太宰府天満宮の歴史【太宰府へ左遷された菅原道真の生涯】

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先日、福岡に行く機会があって、時間があったので太宰府天満宮へふら〜っと行ってきました。

 

今回は、太宰府天満宮を楽しむために知っておきたい歴史と見どころについてのお話をしようと思います。

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太宰府天満宮は菅原道真を祀る神社

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太宰府天満宮は、平安時代に生きた菅原道真(すがわらみちざね)という人物を祀った神社です。菅原道真は、平安時代、平安京にて政治の中枢を担う人物でした。ところが、菅原道真の活躍を妬む藤原時平という人物の策略により、あらぬ罪を着せられ太宰府へ左遷させられてしまいます。そして、菅原道真は左遷先である太宰府でその生を終え、菅原道真が亡くなった場所に太宰府天満宮が建てられました。

 

という説明はよく聞きますが、この記事では菅原道真と太宰府天満宮の歴史の話をもうちょっとわかりやすく・丁寧に解説していきたいと思います。

 

菅原道真の話をちゃんと知ってから行くと、太宰府天満宮の観光・参拝がより充実したものとなるでしょう!

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菅原道真の時代はどんな時代だった?

まずは、菅原道真が活躍した時代の時代背景を説明します。多くの観光ガイドで、太宰府天満宮に関連して菅原道真について紹介されていると思いますが、時代背景までしっかりと説明しているものは多くありません。(そもそも観光ガイドの趣旨的に時代背景まで説明する必要もページ数もない)

 

しかし、時代背景がわかってこそ初めて菅原道真の人物像に迫れるというものです。ということで、回りくどいかもしれませんが、時代背景から説明していきます。

活躍したのは西暦880年〜900年ぐらい

菅原道真が活躍したのは西暦880年〜900年でした。菅原道真の父は菅原是善(すがわらのこれよし)という名で、頭脳明晰で詩などの文才に長けた人物で官僚としてもそれなりに地位のある立場でした。菅原道真もその父に劣らず優秀な人物として育っていきます。

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藤原氏と天皇の権力争い

実は、菅原道真は、藤原氏VS天皇の権力争いと一緒に説明するととても面白いしわかりやすい・・・と思っています。

 

菅原道真が最初に登場する教科書に載るような政治事件は、おそらく阿衡の紛議(あこうのふんぎ)という事件です。

 

阿衡の紛議とは、ものすごくざっくりと言うと、藤原基経(藤原道長のご先祖様になります)という強大な権力を持つ男が自分の就きたい役職に就けなかったので、仕事をボイコットして天皇を困らせて無理やり自分の望む役職に就かせた事件です。

 

事件自体は地味ですが、藤原氏の強大な力に天皇でも簡単に逆らえなくなってしまった象徴的な事件として日本史の教科書に載っています。

↑は、以下の記事から引用しました。

仁和寺の歴史と見所を簡単にわかりやすく【宇多天皇の想い】その1
京都の仁和寺と言えば、なんと言っても有名なのは桜です(紅葉もかな?)。桜が咲く時期になると観光客でごった返します。 でも、せっかく仁和寺に行...

 

日本は、飛鳥時代頃からずーっと天皇主権の国を造ろうと頑張っていましたが、平安時代になると藤原氏が力を持ち始め、「天皇は国のトップだけど裏で権力を握っているのは藤原氏」という構図が出来上がってしまいました。

 

菅原道真が生きていた時代もまた、天皇と藤原氏との間で権力を巡る対立がありました。そして、菅原道真は「藤原氏ではない優秀な人物」として天皇から重用されるようになり、急スピードで出世していくことになります。

阿衡の紛議については、以下の記事で詳しく解説しています。

誰でもわかる阿衡の紛議!わかりやすく解説!【宇多天皇と藤原基経の喧嘩話】
前回は、光孝天皇の時代に藤原基経が関白となった話をしました。 当時、関白という役職は、天皇が代わると新たに任命されなければなることができない...
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宇多天皇に重用された菅原道真

 

887年、宇多天皇が即位します。宇多天皇の治世は、藤原氏VS天皇の対立という視点で見ると、天皇側の絶好のチャンスでした。なぜかというと、藤原氏の方で世代交代が滞っていたのです。当時の権力者だった藤原基経(ふじわらのもとつね)は既に高齢だったにも関わらず、藤原基経の息子たちは未だに朝廷内で大きな力を持つことができていませんでした。そして891年、時の権力者だった藤原基経は亡くなってしまいます。

 

藤原基経については、以下の記事をどうぞ。

関白とは?簡単にわかりやすく解説するよ【藤原基経の経歴と合わせてバッチリ確認!】
もぐたろう 今回は、平安時代に登場した関白かんぱくという役職について、わかりやすく丁寧に解説していくよ! この記事を読んでわかること 関白っ...

 

そこで藤原氏に対する対抗馬として宇多天皇に抜擢されたのが優秀な人物として評判の高かった菅原道真だったのです。

 

菅原道真は899年には、右大臣にまで昇格してしまいます。大臣級の役職になると、本人の能力の前に、その人物の家格も重要視されていました。菅原道真の家は、代々学者としての仕事を担当していたので、右大臣になれるような家柄ではありませんでした。それなのに右大臣にまで昇進したというのは、当時の人々から見れば異常事態であり、宇多法皇(宇多天皇は897年に出家し、醍醐天皇へと譲位していた)のVS藤原氏という姿勢もかなり本気だったことがわかります。

 

という感じで、本人の能力の高さと宇多天皇の後ろ盾によって、菅原道真は異例の大出世を遂げました。

 

