平重盛はどんな人?わかりやすく紹介!【平家物語の名言や系図などを交えて】

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平重盛

もぐたろう
もぐたろう

今回は平重盛たいらのしげもりについて、わかりやすく丁寧に解説していくよ!平清盛の息子でありながら、父の暴走を止めようとした「平家の良心」。どんな人物だったのか、名言・家系図・子供たち・死因まで徹底的に掘り下げていこう!

📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠

この記事を読んでわかること
  • 平重盛の人物像と性格(平清盛の嫡男・「平家の良心」と呼ばれた理由)
  • 名言「忠ならんと欲すれば孝ならず」の意味と背景(忠義と孝行の矛盾)
  • 平重盛の家系図と子供たち(維盛・清経・資盛らのその後)
  • 鹿ヶ谷の陰謀での重盛の選択(父・清盛と後白河法皇の板挟み)
  • 平重盛の死因と平家滅亡への影響(重盛の死が引き金になった連鎖)

「平重盛」という名前を聞いて、すぐにどんな人物かイメージできる人は少ないかもしれません。父・平清盛の影に隠れて、地味な印象を持たれがちです。

実は、平重盛こそが平家を長持ちさせたキーマンでした。暴走する父・清盛を陰で支え、後白河法皇との間で何度も緩衝材となった重盛。そして彼の早世そうせいこそが、平家滅亡への引き金を引いたと言っても過言ではないのです。

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平重盛とは?

3行でわかる平重盛
  • 平清盛の嫡男(長男)で「平家の良心」と呼ばれた平安末期の武将(1138年ごろ〜1179年)
  • 父・清盛と後白河法皇の板挟みに苦しみながら、平家の暴走を抑えようとした
  • 名言「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」で知られる

平重盛たいらのしげもりは、平清盛たいらのきよもりの嫡男として生まれた平安時代末期の武将です。生年は1138年(保延4年)ごろとされており、1179年(治承3年)に亡くなったとされています。

武将としての実力はもちろんのこと、性格は父とは対照的に温厚・誠実で、「平家の良心」と称されました。後世の物語『平家物語』では「人はなはだ穏やかにして、心少しも荒からず(人柄が非常に穏やかで、少しも粗暴なところがない)」と評されています。

清盛が権力の絶頂を築いていた時代、重盛はその傍らで朝廷や後白河法皇との調整役を担い続けました。しかし、父と上皇の対立が激しくなるにつれて、その板挟みの苦悩は深まっていきます。

平重盛の肖像画(藤原隆信筆・神護寺蔵とされる)
平重盛の肖像画(藤原隆信筆・神護寺蔵とされる)

あゆみ
あゆみ

平重盛って、正直あまり聞いたことがないわ。清盛とどう違うの?

もぐたろう
もぐたろう

重盛は清盛の息子だよ!清盛がどんどん権力を伸ばす「攻め」の人だとすると、重盛は朝廷や法皇との関係をうまく保つ「守り」の人。この2人の役割分担が、平家政権を支えていたんだ。

平重盛
平重盛

平家の者として、この乱世を懸命に生き抜こうとしてきた。しかし、父上と上皇の間で、私にできることはあまりにも限られていた…。

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幼少期と武将としての台頭 ー 保元・平治の乱

平重盛は、1138年(保延4年)ごろに平清盛たいらのきよもりの嫡男として生まれたとされています。母は高階基章たかしなもとあきの娘で、清盛の正室にあたるとされています。

幼少期から武芸に優れ、父・清盛の下で武将としての修行を積んでいきました。そして重盛が10代の頃、平安京を揺るがす大事件が相次いで起こります。

■保元の乱での活躍

1156年(保元元年)、崇徳上皇すとくじょうこう後白河天皇ごしらかわてんのうの間で皇位継承をめぐる対立が武力衝突に発展しました。これが保元の乱です。

このとき重盛は19歳前後とされており、父・清盛とともに後白河天皇方として戦いました。初陣ながら武将としての才能を発揮し、乱の鎮圧に貢献したとされています。

■平治の乱と武将として頭角を現す

保元の乱からわずか3年後の1159年(平治元年)、今度は武士同士の権力争いが起こります。平治の乱です。藤原信頼ふじわらのぶより源義朝みなもとのよしともが反乱を起こしましたが、清盛・重盛父子が迅速に対応してこれを鎮圧しました。

平治の乱での活躍により、重盛は武将としての評価を確立します。その後、左近衛大将さこのえのたいしょうなどの要職を歴任し、1177年(安元3年)には内大臣ないだいじんに就任しました。武士としてはきわめて異例の高い官職であり、清盛政権の中核を担う立場となったのです。

ゆうき
ゆうき

保元の乱と平治の乱って、よく一緒に出てくるけど何が違うの?

