奥州合戦(討伐)を簡単にわかりやすく紹介!【奥州藤原氏が滅亡した理由】

今回は、1189年に起こった奥州藤原氏と源頼朝が戦った奥州合戦(奥州討伐)について紹介します。事前に以下の記事を読んでいただけると、良いかもしれません。

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奥州合戦はなぜ起こったのか?

奥州合戦は、鎌倉の背後の脅威を取り除きたい源頼朝が「奥州藤原氏が朝敵の義経を匿っていたことは重罪だ!」と決めつけ、源頼朝の独断で起こした戦いです。

 

この時代の戦闘で非常に大事だったのは、「いかにして官軍という大義名分を天皇や法皇から得られるか?」という点。

 

天皇などから追討命令を出してもらえれば、合法的に敵を潰せるし、恩賞を貰うこともできるからです。逆に言えば、官軍と認めてもらえなければ、恩賞などの旨味も消えてしまうわけです。

 

ところが奥州合戦に関しては、源頼朝は藤原泰衡の征討令を朝廷から貰っていません。奥州合戦は源頼朝が一方的に仕掛けた藤原泰衡との私闘だったわけです。(ただし、合戦終了後、事後承認的な感じで征討令を貰っています)

軍中には将の令を聞き、天子の詔を聞かず

藤原泰衡を潰したい源頼朝は、朝廷に征討令を出すよう圧力を掛けますが、朝廷からの返事が全くやってきません。

 

それもそのはずで、頼朝の勢力拡大を恐れていた後白河法皇にとって、奥州藤原氏はそのままいてくれた方が源頼朝への牽制になってくれて嬉しい存在。そんな奥州藤原氏を滅ぼすような命令を出すわけがありません。何度もやってくる源頼朝のお願いを後白河法皇は無視したのです。

 

1189年当時、奥州藤原氏は一族内で揉めていたようで、その隙をついて源頼朝は奥州に攻め入ろうとしましたが、後白河法皇の牛歩作戦によって思うように兵を進めることができません。

 

ここにおいて、源頼朝は決心します。「征討令なんてどうでも良い!とりあえず奥州藤原氏ぶっ潰す!」

 

源頼朝は、大庭景義という人物の「軍中には将の令を聞き、天子の詔を聞かず」という進言などを聞き入れ、朝廷からの征討令なしで奥州藤原氏を滅ぼすことを決断します。

 

征討令がないので、戦いに勝利しても何の恩賞も貰えません。それでも源頼朝は背後を脅かす奥州藤原氏を消すことを最優先に考えたのです。(結果的に事後承認で征討令は貰えたわけですが!)

 

こうして1189年7月、源頼朝は遂に奥州に向けて兵を進行させました。

源頼朝の奥州合戦(討伐)進軍ルート

 

源頼朝は、北陸道と東海道の2本のルートで藤原秀衡を攻めます。東海道ルートが主戦力で東海道方面はさらに2つのルートに分かれて進軍しました。源頼朝の戦力がどれぐらいだったのかは諸説あって定かではありません。

 

が、源平合戦の時と違い、奥州合戦では源頼朝自らが兵を率いて参陣しました。源頼朝の本気度が伺えますし、決して少ない兵力でなかったことは間違いなさそうです。

阿津賀志山の戦い

奥州合戦の主戦場となったのが阿津賀志山でした。

 

藤原泰衡の異母兄である藤原国衡が陣を構え、大将の泰衡はその少し北の多賀で待機します。

 

1189年8月その阿津賀志山に源頼朝軍が攻めてきます。

 

 

・・・奥州軍は、大規模な抵抗を見せましたが、源頼朝軍に敗北。藤原国衡は北へ逃亡しようとしますが、和田義盛(後の鎌倉幕府の御家人になった人物)に討たれ戦死。藤原泰衡は、多賀を捨て、さらに北の平泉に逃げました。

 

奥州軍は阿津賀志山の戦いで多くの戦力を失い、実質的に軍は崩壊。その後、大きな戦闘は起こらず、北へ逃げる藤原泰衡とそれを追う源頼朝軍の小競り合いが続きます。阿津賀志山の戦いの時点で勝敗は決しており、残りは消化試合みたいな感じでした。

 

奥州合戦の開戦前、実は藤原泰衡の身内でイザコザがあったのでは?なんて言われています。身内の人々が何人か殺されてた疑惑があるんです。強大な力を持った奥州藤原氏がたった一回の合戦であっけなく敗北してしまった背景には、そんな泰衡軍の乱れもあったのかもしれません。

 

焼ける平泉

同じ1189年8月、源頼朝軍はさらに北上し、泰衡が逃走した奥州藤原氏の本拠地である平泉へ兵を進めます。

 

ところが、源頼朝軍が到着した頃にはすでに平泉は焼け野原。藤原泰衡は、平泉に火を放ち、さらに北へと逃亡していたのです。

 

