院政という新スタイルの政治を始め、天皇の父の立場から強大な権力を手中に収めた白河法皇ですが、次のような有名な名言を残しています。
「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」
つまり、強大な権力を持ってしても鴨川の氾濫、双六の目(運)、山法師(延暦寺の僧侶)は手に負えない・・・と白河法皇は嘆いているのです。絶対的権力を誇る白河法皇にここまで言わしめた山法師(延暦寺の僧侶)とは一体何者なのでしょうか?
今回は、僧兵と強訴について紹介したいと思います。
僧兵とは?
僧兵とは、言葉そのままに武装した僧侶のことを言います。
仏法により国を護るために国に認められ出家した僧侶ですが、なぜ武装する必要があったのでしょうか?おそらく理由は1つではありませんが、大きな理由は武士の登場と同じです。
743年に墾田永年私財法が施行され土地の私有が認められて以来、日本では長きに渡り、各地で土地や税金をめぐる争いが多発します。これらの争いを勝ち抜くには武力が必要でした。こうして自らを守るために武装化した僧侶こそが僧兵です。
墾田永年私財法については、以下の記事をどうぞ。
日本には飛鳥時代後期以降、「仏法によって国を護ることができる!」という鎮護国家思想がありました。仏教信仰は国策であり、僧侶たちは国に管理され守られていたのです。各地の寺院はこのような立場や仏教の権威を巧みに利用することで私有地を増やし、莫大な財と人を手中に納めることに成功します。
特に勢力を拡大したのが奈良の東大寺や興福寺、比叡山の延暦寺でした。東大寺は聖武天皇ゆかりの寺院で皇族たち、興福寺は藤原氏の氏寺で藤原氏からの支援がありました。比叡山は、密教という最先端の思想をベースとした天台宗を信仰していました。この最先端の仏教思想は、平安貴族に多大な人気を誇り、比叡山は朝廷に対しても強い影響力を持つようになります。
これらの寺院が土地争いや税金トラブルに対応するため、ある意味で時代の要請によって登場したのが僧兵だったのです。
強訴(ごうそ)とは?
白河法皇は、僧兵による延暦寺の強訴(ごうそ)に常に頭を悩ませていました。実は僧侶が武装化するだけであれば、白河法皇もそこまで悩むことはありませんでした。
僧兵の一番厄介なのはその武力ではありません。(とはいえ、延暦寺などの武力は相当なものでしたが・・・)神や仏法の権威をかざして強引に無理難題を朝廷に要求してくる行為こそが僧兵たちの持つ最大の武器であり、白河法皇が苦悩した問題でした。このように僧兵による強引な要求行為を「強訴(ごうそ)」と言います。
僧兵と強訴の関係 ー神仏習合と本地垂迹説ー
当時の日本は、神仏習合と言って日本固有の神と仏教を上手く融合させた日本独自の信仰体系を作り上げていました。
具体的な神と仏の関係は、日本古来の神々への信仰は変わらぬまま、仏教における仏様たちを神の化身として神々の信仰体系に取り込んだのです。これを本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)なんて言ったります。
そのため仏教を信仰する僧侶が、日本古来の神々の権威をかざして朝廷に強訴することは決して不思議な話ではありません。
神木と神輿 ー平安貴族の迷信ー
ところで、強訴とは具体的にどのような形で行われたのでしょうか。
比叡山や興福寺の僧たちは、神々の権威を振りかざし朝廷に次々に無理難題を要求するわけですが、その方法とは神木や神輿(しんよ)を持って朝廷内に押し掛けることで行われました。当初は、こんなものまで持ち出すことはありませんでしたが、白河法皇の時代になると寺院の強訴もエスカレートし露骨に神木や神輿を掲げるようになりました。
神聖なる神木や神輿を持ち出して僧兵に強訴されると、信仰心の強い平安貴族たちはたちまちのうちに怯み上がってしまいます。当時の人々は、怨霊や祟り、穢れなどに非常に敏感で神とか仏とかを交渉のネタにされてしまうとどうしてもそれに抗うことができませんでした。(おそらくこれは、現代の私たちには理解しがたい感覚です。)
平安時代に平将門や崇徳上皇などの怨霊信仰が数多く存在することや陰陽道が流行ったことは平安貴族たちがそれらに強く関心を持っていたことを示しています。
ちなみに、興福寺は春日大社、延暦寺は日吉神社の神を信仰しており、それぞれの神社の神輿や神木が担ぎ出され、朝廷を脅す道具として利用されていました。
興福寺や延暦寺のこれらの行為は、「僧侶たちは腐りきってしまった・・・」などと非難する人々の記録も残っていて、その手段を選ばない僧兵たちの手法は神や仏を冒涜している・・・と考える人もいたようです。個人的にも、神や仏をまるで現世利益のための人質のように扱う僧兵たちに全く同じ感情を抱きます。
僧兵の武力と神木を担ぎ出しての強訴によって延暦寺や興福寺などの大寺院はますます勢力を拡大させることになります。
南都北嶺(なんとほくれい)
特に朝廷に執拗に強訴を繰り返した大寺院として興福寺と延暦寺が挙げられます。この2つの大寺院は南都北嶺と呼ばれ、平安京の南に位置する奈良の興福寺と北の比叡山の延暦寺を指す言葉として頻繁に用いられます。
僧兵と強訴への対抗策 ー北面の武士ー
白河法皇は朝廷に押しかけてくる僧兵に対抗するため、独自の武力組織を立ち上げました。それが北面の武士という一団です。北面の武士は院政を行う上皇らに近侍する直属部隊でした。(ちなみに天皇に近侍する直属部隊は滝口の武士と言います。)
北面の武士は僧兵のためだけに創設された訳ではありませんが、僧兵対策に北面の武士たちは大いに活躍しました。武士たちは平安貴族のような怨霊や祟りに対する迷信が少なく、僧兵の強訴にも徹底して対抗できるため、僧兵対策のため白河法皇から重用されることになります。
特に白河法皇に重用されたのが、平家の一族でした。あの有名な平清盛の祖父に当たる平正盛(たいらのまさもり)は、北面の武士として白河法皇のために活躍することで平家隆盛の地盤を固めることになります。
まとめ
以上、権力者の白河法皇すらをも悩ませた僧兵と強訴についてでした。
平安時代末期、僧兵や強訴によって勢力を拡大させた延暦寺や比叡山はその後も長い間、強力な力を誇示し続けます。鎌倉時代による武士中心の政治が行われるようになっても興福寺や延暦寺は独自の勢力を保ち続け、武家であっても簡単に手出しはできない存在でした。特に延暦寺は武家と真っ向から対立するようになり、有名な織田信長の延暦寺焼き討ちの頃まで強大な勢力を誇っていました。
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