一方で、大権力者だった藤原基経の息子だった藤原時平(ふじわらのときひら)という人物も899年になると朝廷内で力を持つようになり左大臣にまで昇進していました。

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藤原時平VS菅原道真

右大臣となった菅原道真は、宇多天皇にVS藤原氏の対抗馬として抜擢された人物です。左大臣である藤原時平とは良好な関係を築けるはずもなく、険悪な関係でした。

 

藤原時平は、自分の邪魔をする菅原道真をなんとか蹴落とせないかと考え始めます。こうして、起ったのが「昌泰(しょうたい)の変」という事件。901年の出来事で、菅原道真が太宰府へと左遷させられた有名な事件です。太宰府天満宮へ行くのなら絶対に知っておきたい事件です。

 

菅原道真は藤原時平の策略によって「当時の天皇、醍醐天皇を退位させて自らの娘婿を天皇に即位させようと企んだ!」というあらぬ冤罪をかけられ太宰府へ左遷させられてしまうのです。

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903年、菅原道真、太宰府で没す

菅原道真は、903年、左遷先の太宰府でその生涯を閉じます。左遷されてから2年後でした。太宰府では浄妙院という場所で軟禁生活強いられました。一方で、菅原道真の左遷により太宰府に平安京の朝廷文化が伝えられました。

曲水の宴

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(出典:wikipedia「曲水の宴」

菅原道真のおかげで太宰府に伝わった朝廷文化の一つとして曲水の宴という儀式があります。この儀式は今も太宰府天満宮で行われていて3月に見ることができます。小川に酒を注いだ盃を流し、貴族たちは自分の盃が目の前に来るのを待ちます。ただし、自分の盃が流れてくる前に詩を詠みます。詩を詠んだら、酒を飲み干し、次の番のひとに向けてまた小川に盃を流します。

 

と行った感じの行事です。ただの宴会のような気もしますが、平安京では公式行事だったようです。

 

菅原道真は太宰府の人々に大変慕われたようで、多くの人が悲しんだと言われています。菅原道真によって朝廷文化が伝えられたことからも、菅原道真と太宰府の人々との関係は良好だったと考えられます。

朝廷を襲う菅原道真の祟り

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(菅原道真の怨霊が朝廷を襲っている様子)

 

ここまでの話は優秀な官僚、菅原道真としての話。ここまでの話だけなら、菅原道真なんて平安時代の優秀な官僚の一人に過ぎません。今のように神社に祀られることもなかったでしょう。菅原道真の名が後世にまで語り継がれ、祀られるまでになったのは、菅原道真の死後のエピソードに理由があります。死してもなお、世に自分の名を轟かせた菅原道真のエピソードも紹介したいと思います。

菅原道真が亡くなった後、醍醐天皇の付近では様々な不幸が起こります。

909年:菅原道真と対立していた藤原時平が39歳の若さ亡くなる。

923年:醍醐天皇の息子が亡くなる。

925年:醍醐天皇の孫が亡くなる。

930年:清涼殿(朝廷内の建物)に雷が落ち、菅原道真に反対していたものが命を落とす。その3か月後、醍醐天皇自身が崩御する。

↑は以下の記事からの引用です。

菅原道真の左遷と学問の神様になった理由【昌泰の変】3/3
【怨霊となった菅原道真が朝廷を襲う様子】 さて、 菅原道真はなぜ左遷され祟りを起こしたか?超丁寧に解説する。1/3 遣唐使廃止の理由とは?【...

当時、これらの出来事はすべて不当に左遷させられ、太宰府で不遇の日々を送っていた菅原道真の怨霊による仕業だと考えられていました。(このように考えられていたことから、朝廷内でも菅原道真の左遷は仕組まれたものだったという風に思われていたことがわかります。)

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神になる菅原道真

菅原道真の音量を恐れた醍醐天皇は、919年、祟りを鎮めるため、菅原道真の墓の上に社を造るよう命じました。これが太宰府天満宮の始まりとなります。太宰府天満宮は、今でこそ学問の神様として慕われている菅原道真を祀る神社ですが、当初は菅原道真の怨霊の祟りを鎮めるために建てられたものだったのです。

 

しかし、これでも祟りは収まりません。930年の清涼殿落雷事件をきっかけとし、菅原道真は雷の神(天神)として恐れられるようになり、菅原道真は次第に神格化されていくことになります。

 

そして、神格化された菅原道真を祀っているのが日本各地にある天満宮であり、その中でも菅原道真が実際に亡くなった場所である太宰府天満宮は特に強い信仰の対象となっています。

 

菅原道真を始めとした日本の怨霊信仰についてはこちらの記事をどうぞ。

怨霊って一体何なの?平安時代の怨霊事情【菅原道真・平将門・崇徳天皇】
【崇徳天皇が怨霊になったところ。左上ね】 今回は、怨霊についての話です。 怨霊とは、不遇の死を遂げた人物の霊魂をいい、人に災いをもたらすもの...

 

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太宰府天満宮のまとめ

以上、太宰府天満宮に祀られた菅原道真のお話でした。

 

書きたいことを全部書くと超長い記事になりそうなので、若干説明を省略しています。その代わり、菅原道真については以下の3つの記事で詳しく解説していますので、ぜひ合わせてご覧いただければと思います。

菅原道真はなぜ左遷せさられ祟りを起こしたか?わかりやすく解説1/3
【菅原道真】 学問の神様で有名な菅原道真。 菅原道真はなぜ学問の神様と呼ばれるようになったのか? 実は、菅原道真は学問の神様と言われる一方で...
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この記事で、太宰府天満宮に観光・参拝する際に知っておいて欲しい菅原道真の話を紹介したので、次の記事では、太宰府天満宮の見どころを中心に紹介をしたいと思います。

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この記事を書いた人
もぐたろう

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