もぐたろう
もぐたろう

簡単に言うと、保元の乱は「皇族・貴族の内紛に武士が駆り出された戦い」で、平治の乱は「武士同士の権力争い」だよ。この2つを経て清盛・重盛が一気に台頭したんだ。

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平清盛との関係と板挟みの苦悩

■平家の「良心」としての重盛

清盛と重盛の関係を一言で表すとすれば、「アクセル(清盛)とブレーキ(重盛)」と言えるかもしれません。

清盛は強引・果断な政治家でした。平家を頂点に押し上げるために、朝廷の慣習や院政の枠をも超えて権力を掌握していきました。一方の重盛は、そのような父の暴走に対してたびたび諫言かんげん(目上の人を諌める言葉)を行い、朝廷や後白河法皇との関係が決裂しないよう調整役を担い続けたのです。

後世に書かれた『平家物語』では、重盛は一貫して温厚・誠実・信仰心の厚い人物として描かれています。「武士としての武勇」と「貴族社会の礼節」を兼ね備えた理想的な人物像として、のちの世代から高く評価されたのです。

もぐたろう
もぐたろう

清盛がワンマン社長なら、重盛は「なだめ役の副社長」ってイメージに近いよ!清盛がやりすぎると重盛が「まあまあ、そこまでは…」と止める。この重盛がいたからこそ、周囲との関係が保てていたんだ。

■父・清盛と後白河上皇の板挟み

平家政権が強大になるにつれて、後白河法皇ごしらかわほうおう(上皇・法皇)との摩擦も深まっていきました。法皇は「院政いんせい」によって朝廷の実権を握ろうとし、清盛はそれを阻もうとします。

重盛はその板挟みに立たされ続けました。臣下(家来)として主君・天皇への忠義を果たすことと、息子として父・清盛への孝行を尽くすことが、両立できない矛盾として重盛の心を蝕んでいったのです。

この苦悩は後に「忠ならんと欲すれば孝ならず」という名言として結実することになります(詳しくは後ほど解説します)。

平清盛の肖像画(神護寺蔵)

あゆみ
あゆみ

父親と上皇、両方の顔を立てなきゃいけないなんて、重盛ってかなりストレスだったんじゃないかしら?

もぐたろう
もぐたろう

まさにそう!この苦悩が後の名言「忠ならんと欲すれば孝ならず」に結実するんだよ。後で詳しく解説するね。重盛が42歳という若さで亡くなったのも、この精神的な重圧が一因だったとも言われているんだ。

平重盛
平重盛

父上は偉大すぎる…。私には止める術が限られている。しかしこのまま朝廷との関係を壊せば、平家に未来はない。何とか、何とかせねば…。

鹿ヶ谷の陰謀と重盛の選択

■鹿ヶ谷の陰謀とは?

1177年(治承元年)、後白河法皇の近臣たちによる平家打倒の謀議が発覚しました。これが鹿ヶ谷の陰謀です。

西光さいこう(法皇の近臣)・藤原成親ふじわらのなりちか俊寛しゅんかんらが京都近郊の鹿ヶ谷ししがたにの山荘に集まり、平家打倒を密議したとされています。しかし内部から密告があり、清盛はこれを知ることとなりました。

怒り狂った清盛は、謀議に参加した者たちを厳しく処断しようとします。特に、後白河法皇が実質的に関与していたとされることから、清盛は法皇への報復をも考えたと伝えられています。

■重盛の選択:後白河法皇の救済と清盛への諫言

この危機的な場面で、重盛は重大な選択をします。父・清盛の怒りをなだめ、後白河法皇への直接的な危害を防いだのです。

重盛は清盛に対し、「後白河法皇を害することは天下の乱れを招く」と強く諫言したとされています。法皇は天皇家の権威の象徴であり、その身に害を及ぼせば平家の正当性そのものが失われる——重盛はそう訴えたのです。

