今回は、平清盛の嫡男で平家棟梁でもあった平重盛(しげもり)について紹介します。
平重盛は文武両道の優秀な人物であり、かなりの人格者でもありました。武士・貴族両方から信頼される存在で、まさに平清盛の後継者に相応しいエリートな人間でしたが、その生涯、特に晩年はかなり悲惨な生涯でした・・・。
晩年の平重盛は、自ら「早く死んでしまいたい・・・」と嘆き、精神的に追い詰められていたと言われています。なぜ、優秀で人格者で人望もあった平重盛がここまでもがき苦しむ事になったのか?平重盛のまるでジェットコースターのような生涯をハイライトで紹介しながら見てみたいと思います。
順風満帆!平重盛の青年期
平重盛は1138年に生まれます。母の名は不明。平重盛ほどの有名な人物の母の名がわからない・・・というのは、つまりは母の身分が低かったということ。1138年当時、父の平清盛はまだ全く高い身分ではなかったので、その母の身分が低いというのも不思議な話ではありません。
ちなみに、この母の身分の低さは後に平重盛を苦しめることになります・・・。
何はともあれ、平重盛は文武両道で責任感の強い立派な青年へと成長してゆきます。
平重盛の武勇伝、保元の乱と平治の乱
そんな好青年の平重盛ですが、保元の乱・平治の乱で大活躍したという武勇伝が残されています。
保元の乱と平治の乱については以下の記事を参考にしてみてください。(とてつもなく話が長くなるので、この記事では詳細については触れることができません・・・)
平重盛は保元の乱の際、当時随一の荒くれ者で強者と呼ばれていた源為朝(ためとも)という人物と対峙します。この源為朝はチート級の強さで、巨大な弓を使いこなし次々と敵兵を射抜いていきます。その弓矢の威力も凄まじく、鎧と体を貫通し、後ろの人間にまで矢が飛んでくる有様。マジでヤバいやつでした。
【源為朝】
平家の兵たちは、怪物級の強さを誇る源為朝を突破することができません。次々と犠牲者がでる中、平清盛は「こんなチート級の武将を相手にするのは得策ではない。源為朝を迂回して攻め立てよ!」と冷静な判断を下します。多くの兵たちは、この清盛の命令に安堵したことでしょう。「よかったー。あの怪物と戦わなくて済んだ(汗」と。
ところが、1人だけこの清盛の判断に意を唱えるものがいました。その人物こそが平重盛です。平重盛は、破格の強さを誇る源為朝に堂々と戦おうと勇み足で兵を進めようとします。しかし、この時は父の清盛に制止され、結局、平重盛が源為朝と戦うことはありませんでした。
当時、平重盛はまだ18歳程度。チート級の敵であっても果敢に立ち向かう若き平重盛の姿は、まさに清盛の嫡男に相応しい将来の平家を担うべき男の姿でした。
さらに、保元の乱の三年後、1159年に起こった平治の乱では平重盛は、源義平(よしひら)という関東きっての強者と対峙します。源義平は悪源太義平という異名を持っていました。当時、「悪」という文字は「めちゃくちゃ強い!」という意味だったので源義平は相当の手練れだったということです。
【源義平】
源義平は、清盛の嫡男である平重盛を見て相手に不足なしと言わんばかりに一騎打ちを申し込みます。両者は、橘の木と桜の木の間で激戦を繰り広げたと言われ、平家物語では平治の乱の一番熱い場面になっています。形勢的には平重盛不利であり、最終的には平重盛は撤退してしまう(ただし、敵をおびき寄せるための計画的撤退!)のですが、強者の源義平と互角にやりあったというこの場面は平重盛の勇敢さを伝える有名なエピソードの1つになっています。
【平重盛と源義平の一騎打ちの様子】
特に平治の乱では、平重盛は味方の士気を上げ、自ら源義平と一騎打ちをするなど獅子奮迅の大活躍を見せ、その戦局に大きな影響を与えました。
そんな功績を認められ、平重盛は着実に出世の道を歩み始めました。
平重盛と藤原成親 ー平家と貴族の架け橋ー
青年期の平重盛は何かと血気盛んなエピソードが多いですが、同時並行的に貴族との結びつきも強めていきます。
平重盛が結びつきを強めた貴族が、後白河上皇の院近臣だった藤原成親(なりちか)という人物。平重盛は、藤原成親の娘の藤原経子を正室としたのです。