 

源頼朝にそそのかされ、父秀衡の遺言を破って源義経を殺し、先祖代々築き上げてきた平泉に火を放った泰衡の心境は、さぞ複雑だったことだろうと思います。泰衡が悪いのか、時代の流れなのか、どちらなのかわかりませんが、泰衡の生涯は悲壮感が漂っています。

前九年の役の再現

源頼朝は平泉をさらに北上、厨川まで兵を進めます。

 

厨川は、頼朝のご先祖様である源頼義が、前九年の役で官軍として戦い、蝦夷軍大将の安倍氏を討ち取った場所です。

 

源頼朝は、自分を官軍だった源頼義に見立てようと、意図的に厨川に兵を進め、政治的演出をしたと考えられています。上述した通り、源頼朝は官軍として地位を朝廷から与えられていません。それでも源頼朝は、前九年の役を再現することで正当な戦いであることを対外的に示そうとしたわけです。源頼朝は、政治・外交センスがズバ抜けており、戦時中でもそのような配慮は決して忘れませんでした。

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藤原泰衡の最期

藤原泰衡は厨川をさらに北上し、北海道への逃亡を考えていたのでは?なんて言われていますが、その前に泰衡は命を落とすことになります。

 

逃走中、側近に裏切られ殺されてしまったのです。こうして4代続いた奥州藤原氏は滅ぶことになります。平安京に次ぐ第2の大都市とまで言われた平泉を築き上げた奥州藤原氏の最期としては、なんとも残念な最期です。

 

こうして奥州合戦はわずか一ヶ月で源頼朝の勝利に終わったのです。

奥州合戦と泰衡征討令

奥州合戦の開戦当初、源頼朝は朝廷に泰衡征討令を求めましたが後白河法皇は動かず、しびれを切らした源頼朝は私闘覚悟でこの戦いに臨みました。

 

朝廷は源頼朝の勢力拡大を恐れ、あえて泰衡征討令を出し渋っていた感があります。これで源頼朝が動くことはないと考えていましたが、予想に反して源頼朝は独断で奥州藤原氏に戦争を仕掛けてしまいます。これは朝廷にとって大きな誤算でした。しかもわずか一ヶ月で奥州藤原氏を滅ぼしてしまいます。

 

源頼朝によって奥州制圧の既成事実を作られてしまった朝廷は、これを正式に認めざるを得ません。こうして事後承認的に泰衡征討の命令を下され、源頼朝は念願の官軍の地位を手に入れました。源頼朝がどこまで考えていたかは不明ですが、ここまで想定していたのであれば策士と言わざるを得ません。

 

こうして、源頼朝は正式に奥州藤原氏を滅ぼすことになったのです。ただし、後白河法皇は源頼朝の官軍の地位は認めても、東北地方の支配者たる称号である征夷大将軍の名を与えることはありませんでした。奥州合戦の水面下では、微妙な政治的な駆け引きも行われていたわけです。(この分野は源頼朝の得意分野!)

 

源頼朝が官軍の地位を執拗に望んだ背景には、後三年の役で大活躍したにも関わらず、私闘認定をされてしまい、ろくな恩賞も貰えずに苦しんだ先祖の源義家の教訓がありました。

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奥州合戦のその後

源頼朝にとって、奥州合戦は家臣たちの未熟だった団結力を強める絶好の機会でもありました。

 

源平合戦、そして奥州合戦を通じて家臣と親密な主従関係を結んだ源頼朝は、1192年、平安京とは独立した新たな武家政権「鎌倉幕府」を創設します。

 

奥州合戦は、源頼朝の鎌倉幕府創設の最後の総仕上げだった・・・とも言えるかもしれません。

「夏草やつわものどもが夢の跡」

奥州藤原氏が滅亡したのと同時に、砂金の産出量が減ったこともあって平泉も次第に衰退してゆきます。

 

実は平泉は、松尾芭蕉が有名な一句「夏草やつわものどもが夢の跡」を詠んだ場所としても有名です。

 

平安時代に大繁栄した平泉も今や夏草が生えるのみ。昔は義経や奥州藤原氏と言った武士たちが活躍していたと思うと、その全てが夢のように消えてしまったとは、感慨深いなぁ。

 

超訳ですが平泉に立った松尾芭蕉の哀愁漂う気持ちが込められている一句。松尾芭蕉は、どうも敗者に強く惹かれる性質を持っていたようで、奥州藤原氏や義経を想うだけではなく、源平合戦で滅びた木曽義仲もとても好きだったようで俳句も残しているほどです。

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木曽義仲も奥州藤原氏も歴史的敗者ではありますが、その生涯は非常に魅力的であり、松尾芭蕉ですら魅了したわけです。

 

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平安時代【源平合戦(治承・寿永の乱)】
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