また、鹿ヶ谷の陰謀に関わった人々の中には重盛の岳父(妻の父)の縁者も含まれており、重盛は自ら清盛に「私も加担者の一人として処罰してください」と申し出たとも伝えられています。これは法皇への追及を止めさせるための苦肉の策でした。

平重盛
平重盛

父上、どうかお聞きください。後白河法皇の御身に害を及ぼすことは、天下の乱れを招くだけにございます。平家の未来のためにも、ここは御心をお鎮めくださるよう…。

もぐたろう
もぐたろう

鹿ヶ谷の陰謀で重盛がとった行動こそが、「平家の良心」と呼ばれる最大の根拠なんだ。自分を危険にさらしてまで法皇を守ろうとした。でも、この一件が重盛の心身をさらに追い詰めることにもなったんだよ。

平重盛の家系図と子供たち

ここでは平重盛の家系と、その子供たちが辿った波乱の運命をまとめます。

平重盛の父は平清盛、母は高階基章たかしなもとあきの娘(高階基章女)とされています。妻(正室)は経子つねこ藤原家成ふじわらのいえなりの四女・藤原成親ふじわらのなりちかの妹とされています。諸説あります)とされており、複数の男子・女子をもうけました。

■平重盛の子供たち一覧

平重盛の主な子供たちは以下の通りです。

名前読み役割・最期
平維盛(嫡男)たいらのこれもり重盛の長男。源平合戦で活躍するが、倶利伽羅峠の戦いで大敗。1184年に那智の沖で入水したとされる
平資盛たいらのすけもり2男。壇ノ浦で入水したとされる。一方で生き延びたとする異説もある
平清経たいらのきよつね3男。1183年、源氏の追撃を前に船上で入水したとされる(琵琶を弾じながら没したという伝承も)
平有盛たいらのありもり4男。1185年の壇ノ浦の戦いで入水したとされる
平師盛たいらのもろもり5男。1184年の一ノ谷の戦いで戦死

なお、重盛には娘もいたとされていますが、詳細は諸説あります。また、上記以外にも子がいたとする記録もあります。

ゆうき
ゆうき

重盛の子供たちって、みんな入水とか戦死とか…。平家が滅んだ後はどうなったの?

もぐたろう
もぐたろう

重盛の子供たちは、みな平家と運命をともにしたんだ。なかでも嫡男の平維盛は当時の平家の「花形武将」だったけど、源義仲との戦いで大敗して最後は海に身を投げたとされている。重盛が早くに亡くなった後、子供たちを守る人もいなかった…。父が生きていれば違う運命だったかもしれないね。

■子供たちのその後 ー 壇ノ浦・平家の滅亡

重盛が1179年に亡くなった後、平家の歯止めを失った清盛は後白河法皇を幽閉するなど強硬策を次々と打ちます(1179年11月、治承三年の政変)。これが貴族・武士の反発を招き、翌1180年には源頼朝をはじめとする各地の源氏が挙兵し、治承・寿永の乱(源平合戦)が始まります。

そして1185年(文治元年)、壇ノ浦の戦いだんのうらのたたかいで平家は滅亡します。重盛の子供たちも、それぞれ戦場で命を落とし、または海に身を投げるという悲劇的な最期を遂げたとされています。平家物語の中で描かれるその最期の様子は、今も読む者の胸に響きます。

名言「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」

「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず。進退ここに窮まれり」

この言葉は、平重盛の名言として最も広く知られています。現代語に訳すと、

主君(朝廷・天皇)に忠義を尽くそうとすれば、父(清盛)への孝行ができなくなる。父への孝行を優先しようとすれば、主君への忠義が果たせない。進むも退くも、どちらに転んでも板挟みだ

——という意味です。

この言葉は、後白河法皇と平清盛の対立が激化した場面で語られたとされており、重盛の苦悩の頂点を表す言葉として後世に語り継がれてきました。

平重盛
平重盛

「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず。進退ここに窮まれり」…この矛盾の中で、私はただ、平家の行く末を案じるのみだった。