藤原成親という人物は非常に世渡りが巧みな男であり、おそらくは平重盛と藤原経子の婚姻には、成親の「今はまだ未熟だが、平家は今後大繁栄をするかもしれない。ここで関係を深めておくのも悪くはないだろう」的な思惑もあったのだと思います。
現に平治の乱では藤原成親は平家と敵対することとなりますが、娘が清盛の嫡男である平重盛の正室である関係から、藤原成親は処罰を免れています。この時の藤原成親は「後白河法皇側が勝てばそれでOK。逆に平家側が買っても平重盛がいるからOK。どっちが勝っても私の地位は安泰安泰www」と思っていたフシもあります。
こうして藤原成親は平重盛を通じて平家の力を利用しますが、平家側も貴族である藤原成親を利用します。平清盛は、血筋を重んじる朝廷において「武士の朝廷進出」を目指していましたが、藤原成親は朝廷のしきたりに疎い平家と貴族を結ぶ重要な人物だったのです。
平重盛は、平家が朝廷へ本格的に進出するための架け橋とも言えるかもしれません。また、藤原成親が後白河上皇の院近臣だった関係から、平重盛は後白河上皇とも良好な関係を築き上げることになります。
平重盛の憂鬱 ー平清盛の再婚!ー
保元の乱・平治の乱で活躍し、貴族と平家の架け橋ともなっていた平重盛は、次期平家の棟梁としての道を順調に歩み続けます。そんな平重盛ですが、実は1つだけ重大な問題を抱えていました。
それは、平清盛が平時子(ときこ)という人物と再婚し、その再婚相手との間に息子が生まれたことでした。
平清盛には子がたくさんいました。長男は平重盛、次男は平基盛、そして三男は平宗盛といった感じです。(四男以降もいるけど、ここでは省略します・・・。)重盛、基盛は前妻の子。宗盛以降は、後妻の平時子との子どもになります。
この息子たちが成長するにつれ、現代社会でもありがちな前妻の子・後妻の子問題が浮上したのです。平家一門の中で「確かに平重盛は長男だけど、次期平家の棟梁に相応しいのは『後妻』の中の長男である平宗盛なんじゃね・・・?」という風潮が少しずつ醸成されていきます。
さらに、前妻の身分が低かったこともこの風潮を助長してしまいます。前妻とは言え、身分の高い女性であったなら、平重盛も微妙な立ち位置にならなくて済んだかもしれません。当時は母の身分がとても重要だったことがわかります。
しかしながら、平清盛が平重盛を頼りにし、次期棟梁に決めていたこともあり、表面的には大きな確執も生まれず、平和の月日が流れていきます・・・が、平家一門や平重盛の心の内にはなんとも言えないわだかまりがあったことでしょう・・・。同じく前妻の子だった次男の基盛が若くして亡くなったこともあり、ジワリジワリと平重盛は平家一門の中で孤立するようになってしまいます。
平重盛と平清盛
平重盛と平清盛との関係も実に難しいものでした。1168年に平清盛が隠居して以来、平家の棟梁の地位は平重盛が受け継ぐことになりましたが、平重盛は平清盛のように政治の実権を握ることはありませんでした。
なぜなら、何かをしようとするといつも隠居している平清盛が口出ししてくるからです。(むしろ、平重盛自身も平清盛に頼ることが多かったとも言えるかもしれない。)
平重盛は、平家の棟梁という立場にありながら、実質的には隠居した平清盛と、後白河上皇を筆頭にした朝廷との調整役に徹するしかありませんでした。
大権力者で父でもある平清盛とつかみどころがなく意見をコロコロ変える後白河上皇との間の意見調整は相当に難航を極め、平重盛は相当のストレスを抱え込んでいたと言われています。
前妻・後妻問題により、平家一門の中で肩身が狭くなりつつあった平重盛ですが、晩期になると政治的にも2人の権力者の間で板挟みとなり、その肩身は非常に狭いものになってしまいます。
平重盛は文武両道で正義感も強い優秀な人物なだけに、このような平重盛の境遇は不憫でなりません・・・。
平重盛の苦悩と鹿ケ谷の陰謀
1177年、そんな平重盛の生涯に大きな影を落とした大事件が起こります。それが鹿ケ谷の陰謀と呼ばれる事件。事件の詳しい内容は、以下の記事を参考にどうぞ!
