄西のことを強く非難しています。

 

 

しかも権僧正は、僧の官位で言えば上から4番目ぐらいの役職です。有力者に賄賂を渡したにも関わらずトップの官位になれていないところを見ると、栄西の評判はやはり微妙だったのでしょう。

 

 

ここでも栄西の行動は政治家的です。

栄西まとめ

以上、栄西についてサクッとまとめてみました。なんだか栄西って宗教の開祖っぽくないですよね。

 

 

 

栄西は、地道に民衆に教えを広めるコツコツ作戦は採用せず、権力を利用して一気に禅の教えを広げようと考えました。(本人としてはコツコツやってるつもりかもしれないけど、やはり同世代の法然と比べると全然違います)

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宗教を広める方法にも色々あるわけですね。宗教って言うと堅苦しく聞こえますけど、これを「自分の考え」に置き換えると非常に興味深いです。

 

 

法然は、自分の考えを大衆たちに広めることにしました。そして、法然の考え(浄土宗)は、人々の口コミなどもあって爆発的に広がり、信者を急速に増やすことになります。

 

 

一方の栄西は、不特定多数の人に自分の考えを教えるのではなく、権力者に自分の教えを広げることに専念しました。そんな経過もあり、臨済宗は武家の中でも特に有力者が信仰するケースが多くなっています。

 

 

 

この2人のやり方にどっちが良いとか悪いとかはありません。栄西・法然を始めとした鎌倉仏教の開祖たちは、人に何かを教え広める方法は決して1つではないということを教えてくれています。

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