もぐたろう
もぐたろう

この名言のポイントは「進退ここに窮まれり(しんたいここにきわまれり)」という締めにあるよ。「もうどうにもならない」という絶望感だね。忠義と孝行という2つの大切な価値観が真っ向からぶつかり合う——これが重盛の生涯を貫く悲劇なんだ。

この名言は、平安末期の武士が置かれた矛盾した立場を端的に示す言葉として、後の時代にも広く引用されてきました。「主君への忠義」と「肉親への孝行」という二つの価値観の衝突は、武士道における永遠のテーマでもあります。

あゆみ
あゆみ

この名言って、平家物語に書かれているの?どんな場面で出てくるの?

もぐたろう
もぐたろう

この名言の出典は、江戸時代後期に頼山陽らいさんようが著した歴史書『日本外史』とされているよ。平家物語』巻3「法印問答」でも重盛が忠義と孝行の板挟みについて語る場面があるけど、「忠ならんと欲すれば孝ならず」という有名なフレーズは『日本外史』に由来するとされているんだ。ただし、この言葉がそのまま史実かどうかには諸説あることを覚えておいてね。

なお、平家物語は鎌倉時代に成立した軍記物語であり、重盛の言葉がどこまで史実を反映しているかについては、現在も学者の間で議論が続いています。しかし、この名言が平安末期の武士の苦悩を鮮やかに表現しているという点では、多くの研究者が認めるところです。

信仰心と人柄 ー 宋への仏舎利奉納と灯籠堂

■灯籠堂の建立と宋への仏舎利奉納

武将として平家政権の中枢を担う一方、平重盛は深い仏教信仰を持っていたことでも広く知られています。重盛は京都の東山に灯籠堂とうろうどうと呼ばれる仏堂を建立したとされており、日々念仏ねんぶつを唱えるなど、熱心な仏教徒であったと伝えられています。

また、重盛の信仰心を象徴するエピソードとして、宋(現在の中国)への仏舎利ぶっしゃり奉納の説話が平家物語に記されています。「金渡かなわたり」とも呼ばれるこの説話では、重盛が自らの所領しょりょうから得た収益を宋の育王山いくおうざん(現在の中国・寧波近郊の寺院)に送り、仏舎利を受け取ったとされています。

宋への仏舎利奉納とは?

平家物語の「金渡」説話では、平重盛が「自分の死後、父・清盛の行いに対する天の罰が平家に下るかもしれない」と深く恐れ、宋の育王山に金(きん)を送って仏舎利を受け取ったとされています。仏舎利とは釈迦の遺骨や、それを納めた容器のこと。重盛はこの仏舎利を霊験あらたかな宝として大切にしたとされます。ただし、この説話が史実を忠実に伝えているかどうかについては諸説あり、平家物語による文学的な脚色が含まれているとも考えられています。重盛の奉納が行われたとされる年代についても、1171年頃など諸説あります。

もぐたろう
もぐたろう

この仏舎利奉納の話、重盛の内面をすごくよく表してるんだよね。「父のせいで平家に罰が下る…」って本気で心配して、わざわざ宋に金を送ったんだ。信仰心の厚さも、「平家の良心」と呼ばれる所以の一つなんだよ!

■平家物語での平重盛の評価

平家物語では、平重盛は「はなはだおとなしく」(非常に穏やかで落ち着いた人物)と表現されています。また、「諸人しょにんに慕われた」「威厳がありながら温かみがある」といった好意的な描写が随所に見られます。

なかでも印象的なのが、重盛の死後の平家の変貌を対比的に描いている点です。重盛が生きていた間は、清盛の行動にも一定の歯止めがかかっていたことが示唆されています。一方、重盛の死後に清盛がより強引な政治路線へと突き進む様子が描かれており、「平家の良心」としての重盛の存在がいかに大きかったかを、物語は静かに伝えています。

平重盛の死因と最期

仏教への信仰心と、父・清盛と後白河法皇との板挟みによる精神的重圧を抱え続けた平重盛。治承じしょう3年(1179年)、重盛はその短い生涯を閉じました。享年は42歳ともいわれていますが、生年そのものに諸説があるため正確な享年は確定していません。当時の人々は重盛の死を深く悼んだと伝えられています。