鹿ケ谷の陰謀事件は、これまで利害関係が対立しながらも辛うじて保たれていた後白河上皇と平清盛の関係が瓦解した事件であり、「後白河上皇が近臣と共に打倒平家の計画を企てている!」との密告を受けた平清盛が、後白河上皇の近臣らをフルボッコにしました。
当時の平重盛の心境は非常に複雑です。前述したように、平重盛は院近臣である藤原成親との関係上、後白河上皇とは主君と忠臣の関係にあったのです。
鹿ケ谷の陰謀によって平清盛と後白河上皇の対立が激化する中、「父のために孝行したい」でも「後白河上皇に忠義も尽くしたい」という相反する感情が平重盛の心を酷く苦しめます。
平重盛の名言
平清盛は、自らに牙をむけた後白河上皇に大激怒。院近臣らを処罰した後、どうやら平清盛は後白河上皇を武力を用いて幽閉してしまおうと考えていたようです。
平清盛と後白河上皇の調整役を担ってきた平重盛も、事ここに及び、ついに平清盛を抑えきれなくなります。
精神的に追い詰められた平重盛は、命がけで涙ながらに次のように平清盛に訴えます。
「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」と。これは、「後白河上皇に忠義を尽くそうとすれば父清盛への孝行を果たせず、父への孝行を果たそうとすれば、後白河上皇に忠義を尽くすことができなくなります」という意味です。
その後も、平重盛は清盛に必死に訴えます。
「私の進退はここに極まりました。どうか後白河上皇に剣を向けるならば、私の首をここで刎ねてからにしてください。ここで首を刎ねられれば、私は後白河上皇への忠義も父への孝行も両方とも果たす事ができずに死ぬことができます」
平重盛、マジでカッコいいヤツです。「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」は平重盛の名言として今でも有名なワンフレーズです。
平清盛は、普段は冷静で毅然とした息子が「私を殺してくれ」と涙に訴えながら懇願する様子に父の清盛は相当ショックを受けたのか、後白河上皇と平清盛の直接対決は辛うじて回避されました。
平重盛の死
後白河上皇と平清盛との直接対決は回避できたものの、鹿ケ谷の陰謀事件によって平重盛の凋落は決定的になります。
なぜなら、鹿ケ谷の陰謀によって後白河上皇の側近だった藤原成親が処罰されてしまうからです。藤原成親は、重盛の正室である藤原経子の父。平重盛の平清盛への必死の懇願により藤原成親は死刑をまぬがれますが、流罪となり、流罪地で謎の死を遂げます・・・。
平重盛は、平清盛の調整役に徹していたとはいえ、平家の棟梁です。棟梁でありながら、正室の父を救うことのできなかった平重盛は面目を失い、事実上ほぼ失脚状態となります。そもそも、鹿ケ谷の陰謀事件は、平清盛が「もはや後白河上皇に譲歩する必要はない」という意思表示でもあり、そうなると調整役だった平重盛の存在意義はなくなってしまいます。そんな意味でも、平重盛は政治的地位を失ってしまったのです。
さらに平重盛自身も鹿ケ谷の陰謀事件により、長年気張っていた心が遂に折れてしまいます。気力を失った平重盛は隠居生活を開始し、実質的に政治の世界からは姿を消すことになりました。なんとも悲しい幕引きです。
治承三年の政変
1179年、平重盛は病に倒れ亡くなります。42歳でした。平清盛と後白河上皇という2大権力者の調整役という超ストレスフルな仕事が寿命を縮めた・・・とも言われています。
後白河上皇と平清盛の協力体制を望んでいた平重盛ですが、皮肉にも平重盛の死により両者の関係は完璧に崩壊してしまいます。
鹿ケ谷の陰謀以降、平清盛と後白河上皇の対立が決定的となりますが、後白河上皇は平重盛の死のタイミングを見計らい、平重盛の所領を全て没収してしまいました。これは、平家の力を抑える露骨な嫌がらせです。
これに平清盛はまたまた大激怒!「鹿ケ谷の陰謀の際は、息子の重盛の必死のお願いで大目に見てやった。それが、亡き重盛の所領を奪うとは息子を愚弄するのいい加減にしろ!!もう許せん。これを機に、マジで後白河上皇を幽閉してやる!!」
この時は平重盛も亡くなっており、もはや平清盛の暴走を抑えることのできる人間はいません。清盛にはたくさんの息子がいるという話をしましたが、清盛に直に物申せる人物は優秀な平重盛ぐらいだったのです・・・。
暴走した平清盛は、遂に後白河上皇に対してクーデターを起こし、後白河上皇を幽閉し、政治の実権を奪ってしまいます。これが歴史的に「治承三年の政変」と呼ばれる事件です。
平重盛まとめ
平重盛は貴族からも武士からも慕われる非常に優秀な人物でしたが、晩年は不遇であり、その最期もなんとも歯切れの悪いものです。
1179年の平重盛の死は、平家のその後にも大きな影響を与えます。まず、暴走気味だった平清盛を止めることのできる人物が世の中から消えてしまいました。平重盛死後の清盛は、治承三年の政変や福原遷都など暴挙を繰り返します。そのための重税で苦しむ人々は平家への反感を強め、これが源平合戦へと繋がるわけです。平重盛が棟梁として活躍していれば、このようなことは起きなかったかもしれません。
また、平重盛死後、平家の棟梁となるべき器の人間は平家には存在しませんでした。平重盛失脚後、平時子の子である平宗盛が棟梁となりますが、リーダーシップや責任感は平重盛とは比べものにならず、1181年の清盛死後、頼れる存在を失った平家は凋落の道を本格的に歩み始めることになりました。
平重盛の生涯は、平清盛と後白河上皇という2大権力者に振り回され、精神をすり減らし続けた大変不遇な生涯でした。これだけならまだしも、平重盛自身、頭も良い・武勇にも長けている・貴族、武士両方からの信頼も厚い、正義感が強く責任感もあるという平家の棟梁としてパーフェクトすぎる人物だったことが、平重盛の生涯をより一層悲劇的なものとしてしています。こんな言い方も変ですが、もっとダメダメな人間ならここまで苦労しなくて済んだかもしれません。平家物語は平家の盛者必衰を説いた物語ですが、その平家が衰え始めた重要なポイントが平重盛の死だったと私は思います。
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