■重盛の病死と平家への影響

平重盛の死因については、はっきりとした史料が残っておらず、胃腸病などの身体的な病気によるものとも、長年の精神的疲労が体を蝕んだものとも言われています。父・清盛と後白河法皇の板挟みという極度のストレスが、その命を縮めたと見る研究者もいます。正確な病名は現在も不明であり、「諸説あり」の状態が続いています。

平重盛
平重盛

この命が尽きようとも…平家の行く末が気がかりで仕方ない。誰かが父上の暴走を止めてくれれば…。それだけが、私の願いだった。

ゆうき
ゆうき

重盛が死んだあと、平家ってすぐ滅亡したの?重盛の死と関係あるの?

もぐたろう
もぐたろう

関係大アリ!重盛が亡くなった直後の1179年11月、清盛はなんと後白河法皇を幽閉ゆうへいしてしまうんだよ(治承三年の政変)。それまで重盛が緩衝材となっていたのに、その重盛がいなくなった途端に暴走が始まったんだ。もし重盛が生きていたら…って思うよね。

■重盛の死が平家滅亡の引き金に?

重盛が亡くなった1179年の11月、清盛は「治承三年の政変じしょうさんねんのせいへん」を引き起こし、後白河法皇を幽閉してしまいます。さらに翌1180年、清盛は都を福原(現在の神戸)へ遷都しますが、わずか半年で京都に戻るという混乱も招きました。

また同年、以仁王もちひとおうが平家打倒の令旨りょうじを発し、各地の源氏が挙兵します。さらに1183年には木曽義仲きそよしなかの進軍で平家は都落ちを余儀なくされ、ついに1185年の壇ノ浦の戦いで平家は完全に滅亡しました。

重盛の死が平家を変えた?

「平重盛がもし生きていたら、平家は滅亡しなかったのか?」というのは、歴史ファンの間でもよく語られる問いです。重盛が清盛の行動に何度も歯止めをかけていたことは平家物語などから読み取れますが、一人の人物が歴史の大きな流れを変えられたかどうかは分かりません。一方で、重盛の死後に清盛が急激に強硬路線へ転じたことは史実であり、「重盛の死が平家の運命を左右した」という見方には一定の説得力があります。歴史に「もし」はありませんが、重盛の存在の大きさを感じさせる問いです。

平重盛・平家物語をもっと深く知るためのおすすめ本

平重盛や平家物語について、より深く知りたい方へ。小説・歴史書・解説書まで、もぐたろうがおすすめする一冊を紹介します。

①平家物語の全体像をつかみたいなら|入門書の定番

平家物語をはじめて読む方におすすめの一冊です。原文+現代語訳の対照形式で、古典文法の知識がなくても物語の流れをつかめます。平重盛たいらのしげもり・清盛・義経・知盛など主要人物のエピソードをバランスよく収録しており、物語の全体像をつかむことができます。

平家物語 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典

谷口広樹(編) 著|角川ソフィア文庫

✓ こんな人におすすめ

平家物語をはじめて読む人・古典が苦手な中高生・古典に触れてみたい人

△ こんな人には向かない

原文を精読・全文を通読したい人(抄訳のため)・深い学術解説を求める人


②図解で平家武士の生き様を楽しく知りたいなら|武士文化がマルわかり

平家物語を「読む」だけでなく「見て理解する」ための一冊。平家武士の装束・戦い方・信仰・日常生活などを豊富なイラストで解説しています。平重盛が生きた時代の武士の実像や、鹿ヶ谷の陰謀・壇ノ浦の戦いの舞台裏まで、視覚的に楽しみながら知識を深められます。

平家物語 解剖図鑑

野中哲照・ほしのちなみ 著|エクスナレッジ

✓ こんな人におすすめ

平家物語の世界観をビジュアルで理解したい人・武士の文化・風俗に興味がある人・読み物として楽しみたい社会人

△ こんな人には向かない

文献・史料の原文を読みたい人・学術的な研究書を求める人


③平家の政治史を歴史的視点で深掘りしたいなら|清盛・重盛の時代を分析

平清盛を中心に、平家政権の誕生から滅亡までを歴史的視点で解説した一冊です。重盛が果たした「調整役」としての役割や、後白河上皇との板挟みの構造を政治史の観点から掘り下げています。平重盛の生涯をより深く理解したい方に最適です。

✓ こんな人におすすめ

平家の政治史・清盛と重盛の関係を深掘りしたい人・大学生・社会人の歴史好き

△ こんな人には向かない

平家物語を原文で楽しみたい人・図解やビジュアルを求める初学者

よくある質問

平重盛(たいらのしげもり、1138年頃〜1179年・諸説あり)は、平清盛の嫡男(長男)として生まれた平安末期の武将です。「平家の良心」とも呼ばれ、温厚・誠実な性格で知られました。強引な政治を進める父・清盛と後白河法皇の板挟みに苦しみながら、平家の暴走を抑えようと尽力した人物です。深い仏教信仰でも知られています。

「主君(朝廷)に忠義を尽くそうとすれば父・清盛への孝行ができず、父に孝行しようとすれば主君への忠義が果たせない」という矛盾を表した言葉です。鹿ヶ谷の陰謀後、後白河法皇を処罰しようとした清盛を諫めた場面で語ったとされており、重盛の苦悩を象徴する名言として頼山陽の『日本外史』に記されています(平家物語でも重盛の苦悩は描かれていますが、このフレーズ自体は日本外史の出典とされます)。ただし、この言葉がそのまま史実かどうかについては諸説あります。

父・清盛の強引な政治を繰り返し諫め、後白河法皇への配慮を示したこと、仏教への深い信仰心、そして温厚・公正な人柄で多くの人に慕われたことからそう呼ばれています。平家物語でも「はなはだ穏やかな人物」として描かれており、重盛の死後に平家の行動が急激に悪化したことも、その印象をさらに強めています。

平重盛には複数の子供がいたとされています。嫡男の平維盛(たいらのこれもり)をはじめ、平資盛・平清経・平有盛・平師盛などが知られています。重盛が早世したため父親の庇護を受けられず、その子供たちの多くが平家滅亡の際に悲劇的な最期を迎えたとされています。

1179年(治承3年)に病死したとされています。具体的な病名については胃腸病や消化器の疾患、また長年の精神的疲労など諸説あり、詳細は明らかになっていません。父・清盛と後白河法皇の板挟みによる極度のストレスが体を蝕んだという見方もあります。

重盛は清盛の嫡男(長男)として生まれ、平家政権の中核を担いました。性格は対照的で、清盛が強引・果断な一方、重盛は温厚・誠実な人物でした。重盛は清盛の暴走を止めようと何度も諫言したとされていますが、最終的に清盛の方針を根本から変えることはできませんでした。重盛の死後、清盛の暴走が急加速したことが、その関係の大きさを物語っています。

まとめ:平重盛の生涯

平重盛の年表
  • 1138年頃
    誕生:平清盛の嫡男として生まれる(生年は諸説あり)
  • 1156年
    保元の乱:初陣で活躍。平家の武力的台頭が始まる
  • 1159年
    平治の乱:武将として頭角を現し、父・清盛の片腕となる
  • 1177年(安元3年)
    内大臣・左近衛大将に就任:平家政権の中核を担う
  • 1177年
    鹿ヶ谷の陰謀:後白河法皇救済のため清盛を諫める
  • 1179年
    病死:平家の良心、この世を去る。直後に清盛が後白河法皇を幽閉
  • 1185年
    壇ノ浦の戦い:重盛の子供たちとともに平家が滅亡

もぐたろう
もぐたろう

以上、平重盛の生涯についてまとめたよ。父・清盛の影に隠れがちだけど、彼がいなければ平家はもっと早く滅んでいたかもしれない。「平家の良心」として静かに支え続けた重盛の存在の大きさを、ぜひ感じ取ってほしいな。下の関連記事で平家物語・源平合戦についても読んでみてね!

📅 最終確認:2026年7月 / 参照:山川出版社『詳説日本史』(2022年版)

参考文献

Wikipedia日本語版「平重盛」(2026年7月確認)
コトバンク「平重盛」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』
Historist(山川出版社用語サイト)「平重盛」(2026年7月確認)

記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。

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この記事を書いた人
もぐたろう

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